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作品タイトル不明

第百六十四話 名簿の上の西国

天文二十年(一五五一年)五月。

阿蘇の館では、静かな支度が進んでいた。

珠光姫を迎える婚儀である。

だが、祝言というには、あまりに音が少なかった。

赤き色は抑えられた。

酒も控えられた。

歌舞の支度はない。

膳は整えられる。

だが、華やかさを競うものではない。

寺には、大内義隆の菩提を弔う読経が命じられていた。

阿蘇大宮司家に連なる寺社だけではない。阿蘇の内へ組み込まれた諸家の寺にも、静かに香が立つ。

婚儀でありながら、まず弔いであった。

大内義隆は、娘を阿蘇へ託した。

阿蘇は、その約を違えない。

されど、義隆はすでにこの世にいない。

ゆえに、珠光姫を迎える儀は、笑いと音曲ではなく、弔いの煙の中で行われることになった。

その日、惟種は宗運の部屋へ呼ばれていた。

部屋の中には、文箱が並んでいる。

婚儀の次第。

寺社への触れ。

膳の品書き。

珠光姫付きの女房衆の配置。

加世付きとの行き来。

外より届いた香奠と見舞いの控え。

惟種は、その山を見ただけで少し顔をしかめた。

「……これは婚儀の支度か」

「婚儀の支度にございます」

宗運は涼しい顔で答えた。

「弔いの支度に見える」

「此度は、それでよろしいかと」

惟種は、すぐには返さなかった。

確かに、その通りだった。

義隆の死を無視して、華やかな宴にするわけにはいかない。

だが、沈みすぎてもならぬ。

阿蘇が大内の血を忌んでいるように見えてはならない。

粗略に扱えば、大内を軽んじたことになる。

厚く扱いすぎれば、正室である加世の面目を傷つける。

針の穴へ、礼と政を通すような支度だった。

宗運は一枚の板を取り出した。

そこには婚儀の次第が、短く書きつけられている。

「まず、義隆様の菩提を弔う読経。次に、珠光姫様の阿蘇入りを家中へ示します。その後、盃の儀。宴は小さく、酒も控えめにいたします」

「歌舞は」

「なし」

「火薬も」

「なし」

「灯は」

「必要な場所には置きます。ただし、祝うためではなく、夜道と番のために」

「よい」

惟種は頷いた。

「民にはどう触れる」

「大内義隆様の菩提を弔い、大内の血を阿蘇が預かる、と」

「婚儀とは言わぬか」

「言います。ただし、華やかな祝言とは触れませぬ」

「ふむ」

「言葉は選びます」

宗運は淡々と言った。

「珠光姫様は、阿蘇の側室として入られます。されど、ただの側室ではございませぬ。大内義隆様が後へ残された血にございます」

「そこを隠せば、大内を軽んじる」

「はい」

「そこを強く出しすぎれば、加世を軽んじる」

「はい」

「そして陶を刺激しすぎる」

「はい」

惟種は眉間を揉んだ。

「面倒だ」

「政にございます」

「婚儀だぞ」

「政にございます」

宗運の返しは早かった。

惟種は、諦めたように息を吐いた。

「それと、外よりの使者についてでございます」

宗運が、別の文束を前へ出した。

惟種は嫌な予感がした。

「外?」

「弔問、香奠、見舞い、祝儀、通交の確認。その名目で、いくつかの家より使いが入っております」

惟種は文束を見た。

「婚儀の場には入れられぬぞ」

「もちろんにございます」

宗運は頷いた。

「婚儀そのものは小さく、阿蘇家中と近き者に限ります。外よりの使者は、別座にて惟豊様がお受けになります」

「父上が」

「はい。若君は当事者にございますが、此度は珠光姫様との儀に専念なされませ」

「専念できる名簿ではなさそうだがな」

「それは否定いたしませぬ」

宗運は文束を開いた。

「公方様より、御内書」

惟種の顔が固まった。

「本人は」

「来たがっておられます」

「止めろ」

「止めております」

「よくやった」

「此度は大内義隆様の喪を重んじ、御内書と御名代をもって過分の御恩といたしたく、と返しております」

「本当によくやった」

「ただし、御文の端に、若君の上洛を望む旨がございます」

「余計なものまで添えるな…」

「公方様でございますゆえ」

惟種は深く息を吐いた。

嫌いではない。

公方様のことは、嫌いではない。

むしろ、あの人の人としての真っ直ぐさは嫌いではなかった。

だが、会えば上洛と言う。

もてなせば近づく。

近づけば、幕府の話になる。

惟種は公方様を嫌ってはいない。

ただし、幕府を背負うつもりはなかった。

「三好は」

「書状にて表の名は三好長慶殿より」

「裏は」

「堺商人筋に、松永の目らしき者が混じっております」

「やはりか」

「松永久秀でございますから」

「来るなと言って来ぬ男ではあるまい」

「若君と似ておりますな」

「似ていない」

宗運は何も言わなかった。

言わぬことが、かえって腹立たしかった。

宗運は、さらに名を読み上げた。

「朝廷筋より、九州静謐への御沙汰に添えて、義隆様への弔意」

「博多は」

「商人衆より香奠。荷の流れを絶たぬよう願う文も添えられております」

「願いではなく、様子見だろう」

「左様にございます」

「堺は」

「商人筋より見舞い。また神屋殿より別書が」

「松浦と西郷は」

「使いが来ております。従属の形は取っておりますが、もはや阿蘇の差配なしには立ち行かぬ様子。此度の婚儀を機に、臣従の筋目を改めたき腹かと」

「宗氏は」

「直接ではございませぬ。対馬筋の商人が、博多を通じて香を納めております」

「目だけ置いたか」

「はい」

「陶は」

惟種の声が少し低くなった。

宗運は一拍置いた。

「文のみ」

「使いは」

「出しておりませぬ」

「賢いな」

「ええ」

江良房栄を寄越したばかりである。

ここでまた陶方の使者が婚儀の周りに現れれば、珠光姫の感情を逆撫でする。

阿蘇の家中も怒る。

陶隆房は、それを分かっている。

だから文だけで済ませた。

大内の名は損なわぬ。

珠光姫の身と面目に手は伸ばさぬ。

博多の荷は流す。

その線を守る、と。

薄い言葉だ。

だが、今はそれで足りる。

足りてしまう。

惟種は、胸の奥に冷たいものを感じた。

「文は取っておけ」

「もちろんにございます」

「一字一句、後で使う」

「そのつもりで控えを作っております」

「仕事が早い」

「若君に似ました」

「似ていない」

二度目だった。

宗運は、やはり何も言わなかった。

惟種は名簿を見ていた。

公方。

朝廷。

堺。

博多。

平戸。

対馬。

陶。

どれも重い。

だが、そこで終わらなかった。

惟種の目が、名簿の下の方で止まった。

「土居宗珊」

「土佐一条にございます」

宗運はすぐに答えた。

「本人か」

「はい。表向きは、大内義隆様への香奠と珠光姫様への見舞いにございます」

「表向きは、か」

「土佐一条は、京の名を軽くは見ませぬ。大内が倒れ、阿蘇が公方様と朝廷の名を持ち、さらに大内の血を預かるとなれば、見に来ぬ方が不自然にございます」

惟種は、指で名簿の端を叩いた。

「土佐か。おそらくは庇護を求めている」

「はい」

「遠いようで、海を渡れば遠すぎるわけでもない。今の一条家の内情を考えれば妥当か」

「その通りにございます」

惟種は、さらに下へ目を移した。

そこで、また止まる。

「……小早川隆景」

宗運の目が、わずかに細くなった。

「安芸筋にございます」

「本人ではあるまい」

「本人ではございませぬ。香奠の使いに、その名が添えられております」

「毛利の目か」

「恐らくは」

宗運は、静かに言った。

「陶隆房が山口を押さえた。されど、阿蘇には大内の血がある。しかも九州探題として公方様と朝廷の名を帯びている。毛利元就が見ぬはずはございませぬ」

「小早川の名を添えたのは」

「海を見ているのでしょう」

惟種は黙った。

安芸。

毛利。

小早川。

陶隆房。

大内の旧領。

海。

まだ遠い。

だが、遠いものほど、見えてから歩いては遅い。

惟種は、その名をしばらく見ていた。

さらに一つ、指が止まる。

「土居清晴」

「伊予にございます」

「三間土居か」

「同じ土居でも、先ほどの宗珊は土佐一条。こちらは三間、西園寺の者と見てよろしいかと」

「西園寺実充か」

「その影がありましょう」

宗運は答えた。

「伊予の南もまた、山口の火を遠火とは見ておりませぬ。大内の名が揺れ、陶が山口を押さえ、阿蘇が大内の血を預かる。海を隔てた向こうも、阿蘇を見始めております。こちらも庇護を求めてでしょう」

惟種は、名簿から目を離さなかった。

土佐。

安芸。

伊予。

いずれも九州ではない。

だが、九州と無縁ではない。

山口の火は、九州だけを照らしているのではなかった。

「婚儀の支度ではなかったのか」

「婚儀の支度にございます」

宗運は、平然と答えた。

「ただし、見に来る者が多すぎるだけで」

「多すぎる」

「若君が大きくしすぎたのでございます」

「わしだけのせいではない」

「では、誰のせいにいたしますか」

惟種は少し考えた。

「陶隆房」

「それは少し違いましょう」

「宗運だな」

「わたくしは片付けているだけにございます」

「そなたが何でも出来過ぎるからだ。こうなると、一番怪しいな」

「心外にございます」

宗運は、少しも心外そうではなかった。

惟種は、名簿を閉じた。

「この三つは、別々に会う」

「土居宗珊殿、小早川隆景殿、土居清晴殿にございますな」

「ああ」

「まとめてお受けになりませぬか」

「まとめるな」

惟種は即座に言った。

「土佐、安芸、伊予は腹が違う。同じ座に置けば、言葉が薄くなる。向こうも本音を隠す」

「では、後日、返礼と面会を別々に整えます」

「では、そのように」

宗運は、文箱の一つへ名簿を戻した。

「婚儀そのものは、静かに行います」

「ああ」

「外よりの使者は、惟豊様が大方お受けになります」

「ああ」

「若君は、珠光姫様を阿蘇へ迎えることにお心を置かれませ」

惟種は、少し黙った。

珠光姫。

大内義隆の娘。

父を失った姫。

父を救えなかった男のもとへ入る姫。

その婚儀の名簿に、公方、朝廷、堺、博多、松浦、宗、土佐、安芸、伊予の名が並んでいる。

だが、そのすべての中心に置くべきは、名簿ではない。

珠光姫である。

「分かっている」

惟種は、静かに言った。

「此度は、珠光のための儀だ。大内義隆殿との約のための儀だ」

「はい」

「外の目は外で受ける。婚儀には入れぬ」

「そのように」

宗運は頭を下げた。

部屋を出る前に、惟種はもう一度だけ文箱へ目を向けた。

閉じられた箱の中に、いくつもの名がある。

土居宗珊。

小早川隆景。

土居清晴。

そのほかにも、名は並んでいる。

どれも、婚儀の客ではない。

だが、どれもこの婚儀を見ている。

珠光姫を阿蘇が迎える。

それは、ただ一人の姫を側室にするという話ではなくなっていた。

大内の血。

九州探題。

公方の信任。

朝廷の静謐。

陶との冷たい友和。

そして、西国の海と山の目。

それらが、弔いの煙の向こうから、阿蘇を見ていた。

「宗運」

「は」

「婚儀が終わったら、まず珠光と話す」

「承知しております」

宗運は涼しい顔で頭を下げた。

惟種は襖へ向かった。

外では、寺へ運ばれる香の匂いが薄く流れている。

婚儀の支度でありながら、館の空気はやはり弔いに近かった。

それでよい。

惟種は思った。

華やかである必要はない。

大内義隆との約を違えぬこと。

珠光姫を粗略にせぬこと。

加世の面目を傷つけぬこと。

阿蘇が大内の血を預かったと、静かに示すこと。

それが、此度の婚儀であった。

だが、名簿の上では、すでに西国がざわめいている。

山口の火は、九州だけを照らしてはいなかった。

その火を見て、土佐も、安芸も、伊予も、阿蘇の門へ目を向け始めていた。