作品タイトル不明
第百三十六話 燃えぬ府内
府内は、燃えるはずだった。
伊東義祐はそう見ていた。
阿蘇惟種は京にいる。
主だった供回りも、遠く畿内にある。
公方を送り、朝廷へ呼ばれ、京に引き留められているという。
ならば、今しかない。
九州では、すでに火が上がっている。
大友義武。
秋月。
有馬、大村の残党。
龍造寺隆信。
肝付。
それぞれが、阿蘇の目が九州から離れた隙を突いた。
府内は、もともと大友の地である。
阿蘇は外から来た者。
いかに強くとも、いかに新しい政を敷こうとも、民も旧臣も心の底では大友へ戻る機を待っている。
そう考えていた。
考えていたのだ。
◇
だが、府内は燃えなかった。
城下に火は上がった。
蔵の一つ二つは焼けた。
夜に忍んだ者が、町の端へ火を放とうともした。
だが、それは広がらなかった。
火の手が上がれば、すぐに鐘が鳴る。
町人が水を運ぶ。
阿蘇兵が道を塞ぐ。
寺の者が人を逃がす。
番所の者が火元を押さえる。
しかも、民が逃げる先が決まっている。
どの道を通れ。
どの寺へ入れ。
女房衆と子はどこへ。
怪我人はどの屋敷へ。
米はどの蔵から出す。
水桶はどこに積んである。
すべて、あらかじめ決められていた。
伊東の兵が町へ火を放っても、火は町を呑まない。
義武方の者が「大友再興」と叫んでも、町人は門を開けない。
秋月の使いが「阿蘇は京にあり、今こそ大友を戻す時ぞ」と触れて回っても、村々は動かない。
義祐は、陣屋で報告を聞きながら、奥歯を噛んだ。
「府内は、もっと脆いはずだ」
誰もすぐには答えない。
大友が落ちたばかり。
阿蘇の支配は浅い。
隼人は幼い。
旧臣は屈辱を抱えている。
民は、外から来た阿蘇を恐れているはずだった。
ならば、大友義武が立てば、火は広がるはずである。
なのに。
「なぜ、民は動かぬ」
義祐の声は、低かった。
伊東の家臣たちは、顔を伏せた。
答えは、見えている。
だが、口にしにくい。
やがて一人が、慎重に言った。
「阿蘇の政が……思うたより、府内に食い込んでおります」
義祐は睨んだ。
「まだ浅いはずだ」
「されど、乱妨がございませぬ」
「何だと」
「阿蘇兵は、民家を荒らしておりませぬ。蔵も勝手には開けず、町人にも銭を払います。港の荷も、帳につけて戻しております」
義祐は黙った。
家臣は、恐る恐る続ける。
「さらに、夜番が強うございます。道ごとに火桶、水桶、番の者。町人も、火を見れば阿蘇の番所へ知らせます」
「町人が、阿蘇へ知らせるのか」
「はい」
「なぜだ」
その問いに、家臣はすぐには答えなかった。
だが、答えは一つだった。
「阿蘇の下の方が、焼けぬからにございましょう」
義祐は、拳を握った。
それを認めるのは、屈辱だった。
大友の旧地である府内。
伊東から見れば、阿蘇など外から来た成り上がりである。
だが、その成り上がりの統治を、民は選び始めている。
飢えぬ方へ。
焼けぬ方へ。
盗まれぬ方へ。
子が逃げなくてよい方へ。
民は、名ではなく暮らしへ寄る。
その当たり前のことが、義祐の胸を苛立たせた。
◇
さらに悪いことに、旧大友の重臣たちが動かなかった。
吉弘鑑理。
吉岡長増。
臼杵鑑速。
彼らが義武へ走れば、府内は裂けた。
旧臣たちは一斉に揺れ、阿蘇の支配は根から崩れただろう。
だが、そうはならなかった。
吉弘は言ったという。
「やめよ。それに理と義はない」
吉岡は、隼人の名を使う者たちへ文を送ったという。
「隼人様を幽閉して、何が大友のためか」
臼杵は兵を動かさず、かえって義武方と阿蘇方の間に立ち、旧臣が流れるのを止めているという。
大友の名は、動かなかった。
いや、動いた者もいる。
だが、それは大友そのものではなかった。
義武に従ったのは、所領を削られた者。
阿蘇の帳面を嫌った者。
勝手な徴発を禁じられて腹を立てた者。
大友の名を掲げれば、昔のように戻れると思った者たちだった。
重臣は動かない。
民も動かない。
ならば、義武の旗は軽い。
義祐は、地図の上へ目を落とした。
苛立っているだけでは勝てない。
府内が内から燃えぬなら、外から割る。
内火が広がらぬなら、港を切る。
港を切れぬなら、南の道を押さえ、義武方との合流を無理にでも作る。
感情で兵を動かすほど、義祐は愚かではない。
だが、その次の手すら、ことごとく阿蘇に削られていった。
◇
何より、甲斐宗運がいた。
その名は、伊東方にも届いていた。
阿蘇惟種の補佐。
策を練り、家を締める者。
鬼童の危うさを形にする男。
だが、実際に相対して初めて分かった。
あれは、戦場に立つ猛将とは違う。
敵が勝てる形を、作らせない。
伊東勢は、南より府内へ迫った。
義武方は内より呼応した。
秋月の兵は北西から圧をかけた。
三方から押せば、府内は割れる。
そう考えていた。
だが、宗運は割らせなかった。
道を塞がれた。
橋を落とされた。
荷を奪おうとすれば、空の蔵へ誘われた。
夜に忍べば、灯を消した道の先で阿蘇兵に囲まれた。
町へ火を放とうとすれば、火付けより早く鐘が鳴った。
義武方と合流しようと進めば、途中の狭い道へ大筒を据えられた。
大筒。
それがまた、厄介だった。
轟音が響く。
土塁が砕ける。
盾が割れる。
馬が暴れる。
兵が腰を抜かす。
鉄砲も多い。
阿蘇の鉄砲衆は、無駄に撃たない。
近づけば撃つ。
止まれば撃つ。
指揮する者を狙って撃つ。
旗持ちを狙って撃つ。
こちらが叫び、勢いで押そうとするたび、その勢いの頭を撃ち抜かれる。
義祐は、前線の報告を聞くたびに顔を歪めた。
「南道は」
「柵と土嚢に阻まれております」
「港へ回せ」
「水路は阿蘇方が押さえ、船を近づけませぬ」
「義武方と繋げ」
「合流路に大筒が据えられております」
「夜に動け」
「夜番に見つかり、火矢を受けました」
義祐は陣机に手を置き、地図を睨んだ。
こちらは時を選んだ。
惟種不在を狙った。
旧大友の名を使った。
秋月も、有馬大村の残党も動いた。
南から伊東が攻めた。
同じ頃、龍造寺も肝付も動いた。
阿蘇は裂けるはずだった。
なのに、裂けない。
なぜ、反乱が燃え上がらぬ。
なぜ、民は動かぬ。
なぜ、旧臣は義武へ流れぬ。
なぜ、阿蘇の兵は揺れぬ。
「それほどまでに」
義祐は、低く呟いた。
「それほどまでに、阿蘇の統治は食い込んでいるというのか」
誰も答えなかった。
答えなくても、府内の町が答えていた。
門を閉じる町人。
水を運ぶ女。
阿蘇の番所へ駆け込む子。
兵糧を隠さず帳へ出す商人。
吉岡の者に従って避難する民。
吉弘の使いに説得され、義武方へ走らぬ旧臣。
府内は、阿蘇のものになりきったわけではない。
だが、もう義武の一声で燃える府内でもなかった。
◇
宗運は、府内館の一角で地図を見ていた。
顔には疲れがある。
だが、目は冷えている。
「南の伊東は、まだ押しますな」
吉岡長増が言った。
「押すしかないでしょうな」
宗運は答えた。
「引けば、義武方との呼応が崩れます。攻め続けねば、兵の心が折れる」
臼杵鑑速が低く言う。
「こちらも、楽ではございませぬ」
「承知しております」
宗運は地図の一点を指した。
「されど、府内は落とさせませぬ」
その声に、迷いはなかった。
阿蘇兵は少ない。
惟種もいない。
親英も、種茂も、戸次も京である。
大筒の弾も、鉄砲の火薬も、無限ではない。
撃つたびに、宗運は帳面の残りを見た。
余裕などない。
だが、残したものはある。
常備兵。
港の蔵。
番所。
町割り。
灯。
帳面。
旧大友重臣の理性。
大友隼人を残した名分。
そして、民を荒らさなかった積み重ね。
宗運は、それらをすべて使った。
「義武方には、文を送り続けよ」
宗運は命じた。
「今ならまだ降れる。隼人様を害せば、大友の名を自ら殺すことになる。そう伝えよ」
「はっ」
「伊東には」
吉弘鑑理が問う。
宗運は、少しだけ笑った。
「撃つ」
短い。
「近づけば大筒。散れば鉄砲。止まれば夜襲。兵糧を使わせ、気を削り、合流を許さぬ」
「潰しきらず」
「若君が戻られるまで、府内を落とさせぬことが第一」
吉弘は、宗運を見た。
「戻られると、思われますか」
宗運は、当然のように言った。
「戻るでしょうな」
「いつ」
「間もなく」
「なぜ分かる」
宗運は、淡々と答えた。
「若君は、こういう時に帰りたがる御方だ」
吉岡が、思わず小さく笑った。
臼杵も、わずかに息を吐く。
緊張の中に、ほんの少しだけ人の気配が戻った。
宗運は地図へ目を戻した。
「ただし、戻られたら説教ですな」
「若君へ、でございますか」
「当然」
宗運の声は平らだった。
「京へ送り出しただけのはずが、朝廷の御沙汰を背負い、疱瘡の話まで広げ、さらに公方の旗まで持ち帰る気配がある」
吉弘が、眉を上げた。
「そこまで」
「若君ならば、やりかねん」
宗運は、筆を置いた。
「まことに、目を離すと仕事を増やされる」
その声には、疲れと、呆れと、わずかな誇りが混じっていた。
◇
伊東方の攻めは、なお続いた。
南の道から押す。
谷を越える。
小川を渡る。
府内へ続く脇道へ入る。
だが、どこへ行っても阿蘇の備えがある。
土嚢。
柵。
浅い堀。
伏せた鉄砲衆。
見えぬ位置の大筒。
火を防ぐために崩された家屋。
逃げ道を示す札。
水桶の列。
戦場なのに、町が組織として動いている。
義祐には、それが気味悪かった。
普通、戦場の民は逃げ惑う。
隠れる。
奪われる。
泣く。
もちろん府内にも泣く者はいた。
怯える者もいた。
家を失った者もいた。
だが、皆が無秩序に逃げてはいない。
誰かが導いている。
いや、導かれる道が、すでに作られている。
これが阿蘇か。
義祐は、戦いながら府内という町そのものに押し返されている気がした。
阿蘇兵だけではない。
阿蘇の番所。
阿蘇の蔵。
阿蘇の帳面。
阿蘇に従う町人。
阿蘇に従う旧大友重臣。
府内全体が、ゆっくりとこちらを拒んでいる。
◇
昼過ぎ、伊東方は大きく押した。
義武方が内側で火を上げるという報せがあった。
秋月も北より圧をかける。
この機を逃してはならない。
義祐は総攻めを命じた。
「進め! 府内を割れ!」
兵が動く。
鬨の声が上がる。
盾が並ぶ。
弓が放たれる。
その瞬間、府内側の土塁から火が吹いた。
大筒である。
轟音。
先頭の盾が砕けた。
土と木片と人が飛ぶ。
馬が跳ね、兵が崩れる。
そこへ鉄砲が重なった。
一斉ではない。
順に撃つ。
途切れず撃つ。
倒れた者を助けに出た者を撃つ。
指揮を立て直そうとした者を撃つ。
義祐は、歯を食いしばった。
「押せ!」
だが、押せない。
阿蘇方は飛び出してこない。
こちらに手柄を与えない。
ただ、近づけば撃つ。
離れれば矢を落とす。
火を放とうとすれば、水と土で消す。
義武方の内火も、広がらなかった。
鐘が鳴り、すぐに阿蘇の番兵が向かった。
町人が道を塞いだ。
火元は押さえられた。
秋月の圧も、港までは届かない。
府内は落ちない。
義祐は、その事実をようやく認めざるを得なかった。
◇
夕刻に近い海が、鈍く光った。
最初に気づいたのは、伊東の見張りである。
「船影!」
義祐は、振り返った。
「どこの船だ」
「沖より、複数!」
阿蘇の船か。
その予感はあった。
だが、まだ早い。
京から戻るには、まだ時が要るはずだ。
そうでなくとも、瀬戸内を抜け、府内へ戻るには潮も風もある。
義祐は、海を睨んだ。
やがて、旗が見えた。
阿蘇の旗。
周囲の兵がざわつく。
「惟種が戻った……」
義祐は唇を噛んだ。
阿蘇惟種が戻った。
確かに厄介だ。
しかし、それだけならまだよい。
戻ってきた兵は大軍ではない。
府内はまだ混乱している。
義武方もいる。
伊東も、秋月も、まだ兵を残している。
まだ、戦える。
そう思った。
次の旗が見えるまでは。
「……あれは」
副将が、声を失った。
阿蘇の旗の横に、別の旗がある。
公方の御旗。
義祐は、目を見開いた。
「なぜだ」
なぜ、公方の旗がある。
阿蘇は公方を送り届けただけではなかったのか。
なぜ、その旗を持って戻る。
なぜ、九州の戦に公方の名が出てくる。
だが、さらにその横で、白い旗が開いた。
ただの白ではない。
禁裏より賜った、御沙汰を示す白き御旗。
そのことを理解するまでに、少し時間がかかった。
理解した瞬間、義祐の喉が鳴った。
海風を受けて、三つの旗が広がる。
阿蘇の旗。
公方の旗。
朝廷の白き御旗。
その下に、童が立っていた。
阿蘇惟種。
九州探題。
公方を守り、三好との和を成し、帝の御前に召された若君。
そして今、朝廷と幕府の名を背負って府内へ戻ってきた者。
義祐の背に、冷たいものが走った。
違う。
これは違う。
自分たちは、阿蘇を攻めていたはずだった。
外から来た肥後の家を、府内から追い落とす戦のはずだった。
大友の名を使い、秋月と呼応し、阿蘇不在の隙を突くはずだった。
だが、今この瞬間、戦の名が変わった。
反阿蘇ではない。
逆賊である。
義祐は、海を見たまま動けなかった。
府内の港に、三つの旗が近づいてくる。
その下で、阿蘇惟種が静かにこちらを見ていた。
まだ遠い。
声など届くはずもない。
それでも義祐には、その童の声が聞こえた気がした。
――火をつけたな。
伊東の陣に、初めて本当の沈黙が落ちた。