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作品タイトル不明

第百三十六話 燃えぬ府内

府内は、燃えるはずだった。

伊東義祐はそう見ていた。

阿蘇惟種は京にいる。

主だった供回りも、遠く畿内にある。

公方を送り、朝廷へ呼ばれ、京に引き留められているという。

ならば、今しかない。

九州では、すでに火が上がっている。

大友義武。

秋月。

有馬、大村の残党。

龍造寺隆信。

肝付。

それぞれが、阿蘇の目が九州から離れた隙を突いた。

府内は、もともと大友の地である。

阿蘇は外から来た者。

いかに強くとも、いかに新しい政を敷こうとも、民も旧臣も心の底では大友へ戻る機を待っている。

そう考えていた。

考えていたのだ。

だが、府内は燃えなかった。

城下に火は上がった。

蔵の一つ二つは焼けた。

夜に忍んだ者が、町の端へ火を放とうともした。

だが、それは広がらなかった。

火の手が上がれば、すぐに鐘が鳴る。

町人が水を運ぶ。

阿蘇兵が道を塞ぐ。

寺の者が人を逃がす。

番所の者が火元を押さえる。

しかも、民が逃げる先が決まっている。

どの道を通れ。

どの寺へ入れ。

女房衆と子はどこへ。

怪我人はどの屋敷へ。

米はどの蔵から出す。

水桶はどこに積んである。

すべて、あらかじめ決められていた。

伊東の兵が町へ火を放っても、火は町を呑まない。

義武方の者が「大友再興」と叫んでも、町人は門を開けない。

秋月の使いが「阿蘇は京にあり、今こそ大友を戻す時ぞ」と触れて回っても、村々は動かない。

義祐は、陣屋で報告を聞きながら、奥歯を噛んだ。

「府内は、もっと脆いはずだ」

誰もすぐには答えない。

大友が落ちたばかり。

阿蘇の支配は浅い。

隼人は幼い。

旧臣は屈辱を抱えている。

民は、外から来た阿蘇を恐れているはずだった。

ならば、大友義武が立てば、火は広がるはずである。

なのに。

「なぜ、民は動かぬ」

義祐の声は、低かった。

伊東の家臣たちは、顔を伏せた。

答えは、見えている。

だが、口にしにくい。

やがて一人が、慎重に言った。

「阿蘇の政が……思うたより、府内に食い込んでおります」

義祐は睨んだ。

「まだ浅いはずだ」

「されど、乱妨がございませぬ」

「何だと」

「阿蘇兵は、民家を荒らしておりませぬ。蔵も勝手には開けず、町人にも銭を払います。港の荷も、帳につけて戻しております」

義祐は黙った。

家臣は、恐る恐る続ける。

「さらに、夜番が強うございます。道ごとに火桶、水桶、番の者。町人も、火を見れば阿蘇の番所へ知らせます」

「町人が、阿蘇へ知らせるのか」

「はい」

「なぜだ」

その問いに、家臣はすぐには答えなかった。

だが、答えは一つだった。

「阿蘇の下の方が、焼けぬからにございましょう」

義祐は、拳を握った。

それを認めるのは、屈辱だった。

大友の旧地である府内。

伊東から見れば、阿蘇など外から来た成り上がりである。

だが、その成り上がりの統治を、民は選び始めている。

飢えぬ方へ。

焼けぬ方へ。

盗まれぬ方へ。

子が逃げなくてよい方へ。

民は、名ではなく暮らしへ寄る。

その当たり前のことが、義祐の胸を苛立たせた。

さらに悪いことに、旧大友の重臣たちが動かなかった。

吉弘鑑理。

吉岡長増。

臼杵鑑速。

彼らが義武へ走れば、府内は裂けた。

旧臣たちは一斉に揺れ、阿蘇の支配は根から崩れただろう。

だが、そうはならなかった。

吉弘は言ったという。

「やめよ。それに理と義はない」

吉岡は、隼人の名を使う者たちへ文を送ったという。

「隼人様を幽閉して、何が大友のためか」

臼杵は兵を動かさず、かえって義武方と阿蘇方の間に立ち、旧臣が流れるのを止めているという。

大友の名は、動かなかった。

いや、動いた者もいる。

だが、それは大友そのものではなかった。

義武に従ったのは、所領を削られた者。

阿蘇の帳面を嫌った者。

勝手な徴発を禁じられて腹を立てた者。

大友の名を掲げれば、昔のように戻れると思った者たちだった。

重臣は動かない。

民も動かない。

ならば、義武の旗は軽い。

義祐は、地図の上へ目を落とした。

苛立っているだけでは勝てない。

府内が内から燃えぬなら、外から割る。

内火が広がらぬなら、港を切る。

港を切れぬなら、南の道を押さえ、義武方との合流を無理にでも作る。

感情で兵を動かすほど、義祐は愚かではない。

だが、その次の手すら、ことごとく阿蘇に削られていった。

何より、甲斐宗運がいた。

その名は、伊東方にも届いていた。

阿蘇惟種の補佐。

策を練り、家を締める者。

鬼童の危うさを形にする男。

だが、実際に相対して初めて分かった。

あれは、戦場に立つ猛将とは違う。

敵が勝てる形を、作らせない。

伊東勢は、南より府内へ迫った。

義武方は内より呼応した。

秋月の兵は北西から圧をかけた。

三方から押せば、府内は割れる。

そう考えていた。

だが、宗運は割らせなかった。

道を塞がれた。

橋を落とされた。

荷を奪おうとすれば、空の蔵へ誘われた。

夜に忍べば、灯を消した道の先で阿蘇兵に囲まれた。

町へ火を放とうとすれば、火付けより早く鐘が鳴った。

義武方と合流しようと進めば、途中の狭い道へ大筒を据えられた。

大筒。

それがまた、厄介だった。

轟音が響く。

土塁が砕ける。

盾が割れる。

馬が暴れる。

兵が腰を抜かす。

鉄砲も多い。

阿蘇の鉄砲衆は、無駄に撃たない。

近づけば撃つ。

止まれば撃つ。

指揮する者を狙って撃つ。

旗持ちを狙って撃つ。

こちらが叫び、勢いで押そうとするたび、その勢いの頭を撃ち抜かれる。

義祐は、前線の報告を聞くたびに顔を歪めた。

「南道は」

「柵と土嚢に阻まれております」

「港へ回せ」

「水路は阿蘇方が押さえ、船を近づけませぬ」

「義武方と繋げ」

「合流路に大筒が据えられております」

「夜に動け」

「夜番に見つかり、火矢を受けました」

義祐は陣机に手を置き、地図を睨んだ。

こちらは時を選んだ。

惟種不在を狙った。

旧大友の名を使った。

秋月も、有馬大村の残党も動いた。

南から伊東が攻めた。

同じ頃、龍造寺も肝付も動いた。

阿蘇は裂けるはずだった。

なのに、裂けない。

なぜ、反乱が燃え上がらぬ。

なぜ、民は動かぬ。

なぜ、旧臣は義武へ流れぬ。

なぜ、阿蘇の兵は揺れぬ。

「それほどまでに」

義祐は、低く呟いた。

「それほどまでに、阿蘇の統治は食い込んでいるというのか」

誰も答えなかった。

答えなくても、府内の町が答えていた。

門を閉じる町人。

水を運ぶ女。

阿蘇の番所へ駆け込む子。

兵糧を隠さず帳へ出す商人。

吉岡の者に従って避難する民。

吉弘の使いに説得され、義武方へ走らぬ旧臣。

府内は、阿蘇のものになりきったわけではない。

だが、もう義武の一声で燃える府内でもなかった。

宗運は、府内館の一角で地図を見ていた。

顔には疲れがある。

だが、目は冷えている。

「南の伊東は、まだ押しますな」

吉岡長増が言った。

「押すしかないでしょうな」

宗運は答えた。

「引けば、義武方との呼応が崩れます。攻め続けねば、兵の心が折れる」

臼杵鑑速が低く言う。

「こちらも、楽ではございませぬ」

「承知しております」

宗運は地図の一点を指した。

「されど、府内は落とさせませぬ」

その声に、迷いはなかった。

阿蘇兵は少ない。

惟種もいない。

親英も、種茂も、戸次も京である。

大筒の弾も、鉄砲の火薬も、無限ではない。

撃つたびに、宗運は帳面の残りを見た。

余裕などない。

だが、残したものはある。

常備兵。

港の蔵。

番所。

町割り。

灯。

帳面。

旧大友重臣の理性。

大友隼人を残した名分。

そして、民を荒らさなかった積み重ね。

宗運は、それらをすべて使った。

「義武方には、文を送り続けよ」

宗運は命じた。

「今ならまだ降れる。隼人様を害せば、大友の名を自ら殺すことになる。そう伝えよ」

「はっ」

「伊東には」

吉弘鑑理が問う。

宗運は、少しだけ笑った。

「撃つ」

短い。

「近づけば大筒。散れば鉄砲。止まれば夜襲。兵糧を使わせ、気を削り、合流を許さぬ」

「潰しきらず」

「若君が戻られるまで、府内を落とさせぬことが第一」

吉弘は、宗運を見た。

「戻られると、思われますか」

宗運は、当然のように言った。

「戻るでしょうな」

「いつ」

「間もなく」

「なぜ分かる」

宗運は、淡々と答えた。

「若君は、こういう時に帰りたがる御方だ」

吉岡が、思わず小さく笑った。

臼杵も、わずかに息を吐く。

緊張の中に、ほんの少しだけ人の気配が戻った。

宗運は地図へ目を戻した。

「ただし、戻られたら説教ですな」

「若君へ、でございますか」

「当然」

宗運の声は平らだった。

「京へ送り出しただけのはずが、朝廷の御沙汰を背負い、疱瘡の話まで広げ、さらに公方の旗まで持ち帰る気配がある」

吉弘が、眉を上げた。

「そこまで」

「若君ならば、やりかねん」

宗運は、筆を置いた。

「まことに、目を離すと仕事を増やされる」

その声には、疲れと、呆れと、わずかな誇りが混じっていた。

伊東方の攻めは、なお続いた。

南の道から押す。

谷を越える。

小川を渡る。

府内へ続く脇道へ入る。

だが、どこへ行っても阿蘇の備えがある。

土嚢。

柵。

浅い堀。

伏せた鉄砲衆。

見えぬ位置の大筒。

火を防ぐために崩された家屋。

逃げ道を示す札。

水桶の列。

戦場なのに、町が組織として動いている。

義祐には、それが気味悪かった。

普通、戦場の民は逃げ惑う。

隠れる。

奪われる。

泣く。

もちろん府内にも泣く者はいた。

怯える者もいた。

家を失った者もいた。

だが、皆が無秩序に逃げてはいない。

誰かが導いている。

いや、導かれる道が、すでに作られている。

これが阿蘇か。

義祐は、戦いながら府内という町そのものに押し返されている気がした。

阿蘇兵だけではない。

阿蘇の番所。

阿蘇の蔵。

阿蘇の帳面。

阿蘇に従う町人。

阿蘇に従う旧大友重臣。

府内全体が、ゆっくりとこちらを拒んでいる。

昼過ぎ、伊東方は大きく押した。

義武方が内側で火を上げるという報せがあった。

秋月も北より圧をかける。

この機を逃してはならない。

義祐は総攻めを命じた。

「進め! 府内を割れ!」

兵が動く。

鬨の声が上がる。

盾が並ぶ。

弓が放たれる。

その瞬間、府内側の土塁から火が吹いた。

大筒である。

轟音。

先頭の盾が砕けた。

土と木片と人が飛ぶ。

馬が跳ね、兵が崩れる。

そこへ鉄砲が重なった。

一斉ではない。

順に撃つ。

途切れず撃つ。

倒れた者を助けに出た者を撃つ。

指揮を立て直そうとした者を撃つ。

義祐は、歯を食いしばった。

「押せ!」

だが、押せない。

阿蘇方は飛び出してこない。

こちらに手柄を与えない。

ただ、近づけば撃つ。

離れれば矢を落とす。

火を放とうとすれば、水と土で消す。

義武方の内火も、広がらなかった。

鐘が鳴り、すぐに阿蘇の番兵が向かった。

町人が道を塞いだ。

火元は押さえられた。

秋月の圧も、港までは届かない。

府内は落ちない。

義祐は、その事実をようやく認めざるを得なかった。

夕刻に近い海が、鈍く光った。

最初に気づいたのは、伊東の見張りである。

「船影!」

義祐は、振り返った。

「どこの船だ」

「沖より、複数!」

阿蘇の船か。

その予感はあった。

だが、まだ早い。

京から戻るには、まだ時が要るはずだ。

そうでなくとも、瀬戸内を抜け、府内へ戻るには潮も風もある。

義祐は、海を睨んだ。

やがて、旗が見えた。

阿蘇の旗。

周囲の兵がざわつく。

「惟種が戻った……」

義祐は唇を噛んだ。

阿蘇惟種が戻った。

確かに厄介だ。

しかし、それだけならまだよい。

戻ってきた兵は大軍ではない。

府内はまだ混乱している。

義武方もいる。

伊東も、秋月も、まだ兵を残している。

まだ、戦える。

そう思った。

次の旗が見えるまでは。

「……あれは」

副将が、声を失った。

阿蘇の旗の横に、別の旗がある。

公方の御旗。

義祐は、目を見開いた。

「なぜだ」

なぜ、公方の旗がある。

阿蘇は公方を送り届けただけではなかったのか。

なぜ、その旗を持って戻る。

なぜ、九州の戦に公方の名が出てくる。

だが、さらにその横で、白い旗が開いた。

ただの白ではない。

禁裏より賜った、御沙汰を示す白き御旗。

そのことを理解するまでに、少し時間がかかった。

理解した瞬間、義祐の喉が鳴った。

海風を受けて、三つの旗が広がる。

阿蘇の旗。

公方の旗。

朝廷の白き御旗。

その下に、童が立っていた。

阿蘇惟種。

九州探題。

公方を守り、三好との和を成し、帝の御前に召された若君。

そして今、朝廷と幕府の名を背負って府内へ戻ってきた者。

義祐の背に、冷たいものが走った。

違う。

これは違う。

自分たちは、阿蘇を攻めていたはずだった。

外から来た肥後の家を、府内から追い落とす戦のはずだった。

大友の名を使い、秋月と呼応し、阿蘇不在の隙を突くはずだった。

だが、今この瞬間、戦の名が変わった。

反阿蘇ではない。

逆賊である。

義祐は、海を見たまま動けなかった。

府内の港に、三つの旗が近づいてくる。

その下で、阿蘇惟種が静かにこちらを見ていた。

まだ遠い。

声など届くはずもない。

それでも義祐には、その童の声が聞こえた気がした。

――火をつけたな。

伊東の陣に、初めて本当の沈黙が落ちた。