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作品タイトル不明

第百二十三話 南の火種

天文十八年(一五四九年)十月。

日向の風は、肥後の山風とは違う。

湿りを含み、海の匂いをどこかに残している。

山を越えてくる風であっても、その奥に潮の気配がある。

伊東義祐は、その風を受けながら、庭先の松を見ていた。

松の枝は動かない。

動かないように見えて、先だけがわずかに揺れている。

今の南も、似たようなものだった。

表では、まだ大きくは動いていない。

だが、枝先ではもう風を受けている。

阿蘇が大友を降した。

肥前を押さえた。

龍造寺を抱え、相良を入れ、名和を従え、大友の名すら消さずに下へ置いた。

肥後の山家であったはずの阿蘇が、いまや海を持っている。

府内を押さえ、豊後へ手を伸ばした。

それも、ただ焼いて奪ったのではない。

降る者を残す。

名を残す。

政と兵だけを抜く。

それが、義祐には何より不快であり、同時に恐ろしくもあった。

敵は強いだけならよい。

強いだけの敵は、力尽くで倒せる。

だが、勝った後に人を食わせる敵は厄介だ。

民の腹を満たし、道を直し、市を戻す敵は、城より深く国を奪う。

阿蘇は、そういう家になりつつあった。

その日の座は、大きくはなかった。

伊東義祐。

肝付兼演。

蒲生茂清。

入来院重朝。

それぞれ、島津と阿蘇の動きを見ている者たちである。

表向きには、ただの縁談でも祝儀でもない。

祝いの座でもない。

だが、明け透けに軍議と呼ぶにも早い。

そういう半端な座だった。

半端だからこそ、本音が出る。

肝付兼演は、文机の上に置かれた一通の写しを見て、低く笑った。

「貴久が乗るとは、初めから思うておらぬ」

蒲生茂清が目を向ける。

「では、文は無駄であったと」

「無駄ではない」

兼演は首を横に振った。

「乗るかどうかを見たのではない。乗らぬ時に、どのように乗らぬかを見たかった」

入来院重朝が、静かに頷いた。

「島津が、どれほど阿蘇へ寄っているか」

「そうだ」

兼演は言った。

「返答を濁せば、まだ割れる。返事を遅らせれば、迷いがある。こちらへ探りを返せば、島津も阿蘇の大きさを恐れている」

「では」

義祐が口を開いた。

「阿蘇へ文を見せれば」

兼演の笑みが薄くなる。

「島津は、すでに向こうだ」

座が静まった。

驚きではない。

だが、言葉にされると重い。

蒲生茂清が苦々しく言う。

「加世姫のことがありますゆえな」

「それだけではない」

義祐はゆっくりと言った。

「貴久は、利を見る男だ。阿蘇を外から討つより、阿蘇の内へ入った方が利があると見たのだろう」

兼演が義祐を見た。

「伊東殿も、そう見られるか」

「見る」

義祐の声は静かだった。

「阿蘇は、敵に回せば面倒だ。だが、内に入れば、もっと面倒なものを得られる」

「何を」

「理だ」

蒲生が眉を動かした。

「理?」

「そうだ」

義祐は庭の方へ目を向ける。

「阿蘇は、ただ兵を出す家ではない。勝った地へ銭を入れる。米を出す。道を直す。商人を戻す。文官を入れる。民を逃がさぬようにする」

兼演は黙った。

「それは兵より長く残る。島津がそれを見たなら、外から阿蘇を討つより、阿蘇の内でその理を使う方がよいと考える」

「島津が、阿蘇の下へ入ると」

蒲生の声には、不快さがあった。

義祐は首を横に振る。

「下ではない。内だ」

入来院重朝が、低く言った。

「外で負けるより、内で座を取る」

「貴久なら、そう考える」

義祐は言った。

「そして、その方が厄介だ」

文は、すでに出してある。

肝付と伊東の名をもって、島津へ送った文である。

阿蘇は急に太りすぎた。

大友旧領には火種が残る。

義鎮は討たれたが、大友の名は残された。

ならば、その名を担いで立つ者も出る。

府内はまだ阿蘇の国ではない。

肥前も、収まったばかり。

有馬、大村の残党は山へ海へ散っている。

松浦、西郷も、腹の底まで阿蘇に従ったわけではない。

今なら、阿蘇は内から揺れる。

南より動けば、割れる。

そういう筋の文であった。

島津が乗るとは思っていない。

だが、文を出せば腹が見える。

島津がどう返すか。

誰へ文を見せるか。

どれほど早く動くか。

それだけで、南の次の形が見えてくる。

入来院重朝は、文の写しを見ながら言った。

「返事は、まだか」

兼演が首を横に振る。

「まだだ」

「遅いな」

「遅いのではない」

義祐が言った。

「選んでいるのだ」

蒲生が顔をしかめる。

「言葉を、ですか」

「言葉も、人も、時も」

義祐は続ける。

「返事は、ただ戻すものではない。返した時、こちらの腹をどう揺らすかまで考えているはずだ」

兼演が低く笑った。

「ならば、島津の後ろに阿蘇の謀臣がおるか」

「おるだろう」

義祐は即答した。

「甲斐宗運か」

「ほかにおるまい」

その名が出た時、座の空気が少し重くなった。

阿蘇惟種。

鬼童と呼ばれる若君。

大筒を使い、府内を降した異質な若者。

だが、そのそばには甲斐宗運がいる。

文を読み、人の腹を読み、折るべきところで折る男。

若君だけなら、まだ若さを突ける。

宗運だけなら、武の勢いで押せる場もある。

だが、二人が並ぶと厄介だった。

義祐は、指先で膝を軽く叩いた。

「阿蘇を折るなら、惟種だけを見てはならぬ」

「惟豊もおりますな」

重朝が言った。

「そうだ」

義祐は頷く。

「当主は惟豊だ。惟種は次代と見られているが、今の阿蘇を裁くのは惟豊。父が座を締め、子が先を見て、宗運が筋を整える」

蒲生茂清が吐き捨てるように言った。

「面倒な家になったものよ」

「面倒で済むならよい」

義祐の声は冷たい。

「根を張りきれば、面倒では済まぬ」

肝付兼演は、そこで別の文を取り出した。

「豊後の火は」

義祐が問う。

「置いてある」

兼演は短く答えた。

「大友義武」

「うむ」

「田原親宏」

「そこも」

「秋月は」

「腹は動く。まだ、膝は動かぬ」

蒲生が笑う。

「膝とは」

「頭は下げる。だが、膝までは折らぬということだ」

兼演は言った。

「阿蘇の仕置きは見事だ。大友を残し、隼人を立て、府内を焼かず、政と兵を抜いた。だが、それで納得する者ばかりではない」

「義武は動くか」

入来院重朝の問いに、兼演は少し考えてから答えた。

「動きたい男だ」

「動ける男か」

「一人では無理だ」

義祐が言う。

「だから、周りが要る」

「田原、秋月、大友旧臣の不満、豊後の寺社、府内から離された者」

兼演は指を折る。

「火は一つでは足りぬ。だが、小さな火をいくつも置けば、風が吹いた時に燃える」

蒲生が低く言った。

「風は、こちらが吹かせる」

「そうだ」

義祐は頷く。

「ただし、急ぎすぎるな」

兼演が義祐を見る。

「阿蘇は、反乱を待っている可能性がある」

座が静まった。

蒲生が眉をひそめる。

「待っている?」

「阿蘇惟種は、大友を残した」

「それは甘さでは」

「違う」

義祐の声は、はっきりしていた。

「あれは甘さではない。残した方が使えるから残した。だが、残した名を使って乱す者が出ることも分かっているはずだ」

入来院重朝が、静かに言う。

「ならば、乱す者を一所に集めて討つ」

「その恐れがある」

兼演は、少し不快そうに息を吐いた。

「若造が、そこまで見るか」

「見る」

義祐は言い切った。

「見ねば、あそこまで太れぬ」

話は、肥前へ移った。

龍造寺。

その名が出ると、座の空気がわずかに変わった。

阿蘇が肥前で使った駒であり、今や肥前に根を戻しつつある家である。

蒲生茂清が言った。

「龍造寺は、阿蘇に恩を受けた家ではないか」

「恩を受けた家ほど、時に重さに耐えられぬ」

兼演が返した。

「家宗は」

「慎重だ」

義祐が言った。

「阿蘇の下で龍造寺を立てるつもりであろう。あの男は軽く動かぬ」

「鍋島信房は」

重朝が問う。

「もっと動かぬ」

兼演が苦く笑った。

「鍋島は締める家だ。信房がいるうちは、龍造寺は大きく外れぬ」

「では、どこを見ている」

蒲生が言う。

兼演は、少しだけ目を細めた。

「龍造寺隆信」

その名が出た。

座の中に、別の種類の緊張が落ちる。

若い。

勢いがある。

先の大村、有馬攻めで働きが目立った。

兵がつく。

槍の前へ出る。

そういう男は、使える。

同時に、揺れる。

義祐は、少し慎重に言った。

「隆信が乗ると?」

「乗ると決めてはおらぬ」

兼演は言った。

「だが、乗る可能性はある」

入来院重朝が、目を伏せる。

「若く、功を立て、地を得た。だが、上には阿蘇がいる」

「そうだ」

兼演は頷く。

「龍造寺がどれだけ働いても、最後に裁くのは阿蘇だ。地を与えるのも阿蘇。取り上げるのも阿蘇。若い隆信が、それをいつまでも呑めるか」

蒲生が腕を組む。

「しかし、信房が締める」

「だから、阿蘇を同時に揺らす」

兼演の声が低くなる。

「豊後で義武が動く。秋月が測る。肥前で残党が騒ぐ。南で伊東と肝付が構える。島津が阿蘇へ寄れば寄るほど、島津を嫌う者も動く」

義祐が続けた。

「その時、隆信に文を入れる」

「何と」

「龍造寺は、阿蘇の下で終わる家か、と」

座が静まった。

その言葉は毒である。

若い武将にとって、家の名を問う言葉ほど効くものはない。

しかも、隆信は働いた。

働いた者ほど、自分の器を測りたくなる。

「乗らぬかもしれぬ」

義祐は言った。

「だが、迷えばよい」

兼演が低く笑う。

「迷いは、兵の足を止める」

「そうだ」

義祐は頷いた。

「阿蘇を倒すには、一つの刃では足りぬ。足を止め、腹を割り、手を増やさせ、目を散らせる」

入来院重朝は、そこでようやく深く息を吐いた。

「しかし、それでも阿蘇は強い」

誰も否定しなかった。

重朝は続ける。

「大友を折った。肥前を押さえた。府内を生かした。降る者を残し、従う者を働かせる。あれは、ただの戦上手ではない」

「分かっている」

義祐は言った。

「大筒が怖いのではない」

蒲生が顔を上げる。

「違うのか」

「怖い。だが、それだけではない」

義祐は低く言った。

「本当に怖いのは、勝った後だ。阿蘇は勝った国をすぐ食わぬ。先に食わせる」

兼演も頷いた。

「民は腹を見て動く」

「そうだ」

義祐は言った。

「大友の名が残っても、阿蘇の米で食うようになれば、民は阿蘇を見る」

「ならば」

重朝が言う。

「根を張る前に折る」

「その通りだ」

義祐は、庭の松へ目を戻した。

「阿蘇はまだ、急に太ったばかりだ。肥後、筑後、肥前、豊後。どこも完全には根づいていない。今なら、揺れる」

「数年」

兼演が言った。

「長くても、数年だ」

義祐は頷いた。

「阿蘇が府内を完全に治め、肥前を太らせ、島津まで内に入れれば、もう遅い」

蒲生の顔が険しくなる。

「その前に」

「その前にだ」

夜が近づいていた。

庭の松の影が長くなる。

風が少し冷える。

座の者たちの顔にも、夕闇がかかり始めていた。

肝付兼演は、文を畳んだ。

「島津は、おそらくこちらには来ぬ」

「来ぬなら」

蒲生が言う。

「島津も、いずれ敵だ」

「そう急ぐな」

義祐が制した。

「島津は阿蘇へ寄る。ならば、島津が肝付を見ている間、こちらは阿蘇の腹へ手を入れる」

「伊東は」

重朝が問う。

義祐の目が、静かに鋭くなる。

「伊東は、日向を守る」

「守るだけでよろしいか」

「守るために、先に動くこともある」

その言葉で、座の者たちは理解した。

守るとは、待つことではない。

伊東が日向で立つためには、阿蘇が日向へ来る前に、阿蘇の足を鈍らせねばならない。

豊後へ火を入れる。

肥前へ毒を流す。

島津を測る。

肝付を動かす。

蒲生、入来院のような反島津の国人をつなぐ。

すべてが、阿蘇を南へ向かせないための手である。

義祐は、最後に言った。

「阿蘇を侮るな」

座の者たちが顔を上げる。

「あれは、ただの肥後の山家ではない。すでに大国だ。だが、大国になったばかりの家でもある」

義祐の声は低く、はっきりしていた。

「太ったばかりの獣は、まだ足元が定まらぬ。根を張りきる前に、腹を裂く」

兼演が、ゆっくり頷いた。

蒲生茂清も、入来院重朝も、それぞれに顔を引き締めた。

外の風が、松の枝を揺らした。

今度は、先ほどよりも大きく揺れた。

義祐は、その揺れを見ながら言った。

「ここ数年のうちに、阿蘇を倒す」

そして、文机の上に手を置いた。

「まず、豊後へ文を入れよ」

兼演の目が細くなる。

「大友義武へ、でございますな」

「そうだ」

義祐は頷いた。

「大友の名を残した阿蘇に、大友の名で火を返す」

座の空気が、静かに沈んだ。

誰も笑わなかった。

義祐は、低く告げた。

「火種には、己の名を思い出させてやれ」