軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百十九話 色のついた火種

府内に灯が増え始めてから、数日が過ぎた。

港の槌音は、朝よりも少し早く鳴るようになった。

市へ荷を持ち込む者が増えた。

焼けた蔵の横には仮の小屋が立ち、そこに帳面を抱えた阿蘇の文官が座っている。

府内は、まだ阿蘇の国ではない。

だが、府内の者たちは少しずつ覚え始めていた。

阿蘇の兵が立つ場所。

米が配られる場所。

怪我人を運ぶ寺。

荷を改める番所。

そして、夜に灯がともる道。

人は、何度も同じものを見るうちに、それを当たり前と思い始める。

宗運は、それをよく知っていた。

だからこそ、府内の変わり方を見て、少しだけ安堵していた。

同時に、少しも気を抜いてはいなかった。

府内はまだ危うい。

大友義武。

田原親宏。

秋月。

周辺国衆。

それぞれの腹は、まだ畳の下に隠れている。

しかし、この日、宗運が本当に驚かされたのは、それらの火種ではなかった。

もっと小さく、もっと色のついたものだった。

昼過ぎ、府内館の縁側で、万満丸が膝を抱えるようにして座っていた。

そばには新吉郎がいる。

万満丸の前には、薄い板が一枚置かれていた。

紙はまだ惜しい。

だから、試しに薄く削った板へ描かせている。

万満丸は、真剣な顔で板に何かを描いていた。

新吉郎は、その横で少し困ったように見ている。

「そこは、もう少し下でございます」

「ここか」

「はい。港は、こっちでございます。旗は、もっと館に近く」

「旗は二つあった」

「はい。大友の旗と、阿蘇の旗でございます」

万満丸は頷き、小さな手で棒を握り直した。

その棒は、筆ではなかった。

墨でもない。

木炭でもない。

指ほどの長さの、蝋で固めた棒である。

色があった。

赤。

黒。

黄。

白。

青。

緑。

まだ色は淡い。

塗りも粗い。

夏の暑さで、少し柔らかくなっている。

だが、板の上には、確かに色が乗っていた。

青い海。

黒い焼け跡。

黄色い米俵。

赤い火。

緑の田。

そして、二つの旗。

万満丸は、うれしそうに黄色の棒を取り、米俵のところを塗った。

「これは、米」

「はい」

「これは、海」

「はい。よく描けております」

新吉郎がそう言った時だった。

廊の向こうから歩いてきた宗運が、ふと足を止めた。

最初は、子供の遊びだと思った。

だが、次の瞬間には、目が細くなった。

板の上に、府内がある。

正確ではない。

子供の手で描かれたものだ。

道も曲がり、館も大きすぎ、港も妙な形をしている。

それでも、色で分かれていた。

海。

火。

米。

旗。

道。

田。

文字が読めぬ者でも、見れば分かる。

どこが焼けたか。

どこに米があるか。

どちらに海があるか。

旗がどこに立つか。

宗運の顔から、表情が消えた。

「新吉郎」

静かな声だった。

だが、新吉郎の背中は、ぴんと伸びた。

「は、はい」

「それは、何だ」

「え」

新吉郎は、万満丸の手元を見た。

「あ、これは、若君が」

「若君が?」

宗運の声が、さらに静かになった。

新吉郎は、まずい、と本能で思った。

「その、今日見たものを描かせろと。港でも、粥でも、旗でもよいと」

「その棒は」

「若君が、色を塗れる蝋の棒を作ったから、試しに使ってみろと」

宗運は、万満丸の手から赤い棒をそっと受け取った。

軽い。

持ちやすい。

筆のように水はいらない。

墨を磨る必要もない。

小さな子でも握れる。

板にも紙にも色が乗る。

宗運は、赤い棒の先を見た。

これを使えば、字を知らぬ者にも伝えられる。

危険な場所を赤で塗る。

水路を青で引く。

米蔵を黄で示す。

焼け跡を黒で示す。

安全な道を白で残す。

兵を丸で描き、進む道を線で描く。

地図。

町割り。

軍議。

工事。

避難。

荷の流れ。

子供の教え。

宗運の頭の中で、いくつもの使い道が一気に並んだ。

そして、同じ数だけ危うさも並んだ。

敵に渡れば、敵も使う。

密書に使われれば、言葉より早く伝わる。

城の見取り、兵の配置、港の浅深、火を入れる場所。

すべて、文字を減らして描ける。

これは、玩具ではない。

宗運は、ゆっくりと顔を上げた。

顔はにこやがでは無かった。

「若君は、いずこに」

新吉郎は、喉を鳴らした。

「奥の政所に……」

「分かった」

宗運は赤い棒を握ったまま、静かに歩き出した。

走らない。

声も荒げない。

だからこそ、新吉郎は震えた。

万満丸が、袖を引く。

「新吉郎」

「はい」

「宗運殿は、怒っておるのか」

新吉郎は、宗運の背を見送った。

「……たぶん、かなり」

惟種は政所で帳面を見ていた。

府内の復興には、金が要る。

米が要る。

人が要る。

そして、何より文官が要る。

今日も、樋口にいくつかの帳面を写させ、どこを見るべきか教えたところだった。

樋口は別室で、頭から煙を出しそうな顔で筆を走らせている。

惟種が一息つこうとした時、障子が開いた。

宗運が入ってきた。

「若君」

「何だ」

「これは何ですか」

宗運は、赤い蝋の棒を差し出した。

惟種はそれを見て、ああ、と軽く頷いた。

「色を塗れる蝋の棒だ」

「いつ作ったのです」

「少し前だ」

「少し前」

宗運は、同じ言葉を繰り返した。

「どこで」

「阿蘇で」

「誰に作らせました」

「蝋と顔料を扱える者を少し」

「誰の手の者を使いました」

惟種は、そこでわずかに目を逸らした。

「……そなたの」

宗運は、にこりとも笑わなかった。

「わたくしの手の者を使って、わたくしに黙って作らせたのですか」

「いや、黙ってというか」

「若君」

「はい」

「答えなされ」

「……黙って作らせた」

宗運は深く息を吸った。

「何のために」

惟種は、しばらく黙った。

耳が、少し赤くなっている。

宗運の目が細くなった。

「若君」

「加世に」

「はい?」

「加世にやろうと思って」

宗運は、一瞬だけ言葉を失った。

惟種は顔を背けたまま続ける。

「絵を描けたら喜ぶだろう。墨だけでは寂しい。筆は小さい子には難しい。棒なら握れる。花でも、着物でも、山でも、色があれば描きやすい」

「それで」

「驚かせようと思った」

「それで、わたくしに黙って?」

「そうだな。そなたに言えば、大げさにするだろう」

「当たり前です」

宗運の声が少しだけ強くなった。

「これは大げさにすべきものにございます」

惟種は顔を上げた。

「子供の絵道具だぞ」

「違います」

宗運は即答した。

「若君、これは絵の道具ではございませぬ」

「いや、絵の道具だろう」

「絵にも使える道具にございます」

宗運は赤い蝋の棒を畳の上に置いた。

「これは、字の読めぬ者にも命を伝える道具です」

惟種は黙った。

「赤は危うい場所。青は水。黄は米。黒は焼け跡。緑は田。白は逃げ道。そう定めれば、字を読めぬ足軽にも、百姓にも、子供にも、町人にも、一目で伝わります」

「……なるほど」

「なるほど、ではございませぬ」

宗運はさらに続けた。

「城の見取りを描けます。兵の配置を描けます。川の深さ、道の悪さ、火を入れる場所、米蔵の場所、逃げ道、伏兵の位置。筆と墨より早く、色で分けて示せます」

「そうか」

「そうか、でもございませぬ」

惟種は少し肩を縮めた。

宗運は逃がさない。

「これが敵に渡れば、敵も使います。字を知らぬ者にも絵で命じられる。山道を色で示せる。夜襲の道筋を描ける。城攻めの手順を分けられる。密かに渡す文に、文字を減らして意味を載せられる」

「……」

「若君」

「⋯うむ」

「これは玩具であり、同時に軍事機密にございます」

惟種は、ようやく赤い棒を真剣に見た。

自分が作らせたものだ。

加世に贈るつもりだった。

ただ、色があれば楽しいと思った。

絵を描く手が増えればよいと思った。

だが、宗運の言うことも分かる。

色で伝える。

文字を越えて伝える。

それは、戦にも政にも使える。

惟種は小さく息を吐いた。

「悪かった」

「謝って済むなら、わたくしはここまで来ませぬ」

「……はい」

その返事で、宗運の説教は始まった。

まず、宗運は材料を問うた。

「蝋はどこから」

「阿蘇の蔵から」

「量は」

「多くはない」

「顔料は」

「煤、黄土、赤土、白土、藍、緑は少し苦労した」

「緑は誰が扱った」

「そなたの手の者だ」

「名は」

惟種は答えた。

宗運はすべて書きつけた。

「何本作りました」

「試しを含めて、三十ほど」

「多い」

「多いか?」

「多い」

「加世に選ばせようと思って」

「若君」

「なんだ?」

「加世様への贈り物と、国を動かす道具を同じ箱に入れないでください」

「……はい」

次に、宗運は誰が見たかを問うた。

「加世様は」

「まだ見ていない」

「万満丸様は」

「使った」

「新吉郎は」

「見た」

「樋口は」

「まだ知らぬ」

「種茂は」

「知らぬはずだ」

「隼人様は」

「見ていない」

「戸次殿、吉岡殿は」

「見ていない」

宗運は少しだけ安堵した。

「幸い、まだ広くは漏れておりませぬ」

「なら」

「時間の問題です」

惟種は黙った。

「万満丸様が使った。新吉郎が見た。いずれ樋口も見るでしょう。加世様へ渡せば、当然周囲も見ます。珍しきものは、隠しても匂います」

「そうだな」

「ゆえに、今決めねばなりませぬ」

宗運は、赤い蝋の棒を指した。

「これを軍事機密として隠すか。経済と統治に用いるため、広げるか」

惟種は目を細めた。

「宗運は?」

「両方にございます」

「両方?」

「まずは隠匿します」

宗運は言った。

「製法は秘す。作る者も限る。色の意味は軍議用に定める。地図、町割り、兵の動き、復興の差配に使うものは、阿蘇の内で管理する」

「うむ」

「しかし、いつまでも隠し通せるものではございませぬ。蝋と顔料と形を見れば、いずれ真似る者は出ます」

「だろうな」

「ならば、先に阿蘇が形を定めるべきです」

宗運の声は、説教から評定の声へ変わっていた。

「軍用の色蝋筆と、民へ出す色蝋筆を分けます」

「分ける?」

「はい。軍用は色の乗りを強くし、折れにくく、色の意味も統一する。民用は、絵や学びに用いるものとして、色も形も少し変える。子供の手に渡るものと、軍議に使うものを混ぜてはなりませぬ」

「なるほど」

「まずは独占。阿蘇の政所、軍議、復興差配、寺子の教えに限って使います」

「そうだな」

「文字を教えるには有用にございます。赤い丸、青い線、黄の米。子供は覚えます」

「加世も喜ぶな」

「若君」

「……はい」

「話を戻します」

「はい」

宗運はさらに続けた。

「数年かけて、民へ段階的に出します。絵の道具、子供の学び、職人の下絵、町触れの印。そうして産業にする」

「売るか」

「売ります。安くは売りませぬ。最初は阿蘇製として出す。そうすれば銭にもなり、阿蘇の色と印が広まります」

「阿蘇の色と印」

「はい。色の意味を阿蘇が定めれば、町触れも早くなります。赤の札は危険、青は水、黄は米、緑は田、黒は禁。字が読めぬ者にも伝わる」

惟種は、ようやく姿勢を正した。

「それは大きいな」

宗運は即答した。

「ですから、今後は必ずわたくしに相談してください」

「全部か?」

「こういうものは全部です」

「加世への土産も?」

「特にです」

「なぜだ」

「若君が加世様へ何か贈ろうとなさる時ほど、とんでもないものが混じる気がいたします」

惟種は反論しようとした。

だが、言葉が出なかった。

宗運は容赦しなかった。

説教は続いた。

一本ごとの長さ。

夏に柔らかくなる問題。

折れやすさ。

顔料の毒。

幼い子が口に入れぬようにする工夫。

紙に塗る場合と板に塗る場合の違い。

布に乗るか。

雨で流れるか。

火に近づけた時どうなるか。

軍議で使う時の色の規格。

誰が保管するか。

使い終わったものをどう回収するか。

削り屑をどう扱うか。

作った職人への口止め。

口止めだけでなく、褒美と役を与えて逃がさぬこと。

宗運の手の者を勝手に使った件。

宗運の手の者に宗運へ黙れと言った件。

加世に驚いてもらいたいあまり、周囲を驚かせすぎた件。

惟種は、最初は反論しようとした。

だが、半刻も過ぎるころには諦めた。

宗運の言うことは、ほとんど正しい。

正しいから、逃げ場がない。

やがて、惟種の前には試し書きの板が置かれた。

宗運が赤で丸を描く。

青で線を引く。

黄色で四角を塗る。

「これだけで、兵にも分かります」

「うむ」

「ですが、敵にも分かります」

「うむ」

「若君」

「なんだ?」

「便利なものは、敵にも便利なのです」

「……肝に銘じる」

「本当に?」

「本当に」

「では、今後は」

「必ず相談する」

「誰に」

「宗運に」

「よろしい」

その時には、すでに二刻近くが過ぎていた。

惟種は、戦の後より疲れた顔をしていた。

宗運が去ったあと、部屋にはしばらく沈黙が残った。

惟種は畳の上に置かれた色蝋の棒を見た。

赤。

青。

黄。

黒。

白。

緑。

加世に見せれば、きっと喜ぶと思った。

花を描くだろうか。

阿蘇の山を描くだろうか。

母の着物を描くだろうか。

それとも、自分の顔を妙な色で描くだろうか。

そう考えて作らせた。

ただ、それだけだった。

だが、それだけで済まないのが、自分の立場なのだと、宗運に二刻かけて思い知らされた。

障子の外で、遠慮がちな声がした。

「若君」

「……新吉郎か」

「はい」

「入れ」

新吉郎がそっと入ってきた。

手には、万満丸が描いた板を持っている。

惟種はそれを見た。

青い海。

黒い焼け跡。

黄色い米俵。

赤い火。

緑の田。

二つの旗。

子供の絵である。

線は曲がり、旗は大きすぎ、米俵は丸に近い。

だが、悪くなかった。

「万満丸が描いたのか」

「はい」

「楽しそうだったか」

「とても」

惟種は、少しだけ息を吐いた。

「そうか」

新吉郎は、惟種の顔を見た。

そして、少し迷ってから言った。

「加世様も、きっと喜ばれますよ」

惟種は顔を上げた。

「そう思うか」

「はい」

新吉郎は素直に頷いた。

「万満丸様も、あれほど楽しそうでした。加世様なら、もっと喜ばれると思います」

惟種の表情が、ほんの少し緩んだ。

「そう⋯だな」

「はい」

新吉郎はそこで一度黙った。

だが、すぐに付け加えた。

「ただ」

「ただ?」

「宗運様には、先に言った方がよかったと思います」

惟種は、じとりと新吉郎を見た。

「お前まで言うか」

「すみません。でも、今日の宗運様は本当に怖かったので」

「わしも怖かった」

新吉郎は思わず笑いそうになり、慌てて口を押さえた。

惟種は、万満丸の絵をもう一度見た。

「これは、残しておけ」

「はい」

「あとで宗運にも見せる」

「また怒られませぬか」

「今度は怒られぬ」

惟種は少し考えた。

「⋯たぶん」

新吉郎は何も言わなかった。

その夜、色蝋の棒は小箱へ収められた。

小箱には、まだ名がなかった。

絵の道具。

子供の遊び。

軍議の印。

町触れの助け。

学びの道具。

商いの種。

どれでもあり、どれだけでもなかった。

宗運は、その小箱を一度だけ見て、厳重に封をさせた。

作った者の名も改めた。

材料の流れも押さえた。

製法は、しばらく阿蘇の内に留めることとなった。

まずは隠す。

阿蘇だけで使う。

軍と政で価値を測る。

そのうえで、いつか民へ出す。

独占し、育て、広げる。

それが宗運の定めた方針であった。

惟種は、その方針に逆らわなかった。

逆らえなかった、とも言う。

ただ、小箱の中から一本だけ、別に包んだ。

淡い赤の色蝋である。

加世に渡すためだった。

宗運はそれを見つけ、しばらく黙っていた。

そして、深いため息をついた。

「一本だけにございますぞ」

「分かっている」

「使う場所も、見る者も限ってください」

「分かっている」

「加世様が喜ばれたからといって、すぐ次を増やさぬように」

「……分かっている」

「今の間は何です」

「何でもない」

宗運は、もう一度ため息をついた。

府内の夜に、灯が揺れている。

国を変えるものは、時に大筒の形をしている。

時に船の形をしている。

時に粥の椀の形をしている。

そして時に、子供の手に収まる色のついた蝋の棒の形をしている。

そのことを、惟種は少しだけ理解した。

少しだけである。

だから宗運は、これからも胃を痛めることになる。

新吉郎は、廊の端で二人のやり取りを聞きながら、万満丸の描いた絵を抱えていた。

青い海。

黄色い米。

二つの旗。

その絵は、ただの子供の絵だった。

だが、宗運があれほど慌てたものでもある。

新吉郎は小さく呟いた。

「若君のそばって、本当に退屈しないな」

そして少し考え、さらに小さく付け加えた。

「……怒られる時は、そばにいない方がいいけど」

府内の夜に、また一つ灯がともった。