作品タイトル不明
第百十九話 色のついた火種
府内に灯が増え始めてから、数日が過ぎた。
港の槌音は、朝よりも少し早く鳴るようになった。
市へ荷を持ち込む者が増えた。
焼けた蔵の横には仮の小屋が立ち、そこに帳面を抱えた阿蘇の文官が座っている。
府内は、まだ阿蘇の国ではない。
だが、府内の者たちは少しずつ覚え始めていた。
阿蘇の兵が立つ場所。
米が配られる場所。
怪我人を運ぶ寺。
荷を改める番所。
そして、夜に灯がともる道。
人は、何度も同じものを見るうちに、それを当たり前と思い始める。
宗運は、それをよく知っていた。
だからこそ、府内の変わり方を見て、少しだけ安堵していた。
同時に、少しも気を抜いてはいなかった。
府内はまだ危うい。
大友義武。
田原親宏。
秋月。
周辺国衆。
それぞれの腹は、まだ畳の下に隠れている。
しかし、この日、宗運が本当に驚かされたのは、それらの火種ではなかった。
もっと小さく、もっと色のついたものだった。
◇
昼過ぎ、府内館の縁側で、万満丸が膝を抱えるようにして座っていた。
そばには新吉郎がいる。
万満丸の前には、薄い板が一枚置かれていた。
紙はまだ惜しい。
だから、試しに薄く削った板へ描かせている。
万満丸は、真剣な顔で板に何かを描いていた。
新吉郎は、その横で少し困ったように見ている。
「そこは、もう少し下でございます」
「ここか」
「はい。港は、こっちでございます。旗は、もっと館に近く」
「旗は二つあった」
「はい。大友の旗と、阿蘇の旗でございます」
万満丸は頷き、小さな手で棒を握り直した。
その棒は、筆ではなかった。
墨でもない。
木炭でもない。
指ほどの長さの、蝋で固めた棒である。
色があった。
赤。
黒。
黄。
白。
青。
緑。
まだ色は淡い。
塗りも粗い。
夏の暑さで、少し柔らかくなっている。
だが、板の上には、確かに色が乗っていた。
青い海。
黒い焼け跡。
黄色い米俵。
赤い火。
緑の田。
そして、二つの旗。
万満丸は、うれしそうに黄色の棒を取り、米俵のところを塗った。
「これは、米」
「はい」
「これは、海」
「はい。よく描けております」
新吉郎がそう言った時だった。
廊の向こうから歩いてきた宗運が、ふと足を止めた。
最初は、子供の遊びだと思った。
だが、次の瞬間には、目が細くなった。
板の上に、府内がある。
正確ではない。
子供の手で描かれたものだ。
道も曲がり、館も大きすぎ、港も妙な形をしている。
それでも、色で分かれていた。
海。
火。
米。
旗。
道。
田。
文字が読めぬ者でも、見れば分かる。
どこが焼けたか。
どこに米があるか。
どちらに海があるか。
旗がどこに立つか。
宗運の顔から、表情が消えた。
「新吉郎」
静かな声だった。
だが、新吉郎の背中は、ぴんと伸びた。
「は、はい」
「それは、何だ」
「え」
新吉郎は、万満丸の手元を見た。
「あ、これは、若君が」
「若君が?」
宗運の声が、さらに静かになった。
新吉郎は、まずい、と本能で思った。
「その、今日見たものを描かせろと。港でも、粥でも、旗でもよいと」
「その棒は」
「若君が、色を塗れる蝋の棒を作ったから、試しに使ってみろと」
宗運は、万満丸の手から赤い棒をそっと受け取った。
軽い。
持ちやすい。
筆のように水はいらない。
墨を磨る必要もない。
小さな子でも握れる。
板にも紙にも色が乗る。
宗運は、赤い棒の先を見た。
これを使えば、字を知らぬ者にも伝えられる。
危険な場所を赤で塗る。
水路を青で引く。
米蔵を黄で示す。
焼け跡を黒で示す。
安全な道を白で残す。
兵を丸で描き、進む道を線で描く。
地図。
町割り。
軍議。
工事。
避難。
荷の流れ。
子供の教え。
宗運の頭の中で、いくつもの使い道が一気に並んだ。
そして、同じ数だけ危うさも並んだ。
敵に渡れば、敵も使う。
密書に使われれば、言葉より早く伝わる。
城の見取り、兵の配置、港の浅深、火を入れる場所。
すべて、文字を減らして描ける。
これは、玩具ではない。
宗運は、ゆっくりと顔を上げた。
顔はにこやがでは無かった。
「若君は、いずこに」
新吉郎は、喉を鳴らした。
「奥の政所に……」
「分かった」
宗運は赤い棒を握ったまま、静かに歩き出した。
走らない。
声も荒げない。
だからこそ、新吉郎は震えた。
万満丸が、袖を引く。
「新吉郎」
「はい」
「宗運殿は、怒っておるのか」
新吉郎は、宗運の背を見送った。
「……たぶん、かなり」
◇
惟種は政所で帳面を見ていた。
府内の復興には、金が要る。
米が要る。
人が要る。
そして、何より文官が要る。
今日も、樋口にいくつかの帳面を写させ、どこを見るべきか教えたところだった。
樋口は別室で、頭から煙を出しそうな顔で筆を走らせている。
惟種が一息つこうとした時、障子が開いた。
宗運が入ってきた。
「若君」
「何だ」
「これは何ですか」
宗運は、赤い蝋の棒を差し出した。
惟種はそれを見て、ああ、と軽く頷いた。
「色を塗れる蝋の棒だ」
「いつ作ったのです」
「少し前だ」
「少し前」
宗運は、同じ言葉を繰り返した。
「どこで」
「阿蘇で」
「誰に作らせました」
「蝋と顔料を扱える者を少し」
「誰の手の者を使いました」
惟種は、そこでわずかに目を逸らした。
「……そなたの」
宗運は、にこりとも笑わなかった。
「わたくしの手の者を使って、わたくしに黙って作らせたのですか」
「いや、黙ってというか」
「若君」
「はい」
「答えなされ」
「……黙って作らせた」
宗運は深く息を吸った。
「何のために」
惟種は、しばらく黙った。
耳が、少し赤くなっている。
宗運の目が細くなった。
「若君」
「加世に」
「はい?」
「加世にやろうと思って」
宗運は、一瞬だけ言葉を失った。
惟種は顔を背けたまま続ける。
「絵を描けたら喜ぶだろう。墨だけでは寂しい。筆は小さい子には難しい。棒なら握れる。花でも、着物でも、山でも、色があれば描きやすい」
「それで」
「驚かせようと思った」
「それで、わたくしに黙って?」
「そうだな。そなたに言えば、大げさにするだろう」
「当たり前です」
宗運の声が少しだけ強くなった。
「これは大げさにすべきものにございます」
惟種は顔を上げた。
「子供の絵道具だぞ」
「違います」
宗運は即答した。
「若君、これは絵の道具ではございませぬ」
「いや、絵の道具だろう」
「絵にも使える道具にございます」
宗運は赤い蝋の棒を畳の上に置いた。
「これは、字の読めぬ者にも命を伝える道具です」
惟種は黙った。
「赤は危うい場所。青は水。黄は米。黒は焼け跡。緑は田。白は逃げ道。そう定めれば、字を読めぬ足軽にも、百姓にも、子供にも、町人にも、一目で伝わります」
「……なるほど」
「なるほど、ではございませぬ」
宗運はさらに続けた。
「城の見取りを描けます。兵の配置を描けます。川の深さ、道の悪さ、火を入れる場所、米蔵の場所、逃げ道、伏兵の位置。筆と墨より早く、色で分けて示せます」
「そうか」
「そうか、でもございませぬ」
惟種は少し肩を縮めた。
宗運は逃がさない。
「これが敵に渡れば、敵も使います。字を知らぬ者にも絵で命じられる。山道を色で示せる。夜襲の道筋を描ける。城攻めの手順を分けられる。密かに渡す文に、文字を減らして意味を載せられる」
「……」
「若君」
「⋯うむ」
「これは玩具であり、同時に軍事機密にございます」
惟種は、ようやく赤い棒を真剣に見た。
自分が作らせたものだ。
加世に贈るつもりだった。
ただ、色があれば楽しいと思った。
絵を描く手が増えればよいと思った。
だが、宗運の言うことも分かる。
色で伝える。
文字を越えて伝える。
それは、戦にも政にも使える。
惟種は小さく息を吐いた。
「悪かった」
「謝って済むなら、わたくしはここまで来ませぬ」
「……はい」
その返事で、宗運の説教は始まった。
◇
まず、宗運は材料を問うた。
「蝋はどこから」
「阿蘇の蔵から」
「量は」
「多くはない」
「顔料は」
「煤、黄土、赤土、白土、藍、緑は少し苦労した」
「緑は誰が扱った」
「そなたの手の者だ」
「名は」
惟種は答えた。
宗運はすべて書きつけた。
「何本作りました」
「試しを含めて、三十ほど」
「多い」
「多いか?」
「多い」
「加世に選ばせようと思って」
「若君」
「なんだ?」
「加世様への贈り物と、国を動かす道具を同じ箱に入れないでください」
「……はい」
次に、宗運は誰が見たかを問うた。
「加世様は」
「まだ見ていない」
「万満丸様は」
「使った」
「新吉郎は」
「見た」
「樋口は」
「まだ知らぬ」
「種茂は」
「知らぬはずだ」
「隼人様は」
「見ていない」
「戸次殿、吉岡殿は」
「見ていない」
宗運は少しだけ安堵した。
「幸い、まだ広くは漏れておりませぬ」
「なら」
「時間の問題です」
惟種は黙った。
「万満丸様が使った。新吉郎が見た。いずれ樋口も見るでしょう。加世様へ渡せば、当然周囲も見ます。珍しきものは、隠しても匂います」
「そうだな」
「ゆえに、今決めねばなりませぬ」
宗運は、赤い蝋の棒を指した。
「これを軍事機密として隠すか。経済と統治に用いるため、広げるか」
惟種は目を細めた。
「宗運は?」
「両方にございます」
「両方?」
「まずは隠匿します」
宗運は言った。
「製法は秘す。作る者も限る。色の意味は軍議用に定める。地図、町割り、兵の動き、復興の差配に使うものは、阿蘇の内で管理する」
「うむ」
「しかし、いつまでも隠し通せるものではございませぬ。蝋と顔料と形を見れば、いずれ真似る者は出ます」
「だろうな」
「ならば、先に阿蘇が形を定めるべきです」
宗運の声は、説教から評定の声へ変わっていた。
「軍用の色蝋筆と、民へ出す色蝋筆を分けます」
「分ける?」
「はい。軍用は色の乗りを強くし、折れにくく、色の意味も統一する。民用は、絵や学びに用いるものとして、色も形も少し変える。子供の手に渡るものと、軍議に使うものを混ぜてはなりませぬ」
「なるほど」
「まずは独占。阿蘇の政所、軍議、復興差配、寺子の教えに限って使います」
「そうだな」
「文字を教えるには有用にございます。赤い丸、青い線、黄の米。子供は覚えます」
「加世も喜ぶな」
「若君」
「……はい」
「話を戻します」
「はい」
宗運はさらに続けた。
「数年かけて、民へ段階的に出します。絵の道具、子供の学び、職人の下絵、町触れの印。そうして産業にする」
「売るか」
「売ります。安くは売りませぬ。最初は阿蘇製として出す。そうすれば銭にもなり、阿蘇の色と印が広まります」
「阿蘇の色と印」
「はい。色の意味を阿蘇が定めれば、町触れも早くなります。赤の札は危険、青は水、黄は米、緑は田、黒は禁。字が読めぬ者にも伝わる」
惟種は、ようやく姿勢を正した。
「それは大きいな」
宗運は即答した。
「ですから、今後は必ずわたくしに相談してください」
「全部か?」
「こういうものは全部です」
「加世への土産も?」
「特にです」
「なぜだ」
「若君が加世様へ何か贈ろうとなさる時ほど、とんでもないものが混じる気がいたします」
惟種は反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
宗運は容赦しなかった。
◇
説教は続いた。
一本ごとの長さ。
夏に柔らかくなる問題。
折れやすさ。
顔料の毒。
幼い子が口に入れぬようにする工夫。
紙に塗る場合と板に塗る場合の違い。
布に乗るか。
雨で流れるか。
火に近づけた時どうなるか。
軍議で使う時の色の規格。
誰が保管するか。
使い終わったものをどう回収するか。
削り屑をどう扱うか。
作った職人への口止め。
口止めだけでなく、褒美と役を与えて逃がさぬこと。
宗運の手の者を勝手に使った件。
宗運の手の者に宗運へ黙れと言った件。
加世に驚いてもらいたいあまり、周囲を驚かせすぎた件。
惟種は、最初は反論しようとした。
だが、半刻も過ぎるころには諦めた。
宗運の言うことは、ほとんど正しい。
正しいから、逃げ場がない。
やがて、惟種の前には試し書きの板が置かれた。
宗運が赤で丸を描く。
青で線を引く。
黄色で四角を塗る。
「これだけで、兵にも分かります」
「うむ」
「ですが、敵にも分かります」
「うむ」
「若君」
「なんだ?」
「便利なものは、敵にも便利なのです」
「……肝に銘じる」
「本当に?」
「本当に」
「では、今後は」
「必ず相談する」
「誰に」
「宗運に」
「よろしい」
その時には、すでに二刻近くが過ぎていた。
惟種は、戦の後より疲れた顔をしていた。
◇
宗運が去ったあと、部屋にはしばらく沈黙が残った。
惟種は畳の上に置かれた色蝋の棒を見た。
赤。
青。
黄。
黒。
白。
緑。
加世に見せれば、きっと喜ぶと思った。
花を描くだろうか。
阿蘇の山を描くだろうか。
母の着物を描くだろうか。
それとも、自分の顔を妙な色で描くだろうか。
そう考えて作らせた。
ただ、それだけだった。
だが、それだけで済まないのが、自分の立場なのだと、宗運に二刻かけて思い知らされた。
障子の外で、遠慮がちな声がした。
「若君」
「……新吉郎か」
「はい」
「入れ」
新吉郎がそっと入ってきた。
手には、万満丸が描いた板を持っている。
惟種はそれを見た。
青い海。
黒い焼け跡。
黄色い米俵。
赤い火。
緑の田。
二つの旗。
子供の絵である。
線は曲がり、旗は大きすぎ、米俵は丸に近い。
だが、悪くなかった。
「万満丸が描いたのか」
「はい」
「楽しそうだったか」
「とても」
惟種は、少しだけ息を吐いた。
「そうか」
新吉郎は、惟種の顔を見た。
そして、少し迷ってから言った。
「加世様も、きっと喜ばれますよ」
惟種は顔を上げた。
「そう思うか」
「はい」
新吉郎は素直に頷いた。
「万満丸様も、あれほど楽しそうでした。加世様なら、もっと喜ばれると思います」
惟種の表情が、ほんの少し緩んだ。
「そう⋯だな」
「はい」
新吉郎はそこで一度黙った。
だが、すぐに付け加えた。
「ただ」
「ただ?」
「宗運様には、先に言った方がよかったと思います」
惟種は、じとりと新吉郎を見た。
「お前まで言うか」
「すみません。でも、今日の宗運様は本当に怖かったので」
「わしも怖かった」
新吉郎は思わず笑いそうになり、慌てて口を押さえた。
惟種は、万満丸の絵をもう一度見た。
「これは、残しておけ」
「はい」
「あとで宗運にも見せる」
「また怒られませぬか」
「今度は怒られぬ」
惟種は少し考えた。
「⋯たぶん」
新吉郎は何も言わなかった。
◇
その夜、色蝋の棒は小箱へ収められた。
小箱には、まだ名がなかった。
絵の道具。
子供の遊び。
軍議の印。
町触れの助け。
学びの道具。
商いの種。
どれでもあり、どれだけでもなかった。
宗運は、その小箱を一度だけ見て、厳重に封をさせた。
作った者の名も改めた。
材料の流れも押さえた。
製法は、しばらく阿蘇の内に留めることとなった。
まずは隠す。
阿蘇だけで使う。
軍と政で価値を測る。
そのうえで、いつか民へ出す。
独占し、育て、広げる。
それが宗運の定めた方針であった。
惟種は、その方針に逆らわなかった。
逆らえなかった、とも言う。
ただ、小箱の中から一本だけ、別に包んだ。
淡い赤の色蝋である。
加世に渡すためだった。
宗運はそれを見つけ、しばらく黙っていた。
そして、深いため息をついた。
「一本だけにございますぞ」
「分かっている」
「使う場所も、見る者も限ってください」
「分かっている」
「加世様が喜ばれたからといって、すぐ次を増やさぬように」
「……分かっている」
「今の間は何です」
「何でもない」
宗運は、もう一度ため息をついた。
府内の夜に、灯が揺れている。
国を変えるものは、時に大筒の形をしている。
時に船の形をしている。
時に粥の椀の形をしている。
そして時に、子供の手に収まる色のついた蝋の棒の形をしている。
そのことを、惟種は少しだけ理解した。
少しだけである。
だから宗運は、これからも胃を痛めることになる。
新吉郎は、廊の端で二人のやり取りを聞きながら、万満丸の描いた絵を抱えていた。
青い海。
黄色い米。
二つの旗。
その絵は、ただの子供の絵だった。
だが、宗運があれほど慌てたものでもある。
新吉郎は小さく呟いた。
「若君のそばって、本当に退屈しないな」
そして少し考え、さらに小さく付け加えた。
「……怒られる時は、そばにいない方がいいけど」
府内の夜に、また一つ灯がともった。