軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

産声

災淵世界イーヴェゼイノの小屋で、ルナは様々な食事を作った。

パンやパスタ、肉料理、魚料理、ケーキやプディング、焼き菓子など、街に行っては新しいレシピを見つけてきて、彼に振る舞うのだ。なにを作っても、ノアはやはり味を感じないのだが、気にせずルナはまた新しい料理を作る。

調理中、座って待っているノアと話をするのが、二人の日課となっていた。

「――でも、名前がないと不便じゃない? 呼ぶときに困っちゃうよね」

「そうか」

ノアとしてはあまり長居をする予定ではなかったため、偽名を使ったりはしなかったのだが、確かに不便ではある。

「好きに名前をつけるといい」

「んー」

ルナは唇に指先を当て、考えるような素振りを見せた。

「それはあんまりよくないかも」

「なぜだ?」

「ほら、なんだっけ? あの、《追憶の廃淵》? 滅びた人の追憶から生まれるのが、《廃淵の落とし子》で、だけど、あなたの元になった追憶、その思い出を持ってる人は滅びてないんでしょ」

「エルミデはそう言っていた。希なことらしい」

「だったら、その人はあなたの親なんじゃない?」

「本人に自覚はないだろう。銀水世界リステリアの者ではない。《追憶の廃淵》のことは知らないのだ」

「知らなくても、親は親だと思うな。だって、その人が追憶したことが、遠い遠い海を超えて、銀水世界リステリアまで届いたんでしょ。あなたが生まれたのは、きっとどこかにいる誰かが心から望んだからだと思う」

ノアはじっと考え、それから言った。

「この海はそれほど優しいだろうか?」

「え?」

予想しない返事だったか、ルナは虚を衝かれた様子で振り返った。

「私はそうは思わない。銀水聖海は残酷だ。この海は秩序に定められた者しか救うことはない。救われる者、救われない者、最初から全て決まっているのだ」

悲観するでもなく、ただ事実を告げるようにノアは言う。

「その人物が心から望んだから起きたのではない。ただこの海で定められた秩序が働いただけだ」

「残酷なこともあるけどね……」

ルナは静かに自らの下腹部に触れる。胎内から、どくん、どくん、と脈動が響いていた。

「わたしも、諦めそうになったことは沢山あるわ」

「なにか困っているのか?」

ノアが問うと、ルナは笑みを返した。

「きっと、みんなそうなの。みんな、必死に生きて、思うようにならないことがあって、どうしようもないこともあって……それでも、一生懸命頑張ってるの。いつか、必ず、奇跡だって起こせるんだって、そう信じて」

「奇跡とはなんだ?」

初めて聞いたといったようにノアは問うた。《廃淵の落とし子》として、彼は様々な記憶を有した上で生まれた。

だが、その言葉だけは知らなかった。

「わたしたちの気持ちが、わたしたちの願いが、わたしたちの優しさが、この海でなにより一番強いってこと」

「……難しく、尊いものだな、奇跡というのは」

率直にノアは言った。

「私には起こせないだろう。この根源には願いも、優しさも、欠落している」

「そうかな? わたしは、あなたは優しいと思う」

「どこがだ?」

「だって、味がしないのに、わたしが作ったご飯をいつも残さず食べてくれるでしょ」

不思議そうにノアは眉根を寄せた。

「そんな小さなことが優しさなのか?」

「大きな優しさなんてないんだよ」

柔らかい口調でルナは言う。

「誰かの大事にしている、小さな幸せを守るのが優しさなの。銀水聖海の平和とか、統一とか、正義とか、それはすごく大事なことなんだろうけど、そんな大きなことを成そうとしたら、きっと、小さな幸せは忘れられちゃうんだわ」

「それはそうだろう」

ノアは素直に同意した。

「小さなことでいいの。わたしが作ったご飯を食べてくれるだけでいいの。あなたはその小さな幸せを守ってくれる優しい子だわ」

「……そうか」

ほんの僅かに、ノアは笑みを覗かせた。

「だからね、あなたの親は優しい人だと思う。だって、あなたが優しくなるように願ったんだもの」

「そう思うのか?」

「きっとそう。だから、勝手に名前をつけるのはよくないわ」

ルナがそう結論づけ、再び調理に戻った。

彼女は野菜を取り出し、それを手早くカットしていく。

「わたしは影魔法が得意だ。名前が必要ならば、影と呼ぶといい」

「良い考えね。じゃ、あなたの本当の名前がわかるまでは影ちゃんってあだ名で呼ぶわね」

「卿は変わっているな」

「そういえば、影ちゃんの喋り方って誰に習ったの?」

「わたしの語彙は、羽化世界の主神フレイネアの追憶からきているようだ。元首シューザという男がこのように喋っていたそうだ。本来、わたしの根源とは無関係とのことだが、事情があり、こうなった」

「そっかぁ。だから、大人っぽい喋り方なのね」

「普通はどんな風に喋るのだ?」

珍しく気になったのか、ノアがそう聞いた。

「うーん、私とか卿とかは言わないかなぁ。俺とかお前って言うんじゃない。でも、別に変じゃないと思うわ」

「たまには変えてみるのも悪くない。俺に正しい幼子の話し方を教えてくれるか?」

ルナは目を丸くした後、ふふっと笑った。

「なにかおかしかったか?」

「うぅん。完璧っ! これで影ちゃんは立派な子どもね!」

「ならば、よかった」

一人称が変わっただけの非常に緩い判定に、ロンクルスは渋い表情を浮かべた。

しかし、鷹のフリをしている彼は口を挟むことができず、天真爛漫なルナと、常識をあまり知らない主を、黙って見守るしかない。

「影ちゃんは子どもになりたかったの?」

「子ども以前の問題だ。俺はまだ生まれていないのだそうだ」

「え?」

ルナが不思議そうに首をかしげる。

ノアは一瞬考え、それから説明した。

「つまり、生まれていないから味を感じない。生まれていないのに、こうしてここで喋っているのは、おかしな話だがな」

「じゃあ、今は、お母さんのお腹の中にいるようなものね」

「そうなるだろう」

ロンクルスが横目で二人をじとーっと見ていた。

ルナとノアを放っておくと、話がおかしな結論になる。そう思っているのだろう。

「体が成長しないのもそのためだろう」

「影ちゃんって今いくつなの?」

「リステリアに生じてから二年経つ。二歳だ」

「二歳にしたら十分大きくなあい?」

とことことルナはテーブルの方へやってきて、ノアの全身をマジマジと見た。

「だが、生じたときから背は伸びていない。体にも微細な変化すらない。あるいは、永遠にこのままなのかもしれない」

「んーん、大丈夫っ」

満面の笑みでルナは言う。

彼女はミトンを手にはめて、石窯からグラタン皿を持ってきた。

「このキノコグラタンを食べれば、背もぐんぐん伸びて、すっごく大きくなるの」

呆気にとられたようにノアはキノコグラタンを見た。

「……食事で成長するようなものではないが」

「絶対、大丈夫よっ。だってね、このキノコグラタンは影ちゃんのために作った特別な料理なの。すっごく大きくなっちゃうよ。お山ぐらい!」

ノアの前にキノコグラタンが置かれる。

彼はきょとんとしながら、笑顔のルナを見ていた。

「山ぐらい?」

「うん! おっきくて、強くて、どっしりした子になるわ!」

くはは、とノアは笑い、スプーンを手にした。

「それは、沢山食べなければな」

キノコグラタンすくい、ノアは口に入れる。

瞬間、彼は僅かに目を見開く。

手の動きが止まっていた。

彼はそっと目を閉じる。

静かに、吟味するようにキノコグラタンを一口噛み、二口噛み、ゆっくりと咀嚼した後に、喉を鳴らして飲み込んだ。

そうして、スプーンをテーブルに置く。

「影ちゃん……? なにか、おかしかったかな……?」

いつもと違う様子のノアを見て、ルナは心配そうな表情を浮かべた。

「……なぜ、皆があんなにも嬉しそうに食事をとるのか、ようやくわかった……」

「え……?」

ノアは言った。

それはまるで産声を上げるかのように。

「絶品だ、キノコグラタンは」