軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

「太守ベルッケンの後悔」

124話(太守ベルッケンの後悔)

私が窓に駆け寄ったときには、崖の向こうに去っていく人狼の姿が見えただけだった。それもすぐに闇に紛れてしまう。

恐ろしい脚力だ。

エレオラ皇女はイヤリングに触れ、何かつぶやいている。

「第二小隊を市街の捜索に出せ。黒狼卿ほどの者が単身で来るはずはない、市内に随行員が潜伏している可能性がある。宿屋、交易商組合、輝陽教巡礼院を重点的に捜索し、疑わしい者を洗い出せ。ただし手は出すな。第三小隊は第二級哨戒編成でクラウヘンの半径五弓里に展開、夜明けまで警戒を怠るな」

おそらくあれも、ロルムンドで開発された魔法の品なのだろう。

そしてエレオラ皇女は、私に笑いかける。

「あれが噂の黒狼卿とやらか。大した嗅覚だ」

リューンハイトの黒狼卿といえば、戦場では無敵を誇り、謀略にも長けた恐るべき人狼だ。

実は彼こそが魔王本人なのではないか、という噂もある。

そうでなければつじつまの合わないことも多い。「本物の勇者」と推測されているアーシェスという剣士を葬ったのも、おそらく彼だからだ。

もしエレオラ皇女が黒狼卿を攻撃しようとして、彼が戦う気になっていたらと思うとぞっとする。

「エレオラ殿、彼の強さはご存じのはずでは?」

「わかっている。軽率だった」

エレオラ皇女は珍しく率直に非を認めた。そして例の怪しげな魔法の本を手に取る。

シャキンという金属的な音がしたかと思うと、先ほどまで見えていた黒い穴は消え失せていた。

「だがまさか『魔撃書』のことまで知っているとはな。これでは手が出せん」

「彼は知謀にも長けております。元老院はザリア太守暗殺の嫌疑を彼に被せようとしましたが、失敗してザリアの離反を招いてしまいました」

元老院の愚かな企みを、エレオラ皇女は鼻で笑う。

「ふん。ならば配下の『魔撃大隊』のことも、おそらく感づいていることだろうな」

「エレオラ殿の親衛隊ですか」

「温存して切り札として使うつもりだったが、そううまくはいかんようだ」

彼女は少し考え込む。

「私の親衛隊と貴殿の兵力だけでは心許ないが、もうすぐ冬が来る。軍事坑道の進捗はどうだ?」

「突貫工事を続けていますが、これ以上急がせると事故が起きかねません。秘密を守れる作業員の確保にも限界があります」

「やむをえんか。冬の間に本国から機材や人員を集めたかったのだが……」

そうつぶやくエレオラ皇女は、真剣な表情だ。

「準備が整う前に、元老院や南部連邦に露見する可能性は考慮していた。潔く第二案に切り替えよう。ドラウライトとの密約はどうなっている?」

「今のところ遵守されています。あそこは北壁山脈に間近ですし、私の妻の実家でもありますから裏切ることはないでしょう」

最北端の山岳都市ドラウライトとは交渉が進んでおり、すでにロルムンド側だ。やがて来るであろうロルムンド軍の主力を受け入れる準備も進んでいる。

しかしエレオラ皇女はうなずきつつも、こう言ってきた。

「それは何よりだ。だが身内だからといって信用しすぎないことだ。いや、身内だからこそ、だな」

これまでの彼女の言動から察するに、ロルムンド国内も情勢は相当に複雑なようだ。全面的に信頼、という訳にはいかない。

だがこのまま北部同盟に所属していても、無能な元老院と共倒れになるだけだ。

であれば、北端にあるクラウヘンの選択肢はひとつしかない。北のロルムンドと手を結び、北部同盟を滅ぼす。

そしていずれは、南部連邦も。

ふと気づくと、エレオラ皇女が私を見つめていた。

いつもの皮肉っぽい表情ではなく、私を気遣うような視線だ。

「不安か、ベルッケン殿?」

不安しかない。私が選んだ道は、ひどく危険なものだ。

クラウヘンの民を守るのに、他に方法はなかったのかと今でも問い続けている。

しかし何度考えても、他に方法はなかった。

だから私はこう答えるしかない。

「強大な神聖ロルムンド帝国の皇女殿下が盟友となった今、何の不安がありましょう。我がクラウヘンをロルムンドの先鋒としてお使いください」

こう答えるしかないのだ。

これで満足だろう、エレオラ皇女。

するとエレオラ皇女は複雑な表情を浮かべた。

「……そうだな」

ほんの一瞬だが、ひどく寂しそうな顔をしていたような気がする。

だがそれも一瞬のことで、彼女はすぐにこう宣言した。

「バッヘン、シュベルム、アリョーグの三都市に私の名で使者を送る。大陸最強を誇るロルムンドが、魔王軍と元老院から守ってやるとな。口添えを頼む」

「承知しました」

クラウヘンのことわざに、こういうのがある。

『鍋の塩は取り出せぬ』

私は魔女の大鍋にクラウヘンという岩塩を入れた。もはやこれを取り戻すことはできない。

どのような料理ができあがるにせよ、私はそれを平らげなくてはならないのだ。

覚悟を決めるとしよう。