軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 自由の味と、終わらない責任

サイラス様が嵐のように去った後、会場には奇妙な空気が残された。

音楽は止まったまま。

数百人の視線が、ポツンと残された私に集中している。

私は鞄を持ち直した。

やるべきことは終わった。帰ろう。

そう思って一歩踏み出した瞬間、さっきまで私を遠巻きに嘲笑っていた令嬢たちが、わっと押し寄せてきた。

「リ、リリアーナ様! 素晴らしかったですわ!」

「あの冷静な対応、感動いたしました!」

「私、最初からリリアーナ様こそが被害者だと信じておりましたのよ?」

扇子で口元を隠しながら、猫なで声で擦り寄ってくる。

手のひらを返す早さに、ある種の感心すら覚える。

彼女たちにとって、私はもう「捨てられた可哀想な女」ではなく、「宰相閣下に一目置かれた重要人物」に格上げされたらしい。

私は眼鏡の位置を直し、淡々と答えた。

「恐れ入ります。ですが、まだ残務がありますので」

それ以上は何も言わず、私は会釈をしてその場を離れた。

彼女たちの引きつった笑顔を背後に感じながら、大扉を出る。

夜風が、熱を持った頬に心地よかった。

馬車に乗り込み、シートに身を沈める。

ガタゴトと車輪が回り出す音を聞きながら、私はようやく大きく息を吐いた。

「……終わった」

終わったのだ。

十年間の、王太子婚約者としての責務が。

もう、殿下の機嫌を伺う必要はない。

理不尽な呼び出しに怯える夜もない。

完璧な王妃になるための、息詰まるような教育もない。

馬車の窓から、流れる王都の灯りを眺める。

いつもと同じ景色なのに、なぜか今日は少しだけ輝いて見えた。

翌朝。

小鳥のさえずりで目が覚めた。

時計を見る。午前五時半。

目覚ましが鳴る三十分前だ。

いつもなら「あと五分だけ……」と布団にしがみつくところだが、今日の目覚めは驚くほどスッキリしていた。

体が軽い。

万年肩こりのような重さが消えている。

「……そうか、もう王宮に行かなくていいんだ」

ベッドの上で独り言ちる。

婚約破棄されたのだから、私はただの侯爵令嬢に戻る。

登城の義務はない。

今日からは、一日中パジャマで読書をしていても、誰にも文句は言われないのだ。

私は伸びをして、サイドテーブルのベルを鳴らした。

すぐに侍女のマリアが入ってくる。

「おはようございます、お嬢様。……昨夜の件、旦那様から伺いました」

マリアが心配そうに私を見る。

私は微笑んで首を振った。

「大丈夫よ、マリア。むしろ清々しているわ。……朝食の支度をお願い。それと、外出用のドレスを」

「え? 外出ですか? 今日はゆっくりなさるのでは……」

「王宮に行くわ」

マリアが目を丸くした。

「王宮へ!? で、ですが、あんなことがあった翌日に……殿下とお顔を合わせるのも辛いのでは?」

私はベッドから降り、手帳を開いた。

そこには、今日の日付で『引継ぎ資料作成』『私物回収』『最終経費精算』と書かれている。

「辛くても、仕事は残っているもの」

私は万年筆を指で回した。

「私が急にいなくなったら、財務局のシステムが止まるわ。それに、私の机にはまだ私物が残っているし、殿下の執務室の金庫の鍵も私が管理しているのよ」

バックレる、という選択肢は私の辞書にはない。

立つ鳥跡を濁さず。

完璧に業務を引き継ぎ、誰にも文句を言わせずに去る。

それが、私の最後のプライドだ。

「さあ、急いで。始業時間に遅れたら、元婚約者として示しがつかないわ」

一時間後。

私はいつもの地味な紺色のドレスを着て、王宮の廊下を歩いていた。

いつもと違うのは、周囲の反応だ。

すれ違う衛兵たちが、直立不動で敬礼をしてくる。

いつもなら陰口を叩く文官たちが、壁際に寄って深々と頭を下げる。

まるで、王族が通る時のようだ。

(……昨夜の件が、もう広まっているのね)

サイラス様が介入したインパクトは絶大だったらしい。

私は「宰相案件」として、アンタッチャブルな存在になったようだ。

まあ、仕事がしやすくて助かる。

慣れ親しんだ西棟の執務室へ向かう。

ドアノブに手をかけ、押し開ける。

「おはようございます」

私が声をかけると、中にいた数人の文官たちが、弾かれたように振り返った。

彼らは私の顔を見ると、ほっとしたような、それでいて泣きそうな顔をした。

「リ、リリアーナ様……! 来てくださったのですか!」

「てっきり、もう二度といらっしゃらないかと……」

「第三騎士団の請求書がまた間違っていて、僕たちではどうにも……!」

早速、泣きつかれた。

やはり私がいないと、この部署は一日で崩壊するらしい。

私は苦笑しながら、自分のデスクへと歩み寄った。

「今日で最後ですから、しっかり引き継ぎますよ。……さて」

私は自分の椅子に座ろうとして、動きを止めた。

綺麗に整頓された机の上に、一枚のメモが置かれている。

上質な厚紙に、見慣れた流麗な筆跡で、たった一行。

『出仕次第、直ちに宰相執務室へ来られたし。 サイラス』

私はメモを手に取り、眉をひそめた。

宰相執務室。

王宮の心臓部であり、最も近寄りがたい場所。

昨夜の「相応しい場所」発言が頭をよぎる。

まさか、昨夜の騒動の始末書を書かされるのだろうか。

それとも、地方の窓際部署への異動辞令だろうか。

どちらにせよ、呼び出しを無視するわけにはいかない。

私はため息をつき、まだ座ってもいない椅子から離れた。

「……ごめんなさい、みんな。少し行ってきます」

同僚たちの「生きて帰ってくださいね」という視線を背中に受けながら、私は再び廊下へと出た。

手帳を握りしめる手に、少しだけ力が入る。

自由への道のりは、思ったよりも遠いらしい。