軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第36話 魔力酔いとマタニティブルー

季節が巡り、窓の外の木々が色づき始めていた。

妊娠五ヶ月。

いわゆる「安定期」に入ったとされる時期だ。

マーサさんの指導と、サイラス様の献身的な(そして過剰な)ケアのおかげで、地獄のような吐き気は去った。

食事も美味しく摂れるようになった。

お腹も少しふっくらとしてきて、妊婦らしい体型になりつつある。

身体の調子は良い。

本来なら、バリバリと仕事を再開できるはずだった。

ポチャン。

静かな部屋に、水滴の落ちる音がした。

私の目から落ちた涙の音だ。

「……まただ」

私は膝を抱え、薄暗い寝室の隅で小さくなっていた。

時計の針は、18時15分を指している。

定時は18時。

サイラス様が帰ってくるはずの時間から、15分が過ぎていた。

たった15分。

王宮から屋敷までの馬車移動で、道が混んでいたのかもしれない。

帰り際に誰かに呼び止められたのかもしれない。

以前の私なら、「想定の範囲内」として処理していただろう。

けれど、今の私は違った。

(……嫌われたんだわ)

黒い思考が、インクをこぼしたように心に広がる。

(つわりで寝込んでばかりで、仕事もできなくて、ブクブク太って……。こんな役に立たない妻、もう用済みなんだわ。だから帰ってこないのよ)

馬鹿げている。

頭の片隅にある「理性」のリリアーナが、必死に反論している。

『非論理的です。彼が貴女を溺愛している事実は、過去の行動ログから明白です』

『15分の遅延で愛情消失を疑うなど、根拠が薄弱です』

分かっている。

頭では分かっているのだ。

でも、涙が止まらない。

胸が押し潰されそうで、息が苦しい。

医師団長はこれを「魔力酔い」と呼んだ。

『お腹のお子様は、父親譲りの強大な魔力をお持ちのようです。その魔力が母体の精神波長に干渉し、感情の増幅を引き起こしています』

つまり、これは私の感情ではない。

ホルモンと魔力のいたずらだ。

システムエラーの一種だ。

そう自分に言い聞かせても、溢れ出る悲しみは止められない。

私はクッションに顔を埋めた。

「うぅ……サイラス様……っ」

会いたい。

でも、こんなメソメソした醜い顔を見られたくない。

矛盾した感情が渦巻く。

私は優秀な補佐官だったはずなのに。

今はただの、情緒不安定な生き物に成り下がってしまった。

ガチャリ。

玄関ホールの方で、ドアが開く音がした。

急いで足音が近づいてくる。

「リリアーナ! ただいま!」

寝室のドアが開く。

サイラス様だ。

彼は息を切らしていた。

「すまない、遅くなった! 店が混んでいて……」

彼は部屋の明かりをつけようとして、動きを止めた。

薄暗い部屋の隅。

膝を抱えてうずくまる私を見つけたからだ。

「……リリアーナ?」

彼はゆっくりと近づいてきた。

私は顔を伏せたまま、震える声で言った。

「見ないで……ください」

「泣いているのか?」

「……すみません。わけが、分からないんです。貴方が少し遅れただけで、もう二度と会えないような気がして……勝手に涙が出て……」

支離滅裂だ。

面倒くさい女だと思われたくない。

呆れられるのが怖い。

しかし、サイラス様はためらわずに床に膝をついた。

そして、私を丸ごと抱きしめた。

「……っ!」

「すまなかった。怖かったな」

彼の腕は温かく、外気の冷たさを少し纏っていた。

その匂いを嗅いだ瞬間、私の涙腺が完全に決壊した。

「うわぁぁぁん! サイラス様ぁ……ッ!」

「よしよし。私はここにいる。どこにも行かない」

彼は子供をあやすように、私の背中を一定のリズムで叩いた。

「なぜ泣いているんだ」とは聞かなかった。

「大げさだ」とも言わなかった。

ただ、私の理不尽な感情を、そのまま受け止めてくれた。

「……これは、君の弱さじゃない」

彼が私の耳元で囁く。

「私たちの子が、元気に育っている証拠だ。この子の魔力が強すぎて、ママを困らせているだけだ」

「で、でも……私、全然冷静じゃなくて……補佐官失格で……」

「補佐官である必要なんてない。今の君は、世界で一番頑張っている母親だ」

彼は私の涙で濡れた頬に口づけをした。

私は彼のシャツを握りしめ、ひとしきり泣いた。

涙が枯れる頃には、不思議と憑き物が落ちたように心が軽くなっていた。

「……落ち着いたか?」

「はい……。シャツ、濡らしてごめんなさい」

「構わない。……それより、これを見てくれ」

サイラス様は、傍らに置いていた紙袋を差し出した。

中から出てきたのは、可愛らしい缶に入った茶葉だった。

「これは?」

「東の街で評判のハーブティーだ。精神を安定させる効果があるらしい。……これを買うのに並んでいて、遅れてしまった」

「……私のために?」

彼はバツが悪そうに頬をかいた。

「君が最近、辛そうだったから。……連絡もせずに遅れて、かえって不安にさせてしまったな。私のミスだ」

ミスなんかじゃない。

彼は私のためを思って、奔走してくれていたのだ。

それなのに私は、「嫌われた」なんて疑って。

愛おしさが込み上げてくる。

私は缶を抱きしめた。

「……今から、淹れていただけますか?」

「もちろんだ。最高の一杯を」

サイラス様が微笑む。

その笑顔を見た時、私の中の「魔力酔い」による嵐が、嘘のように凪いでいくのを感じた。

私たちはソファに座り、温かいハーブティーを飲んだ。

心が解けていく。

「美味しいです」

「そうか。……また買ってくる」

サイラス様が私の肩を抱く。

私は彼に寄りかかり、自分のお腹に手を当てた。

(……貴方、パパに似て魔力が強いのね)

まだ見ぬ我が子に話しかける。

元気に育つんだよ。

これだけ強い魔力を持っているなら、きっと将来は大物になるわね。

不安が消えたわけではない。

明日また、理由もなく泣きたくなるかもしれない。

でも、この人が隣にいれば大丈夫だ。

論理が通じない夜も、こうして乗り越えていける。

私は空になったカップを置き、深く息を吐いた。

手帳に『本日の感情:大雨のち晴れ』と書き留めておきたくなるような、静かで温かい夜だった。