軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 幸せな忙しさ

カツ、カツ、カツ。

王宮北棟の廊下に、小気味よいヒールの音が響く。

かつては重苦しい空気が漂い、文官たちが幽霊のような顔で彷徨っていたこの場所も、今では随分と様変わりした。

窓は磨かれ、明るい日差しが差し込んでいる。

すれ違う職員たちは、忙しそうだが目に生気があり、私を見かけるとピシッと背筋を伸ばして敬礼してくる。

「おはようございます、補佐官!」

「補佐官、例の通商条約の草案、決裁箱に入れておきました!」

「第三倉庫の在庫管理、新システムのおかげでミスがゼロになりました!」

私は歩きながら、一人ひとりに短く頷き返す。

「おはよう。草案は午後一で確認します。在庫管理、順調で何よりです」

手帳を開くことなく、私はすべての案件を頭の中で処理していく。

今の私は、ただの侯爵令嬢ではない。

この国の宰相、サイラス・フォン・アイゼンガルド公爵の筆頭補佐官であり、事実上の「王宮の司令塔」だ。

重厚な黒檀の扉の前に立つ。

以前のような、入るのをためらうような威圧感はもうない。

私はノックもそこそこに、扉を開けた。

「失礼します」

執務室の中は、静謐な空気に満ちていた。

かつて床を埋め尽くしていた書類の山は消え失せている。

壁際には番号順に整理されたファイル棚が整然と並び、私が改良した空調魔導具が、音もなく快適な微風を送り出している。

その中央、磨き上げられた執務机に向かう黒髪の男。

サイラス様だ。

彼は私が部屋に入った瞬間に顔を上げ、氷の瞳をふわりと緩めた。

「……おはよう、リリアーナ。早かったな」

「おはようございます、閣下。朝の定例会議が五分巻きましたので」

私は自分のデスク——サイラス様の机のすぐ隣に配置された、大きな執務机——に鞄を置いた。

ここが、私の新しい定位置だ。

「昨夜の未決裁分、処理済みです。優先順位Aの案件はデスクの右、Bは左。Cは担当部署へ振り分けました」

「完璧だ。……君がいなければ、私は今頃まだ昨日の日付を生きていただろうな」

サイラス様は苦笑し、手元の書類にサインをした。

その手つきには迷いがない。

私が事前検閲し、要点を付箋でまとめてあるからだ。

私たちは言葉を交わさずとも、次に何が必要かが分かる。

あうんの呼吸、というやつだ。

「あ、それと」

私は一枚の報告書を取り出し、彼のデスクに置いた。

「北の修道院より、定期報告です。『元』フレデリック殿下とミア嬢の近況について」

三ヶ月前。

あの婚約破棄騒動の後、フレデリック殿下は王位継承権を剥奪された。

理由は単純。

婚約破棄の手続き不備による違約金未払い、公務放棄による損害、そして 重要書類(バックアップなし) の破損。

これらが積み重なり、国王陛下の雷が落ちたのだ。

彼は現在、平民として北の修道院で反省の日々を送っている。

ミア嬢も、「王族への虚偽告訴」の罪で同じ修道院にて奉仕活動中だ。

二人の愛が「真実」なら、極寒の地でも愛を育めることだろう。

サイラス様は報告書を一瞥もしなかった。

「……君が確認したなら、問題ないだろう。シュレッダーへ」

「承知しました。彼らも『野菜作りが楽しい』と書いていますし、平和そうで何よりです」

私は淡々と答え、報告書を破棄箱へ入れた。

過去は過去。

今の私たちには、振り返る暇などないほど未来の仕事が待っている。

午前中の業務は、怒涛のように過ぎ去った。

隣国との交渉、魔導具開発の予算折衝、王宮内の人事異動。

次々と舞い込む難題を、サイラス様が決断し、私が実行に移す。

そのサイクルが心地よい。

自分の能力が完全に機能し、国という巨大な機械を回している実感。

これこそが、私が求めていた「居場所」だったのかもしれない。

時計の針が、十五時を指した。

「……リリアーナ」

唐突に、サイラス様がペンを置いた。

「ん? どうされました?」

「休憩だ。……手を止めろ」

彼の声には、妙な緊張感が滲んでいた。

私は訝しみながらも、ペンを置く。

この人が仕事を中断するなんて珍しい。

サイラス様は立ち上がり、部屋の隅にある給湯台へ向かった。

そこには、私が持ち込んだ最新式のティーセットがある。

彼はカチャカチャと音を立てて準備を始めた。

三ヶ月前よりはマシになったが、相変わらずぎこちない手つきだ。

「閣下、私がやりましょうか?」

「ならん。……これは契約条項に含まれている。私の役目だ」

彼は頑なに拒否し、ポットのお湯を注ぐ。

そして、トレイを持って戻ってきた。

湯気の立つ紅茶と、小さなお皿。

「……どうぞ」

私の目の前に置かれたお皿には、形の不揃いなクッキーが数枚、載っていた。

少し焦げているものもあれば、厚さが均一でないものもある。

王宮のパティシエが作ったものにしては、あまりに素朴だ。

「これは?」

「……試作品だ。毒見をしてくれ」

サイラス様はそっぽを向いて言った。

耳が赤い。

(まさか)

私は思い出した。

先週末、彼が厨房で粉まみれになっていたという噂を。

「新しい錬金術の実験か?」と囁かれていたが、あれはこれだったのか。

私は一枚、不格好なクッキーを手に取った。

口に運ぶ。

サクッ、という音。

バターの香りと、控えめな甘さが口の中に広がる。

少し硬いけれど、噛みしめるほどに味がする。

「……美味しいです」

素直な感想が口をついて出た。

嘘やお世辞ではない。

有名店の洗練された味ではないけれど、不思議と胸が温かくなる味だ。

「そうか。……なら、よかった」

サイラス様が、ほっと息を吐いた。

そして、自分もソファに座り、紅茶を一口飲んだ。

私も続く。

今日の紅茶は、渋くなかった。

完璧な温度、完璧な抽出時間。

彼がどれだけ練習したのかが分かる味だった。

「リリアーナ」

カップを置いた彼が、私を見た。

その瞳は穏やかで、春の日差しのように優しい。

「君との契約を更新したいのだが」

「更新? 終身契約のはずですが」

「ああ。だが、条項を追加したい」

彼はポケットから、小さな箱を取り出した。

ベルベットの箱。

中に入っていたのは、私の瞳と同じ色をした、アメジストの指輪だった。

「『公私ともに』の『私』の部分を、もっと強化したい。……具体的には、私の妻として」

直球だった。

相変わらず、この人は効率的で、無駄がない。

そして、私の心臓を止めるのが上手い。

私は眼鏡を外し、指先で目元を押さえた。

まったく。

仕事中にこんな揺さぶりをかけるなんて、上司としてどうかと思う。

でも。

「……その契約変更による、私のメリットは?」

意地悪く聞いてみる。

サイラス様は真剣な顔で答えた。

「毎日、私が最高の一杯を淹れる。君が疲れた時は、私が書類を片付ける。君が本を読みたい時は、膝枕を提供しよう。……そして、君を二度と一人にはしない」

提示された条件は、破格だった。

これ以上の好条件を出せる相手は、世界中探してもいないだろう。

私は眼鏡をかけ直した。

視界がクリアになる。

目の前には、私を必要としてくれる、世界で一番不器用で誠実なパートナー。

私は手を差し出した。

左手を。

「……契約成立です。返品は不可ですよ?」

サイラス様が目を見開き、そして満面の笑みを浮かべた。

震える手で、私の薬指に指輪を通す。

サイズはぴったりだった。

「ああ。絶対に逃がさない」

彼は私の手の甲に口づけを落とした。

甘いクッキーの香りと、紅茶の香り。

そして、確かな温もり。

ドアの向こうからは、今日もひっきりなしに職員たちの足音が聞こえる。

この休憩が終われば、また書類の山との戦いが始まるのだ。

「悪役令嬢は暇」だなんて、誰が言ったのだろう。

私はこれからも、きっと目の回るような忙しさの中で生きていく。

でも、悪くない。

この忙しさの中には、確かな「愛」と「居場所」があるのだから。

「さあ、閣下。休憩は終わりです。仕事に戻りますよ」

「……あと五分だけ」

「駄目です。三時から予算会議があります」

私は立ち上がり、でも繋いだ手は離さずに、彼を引っぱり上げた。

悪役令嬢は忙しい。

噂対応に、魔法開発に、国政の運営に。

そしてこれからは、この愛すべき旦那様の管理にも、忙殺される予定なのだから。

私は手帳を開いた。

そこには新しい予定が、キラキラと輝いて見えた。