「帳簿を写すだけの仕事」と言われましたので、王家の支出記録を正式監査に提出しました
作者: Sophia Rose
本文
「リディア。君には悪いが、来月から記録照合係を外れてもらう」
財務副官エドガー・ヴァレンスは、羽根ペンを置きもせずにそう言った。
王宮会計院の一室は、今日も紙とインクの匂いに満ちている。窓の外では初夏の光が中庭の噴水を白く照らし、廊下を行き交う文官たちの靴音が規則正しく響いていた。
私は机の上の支出台帳から目を上げた。
「承知しました。辞令はいつ付で発令されますか」
エドガーは、私の返答が予想と違ったのか、わずかに眉を動かした。
「……君はいつもそうだな。少しは驚いたらどうだ」
「人事に関する通達は、会計院長印があれば有効です。驚いても、発令日は変わりません」
私が答えると、彼の隣に立っていた少女が小さく笑った。
男爵令嬢ミレーヌ・ロッカ。
最近、エドガーが頻繁に連れ歩くようになった娘である。淡い桃色のドレスに、王宮勤めには少し華やかすぎる髪飾り。財務局の臨時補佐として採用されたと聞いているが、私の知る限り、彼女が正式な勘定表を最後まで写し終えたことはない。
「さすがリディア様。帳簿を写すだけのお仕事でも、ずいぶん落ち着いていらっしゃるのね」
その言葉に、周囲の書記たちが気まずそうに目を伏せた。
帳簿を写すだけ。
エドガーが私の仕事をそう呼ぶのは、今日が初めてではなかった。
私は伯爵家の長女として、王宮会計院に奉職して四年になる。担当は記録照合係。王家支出、王宮行事費、騎士団補給費、それぞれ別部署で作成された支払命令書と、保管台帳、納入証、領収印、さらに過年度の規則改定による科目変更を照らし合わせる役目だ。
華やかな仕事ではない。
誰かの不正を暴く権限もない。
ただ、記録に齟齬があれば、規則に従い、照合不能として報告する。
その積み重ねが、王宮会計の末端を支えている。
けれど、エドガーにはそれが見えないらしい。
「ミレーヌが新しい照合係を務める。彼女は覚えが早いし、君のように細かいことばかり言わない。財務局も、もっと柔軟に動くべき時期だ」
「後任はロッカ男爵令嬢なのですね」
「不服か?」
「いいえ。引き継ぎ書を作成します。未照合項目、保留中の支払命令、返戻予定の証憑一覧を添付しますので、受領印をお願いいたします」
ミレーヌは扇を口元に当てた。
「まあ。まるで大仕事みたい。私、数字を書き写すのは得意ですわ。そんなに大げさな引き継ぎはいりません」
「規則です」
私がそう言うと、エドガーは深く息を吐いた。
「また規則か。リディア、だから君は窮屈なんだ」
「窮屈であるかは存じませんが、規則に従うことが私の職務です」
「その職務も終わりだ」
彼はそこでようやくペンを置き、私を正面から見た。
灰色の瞳は、婚約が整ったばかりの頃には、もっと穏やかに見えたものだ。伯爵家と子爵家、互いに王宮勤めの家同士として釣り合いが良い。そう言われて決まった婚約だった。
特別に胸が高鳴る恋ではなかった。
けれど、私は彼を尊重しようと思っていた。財務副官として努力する姿を支えられるなら、それもひとつの穏やかな未来だと考えていた。
その未来が、彼の口から簡単に切り捨てられる。
「それから、婚約の件だが」
室内の空気が、紙一枚分ほど薄くなった気がした。
「君との婚約は解消したい。父には既に話してある。君は仕事にかまけすぎるし、家庭に向くとは思えない。私には、もっと私を理解してくれる女性が必要だ」
ミレーヌが、恥じらうように目を伏せる。
私は一度だけ瞬きをした。
「正式な婚約解消書は、両家当主の署名と証人印が必要です」
「君は……本当に、そういう女だな」
「不備があると、後に家同士の係争になります」
エドガーは苛立ったように机を指で叩いた。
「わかった。書類は整える。君は大人しく受け入れればいい」
「承知しました」
私は机上の台帳を閉じた。
「では、本日中に引き継ぎ目録の作成に入ります。未処理の照合不能項目については、規則第五十七条に従い、所属長への報告後、必要分を監査請求添付記録として王宮監査院へ送付します」
その瞬間、ミレーヌが声を立てて笑った。
「監査院? リディア様、大げさですわ。写し間違いが少しあるだけでしょう?」
「写し間違いかどうかを判断する権限は、記録照合係にはありません」
「では、何なのです?」
「照合不能項目です」
私が答えると、エドガーは呆れたように肩をすくめた。
「勝手にしろ。どうせ、誰も君の細かい報告など読まない」
「勝手にはいたしません。規則に従って提出します」
私は立ち上がり、彼に一礼した。
婚約者として最後に何かを言うべきだったのかもしれない。
けれど、言葉は何も浮かばなかった。
悲しみがないわけではない。ただ、それをここでこぼせば、私の仕事まで軽く見られる気がした。
だから私は、いつものように書類を揃えた。
件名。
年度。
該当科目。
照合不能の理由。
参照すべき証憑番号。
上席確認欄。
監査請求添付記録一覧。
ひとつずつ、間違いのないように。
それが私にできる、最後の職務だった。
*
引き継ぎは、三日かかった。
ミレーヌは初日こそ楽しげに羽根ペンを握っていたが、半日もしないうちに退屈そうに頬杖をついた。
「この赤い印は何ですの?」
「同一支出命令に対して、納入証が二通存在するものです」
「では、片方を捨てればいいのでは?」
「捨ててはいけません。証憑は七年保管です」
「こちらの青い紐は?」
「王宮行事費と王太子私費の科目境界に関わるものです。支出命令書の発行者と受益者が一致していないため、照合保留になっています」
「受益者?」
「誰のために使われた支出か、という意味です」
ミレーヌは小さくあくびをした。
「そんなこと、いちいち調べるのですか」
「調べるのではありません。提出された記録同士を照合します。記録に不足があれば、照会票を出します」
「面倒ですわね」
私は答えず、引き継ぎ目録の次の項目を示した。
騎士団補給費。
冬季遠征用の馬糧、革具、薬草包帯、予備剣帯。補給部が作成した受領書と、王宮倉庫の払出記録、財務局の支出命令が一致していないものが十七件。
そのうち五件は、王宮行事費として仮払いされた装飾品費用と同じ商会名が記されていた。
これだけなら、単なる商会の使い回しかもしれない。
しかし、納入日、馬車番号、受領印の位置、支払承認者の筆跡。それらを並べると、どうしても説明できない空白が残る。
私はそれを不正とは呼ばない。
呼ぶ権限がないからだ。
ただ、照合不能と記録する。
「こちらは本日、会計院長へ提出します」
私がまとめた綴りを手に取ると、ミレーヌが目を丸くした。
「まだ出していなかったのですか?」
「照会期限が昨日でした。回答がなかったため、規則通り本日付で報告します」
「エドガー様、よろしいのですか?」
ミレーヌが甘えるように振り向く。
その場に同席していたエドガーは、私の手元の書類を一瞥しただけだった。
「好きにさせておけ。どうせ監査院に回ったところで、形式的に棚へ積まれるだけだ。リディアの書類はいつも細かすぎる」
「まあ、余計なことをしているのですね」
ミレーヌは楽しそうに笑った。
私は綴りの角を揃え、表紙に封緘印を押した。
「提出してまいります」
会計院長室へ向かう廊下は、いつもより静かだった。
途中、窓辺に飾られた白い花が風に揺れている。名前は知らない。毎朝、庭師が取り替えている花だ。
私は花を見るたび、記録に残らない仕事の多さを思う。
花瓶が清潔であること。
廊下に砂が落ちていないこと。
支払いが期日に行われること。
兵の靴底が破れていないこと。
誰も気づかない状態が、正しく維持されている証である場合もある。
私の仕事も、たぶんそれに近かった。
何も起きないように、記録を揃える。
揃わないものは、揃わないと報告する。
それだけのことだ。
会計院長は、私の報告書を黙って読み進めた。
白髪交じりの老紳士で、普段は必要なことしか言わない。最後の頁まで確認すると、彼は静かに印章を取った。
「規則第五十七条、ならびに第六十二条に該当。王宮監査院への送付を認める」
「ありがとうございます」
「リディア嬢」
退室しようとした私を、院長が呼び止めた。
「配置換えの件は聞いている。異動先は王立図書館資料整理室とあるが、これは君の希望かね」
「いいえ。発令に従います」
「そうか」
院長は、それ以上何も言わなかった。
ただ、監査請求添付記録の表紙に押された赤い印は、いつもより深く紙に沈んで見えた。
*
王立図書館資料整理室は、王宮の北棟にあった。
会計院よりも人の出入りが少なく、窓からは古い楡の木が見える。私はそこで、寄贈目録と蔵書台帳の照合を任された。
仕事の内容は変わっても、することは同じだ。
記録を見る。
日付を見る。
署名と印を見る。
揃わないものは、揃わないと記す。
婚約解消書は、異動から二日後に伯爵家へ届いた。父は静かに目を通し、母はしばらく私の顔を見つめていた。
「リディア、本当にこれでいいの?」
「手続きに不備はありません」
「そうではなくて」
母の声は柔らかかった。
私は少し考えた。
「悲しくないと言えば、嘘になります」
母は何も言わなかった。
「ですが、私を軽んじる方の妻になれば、いずれ私は自分の仕事も、自分の言葉も信じられなくなる気がします」
父が深く頷いた。
「ならば、署名しよう。お前が自分を損なわずに済むなら、それが一番だ」
その夜、私は久しぶりに少し泣いた。
怒りではなかった。
未練とも違う。
四年間、正しくあろうと積み重ねたものを、あまりに簡単に「写すだけ」と呼ばれたことが、遅れて胸に沈んできたのだと思う。
翌朝には目を冷やし、いつも通り出仕した。
資料整理室では、古い寄贈目録の一部に、同じ写本が二度登録されていることを見つけた。私は照合票を書き、主任に提出した。
主任は眼鏡の奥で目を丸くした。
「初日からよく気づきましたね」
「番号が飛んでいましたので」
「助かります」
その言葉は短かったが、机に戻る足取りを少し軽くした。
誰かに褒められたいから働いているわけではない。
けれど、正しく見てもらえることが、これほど静かに心を温めるのだと、私はそのとき初めて知った。
異変が起きたのは、それから五日後だった。
朝、資料整理室に会計院の若い書記が駆け込んできた。
「リディア様、いえ、リディア嬢! 院長がお呼びです」
「私は現在、図書館所属です。会計院長からの呼び出しであれば、図書館主任を通してください」
息を切らしていた書記は、泣きそうな顔になった。
「通しました。主任の許可状もこちらに。とにかく、監査院が……監査院の方々が来ています」
室内がざわめいた。
私は受け取った許可状を確認した。
図書館主任印。
会計院長印。
王宮監査院臨時調査班印。
不備はない。
「承知しました。参ります」
北棟から会計院へ向かう道すがら、書記は早口で事情を説明した。
王宮行事費のうち、春の祝賀舞踏会に計上された装花費と照明具費が、実際には王太子殿下の私的な夜会費用と混同されていたこと。
騎士団補給費として支払われた馬糧の一部が、納入された記録はあるのに、倉庫側の受領と一致しないこと。
さらに、王太子私費として処理されるべき贈答品の一部が、王宮行事費に紛れ込んでいたこと。
「混同といいますか、その、誰がどこまで関わったのか、まだ調査中ですが……」
「調査中の事項について、推測を口にしない方がよろしいです」
「あ、はい!」
書記は慌てて口を閉じた。
会計院に入ると、いつもの整然とした空気は消えていた。
机の上には開きっぱなしの台帳が積まれ、床には紐のほどけた書類束が置かれている。ミレーヌの机には、色とりどりの栞が挟まれた帳簿が広がっていたが、どれも科目ごとに分類されていない。
彼女自身は青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「だって、こんなの聞いていませんわ。リディア様は、ただ写していただけだと……」
エドガーは監査官らしき青年に詰め寄っていた。
「これは誤解です。単なる科目の振替で、王宮ではよくあることです。リディアが過剰に騒いだから――」
「過剰に騒いだ記録はありません」
静かな声が、彼の言葉を遮った。
部屋の中央に立っていたのは、濃紺の上着を着た若い男性だった。金糸の入らない控えめな服装だが、襟元の徽章で身分がわかる。
第二王子アシュレイ殿下。
王位継承順位は高くないが、王宮監査院の監督役を務めていると聞いていた。華やかな社交よりも、法令整備や地方財政の視察を好む方だという噂がある。
殿下は私に気づくと、丁寧に頷いた。
「リディア・ファーレン伯爵令嬢ですね。急な呼び出しとなり、失礼しました」
「恐れ入ります。図書館主任の許可状を確認の上、参りました」
「ありがとうございます。では、確認に入らせてください」
殿下の隣には、王宮監査院の監査官が二名。いずれも無駄口を叩く様子はなく、机上の書類を順に確認している。
アシュレイ殿下は、一冊の綴りを私に示した。
「これはあなたが提出した照合不能報告書ですね」
「はい」
「こちらの添付記録では、王宮行事費の第十四号支出命令と、王太子私費の仮払記録第三号が、同一商会、同一日付、同一馬車番号であると記されています」
「記録上はその通りです。ただし、同一支出であるとは判断しておりません」
「理由は?」
「判断権限がありません。また、受益者を確認する証憑が不足しておりました。従って、照合不能として報告しました」
殿下の瞳が、わずかに和らいだ。
「では、あなたは不正を疑って提出したのではない?」
「疑いは個人の感想です。私は、提出された記録が一致しないため、規則に従って報告しました」
室内のざわめきが、少し遠のいた気がした。
アシュレイ殿下は、もう一枚の書類をめくる。
「騎士団補給費についても同じですね。あなたは、補給品が消えたとも、横流しされたとも書いていない」
「はい。納入証と倉庫受領記録、ならびに支出命令書の内容が一致しないと記載しました」
「照会票は三度出されています」
「規則では、緊急性がない限り二度までですが、騎士団補給費は季節要因による遅延の可能性がありますので、所属長の許可を得て三度目を出しました」
監査官の一人が頷いた。
「記録に許可印があります」
エドガーが顔を歪めた。
「しかし、こんな細かいことをいちいち監査に回していたら、業務が滞ります。財務局には裁量が必要です」
アシュレイ殿下は彼を見た。
「裁量は、記録を残した上で行使するものです。記録を曖昧にすることではありません」
エドガーは言葉に詰まった。
ミレーヌが震える声で言う。
「私は、エドガー様から、不要な印は後でまとめればいいと聞きました。科目も、見栄えがよい方に整えてよいと……」
「ミレーヌ!」
「だって、私は知らなかったんですもの! こんなに大変な仕事だなんて。リディア様が、全部やっていたなんて」
その声に、私は胸の奥が冷えるのを感じた。
彼女は知らなかった。
けれど、知らないまま印を押そうとした。
知らないまま記録を動かそうとした。
それがどれほど危ういことかを、たぶん今初めて知ったのだろう。
アシュレイ殿下は、監査官へ短く指示を出した。
「関係者の聴取を継続。財務副官エドガー・ヴァレンスについては、調査完了まで職務停止。ロッカ男爵令嬢は臨時補佐の任を解き、印章の使用履歴を確認してください」
「承知しました」
「リディア嬢」
再び呼ばれ、私は姿勢を正した。
「あなたに確認したい記録がいくつかあります。ただし、現在の所属は図書館です。正式な応援命令を出しますので、受領するかどうかはあなたの意思を確認したい」
「王宮規則上、臨時応援命令は所属長の承認と本人の受領署名があれば有効です」
「ええ」
「業務範囲は、私が作成した照合不能報告書に関する説明に限定されますか」
アシュレイ殿下は少し驚いたように瞬き、それから口元に笑みを浮かべた。
「その通りです。あなたに調査権限を負わせるつもりはありません。あなたは記録の作成者として、記載根拠を説明してください」
「承知しました。応援命令を受領します」
私は署名した。
ペン先が紙を走る音が、妙にはっきり聞こえた。
*
それからの数日は、騒がしかった。
王宮監査院は、私の提出した報告書を起点に、関係書類を洗い直した。
結果として明らかになったのは、王家全体を揺るがす大事件ではなかった。
けれど、小さな不正と怠慢が、いくつも重なっていた。
王太子殿下の周辺に出入りする一部の取り巻きが、私的な夜会費用を王宮行事費に紛れ込ませていたこと。
騎士団補給費の一部が、実際より高い金額で請求され、差額が特定商会と財務局の一部職員へ流れていたこと。
王宮行事費の仮払いを利用し、後から科目を付け替える慣行が黙認されていたこと。
王太子殿下自身は、私費管理を側近に任せきりにしており、監査院から厳重注意を受けた。側近の数名は解任され、関係商会には取引停止と返還命令が出された。
エドガーは、直接金銭を受け取ってはいなかった。
だが、財務副官として不適切な科目処理を黙認し、部下に規則外の処理を促した責任は免れなかった。副官職を解かれ、地方出納所の補助官へ降格となった。
ミレーヌは臨時補佐を解任され、男爵家にも監督不行届の通達が届いたという。
誰も処刑されなかった。
王国も崩壊しなかった。
ただ、記録に残るべきことが記録に残り、責任を負うべき者が、それぞれの責任を負った。
それだけのことだ。
けれど、会計院には大きな変化があった。
それまで「慣例」で済まされていた仮払い処理に、必ず受益者記録が添付されるようになった。科目振替には二名以上の承認印が必要となり、照会票の回答期限も明確にされた。
私は臨時応援の期間中、それらの改定案に関する過去記録の確認を任された。
ある夕方、監査院の資料室で古い規則集を調べていると、アシュレイ殿下が入ってきた。
供も連れず、手には書類束を抱えている。
「まだ残っていましたか」
「第六十二条の改定履歴を確認しておりました。十五年前の補則が、現行の写しに反映されていないようです」
「それは困りましたね」
「困ります」
私が真面目に答えると、殿下は小さく笑った。
「あなたは本当に、困るべきところで困る方ですね」
「褒め言葉でしょうか」
「もちろん」
殿下は向かいの席に腰を下ろした。
王子という身分の方が、こんなふうに自然に資料室の椅子へ座る姿は、少し不思議だった。
「リディア嬢。あなたの報告書を読んだとき、私は感心しました」
「恐れ入ります」
「いいえ、単に正確だったからではありません。あなたは一度も、誰かを罪人として扱っていなかった。事実と不足だけを書いていた」
「それが、私の職務でしたので」
「その職務を守るのは、簡単ではなかったはずです」
私は手元の規則集に目を落とした。
「簡単ではありませんでした。けれど、私が感情で言葉を足せば、報告書の価値が損なわれます」
「自分を侮辱した相手のことでも?」
静かな問いだった。
私は少しだけ息を整えた。
「侮辱されたことと、記録が一致しないことは、別の事柄です」
「そう切り分けられる人は多くありません」
「切り分けないと、私が私を信じられなくなります」
言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。
けれど殿下は笑わなかった。
ただ、深く頷いた。
「あなたのそういうところを、私は尊敬します」
胸の奥に、静かな音が落ちた。
大きな鐘ではない。
遠くの部屋で、小さな銀の鈴が鳴ったような音。
私は答えに迷い、結局いつも通りの言葉を選んだ。
「過分なお言葉です」
「過分ではありません。それから、もうひとつ」
殿下は持っていた書類束から、一枚の辞令案を取り出した。
「監査院長からの正式な打診です。王宮監査院付き記録官として、あなたを迎えたい」
私は書類を受け取り、内容を確認した。
所属。
職務範囲。
権限。
給与。
任期。
上席者。
不備は見当たらない。
「これは、栄転に当たるのでしょうか」
「一般的には、そう見なされるでしょう」
「私には調査権限が付与されますか」
「いいえ。記録官として、監査資料の整備、照合経過の記録、規則改定時の根拠資料作成を担当していただきます。調査判断は監査官が行います」
「であれば、お受けできます」
殿下は少し目を細めた。
「権限が増える方が嬉しいのかと思いました」
「必要な権限であれば受けます。不要な権限は、誤解を招きます」
「なるほど」
殿下は、また笑った。
その笑みは派手ではないのに、窓から差す夕日のように穏やかだった。
「あなたと仕事をするのが楽しみです、リディア嬢」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
私たちはそこで礼を交わした。
恋と呼ぶには、まだ早すぎる。
けれど、誰かに正しく見られること。
そして、自分もまた相手を正しく見ようと思えること。
それは、静かな始まりとしては十分すぎるほどだった。
*
エドガーが私を訪ねてきたのは、正式に監査院付き記録官となってから半月後のことだった。
監査院の受付で名を告げられ、私は面会室へ向かった。
彼は以前より痩せて見えた。上質な上着は着ているが、襟元に乱れがあり、目の下には疲れが滲んでいる。
「リディア」
「ヴァレンス補助官。ご用件を伺います」
彼はその呼び方に顔をしかめた。
「そんな他人行儀な」
「婚約は正式に解消済みです。また、現在の職位に基づいてお呼びしました」
「……君は変わらないな」
「ご用件を」
エドガーはしばらく黙っていたが、やがて苦しげに口を開いた。
「私は地方へ行くことになった。だが、今回の処分は重すぎる。君から監査院に、私が不正に関わっていなかったと説明してくれれば、再考されるかもしれない」
「処分理由は、不正収受ではなく、財務副官としての監督責任および規則外処理の黙認と聞いております」
「だから、君が戻ってくれればいい。君が会計院に戻れば、業務は立て直せる。私も、もう一度やり直せる」
彼は机に手をついた。
「婚約のことも、考え直してもいい。ミレーヌとは何も――」
「ヴァレンス補助官」
私は、彼の言葉を遮った。
怒鳴る必要はなかった。
「私は、正式に監査院へ配置換え済みです」
彼が息を呑む。
「それに、婚約解消書には両家当主の署名と証人印が揃っています。再締結する意思はありません」
「リディア、私は君の価値をわかっていなかった」
「そうかもしれません」
「なら」
「ですが、私の価値をあなたが理解したかどうかと、私があなたのもとへ戻るかどうかは、別の事柄です」
彼の顔から、血の気が引いた。
私は膝の上で両手を揃えた。
「あなたが地方出納所で職務を果たされることを願っています。記録を軽んじなければ、やり直せる仕事はあります」
「君は、私を許さないのか」
許す。
その言葉を、私は心の中でゆっくり繰り返した。
「私は、あなたを裁く立場にありません」
「そういう意味ではない」
「では、私から申し上げられることはありません」
エドガーは何か言いかけ、結局口を閉じた。
立ち上がるとき、彼は以前のように私を見下ろそうとはしなかった。
「……君は、本当に強いな」
「強いわけではありません」
私は首を振った。
「守るべき手順があるだけです」
彼は、今度こそ何も言わずに去っていった。
面会室の扉が閉まる。
私はしばらく、その扉を見つめていた。
胸が痛まないわけではない。
けれど、その痛みはもう、私を引き戻す鎖ではなかった。
*
監査院での仕事は、会計院以上に慎重さを求められた。
監査官が調査で集めた証言、証憑、命令書、過去の慣例、規則改定の履歴。それらを、後から誰が見ても同じ道筋を辿れるように整える。
私はよく、アシュレイ殿下と同じ資料室で仕事をした。
殿下は王族でありながら、書類の端を折らない。読み終えた資料は必ず元の位置へ戻し、曖昧な記憶で日付を言わない。
それだけのことが、私にはとても心地よかった。
ある雨の日、窓を叩く雫の音を聞きながら、私は過年度の監査記録を綴じ直していた。
殿下が向かいで、新しい規則案に目を通している。
「リディア嬢」
「はい」
「この改定案ですが、照会期限を一律五日にするのは厳しすぎると思いますか」
私は資料から顔を上げた。
「騎士団補給費や地方からの納入記録を含む場合、五日では回答不能が増える恐れがあります。通常は七日、緊急時は三日と分けた方がよろしいかと」
「理由を添えて、意見書にしていただけますか」
「承知しました」
殿下はペンを置き、ふと窓の外を見た。
「あなたに相談すると、道がまっすぐになりますね」
「私は道を作っているわけではありません」
「では?」
「石を拾っているだけです。つまずかないように」
殿下は楽しそうに目を細めた。
「それは、とても大切な仕事です」
私は返答に困り、綴じ紐を結び直した。
雨音が静かに続く。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
しばらくして、殿下が少し改まった声で言った。
「今度、王立植物園で監査院の慰労会があります。堅苦しいものではありません。よければ、同席していただけませんか」
「記録官としてでしょうか」
「いいえ」
殿下は一瞬だけ迷い、それからまっすぐ私を見た。
「私個人として、あなたと少し仕事以外の話もしてみたいと思っています」
胸の奥で、またあの小さな鈴が鳴った。
私はすぐには答えられなかった。
仕事以外の話。
それは、私にとって少し難しい領域だった。けれど、怖いとは思わなかった。
「……慰労会の出席者名簿に、私の名があるか確認してからでもよろしいでしょうか」
殿下は一拍置いて、吹き出すように笑った。
「もちろん。招待状も正式にお送りします」
「ありがとうございます。正式な招待状を受領しましたら、喜んで出席いたします」
「では、そのように」
殿下の声は弾んでいた。
私も、ほんの少しだけ笑った。
*
王立植物園の慰労会は、穏やかな午後に開かれた。
温室の硝子天井から光が降り、白い花と青い葉が柔らかく揺れている。監査官たちは普段より少しくだけた表情で茶を飲み、会計院長も招かれていた。
私は淡い青のドレスを着ていた。
母が選んでくれたものだ。派手ではないが、襟元の刺繍が細かく、光の角度で銀糸が見える。
アシュレイ殿下は私を見ると、静かに微笑んだ。
「よくお似合いです」
「ありがとうございます」
以前の私なら、社交辞令として受け取って終わっていただろう。
けれどその日は、少しだけ素直に嬉しいと思えた。
慰労会の途中、殿下は温室の奥へ案内してくれた。
そこには、小さな白い花が咲いていた。会計院へ向かう廊下の花瓶に、よく飾られていたものと同じ花だ。
「この花、ご存じですか」
「名前は知りません。けれど、王宮の廊下でよく見ます」
「セリスといいます。目立つ花ではありませんが、長く咲く。水を替えれば、切り花でも形が崩れにくいそうです」
「そうなのですね」
私は花に近づいた。
小さな花弁は、近くで見ると驚くほど整っていた。
目立たない。
けれど、そこにあることで空気を清潔にするような花。
「あなたに似ていると思いました」
殿下が言った。
私は驚いて顔を上げた。
「私が、花にですか」
「不快でしたか」
「いいえ。ただ、意外でした」
「では、訂正はしません」
殿下は真面目な顔で続けた。
「あなたは、自分の仕事を大きく見せようとしない。けれど、あなたが整えた記録は、多くの人を支えています。騎士団に補給が届くことも、王宮費が正しく使われることも、誰かが規則を信じられることも」
風が温室の硝子をかすかに鳴らした。
「私は、そういうあなたを、もっと知りたい」
その言葉は、急な熱を押しつけるものではなかった。
ただ、丁寧に差し出された書類のように、私の前に置かれた。
私は受け取るかどうか、自分で選ぶことができる。
だから、少し考えてから答えた。
「私は、華やかな話は得意ではありません」
「私もです」
「規則の話をしてしまうかもしれません」
「望むところです」
「間違いがあれば、指摘します」
「助かります」
殿下の返事があまりに自然で、私はとうとう笑ってしまった。
声を立てるほどではない。けれど、自分でも驚くくらい柔らかな笑みだった。
「それでは、まずはお茶をご一緒するところからでよろしいでしょうか」
「はい。正式な手続きは必要ですか」
「お茶には不要かと」
「それはよかった」
私たちは並んで歩き出した。
温室の外では、雲の切れ間から陽が差し始めていた。雨上がりの葉に光が宿り、小さな雫がいくつも輝いている。
私はふと、あの日の会計院を思い出した。
帳簿を写すだけ。
そう言われた仕事の中に、私は多くのものを見ていた。
人が動けば、記録が残る。
記録が残れば、後から確かめることができる。
確かめることができれば、間違いは正される。
それは、派手な力ではない。
誰かを一瞬で倒す剣でもない。
けれど、積み重ねれば、人が安心して明日へ進むための道になる。
私はその道を、これからも歩いていくのだろう。
隣には、同じ速さで歩いてくれる人がいる。
まだ恋と呼ぶには、少し慎重で。
けれど、信頼と呼ぶには十分に温かい。
白いセリスの花が、風に揺れた。
私はその花の名前を、もう忘れないだろうと思った。