妹に婚約者も役目も奪われましたが、「どうぞご勝手に」~~結果、誰も私の代わりになれず、妹と王太子は破滅し、私は溺愛されました
作者: 朝月夜
本文
「アメティスト。君との婚約を破棄する!」
ラミ王太子の突然の大声が、夜会の中央に響き渡った。
「そして――私はルビーと婚姻を結ぶのだ!」
おおっと、周囲が一瞬でざわつく。
ラミ王太子の隣に控えていた妹のルビーが、ドヤァっとした満面の笑みで一歩前に出た。
「お姉様の代わりは、僭越ながらわたくしが務めますわ」
可憐に微笑みながらも、その目は完全に「お姉様に勝ったわ!」と輝いていた。
(……ああ、なるほど。やはりそうなりましたか)
私――アメティスト・ラ・ロッシュはそっとグラスを置いた。
(浅はかですね。本当に)
この人たちは、私がずっと支えてきた婚約者の座も、侯爵家の実務も、全部「代わりが効くもの」だと思っているらしい。
「承知いたしました」
静かに告げると、会場が一瞬シーンと静まり返った。
ラミ王太子とルビーの顔が、明らかに「え?」となっている。
おそらく、私が泣き崩れるか、妹に食ってかかるか……そのどちらかを期待していたのだろう。
でも残念、私はどちらも選ばない。
「では、婚約も役目も――すべて妹にお譲りいたします」
「……ほぅ、ずいぶんと聞き分けがいいな」
「代わりが務まるのでしたら、私が居座る理由もありませんので」
私は微笑んだまま、優しく言葉を続けた。
「ただし、引き継ぎは必要かと存じますが」
「引き継ぎ?」
ルビーがきょとんとする。
「……一度しか説明しませんので、よく聞いてくださいね」
状況をわかっていない、お馬鹿さんなお二人に――わざと、優しい声で、ゆっくりと、一つずつ、丁寧に説明してあげた。
「来週の王宮晩餐会の席次配置、各家への寄付金の調整、東方使節への贈答品の選定と予算配分……それから人間関係として西部侯爵夫人と北方伯爵夫人を絶対に同席させない配慮」
そして、最後に優しくトドメを刺す。
「それから、王妃殿下の好物と、各家の禁忌事項の完全把握も、よろしくお願いいたしますね」
「……は? お姉様、ごめんもう一度一から説明してくださらない?」
「一度しか説明しないと申し上げたはずですが?」
そのまま踵を返し、最後にお馬鹿さんなお二人にこう告げた。
「明日からは――どうぞご勝手に」
その瞬間、ラミ王太子とルビーの顔が、綺麗に青ざめるのが妙に楽しかった。
翌朝。
ロッシュ侯爵家の屋敷は、驚くほど静まり返っていた。
――本当に、何も起こらない。
これまでは目を覚ました瞬間から「やらなければならないこと」が山積みで、朝から晩まで忙殺される日々だったというのに。
指示を出し、機嫌を取り、利害を調整し……そんな日々が、まるで嘘のように消えていた。
「それにしても……本当に婚約破棄するとは……」
呟いてみても、胸は不思議と軽い。
ショックも悲しみなんて、驚くほどない。
代わりに湧き上がってきたのは、ただひとつ――解放感だけだった。
(まあ、以前からルビーとラミ王太子が必要以上に親しげだったのは知っていたけど)
あの距離感。あの熱っぽい視線。
二人の仲に気づかないほど、私は鈍くはない。
(ルビーの性格を考えれば、いつかこうなるだろうとも予想はしていた)
欲しいものは必ず手に入れる。手段なんて選ばないのがルビー。
あの婚約破棄も、きっと妹の差し金だったのだろう。
昨夜のやり取りを思い出して、私は小さく肩をすくめた。
けれど、もういい。
私は晴れて、あの重たい役目から解放されたのだから。
(あの二人に私の代わりが務まるとは到底思えないけど……まあ、それはもう私の知ったことではない)
(これからは、どうぞご勝手に)
そう心の中で締めくくった、まさにその矢先のことだった。
どうやら私は、暇を持て余すと途端に何かに没頭したくなる性分らしい。
気がつけば、私は屋敷の侍女たちと共に銀食器を磨き、庭の花の手入れまで始めていた。
「お嬢様、そんなことまで……!」
「構いませんわ。手が空いておりますもの」
むしろ、こうして身体を動かしている方が気持ちいい。
周囲の使用人たちは、きっとこう思っているのでしょう。
「婚約者を奪われて落ち込んでいる……」とか「無理して気を紛らわせている」とか。
(全然、違いますけどね~~)
でも、否定するのは面倒なので、好きに思わせておくことにした。
それからしばらくして、屋敷の裏門の方から馬のいななきと、派手な騒ぎ声が聞こえてきた。
「うおおっ! 待て待て、落ち着け! 俺のかわいい相棒よ! とりあえず、ここはロッシュ侯爵家だよな!?」
ガシャン! という音と共に、花壇の端が派手に倒れる。
私は手を拭きながら裏庭へ向かうと、そこには見事な黒毛の馬を巧みに抑え込んでいる、金髪の長身の青年が立っていた。
年齢は二十代半ばくらい。派手な外套を無造作に羽織りながら、こちらと目が合うなり、申し訳なさそうに笑顔を浮かべた。
「これは失礼! 突然の訪問で申し訳ない。道を少し間違えてしまったようだ」
男は馬を侍従に預けると、軽やかにこちらへ歩み寄ってきた。
そして、碧い瞳を細め、私をまじまじと見つめる。
「……長い紫髪、淡い紫がかった銀色の瞳……君がアメティスト・ラ・ロッシュ嬢だな。宝石のように美しい方だ」
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
私が冷静に尋ねると、彼は朗らかに笑った。
「自己紹介が遅れたな。私はディオ・ヴァレンティーノ。隣国ヴァレンティーノ王国の第一王太子だ。気軽にディオと呼んでくれ」
(……隣国の王太子?)
私は驚きを隠しつつ、丁寧にスカートの端を摘んで礼をした。
「ロッシュ侯爵家のアメティストと申します。ようこそいらっしゃいました」
「いや、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。俺はそういうのが苦手でね」
ディオは悪戯っぽく片目をつぶってみせた。
そして、私が手に持っていた銀のスプーンを見て、にやりと笑う。
「へえ、婚約破棄されたばかりだと聞いていたが……随分と晴れやかな顔をしているな。銀食器を磨いている場合か?」
「手が空いていましたので」
「ははっ! 面白いな、君は」
彼は楽しげに笑いながらも、視線は優しく私を捉えていた。
「実は昨夜の夜会、俺も隣国の使節として出席していたんだ。あの『どうぞご勝手に』という君の台詞……正直、痺れたよ」
「……そうですか」
「ラミ王太子は愚かな真似をした。君のような聡明で美しい女性を手放すなど……宝の持ち腐れだ」
その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
ディオは照れくさそうに頭をかきながら、明るく提案した。
「……もしよければだが、アメティスト。暇を持て余しているなら、俺の国に来ないか?
我が国は今、人材が足りなくて困っている。あなたのような優秀な女性がいてくれたら……俺は本当に嬉しいんだが」
彼は最後に、紳士的に微笑んだ。
「もちろん、無理にとは言わない。いきなり来た俺に色々と戸惑うだろう。俺は君の“勝手”を、尊重するつもりだ」
(……その通り、いきなり来たこの人に戸惑うし、いきなりの誘いになおさら戸惑う……)
それでも、私もこの人のことがどこか面白いと思った。
それに、暇を持て余しているのも事実だった。
「突然の申し出で驚かせてしまったようだな」
「無理に即答する必要はない。まずは……少し話をしないか? 君の時間をいただけると嬉しい」
その言葉は強引さよりも、誠実さが感じられた。
私は少し考えてから、静かに頷いた。
「では、庭のテラスでお茶でもいかがですか? せっかくのお客様ですし」
「それはありがたい! ぜひ」
ディオの顔がぱっと明るくなる。
侍女に簡単にお茶の準備を頼むと、私はディオを屋敷の東側にあるテラスへと案内した。春の柔らかな日差しが差し込む、気持ちの良い場所だ。
席に着くなり、ディオは興味深そうに私を見つめた。
「率直に聞くが……本当に、婚約破棄されて平気なのか? 普通なら泣き崩れるか、怒り狂ってもおかしくないだろうに」
私はカップに紅茶を注ぎながら、肩を軽くすくめた。
「平気、というより……むしろ解放された気分ですわ。ずっと重い荷物を下ろしたようで感謝すらしています」
「ほう、君は本当に珍しい女性だ。毅然としたあの対応といい、その前向きな考えといい……俺は本気で惚れたよ」
少しからかうような口調だったが、彼の碧い瞳は真剣だった。
私は思わず頰が熱くなるのを感じて、視線を逸らした。
「褒めすぎですわ、ディオ様」
「ディオと呼び捨てでいい。堅苦しいのは苦手なんだ」
彼は悪戯っぽく笑ってから、身を乗り出した。
「なぁ、アメティスト。もし本気で俺の国に来る気があるなら、歓迎する。うちの王宮は今、色々とごたついている。君のような、物事を整理できる聡明な女性がいたら……本当に助かるんだ」
「具体的に、どんなお仕事ですか?」
「外交関係の調整、王宮内の人間関係、イベントの段取り、事務処理……要するに、俺が苦手な『細かいこと全部』だ」
ディオは自嘲気味に笑った。
「俺は馬と剣と大雑把な戦略や政治は得意なんだが、細かい調整事は正直、頭が痛くなる」
「ずいぶんと正直な方ですね」
「隠してもすぐバレるからな。君みたいな人に」
「最初から満足に馬を制御できないところから見抜いていましたわ」
「はは……君には勝てなそうだ」
彼はカップを置くと、まっすぐに私を見た。
「どうだろう? 最初はお試し気分でもいい。俺の国に数日、滞在してみないか? もちろん、君の自由を尊重する。嫌になったらすぐに帰ってもいい」
その提案は、予想以上に魅力的だった。
私は長い紫髪を指で軽く払いながら、小さく息を吐いた。
(……このままここにいても、きっと妹と王太子の騒ぎが耳に入ってくるだろうし……)
私は静かに微笑んだ。
「では……お言葉に甘えて少しの間だけ、お邪魔させていただきますわ」
「本当か! 恩に着るぜ、アメティスト!」
私の両手をがっしりと握るディオ。
その瞬間、私はふと思った。
この人は――ただの明るい王太子ではないのかもしれない。
そして、私の新しい人生は、思ったより早く動き始めたようだった。
翌々日、私はディオと共にヴァレンティーノ王国の王宮に到着した。
馬車から降り立った瞬間、思わず目を細めた。
……予想はしていたが、なかなかに賑やかだ。
広大な中庭には荷馬車が無秩序に停められ、侍従たちが右往左往している。どこかから「王太子殿下がお戻りだ!」という叫び声が上がり、慌ただしい足音があちこちから聞こえてきた。
皆ディオに似て、豪快な楽天家に見える。もしかして、この王国の民は全員、ディオのような気質なのだろうか。
「ようこそ、俺の城へ!」
ディオは馬車から飛び降りると、豪快に両手を広げて笑った。
「見ての通り、ちょっと……いや、かなりごちゃごちゃしてるけど、気にしないでくれ」
「かなり、ではなく、相当ですね」
「ははっ、鋭いな。実は俺が三日ほど留守にしただけでこうなるんだ。頼むよ、アメティスト」
王宮の執務室に案内されると、そこはさらにひどい有様だった。
机の上には山積みの書類、床には落ちた羽ペン、壁には「至急!」と赤い字で書かれたメモが乱雑に貼られている。
ディオは両手を腰に当ててため息をついた。
「見ての通りだ。俺は『大まか』が信条でな。細かい調整は……正直、苦手なんだ」
私は厚い帳面の山を一瞥し、そっとため息を吐いた。
(……これは酷い、几帳面な私が放っておけないレベルですね)
「よろしければ、今日から――いえ、今から少し整理させていただきますわ」
「本当かい?」
「もちろんです。ただし、私のやり方で進めてもよろしいでしょうか?」
「もちろん! どんどん好きにやってくれ。俺は君を信じてるからな!」
ディオはにっこりと微笑むと、私の肩に軽く手を置いた。
「困ったことがあればすぐに言ってくれ。俺はいつでも君の味方だ」
(調子のいいことばかり……)
歯の浮くような台詞だと思ったが、そのまっすぐな眼差しに、少しだけ胸が温かくなった。
私は頷き、まずは机の上の書類を三つに分類し始めた。
約二時間後――。
執務室の様子は、見違えるように変わっていた。
緊急度の高い書類は右側に、確認が必要なものは中央に、保留で問題ないものは左側に。付箋で簡単な指示も書き加えてある。
そして彼が部屋に戻ってきた途端、目を丸くした。
「……マジか。これ、俺の机か?」
「まだ途中ですが、とりあえず優先順位は付けました。まずは右側の外交文書から目を通していただけますでしょうか?」
私は淡々と説明を続けた。
ディオは書類を手に取りながら、何度も感心したように頷いていた。
「すごいな……本当にすごい。見違えたよ……」
「ディオ様……」
「ディオだと言っただろう?」
彼は悪戯っぽく笑って近づき、私の長い紫髪を指でそっと払った。
「アメティスト。君がいてくれるだけで、この部屋の空気が違う。……本当に、ありがとう」
その眼差しはからかいを含みつつも、どこか熱を帯びていた。
私は軽く頰を赤らめながらも、平静を装った。
「まだ一日目ですわ。褒められるのは、もう少し成果を出してからにしてください」
「ははっ、君は本当に自分に厳しいな」
ディオは楽しげに笑った。
その時、執務室の扉が勢いよく開いた。
「殿下! 北部の件でまた……って、あれ?」
入ってきた大臣らしき男性が、綺麗に整理された部屋を見て固まった。
ディオは得意げに胸を張った。
「どうだ、俺の新しい補佐官は。最高だろう?」
私は心の中で小さく微笑んだ。
(……この国、思ったより居心地が良さそうですね)
そして、ふと思った。
ここに来て正解だったのかもしれない――と。
到着から五日が経った。
ヴァレンティーノの王宮は、私が想像していた以上に忙しかったが、不思議と心地よかった。
朝は書類の整理と外交使節の調整表、昼はディオと共に北部山岳地帯からの報告書を確認し、夕方には王宮内の宴会準備……。ここでは私の裁量が広く認められ、物事が驚くほどスムーズに進む。
「アメティスト、今日も完璧だったぜ」
この数日、私は彼を少し見直していた。
表面的には豪快で大雑把な王太子。だが、実際に一緒に仕事をしてわかったのは、彼の大雑把さは決断の速さと人を信じる強さから来ているということだった。
本日もそうだった。
北部からの緊急報告で「すぐに兵を派遣すべきか」という難しい判断を迫られたとき、ディオは即決で結論を出した。
「心配するな。マルコに指揮を取らせよう……もし、彼の力でも失敗するようなら、そこは彼を選んだ俺が責任取ろう」
マルコ・ロヴェーレ――北部山岳守備隊長。ディオが最も信頼を置く武人だということは、この数日で私も耳にしていた。
その言葉に、周辺の大臣たちが一瞬で納得した。彼はただ適当なのではなく、部下を深く信頼し、その背負う覚悟があるのだ。
(……他人の手柄を自分のものにしたがるラミ王太子やルビーとは、まるで違う)
その夜、王宮のバルコニーで海風に吹かれながら、私はディオの隣に立っていた。
私はそっと息を吐いた。
「ディオ様……いえ、ディオ」
「……ようやく呼び捨てしてくれたな」
ディオは嬉しそうに笑い、私の長い紫髪を優しく指で梳いた。
「君がいてくれて、本当に助かってる。この数日で、俺は確信したよ。君は俺の……いや、この国の宝だ」
碧い瞳が真っ直ぐに私を捉える。その眼差しには、からかいではなく、本気の熱が宿っていた。
私は頰が熱くなるのを感じながらも、視線を逸らさなかった。
「ディオは……本当にずるい人ですね。豪快に見えて、実はとても責任感が強い。部下からも慕われている理由が、ようやくわかりました」
「ははっ、ついに君に褒められたな」
ディオは照れくさそうに頭をかいたが、すぐに真顔に戻った。
「俺はな、細かいことは苦手だけど、君みたいな人がいてくれるなら、どんな困難も乗り越えられる気がする。……アメティスト、俺の隣にいてくれ。本気で、そう願ってる」
彼は私の手を両手で包み込んだ。大きくて温かい手。
その瞬間、私ははっきりと自覚した。
私とディオは、まるで正反対の性格だが相性がいい。
几帳面で慎重すぎる私が、時に決断を遅らせてしまうのに対し、行動力の塊であるディオの大胆さと迅速な判断がそれを後押ししてくれる。
逆に、ディオが細部を見落としがちなところを、私の持前の計画力からの緻密さと調整力でカバーする。
互いの短所と長所を補い合えるパートナーのようになれる。
それにこの人は、私の「どうぞご勝手に」という自由を、決して縛ろうとしない。
ディオが私をそっと抱き寄せた。
「疲れてないか?」
「少しだけ。でも……心地よい疲れです」
「そうか」
彼は私の肩に顎を乗せ、優しく囁いた。
「アメティスト。俺は君の笑顔が好きだ。ラミ王太子と君の妹に言ってやった晴れやかな顔も、今こうして少し照れている顔も……全部、好きだ」
私は小さく息を吐き、静かに微笑んだ。
「ディオ……私も、あなたの隣にいると、自然でいられる気がします」
その言葉を口にした瞬間、私の心は確かに傾いていた。
この明るく、強く、自由を愛する王太子に――
私は、静かに、でも確実に、惹かれ始めていた。
それからさらに二週間が経った。
ヴァレンティーノ王国での日々は、予想以上に充実していた。
私は王宮の事務全般を整理し、ディオは私の提案を大胆に実行する。互いの短所を補い合う関係は、日を追うごとに深まっていった。
朝は一緒に執務室で仕事をし、夜はバルコニーで海を眺めながら他愛もない会話を交わす。ディオは私の手を握り、時折「好きだ」とストレートに囁くようになった。
そんな穏やかな午後だった。
「アメティスト様! お客様が……」
侍女が慌てた様子で執務室に飛び込んできた。
「ロッシュ侯爵家のルビー様が、緊急で姉上にお会いしたいと……」
……ルビー?
私はため息を一つ吐き、ディオと顔を見合わせた。
「通してあげて」
ほどなくして、執務室の扉が開いた。
入ってきたルビーは、以前の可憐さとは打って変わって、目が落ちくぼみ、頰も少しこけていた。そして、いつも丁寧に整えられていた赤毛も今は乱れている。
「お姉様……!」
ルビーは私を見るなり、涙目で駆け寄ってきた。
「大変なのよ、お姉様! あの後、ラミ王太子殿下と結婚したけど……すべてがめちゃくちゃになってしまったの! 晩餐会の席次は大失敗、東方使節との交渉は決裂して、西部侯爵夫人と北方伯爵夫人を同席させたせいで貴族たちも不満だらけで……お願い! お姉様、戻ってきて! わたくしたちだけではどうにもならないの!」
私は静かに微笑んだ。
「申し訳ありません、ルビー。私はここにいますわ。ヴァレンティーノ王国で、新しい役目をいただいていますので」
ルビーの表情が一瞬歪んだが、すぐに笑顔を作った。
「そうよね……なんでも完璧だったお姉様には、わたくしがラミ王太子に選ばれたことが、よほど屈辱だったのでしょうね……」
「でもね、ディオ王太子殿下」
ルビーはディオの方を向いて、哀れみを誘う声で続けた。
「お姉様は昔から本当に冷たかったんですの。人の心などお構いなしに、淡々と仕事をこなすばかりで……周りの者を疲弊させるのがとても上手でしたわ。ですから、私が代わりに頑張ったんですけど……結局、姉の代わりにはなれませんでした。ラミ王太子も、あのお姉様の完璧主義に付き合わされて精神を病み、わたくしにすがるようになったのですよ……」
「ディオ王太子殿下も……いずれ、お姉様の細かくて息苦しい性格に振り回されて、お辛くなるのではないかと心配ですわ……」
ディオを気遣うような口調だが、実質私を貶める口撃のオンパレード。なんとも、見事なカバーアグレッション全開の嫌味満載だった。
しかし、ディオの反応は冷ややかだった。
彼はゆっくりと立ち上がり、私の肩に手を置いた。
「苦労だと? むしろ、彼女が来てから俺は助けられてばかりだ。こんないい加減な俺に付き合って苦労しているのは、どう考えても彼女の方だろう」
「それでも彼女は不満一つ見せず、いつも俺を支えてくれるんだ」
ルビーが息を飲む。
ディオの碧い瞳は、笑みを湛えながらも冷たかった。
「妹だろうが関係ない。彼女を侮辱するなら、今すぐここから去れ」
ルビーの顔が青ざめた。
私は静かに口を挟んだ。
「ルビー。あなたが欲しかったものは、手に入れたはずですわ。婚約者の座も、王太子妃の地位も。もう十分でしょう? それにあの時、こう言ったはずじゃないですか『お姉様の代わりは、僭越ながらわたくしが務めますわ』――と」
ルビーが何か言い返そうとした瞬間、私は穏やかだがはっきりとした声で言った。
「ルビー、これからは――どうぞご勝手に」
かつて婚約破棄の場で告げた台詞を、もう一度彼女に返した。
ルビーの顔が、完全に崩れた。
対するディオは、プクッと笑いを堪えるのに必死だった。
彼は私を後ろに庇うように立ち、私の腰に腕を回した。
ルビーは唇を震わせながら、結局何も言い返せずに退出していった。
部屋に静けさが戻った後、ディオは私を抱きしめ、耳元で優しく囁いた。
「よく言った。アメティスト」
私は彼の胸に顔を埋め、小さく笑った。
「ええ……これで、ようやく本当に終わったわ」
ここには、私を「代わり」などと思わない人がいる。
そして私は、もう二度と誰かに「どうぞご勝手に」と言うことはないだろう。
それから数ヶ月後。
本国ではルビーとラミ王太子の結婚生活が急速に破綻した。
引き継いだ役目はことごとく失敗し、貴族たちの不満は爆発。西部と北方の夫人同席事件、東方使節との決裂などで王太子の評判は地に落ちた。
一方、ヴァレンティーノ王国では――。
私は王宮の実務を着実に整え、ディオは大胆に国を動かしていく。
互いの短所を補い合う日々は今も続いていた。
「アメティスト」
執務中でも構わず名前を呼び、隣へ引き寄せてくるのは相変わらずだ。
「好きだ」
そんな真っ直ぐな言葉を、彼は今でも当たり前のように口にする。
最初は戸惑っていた私も、今ではその温かさを心地よく感じていた。
妹に婚約者も役目も奪われたあの日。
けれど、「どうぞご勝手に」と手放した結果、誰も私の代わりにはなれなかった。
そして今、私の隣には――私を“代わり”ではなく、一人の人間として大切にしてくれる人がいる。
こうして私は、ヴァレンティーノ王国で穏やかに幸せな日々を送っている。
めでたし、めでたし。