軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ビスケットは語る

「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」

そう自分が、シエラに告げることが出来たことに、デリクは満足していた。

それを聞くシエラの顔を見るのは辛かった。

この数年間、共に多くの時間を過ごしてきたのだ。

シエラにも、自分を息子のように指導してくれていた子爵にも、申し訳ない気持ちは勿論あった。

同席していたキールも、末っ子であった自分には実の弟のようで、可愛がっていたつもりだった。

けれど、これで終わったのだ。

幼い頃、兄達と、領地にある湖のそばで、よく水切り用の石を拾ったものだった。

今手にしている物よりも、もっと滑らかで、綺麗な形を求めて、拾っては捨て、拾っては捨てて、よりいい石を探し続けた。

そうして今、デリクは、美しく光る新しい石を手にしたのだ。

自分には、今まで以上に輝かしい未来が来るのだと、この時、そう信じていた。

王宮で開かれる煌びやかな夜会に、その日デリクは妻と共に赴いていた。

王宮の夜会が煌びやかなのは、文字通り、門から馬車留め、そしてホールへと、煌々とした灯りが幾重にも折り重なっているのである。

一晩中絶えることのないその光こそが、この国の力、豊かさを、眩いばかりに示しているのだった。

ホールの一角に、その眩さに負けぬほど、きらきらと、さざめく人の輪があった。

周囲より一際華やかな、その輪の中心にいるのは、一組の男女だった。

最近爵位を継いだばかりの、女子爵シエラ・オルコット、そしてその夫である、エリオス元第四王子殿下。

シエラはその鳶色の髪を美しく結いあげ、最近国内で流通が始まったばかりの、美しい真珠の櫛を飾っている。

ドレスの色は、本来であれば、伴侶の色を纏うのが通例であるが、王族主催の夜会であることに配慮したのだろう、春のような薄紅色だった。

薄衣を幾重にも重ねたスカートは、まるで薔薇の花びらのように美しい。

金の縁取りが朝露のように、スカートの動きに合わせて、きらきらと揺れている。

エリオスの装いは、灰色をメインにした落ち着いたもので、王族譲りの金色の瞳がよく映え、その整った容貌と長身を、一層引き立てるものになっていた。

二人は、会話の途中でも、お互いの顔を時折見遣りながら、楽しそうに周囲の人々と笑い合っている。

その賑わいは、最近のオルコット家の勢いを、そのまま映し出しているようだった。

オルコット家に降下した後、エリオスは新たに商会を立ち上げた。

その発展は目覚ましく、この短期間に、今や国で知らぬものが無いほどの存在にまでなっている。

オルコットは元々、豆や小麦の産地で知られていたが、そこに新しく、それらを加工した嗜好品を販売する商会を興したのだった。

その一つが、平民達それぞれの家庭で作られ、家族で食べられていた素朴なビスケットである。

それを販売するなど、平民達の生活には当たり前すぎて、誰も考えていないことだった。

オルコット家の領地は内陸に位置しているものの、交易船の出入りする商港に程近い。

港を有する隣家は子爵家で、オルコット家とも長年親交があった。

まずは、その港で働く、忙しい商家の従業員や、荷揚げ場の作業員達の軽食として、喜ばれたのだった。

初めは懐疑的だった者達も、保存もきいて、子供でもそのまま食べられる手軽さから、外で働く女性達や、使用人を雇う余裕のない家など、家庭の味を、家庭で用意するのが難しい者達を中心に、段々と広まっていった。

また富裕層や貴族向けにも、ビスケットに合わせた、季節の果物を使ったジャムや、贈答用に缶入りのセットなどが販売された。

政務の合間に口に入れるのにいいと、王太子が料理人に作らせている、という噂が呼び水となり、それと同じレシピが食べられるとあって、貴族達の口の端にも上るようになった。

貴族といえども、毎日バターをたっぷりと使ったお菓子を食べる訳ではない。

夕餐の前に、軽食代わりに、摘むのにも丁度いいのだった。

ある時デリクは、伯爵家の自分の執務室で、それに目を奪われた。

最近、話題になっているからと、紅茶に添えて供された、その素朴な菓子に。

昔、オルコット家の狭い居間で食べていた、シエラ手製のそれが。

今、目の前に、同じ姿で現れたのだった。

一緒に添えられたジャムは、伯爵家の料理人が作った、旬の果物を使った上品な味だった。

あの頃食べた、砂糖の甘さがガツンとくる、保存食らしい、甘ったるいジャムではなかった。

無性に、あの甘さが恋しいと思った。

もうあの空間に、あの時間に、自分はいないのだということが、急に胸に迫って来て。

取り返しのつかない何かが、自分の手からこぼれ落ちていたのだと、その時初めて分かったのだった。

エリオスが事業を、妻の手製のビスケットから思い付いた、という逸話は、今や社交界で知らない者はいない。

急な事業成長にも、やっかみや批判の声が少ないのは、周辺の貴族家を巻き込む形で盛り上がっている事が大きい。

流通を担っているオーランド子爵家、缶の製造を一手に引き受けているブラウニング伯爵家、ジャムの元となる珍しい果実はウィルソン子爵家が提供している。

いずれもオルコット家と付き合いがあった家々だが、次代の当主やその夫人達が、シエラと学生時代に知り合い、今では、それぞれに家を盛り上げる同志なのである。

エリオスだけの手腕ではない、そこにはシエラの実直な人柄があってこその成功なのだった。

ビスケットの逸話と共に、エリオス自らそう語る姿は、妻を立て、支える夫の姿そのもので。

シエラの事を、婚約を破棄された可哀想な令嬢だと、そう思う者はもういない。

そこに在るのは、国の次代にと期待され、信頼する伴侶と微笑みあう、幸福な若い夫婦の姿だった。

そんな次代の若者達の華やかな輪に向かって、数名の者が歩み寄っていく。

その一際眩しい輝きは、若き王太子夫妻と、第二王子殿下である。

第二王子の妻である、隣国から嫁いだ姫君は、御子を宿している為不在であった。

その側には、シエラの弟である、今や頭角目覚ましい、若き王宮官吏であるキールの姿もあった。

王太子が、母の違う弟達を可愛がっていたのは有名な話である。

今日の夜会の主役であった妹姫の披露目に、兄弟達が久しぶりに顔を揃えたのだろう、嬉しそうに言葉を交わしている。

籍を抜けてもなお、眩しさを増し続けているエリオスと、いずれ王となる兄達との関係を見れば、オルコットが陞爵する日も遠くないだろう。

オルコットの未来が一層輝かしいものになることは、誰の目にも明らかだった。

そんな彼らを、デリクは一人、会場の隅で眺めていた。

妻である伯爵夫人は、着いて早々社交の為に、女性達の輪に混ざりに行って、まだ戻って来ていない。

学生時代の知人達はいるが、今はもうほとんど付き合いがなく、話しかけることも、かけられることも無くなってしまった。

デリクは、シエラとの婚約を破棄した後、三つ年下の伯爵令嬢の婚約者となった。

金髪が華やかな彼女は、年上のデリクにも物怖じせず、意見も我儘もはっきりと言う令嬢で、それがデリクには新鮮だった。

明確に向けられる好意も、デリクには初めてのことで、簡単に舞い上がってしまったのだった。

その好意に答えられるのは自分しかいないと、いつしか、そんな風にさえ思うようになっていた。

学院を卒業後は、すぐ伯爵家に入り、いずれ当主となる彼女を補佐する為に学び始めた。

結婚は、彼女が卒業後の予定であったが、伯爵家に入る者として、少しでも早く学び始める必要があったのだった。

デリクの学院での成績は優秀であった。

同世代の友人達の中で、その中心となって研究や課題にあたり、それは学院の教師達も認める所であったし、義父となる予定だったオルコット子爵からも、十分にその働きを認められていた。

今の自分には、伯爵家として足りない所がまだまだあるとしても、伴侶となる彼女と二人、共に助け合い、成長していける、とデリクは思っていた。

かつて子爵家で、シエラとそうしていたように。

そこにお互いの想いがあれば、もっと強い関係を築けるだろうとも。

いずれ伯爵位を継ぐ彼女を支え、その隣で立派に、伯爵家の婿として立つ自分の姿を。

デリクは胸の裡で、思い描いていたのだった。

しかしそうはならなかったのである。

まず、伯爵家と子爵家では、扱う事業も、人の数も、領地の広さも違った。

デリクが学び、優秀さを認められていたそれとは、求められるものが違ったのである。

そして伯爵令嬢である彼女とも、それは違っていたのだった。

当主であり伯爵夫人となる彼女にとって、その時間の多くを占めるのは社交であった。

子爵家とは違い、主催する茶会や夜会の規模も大きく、女主人として、彼女が担う仕事はいくらでもある。

とても、婿となるデリクの仕事を、共に担う余裕などないのだ。

学生時代の友人達を頼ることも出来そうになかった。

デリクの友人の多くは子爵家の者達で、その交友関係や事業に、伯爵家とは重なるものがなかったのである。

家格が上の者達とは、学院を卒業してしまった今となっては、新しく友誼を結ぶ機会自体がないのだった。

今のデリクは、一日の大半を、自分の白く豪奢な執務室で、補佐官に助けられながら執務をこなし過ごしている。

妻となった彼女は、伯爵位を継いだ事もあり、社交で家を空けることが多く、共に何かに取り組む事もない。

貴重なリグラン織を壁紙にした、白く広い部屋で、子爵家では考えられなかった価値の調度品に囲まれ、今日も一人、茶の時間を過ごす。

実家であるホーバー家からは時々、内情が苦しい旨の手紙が来る。

けれど、入婿であるデリクには、自由に出来るものが殆どないのだった。

自然と筆が重くなり、返信は滞りがちだった。

疲れた身体を包み込むソファは最高級品で、見上げた天井の装飾は、贅を凝らして美しい。

けれど何故か、あの頃よりもずっと上質なはずの紅茶と菓子が。

オルコット家で食べたあのビスケットよりも、味気なく、感じられるのだった。

未来の王を中心に、華やかな笑い声が上がる。

まだ妻が戻って来る気配はない。

キールは卒業までの四年間、学院で首席を取り続け、卒業後の官吏試験に一発で合格した。

子爵家からの登用は数十年ぶりだそうだ。

出仕してから、この僅かな間で既に、義兄という後ろ盾を抜きにして、キール自身が評価され始めている。

姉と同じ実直さと、時に清濁合わせ呑む柔軟さが、第二王子の気に入りだと専らの評判だった。

シエラが嬉しげにキールに微笑みかけている。

見る者の心が温かくなるような、優しく、美しい笑みだった。

あの頃、シエラがデリクに向けていたのも、こんな笑みだったのかもしれない。

キールが姉を見る灰色の瞳にも、隠しきれない喜色が滲んでいる。

あの日、婚約破棄の場で、彼はどんな目をしていたのだったろうか。

そんな二人に寄り添う金色の瞳が、

「自慢の 義弟(おとうと) なんだ」

エリオスが、こちらに声が聞こえなくても、そう言っているのが分かった。

嗚呼、その言葉は。

(自分のものだったかもしれないのに)