軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

キール・オルコットは語る

「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」

その時キールが見ていたのは姉だった。

婚約者からその言葉を告げられた姉の、自分と姉の目の色と同じ、くすんだ灰色のドレスの肩先が微かに震えるのを、キールは見ていた。

言葉が人を、切り裂くことがあるのだと、あの日キールは知ったのだ。

結婚式まであと半年の、薄寒い冬の日のことだった。

残すところ卒業式典だけとなったこの時期に、学院に登校してくる生徒はほとんどいない。

午前中の、まだ早い時間ともなれば尚更だ。

人の気配のない、朝だけのしんとした校舎の空気がキールは好きだった。

日に一度は家族揃って食事がしたいという、当主である父の意向に合わせ、生徒会のない日は自習もそこそこに、夜の正餐前には屋敷に戻っている必要があった。

貴族としては少し人が良すぎるきらいがあるが、母を亡くしてから後妻も迎えず、忙しい中でも自分達を気にかける父に、思春期真っ只中であるキールも、年相応の面倒臭さは感じこそすれ、自分の時間にうまく折り合いをつけて食卓を囲む位には、家族を大切に思っている。

だから朝は少し早く登校し、誰もいない生徒会室を独り占めして自習するのが習慣になっていた。

子爵家のキールが、学院の生徒会に入れたのは幸運だった。

入学試験での結果が認められたとは言え、第四王子殿下が在籍する期間と重なったこともあり、高位貴族からの選出者が多かったからだ。

生徒会長でもある第四王子エリオス殿下は、キールの姉であるシエラと同じ四年生、あと一月で卒業を迎える。

生徒会長は現在書記を務める三年生の公爵令息が引き継ぎ、二年生に進級するキールがその後任として書記を務めることになっている。

今のキールは、一年前、学園に入学する以前には考えられなかった環境の中にいる。

姉が継ぐことが決まっている子爵家の子息であるキールにとって、高位貴族など、ほとんど関わったことのない存在だった。

そしてむしろ嫌悪していたと言ってもいい。

上辺ばかり取り澄ました、礼儀と建前ばかりの、あの貴族らしさが鼻持ちならないと。

同じ子爵位の令息達との、平民のような、感情的で繕わない関係こそが人間らしいと思っていた。

けれど生徒会に入り、本当の貴族とは何かを知ったのだ。

エリオス殿下を筆頭に、生徒会の役員達のほとんどが、名門と言われる家の者達ばかりだった。

高位貴族の中でもさらに毛並みのいい、格式の高い家柄の者達で、皆、優秀であることが当たり前の世界で生きているのだった。

キールの思っていた、体裁と礼儀ばかりを取り繕った高位貴族達とは格が違った。

彼らは愚痴も噂も口にしない。

その時間があれば、もっと話すべき議題や課題があり、互いの時間が、貴重な、有限のものであると知っているからだ。

期末考査と生徒会の仕事が重なり、目が回りそうな最中さなかでも、皆淡々と、貴族らしい笑みさえ浮かべ、業務を回している。

その環境が自分にとって存外、楽しいことも知れたのだった。

だから卒業後には、高位貴族の出身者が多くを占める、王宮官吏を目指したいと思ったのだ。

官吏の採用枠は限られており、高位貴族でも登用試験を受けることすら難しい。

けれど学院での四年間、優秀な成績を納めれば、学院からの推薦枠を得ることが出来る。

幸い今年は主席の成績を納めることが出来た。

自分より数段優秀な者達に囲まれて、この一年、がむしゃらに奮起した結果だ。

自分の力で、自分の道を切り拓いていける、その実感がすぐそばまで来ていたのに。

目の前の机の上に重なった紙束の、一番上の書類を手に取る。

教師達から集まった、来月の卒業式典で表彰される予定の、成績優秀者達の名簿である。

生徒会が学院の代理人として、成績、家柄、素行等を元に、受賞者を選考する慣わしなのだ。

今日は午後からその打ち合わせの予定になっている。

デリク・ホーバー子爵令息。

乗馬科目の実技優秀者だ。

いつも姉が、自分の婚約者は勉強だけでなく、乗馬も上手いのだと、嬉しそうに話していた。

姉は学院の成績自体は決して悪くはないが、子爵家当主としては幾分物足りないことを、早くから父も本人も分かっていた。

だから婚約者にはその補佐が出来る者を探し、学生の内から足りない所を補い合えるようにと、そうして選ばれたのがホーバー子爵家の三男であるデリクであった。

気の優しい姉が、本当は当主になど、なりたくないと思っていたことも知っている。

けれど、いつからだろう、長子としての責任から逃げ出さないだけの強さと覚悟が、あの華奢な姉の中で静かに育っていたのだと思う。

家族も驚く程根気強く、当主教育に向き合う真面目な姉の姿は、キールにも、自分の将来を描く切っ掛けを与えた。

いつか姉が子爵家当主となる頃には、キールの選んだ道が助けになれればいいと、そんな風に思っていた。

事業発展が目覚ましい家もあれど、子爵家の内情はどこも似たようなものである。

だから自分で身を立てる必要がある子爵家の三男であるデリクも、自分がシエラの補佐であることを早くから理解し、決して出過ぎるような事はしなかったように思う。

数代前に降嫁した伯爵家の姫君かららしい、子爵位では珍しい、美しい青い目を柔らかく細めて、シエラによく笑いかけていた。

お互いに恋情はなかったようだが、シエラはデリクを頼りにしていたし、決して短くはない時間を二人、積み重ねてきたのだ。

屋敷の図書室で、似たような鳶色の髪の二人が並んで、父からの課題に取り組む姿など、髪色の違うキールよりも余程、仲の良い兄妹に見えたくらいだった。

だからあの冬の日、いつもと同じように当主教育の為に我が家に訪れたデリクと、いつものように身内用の居間で気安いお茶を囲んで。

あと数ヶ月で卒業を迎える二人の、卒業式典の後のパーティーで着る礼装の色について話していた。

シエラはデリクの瞳の色である、青のドレスを着られることを喜んでいた。

自分は地味な色合いだからと。

初めて見る硬い表情のデリクが、婚約の破棄を口にした時、キールは姉を見ていた。

つい数瞬前までの笑みが抜け落ち、微かに肩が震える以外微動だにもせず、たった今「元」婚約者になった男を見つめる姉を。

後日の話し合いにはキールは参加しなかったが、冬の最後の寒波がようやく過ぎる頃にはもう、義兄になるはずだった男は、ただの他人になっていた。

ホーバー子爵家は、契約書通りの賠償金を支払い、デリクはキールと同学年の伯爵令嬢の婚約者になっていた。

乗馬の課外授業で、教師の補佐を務めたのが馴れ初めらしいと、学院の噂で知った。

どうやら姉の贔屓目ではなく、本当に乗馬の腕は良かったらしい。

手の中の紙を握る指に、力が籠りそうになるのを必死に耐える。

昨日の夜、父の部屋の前で聞いたのだ。

デリクに婚約破棄を告げられた時には、最後まで泣かなかった姉が。

その姉が、泣きながら父に縋っている。

当然思い至るべきだったのだ。

自分の回り始めた人生が順調で、浮かれていたのだと思う。

「お父様お願いします、どうか。どうか、キールに夢を諦めさせないで」

当然考えるべきだった。

子爵家には自分がいるのだ。

学院に入り、頭角を表してきた、学年主席の優秀な自分が。

一人では当主不適格とされた長子が、その役目を優秀な弟妹に譲る。

そして婚約破棄された令嬢は、どこかの後妻か修道院に収まる。

貴族の家では珍しくもない、ありふれた顛末である。

姉のこの数年間が全て無駄になるのだ。

あんな男の、たった一言で。

姉は決して、デリクに恋てはいなかったが、間違いなく「二人の」未来を描いていたのだ。

不器用に、実直に、次期当主らしくあろうとしてきた姉の矜持が、踏み躙られた事が悔しかった。

殴ってやればよかったと、心の底から思う。

あの言葉で切り裂かれたのは、姉の覚悟、努力、人生そのもの。

そして今やそれは、キールの人生をも切り裂こうとしている。

母が死んだ時も、自分の前では涙を堪えていた姉の泣き声がする。

キールの将来が失われることに、自分がキールの将来を潰してしまうことに、泣いている。

そんな重荷まで姉に背負わせないとならないのか。

キールの人生の悲哀まで、その肩に背負わせるのか。

けれど、この一年で広がったキールの世界が冷静に告げる。

これだって、ありふれた一つの悲劇に過ぎないのだと。

以前のキールがくだらないと思っていた貴族としての対面や矜持、伝統、しきたり。

けれど誰かが、それを投げ出さずに繋いできたからこその結果が今なのだ。

自分や姉、デリクだって、そんな風に繋がれてきた糸の先にいるのだ。

個人の痛みや感情を優先させる方が、人間らしいかも知れない。

それでもそれは、キールの矜持が許さない。

それは姉の積み上げてきた人生をも、侮辱することだ。

けれど、いつか、この顛末の全てを、自分も姉のせいにしてしまうかも知れない。

このどこにもぶつけられない感情が、悲しみが、悔しさが、無力感が。

叫びたいものは何なのか、キールにももう、分からなかった。

そのデリクが、成績優秀者に選ばれるかもしれない。

卒業式典という晴れの舞台で、新たな婚約者が見守る前で、主賓である王家から栄誉を戴くなど、同じ日に卒業する姉が、あまりに惨めではないか。

今なら、と思う。

このまま、デリクの名簿を破り捨てて仕舞えばいい。

教師達はそれぞれの担当科目ごとの成績しか把握していないので、気付かれることはない。

胸の内を暴れ回る感情が、紙を握りしめる手の感触を曖昧にしている。

こんなことをしても、婚約破棄がなかったことになる訳ではない。

あの日の、姉のドレスの色のように翳った未来を、変えられはしない。

けれど、じゃあ、この悔しさは、どこに向かえばいいのか。

「おはよう、キール」

扉が開いたことに、気付かなかった。

エリオス殿下がいつもと同じ様子で、生徒会室に入ってくる。

「…おはようございます、殿下」

掠れた声に、驚きと後めたさが滲んだ気がした。

いつも真っ直ぐに向かう会長席ではなく、キールが立つ、会議机の側に来る。

視線が僅かに、キールの持つ書類へと移った。

「流石、準備がいいな」

聡い方だ、きっとキールの表情から、全て分かっているに違いない。

握り締めていたせいで強張る手のひらから、エリオスが書類をそっと抜き取る。

握り締めていた部分に、隠せない程の醜い皺が寄っていた。

その皺を、王族にしては、乾いた荒れた手が静かに伸ばしている。

書類仕事が続くと手が荒れるわね、なんて、姉のそんな言葉が思い出されてきて、胸が詰まりそうだ。

「…申し訳ありません」

「彼は姉君の 元(・) ・婚約者だったね」

元、と強調された響きに、何故か、場違いにも笑い出してしまいそうだった。

間も無く十六歳になるキールには、当主教育は早ければ早いほどいい。

今日の、この姿を見られたのがエリオスだというのも運命だろう。

諦めるのだって、早ければ早い方がいい。

「君は踏みとどまった。それが大事だと私は思うけれど」

そうだろうか、もう少しエリオスが遅ければ、自分は、破り捨てていたのではないかと思うのだ。

それに、そうしたいと思った自分がいたことを、キール自身が知っている。

「キール、多少書類が皺になったことくらい、大したことではないさ。君はまだ、何もしていない」

自棄になりかけているキールを見透かすような目は、金色の光、この国の王族である証だ。

「キールの曇りが晴れないなら、一つ提案をしよう」

空気を変えるように声の調子が変化して、金色の瞳に、面白がるような光が宿る。

意見のまとまらない会議中、気詰まりな空気を変えてくれたのはいつも、エリオスのこの声だった。

「君は私に借りができた、そういうことだね?」

悪いことをしようとした瞬間を見咎められたのだから、まぁ、そう言えなくもない。

「早速で申し訳ないが事情があってね、その借りを返してもらいたい」

さっきまでの自分の悲壮な覚悟が何処か、雲行きが変わったことだけはキールにも分かった。

「この度、我が兄である王太子殿下の成婚に伴って、第二王子に隣国の姫君の輿入れが決まった」

「それは、おめでとうございます」

王太子殿下のお相手は、我が国でも歴史のある、古式ゆかしい公爵家の姫君だ。

兄王の補佐をすることが決まっている第二王子のお相手に、隣国の血を入れるのは、内外のバランスを取る為だろう。

また、外交に力を入れている第二王子殿下にとっても、良き伴侶になるだろう。

「そして君も知っての通り、正妃殿下が御懐妊なさった」

つい先日発表になったばかりの慶事である。

子が産まれれば、王太子殿下、第二王子殿下に続く三人目の正妃様のお子になられる。

第三王子殿下、そして第四王子であるエリオス殿下は側妃様のお子だ。

「幸い兄弟仲は悪くないが、要らぬ火種を燻らせておくこともない、と言うのが、同腹の兄上と私の共通認識なんだ」

幼馴染でもある王太子ご夫妻は、成婚前からすでに劇に歌にと歌われるほど仲睦まじい事で評判だ。

早晩、すぐに次代の子も生まれるだろう。

「だから引き取ってくれる家を探していてね」

「…恐れながら殿下、我が家は子爵家なのですが、」

エリオスの言葉が意味するところは理解したものの、思っていた以上に…大きな話では無いだろうか。

けれど、その提案内容は、今のキールに、子爵家にとっては。

感情が暴れ出しそうで、声が震えそうになるのを必死で抑える。

「あまり家格の高い家は望ましくないから問題にはならない。それに、君の姉上なら上手くやっていけそうだ」

家族に君がついてくるというのも悪くない。

なんて、冗談なのかわからない一言を添えてくる。

短い付き合いで、これが冗談では無いとわかるからこそ、眩暈がしそうだ。

エリオスを含む生徒会の者達は皆、滅多に冗談は言わない。

周囲に齎す自分の発言力を理解しているからだ。

全て終わるのだと、さっきまでそう思っていたのに。

姉のこれまでの時間も、キールのこれからの未来も、全て。

けれど、あの日の姉の姿が忘れられない。

冬そのもののようなあの灰色が。

「一つ、条件があります」

こうしてキールに話をした以上、これはもうほぼ決定事項だろう。

でも、せめて。

同じ学舎で学んだ学生という誼で、今だけの、この場所でしか許されない事を言っておきたい。

「姉がいいと、言えば」

「それは大事だね」

キールとしては、思い切って告げた一言だったが、真剣な顔でエリオスが向首する。

「どうしたって最後は王命になってしまうから、その前にせめて誠意を見せるよ」

とにこやかに、何でも無いことの様に言う。

事実、後日シエラに、非公式の席を設けてくれたのだった。

断っても、キールの将来に傷はつけないと、一番姉が気にしそうな事にまで手を回して。

そこまでしてくれる相手に、あの真面目な姉が心動かされない訳がない。

まして相手は、そんじょそこらの高位貴族とは訳が違うのだ。

どう言ったやりとりがあったのかは知らないが、その後、エリオスに手を取られて家族の前に顔を見せた姉は、涙の残る赤い目で、それでも晴れやかに笑っていたのだった。

断るという選択肢は元よりないが、思っていたよりずっと、優しい、思いもよらぬ顛末になりそうだった。

二年次にはすでに生徒会長を務めていたというエリオスは、それでも優秀な兄達には劣るというのは本人談で、流石の手腕で、姉の苦手分野のフォローや子爵位の教育、来年に控えた結婚準備を軽やかにこなしながら、キールの官吏試験の勉強もよく見てくれる。

「あのままだと、君という、国にとって有益な人材を失いかねなかったからね」

存分に打算を含む申し出だったのだと、我が家の狭い居間で、高級とは言い難い茶を飲みながら、向かい合っているのにはまだ慣れない。

王族として見過ごせなかったというのは建前なのか、本音なのか。

姉は今日は、エリオスに贈られたという淡い黄色のドレスを着て、伯母のところで淑女教育のおさらいをするのだそうだ。当主教育と学院の勉強で手が回らなかった部分を、ようやく見直す余裕が出来たのだ。

淡い黄色は、春の暖かな日差しの下で笑う、姉の鳶色の髪に意外なほどよく似合っていた。

実家という自分のテリトリーにいる事を幸いに、あの時本当は、もう一つ言いたかったことを言ってみる。

「姉を泣かせたら殴ってもいいですか」

「いいよ」

相変わらずの即答ぶりに、勢いが削がれる。

こちらの間抜けな顔が可笑しかったのか、声をあげて笑われる。

王族って、声出して笑うのか。

「それこそ、本当の兄弟っぽいじゃないか。憧れていたんだ」

兄弟とはいえ、一国の王子同士で、顔を殴り合う訳にはいかないだろう?

と、楽しそうに、何とも返答しにくい冗談を言ってくるエリオスは、今やすっかり 義兄(あに) の顔である。