軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話 止まったのは私ではなく、殿下が開けた穴のほうです

王宮からの急使は、思っていたより若かった。

まだ二十代の半ばほどだろう。

上等な制服の襟元はきっちり整っていたけれど、額にはうっすら汗が浮かび、白手袋の指先は落ち着きなく震えている。

夜明け直後に叩き起こされ、結界院から王太子府をたらい回しにされ、そのまま私のもとへ走らされたのかもしれない。

少し気の毒だと思った。

でも、その気の毒さと保証停止は別の話だ。

「セシリア様!

至急、王宮へお戻りください!」

応接間へ通されるなり、彼はほとんど悲鳴のような声を上げた。

「結界院への高純度魔石の搬入が止まりました!

王太子府名義の保証印では通らないと!

このままでは本日の定期補修に間に合わないと申しておりまして……!」

私は朝食の席で、まだ半分ほど残っていた紅茶を置いた。

バターの薄い香りがする焼きたてのパンも、今はあまり味がしない。

でも、こういう朝こそ平常通りに食べるべきだと前世の私は学んでいる。

空腹のまま断罪されるのは、思い出しても気分が悪かった。

「そうでしょうね」

私はできるだけ穏やかに答えた。

「私の私印で保証しておりましたから」

「で、ですが!

結界院では今朝の便で届く前提で作業班を組んでおります!

王都外縁の東区画は、今日の補修を一度逃すと次の魔力潮流に間に合わない可能性が……!」

「でしたら、王太子府から現金でお支払いください」

若い急使の口が、ぽかんと開いた。

その反応が少しだけ可哀想で、でも同時に、今まであちら側がどれほど《《当たり前》》に私の保証を使っていたのかもよく分かった。

「げ、現金……ですか」

「ええ」

私は頷く。

「王都結界の定期補修は重要ですもの。

現金前払いなら、今からでも商会は動くと思います」

「ですが、王太子府の裁量金は……」

そこで彼は、自分で言葉を止めた。

ようやく気づいたらしい。

何が止まったのかを。

「裁量金は、もう使い切っていらっしゃるのですね」

私が静かに補うと、急使は顔を真っ青にした。

正直で助かる。

こういう場面では、嘘をつく人間より、状況を飲み込めずに青ざめる人間のほうが話が早い。

「私はもう婚約者ではありませんので」

私は言った。

「王太子府の不足分を私費で補填する義理はございません」

若い急使は、何かを言い返しかけて、結局何も言えなかった。

言える立場ではないのだろう。

彼はただの伝令で、今この場で金額をどうにかできる人間ではない。

「……お伝え、いたします」

その言葉だけをどうにか絞り出し、彼はふらつくように立ち上がった。

私は最後まで丁寧に見送った。

気の毒だけれど、こればかりは仕方がない。

最初に悲鳴を上げるのは結界院だと分かっていた。

それでも止めたのだから、私はちゃんと今朝を望んでいたのだ。

急使が帰ったあと、マリーが無言で私のカップへ新しい紅茶を注いだ。

香りは落ち着くのに、味はやはり少し苦く感じる。

「あと二人は来ますね」

彼女が小さく言う。

「ええ」

私は答えた。

「会計と施療院。

たぶんその順番よ」

予想は半分ほど当たった。

次に来たのは会計係ではなく、王宮会計局の文官だった。

その次が施療院ではなく、慈善事業監理局の事務官だった。

でも、どちらも言うことは大差ない。

支払いが止まった。

数字が合わない。

前月の仮払が処理できない。

今月分へ飛ばすはずの赤字に穴が空いた。

寄付名目の宴席費が宙に浮いた。

誰もが青い顔をしていて、私を見る目だけが不思議そうだった。

なぜこんなことに、という顔だ。

逆だと思う。

なぜ《《今まで表へ出なかったのか》》と考えるべきなのに。

「申し訳ありません」

私は全員へ同じように答えた。

「婚約者としての私的保証は昨夜をもって終了しております。

正規の支払い手続きへお戻しください」

会計局の文官は、途中から汗を拭くのもやめていた。

慈善事業監理局の事務官は、寄付先一覧を握りしめたまま今にも泣きそうだった。

それでも私は、もう助け舟を出さない。

出してしまえば、すべてが元に戻る。

私はまた便利な婚約者へ戻される。

そして前世と同じように、最後に全部の泥を被るのだ。

だから、ここで止める。

私が止まるのではない。

ずっと先送りされてきた数字が、ようやく止まるだけだ。

昼前、私は少しだけ休もうと自室へ戻った。

と言っても、本を開いていたのはほんの半刻ほどだ。

どうにも文字が頭へ入らない。

ページの上を目だけが滑って、意味が残らない。

やはり多少は緊張しているらしい。

前世と違う結末へ向かっていると、自分でも分かっているのだろう。

「お嬢様」

そこへ、控えめなノックのあとにマリーが入ってきた。

でも彼女の顔は控えめではなかった。

諦めたような、呆れたような、どちらともつかない顔をしている。

「今度は何が来たの」

「何、というより……ご本人です」

誰かは聞かなくても分かった。

ここまで来たなら、もう伝令では済まない。

本人が来るしかないのだから。

「応接間へ?」

「はい」

「お茶は」

「お出ししました」

「さすがね」

私は本を閉じた。

膝の上に置いていた薄い毛布を丁寧に整えて立ち上がる。

鏡の前で髪をひと撫でし、顔色を確認した。

青ざめてはいない。

泣いた痕もない。

前世のこの時間の私より、ずっとましな顔をしている。

応接間の扉を開けた途端、アルノルト殿下が振り向いた。

昨日までの余裕を綺麗に失った顔だった。

髪は乱れ、襟元はずれ、目は血走っている。

徹夜かもしれない。

あるいは、朝から怒鳴り続けていたのかもしれない。

「セシリア!」

怒声が飛ぶ。

でも、その怒りは昨夜のような王太子の威厳から来るものではなく、追い詰められた人間の焦りから来るものだった。

「何をした!」

「何もしておりません」

私は対面へ座り、静かに答えた。

「婚約を解消し、私名義の保証と立て替えをやめただけです」

「それで結界院が止まっているんだぞ!」

「止まっているのは《《私》》ではありません」

私は言葉を切らずに続けた。

「殿下が開けた穴が、見えるようになっただけです」

殿下がテーブルを叩いた。

カップがわずかに鳴る。

乱暴な人ではなかったはずなのに、こういう場面で品性はあっさり剥がれるらしい。

「ふざけるな!

お前がいなくなった途端、会計も結界も回らなくなったんだ!」

「でしたら、それだけ私が必要だったということでしょう」

「なら戻れ!」

あまりにも反射的で、私はむしろ少し感心した。

婚約破棄した相手へ、ここまでためらいなく《《戻れ》》と言えるのは、ある意味で才能だと思う。

しかも本人は、それを当然の命令だと信じて疑っていない顔をしている。

「婚約を切り捨てた相手へ、最初にかける言葉がそれですか」

私がそう返すと、殿下は一瞬だけ言葉に詰まった。

けれど、謝罪ではなく苛立ちが先に来るあたり、やはりそういう人なのだろう。

「……お前も国のことを考えろ!」

「考えております」

私は机の脇に置いていた薄い帳面を一冊、そっと差し出した。

「ですから、こうして残してまいりました」

殿下が警戒するようにそれを掴み、開く。

最初の二頁は、彼が昨日ミレイアへ贈っていた首飾りの購入記録だった。

出所は、結界補修費の余剰一時振替。

もちろん余剰などではない。

不足する未来が分かっている金を、一時的に抜いただけだ。

その次の頁には、慈善施療院名目で処理された宴席費。

さらに次には、王太子府の裁量金不足を埋めるため、私の私印で通した仮保証。

いずれも抜粋にすぎない。

でも、殿下の顔色が変わるには十分だった。

「なぜ……」

彼の声が掠れる。

「なぜ、こんなものを……」

「私が支払っていたからです」

私は答える。

「少なくとも、不足分の一部は」

殿下の指が震えた。

そこでようやく、あの人は《《自分で使った金の尻を誰が拭っていたか》》を具体的に考え始めたらしい。

「返せ」

「はい?」

「その帳面をだ!」

殿下は一歩踏み出した。

目の底に浮かんでいるのは怒りより恐怖に近い。

私が見たかったのは、たぶんこの顔だった。

「監査が入れば、俺は……」

「もう入っています」

私は静かに告げた。

「昨夜、老執事へお渡しした封箱には、抜粋ではなく全帳簿を入れてございます。

今ごろは陛下と監査卿殿下がご覧になっている頃でしょう」

殿下の顔から血の気が引いた。

昨日の夜会で封箱を渡したとき、もっと深く考えていれば止められたのかもしれない。

でも彼は私を《《婚約破棄された令嬢の虚勢》》としか見なかった。

だから遅れた。

その遅れは、こういう場面では致命的だ。

「お前……!」

「私は国を止めていません」

怒鳴り返される前に、私は言った。

「殿下の浪費を、私費で隠すのをやめただけです」

そこで、応接間の扉が叩かれた。

一度だけ。

妙に静かな音だった。

「王命です」

扉の向こうから、平坦な声が届く。

「セシリア嬢、アルノルト王太子殿下。

ただちにご登城ください」

聞き覚えのある声だった。

私は立ち上がる。

扉が開く。

そこに立っていたのは監査卿付きの側近と、そして、その少し後ろにいる灰色の瞳の男だった。

ユリウス王弟殿下。

昨夜の夜会では広間の端からこちらを見ていた人が、今は王命を携えて立っている。

その瞳は冷たいというより、ひどく静かだった。

でも、その静けさが一番逃げ道のない種類のものだと私は知っている。

「陛下がお待ちです」

ユリウス殿下は、それだけ言った。

たった一言なのに、応接間の空気がそこで完全に変わった。

アルノルト殿下が、初めてはっきりと怯えた顔をする。

私はそんな彼を見て、ほんの少しだけ思う。

前世では、この場で震えていたのは私のほうだったのだと。

でも今は違う。

封箱は届いた。

数字は読まれた。

そして、数字を読める男がここに来た。

私は手袋の皺を整え、静かに一礼した。

「承知いたしました」

さあ、次は謁見の間だ。

ここから先は、もう帳簿の勝負になる。