作品タイトル不明
第4話 たまたまだ
目を覚ましたら、知らない天井だった——というのは嘘で、見慣れた辺境神殿の天井だった。
ただし、私はなぜか寝台の上にいた。服も替えていないし、靴だけ脱がされている。窓から差し込む光の角度からして、朝というよりは昼に近い。
最後の記憶が曖昧だった。夕食の支度をしようとして、厨房で立ちくらみがして——。
「あ、起きた」
枕元にルーシェがいた。寝台の端に座って、足をぶらぶらさせている。
「おはよ。いや、もうお昼だけど」
「私、どのくらい——」
「昨日の夕方からだから、まるまる一晩かな。倒れたんだよ、厨房で。鍋持ったまま」
鍋。そうだ、スープを作ろうとしていた。黒パンだけの夕食が続いていたから、根菜をもらったのを使おうと思って——。
「鍋は大丈夫でしたか」
「フラウが心配するのそっち?」
ルーシェが呆れた顔をした。神様に呆れられている。
身体を起こそうとして、腕に力が入らないことに気づいた。根源浄化の消耗がまだ残っていたのだ。辺境に来てからの十日間、休みらしい休みも取っていなかった。いや、王都時代の疲れがもっと前から溜まっていたのかもしれない。
枕元の小さな卓に、何かが載っている。
白い花が一輪、湯呑みに挿してある。名前は知らない。辺境に自生する花だろうか。青みがかった白で、少しだけ甘い匂いがする。
その隣に、蓋をされた椀。持ち上げると、まだ温かかった。中身はスープだ。根菜と、少しの塩肉。私が昨日作ろうとしていたものに近い。
「これ……」
「ディートリヒが作ったよ。朝も、今のも」
ルーシェが足をぶらぶらさせたまま、何でもないことのように言った。
「あと、ディートリヒ、昨日からずっとここにいたよ。椅子持ち込んで。朝になってやっと出ていった」
床を見た。
寝台の横に、椅子の脚の跡がある。石の床にうっすら擦り傷がついている。引きずって持ち込んだのだろう。あの食堂の、背もたれが欠けていない方の椅子だ。
「……一晩中?」
「一睡もしなかったんじゃないかなあ。俺が夜中に覗いた時、目ぇ開けたまま座ってた。怖かった」
ルーシェの感想が「怖かった」なのは少し可笑しかったけれど、笑えなかった。
椅子の跡を、指で触れた。冷たい石の、かすかな窪み。
なぜそこまでするのだろう。着任して十日の、元筆頭聖女に。
スープを飲んでいると、廊下から足音がした。
ディートリヒさんが戸口に立っていた。手に水差しを持っている。私と目が合うと、一瞬だけ何かが緩んだ気がした。口元か、目尻か、判別できないくらい小さな変化だった。
「起きたか」
「すみません、ご迷惑を」
「迷惑は鍋を焦がした方だ。焦げが落ちない」
水差しを卓に置いて、それから私の顔を見た。
「無理をするなと言ったはずだ」
「はい……すみません」
「休め。お前がいなくなったら困る」
困る。
業務上の意味だ。当然そうだ。辺境で根源浄化ができるのは私しかいない。私がいなくなれば、ディートリヒさんはまた一人で表層浄化を続けることになる。だから困る。合理的な話だ。
「……はい」
スープの最後の一口を飲み干した。味が、王都の神殿の食堂よりずっと濃い。塩加減がちょっと強い。でも、身体に染みた。
午後、ルーシェが昼寝をしている間に、一通の手紙が届いた。
届け人は旅商人だという。辺境まで荷を運ぶついでに預かったらしい。封蝋の紋章は見覚えがなかったが、開けると中身で差出人がわかった。
——第二王子クラウス殿下。
フラウ殿
直接の面識は多くありませんが、あなたの仕事は僕がいちばんよく見ていたつもりです。
兄がしたことを、王族として恥じています。
王都では結界の第一層が消失し、混乱が広がっています。ローザ殿の浄化は効果がなく、神獣ギンガは餌を拒否し続けています。兄はまだ事態の深刻さを理解していません。
兄の暴走を止めたいのです。
あなたの力を貸していただけませんか。
詳細は追って手紙で送ります。
この手紙のことは、どうか内密に。
クラウス
手紙を二度読み返した。
クラウス殿下。第二王子。アルベルト殿下の弟で、兄とは対照的に実務に明るい方だと聞いていた。王都にいた頃、何度かすれ違ったことがある。私が朝の結界調整をしている時、回廊をひとりで歩いているのを見かけた。目が合うと、小さく会釈をしてくれた。それだけの記憶だ。
あなたの仕事は僕がいちばんよく見ていた。
そうだったのか。気づかなかった。
手紙を畳んで、巡回記録帳の間に挟んだ。すぐには返事を書けない。でも、放っておくこともできない気がした。
夕方、神殿の回廊で夕日を見ていた。
橙色の光が石の柱を赤く染めている。風が冷たくなってきた。外套——この前借りたディートリヒさんの外套は、洗って返してしまった。今は自分の薄い上着しかない。少しだけ後悔している。
足音がして、ディートリヒさんが隣に立った。隣、というには少し距離がある。腕を伸ばしても届かないくらいの間隔。
「ディートリヒさん」
「何だ」
「聞いてもいいですか」
少し迷ってから、聞いた。
「ここに来る前から、私のことを知っていましたか」
ディートリヒさんは答えなかった。
夕日が沈みかけている。柱の影が長く伸びて、私たちの足元を横切っていく。虫の声が遠くで聞こえる。
長い沈黙だった。
「……五年前の巡回指導」
ぽつりと落ちた声は、いつもより少しだけ低かった。
「あの時——」
「覚えていないだろう。お前は翌朝にはもう次の神殿へ発っていた」
そうだった。あの巡回は日程が詰まっていて、村の浄化を終えた翌朝にはもう出発しなければならなかった。スープをくれた神官長に、ろくにお礼も言えなかった気がする。
「すみません、あの時はちゃんとお礼を——」
「いい」
遮られた。
ディートリヒさんは夕日の方を向いたままだった。横顔に影が落ちている。翡翠色の目が、橙色の光を映して、少し違う色に見えた。
「……桜花茶は、あの巡回の記録に書いてあったのか」と聞こうとして、やめた。
記録帳に茶の好みなんて書いた覚えはない。
じゃあ、なぜ。
聞けなかった。聞いたら何かが変わりそうで、今の私にはそれが怖かった。
「スープ、美味しかったです。塩がちょっと強かったですけど」
話を逸らした。我ながら下手な逸らし方だ。
「……そうか」
ディートリヒさんの声に、ほんの少しだけ何かが混じった。笑みとも呼べないくらい微かな——でも確かに、さっきまでとは違う色。
夕日が沈んだ。
回廊が暗くなって、ディートリヒさんが先に踵を返した。
「塩は減らす」
背中越しにそう言って、暗がりに消えていった。
約束なのか独り言なのかわからなかったけれど、翌朝のスープの塩は、ほんの少しだけ薄くなっていた。