軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 好きだ。最初から、ずっと

辺境の古神殿は、今日も静かで、温かい。

一ヶ月が経っていた。

クラウス殿下から届いた正式な書面によって、グリューネ神殿は王国直轄聖殿に昇格した。予算が増え、人員の増派も決まったらしい。ルーシェの指名に基づき、私は辺境筆頭聖女として正式に任命された。ディートリヒさんは引き続き神官長。

書面の末尾に、クラウス殿下の手書きの一文が添えてあった。

「辺境が、あなたの居場所であることを嬉しく思います」

その手紙は、机の引き出しにしまった。巡回記録帳の隣に。

朝、ルーシェがケーキを焼いた。

今度は爆発しなかった。少し焦げていたけれど、形は崩れていない。蜂蜜をかけて食べたら、ちゃんと美味しかった。

「どう?」

「おいしいです」

「でしょ。三回練習した」

三回の練習で何が起きたのかは聞かないことにした。厨房の壁にうっすら残っている煤の跡が、全てを物語っている。

ディートリヒさんは黙ってケーキを食べていた。シロが足元で落ちた欠片を拾い食いしている。

窓から風が入ってきた。秋の匂いがする。巡回から戻ってきたばかりで、まだ外套が汗で湿っている。アルト村の泉は安定していた。瘴気の再発もない。村長が「聖女様のおかげです」と頭を下げてくれて、帰りに干し芋を持たせてくれた。

執務室に戻ると、机の上にいつもの花があった。

今日は淡い橙色。秋の花だ。名前はまだ知らない。ここに来てからずっと、毎朝一輪ずつ変わる花の名前を、私は一つも覚えていない。覚えようとすると、なんだか勿体ないような気がして——花の名前ではなく、摘んでくれた人のことを考えてしまうから。

昼過ぎ、ルーシェが唐突に立ち上がった。

「ちょっとシロの散歩行ってくるね」

シロを抱え上げて、裏庭に向かう。

「三時間くらいかかるから!」

三時間。シロの散歩に三時間はかからない。神殿の裏庭を一周するだけで疲れて丸くなる子獣だ。

「あ、ディートリヒは残ってて。フラウと、その、話あるでしょ。じゃ」

走り去った。露骨にもほどがある。

集会室に、二人だけが残った。

ディートリヒさんは窓際に立っていた。外套を脱いで、薄い神官服だけの姿。午後の光が斜めに差し込んで、灰色の髪に白い筋を作っている。

沈黙が長かった。

この人の沈黙には慣れたはずだった。でも今日のは少し違う。空気が張り詰めているのではなく、何かが溜まっている。水が溢れる前の、あの感じに似ていた。

「……聞いてくれ」

声が、低く落ちた。

ディートリヒさんは窓の外を見たまま話し始めた。

「五年前の冬。お前が巡回で来た時、俺の管轄の村が瘴気に飲まれかけていた。夜通し浄化して、朝には泉が澄んでいた。お前はそのまま次の神殿へ発った」

覚えている。帳面に書いてあった。スープをもらった朝。

「あの朝、お前が村を出る時——村の子どもが泣いていた。聖女様が帰っちゃう、と。お前は膝をついて、その子の頭を撫でて、こう言った」

何を言ったか、自分では覚えていなかった。

「『大丈夫。ここの神官長さんが守ってくれるから』と」

ディートリヒさんの声が、かすかに揺れた。

「守ってくれるから、と。お前は、俺を信じて、あの村を任せて去った。会って一晩しか経っていないのに」

知らなかった。そんなことを言ったのか。覚えていない。巡回先では似たようなことをいくつも言った気がする。でも、この人にとっては——。

「それから五年、忘れられなかった」

ディートリヒさんが、窓から目を離した。

初めて、正面から私を見た。

翡翠色の目が、午後の光の中で揺れていた。この人の目がこんなに揺れるのを、初めて見た。

「好きだ」

声が落ちた。

低くて、少し掠れていて、不器用で。

「最初から、ずっと」

続きを待った。続きがあるのかどうかもわからなかった。

あった。

「花も、茶葉も、外套も、髪飾りも——全部、職務じゃない。お前だから……いや、うまく言えない。とにかく、お前だからだ」

息を呑んだ。

職務じゃない。

備品じゃない。たまたまじゃない。風のせいじゃない。

桜花茶。外套の匂い。椅子の跡。

——全部、知っていたのに。

目の奥が熱くなった。止められなかった。視界がにじんで、ディートリヒさんの輪郭がぼやけた。

「……知ってました」

声が震えた。自分でも驚くくらい。

「途中から、気づいてました。でも——信じるのが、怖かったんです」

涙が落ちた。また一粒、石の床に落ちた。

「私なんかを好きになる人が、いるなんて」

言ってしまった。十年間ずっと喉の奥にあったものが、全部出た。

ディートリヒさんが、一歩近づいた。

あの日の回廊で止まった距離を、今度は越えた。

「お前のその『私なんか』を——」

大きな手が、私の頭に触れた。不器用で、ぎこちなくて、指先が少しだけ震えていた。

「俺は一生かけて訂正する」

額に、唇が触れた。

温かかった。乾いた唇だった。ほんの一瞬で、すぐに離れた。

でも、それだけでよかった。十分すぎるくらい——。

裏庭の木の陰から、声が爆発した。

「やっっっっと!!」

ルーシェが両手を振り上げて飛び出してきた。シロを頭に乗せたまま。三時間どころか、十分も経っていない。

「長かった! 長すぎた! 五年だよ五年! 俺がどんだけ待ったと思ってんの!」

ディートリヒさんが額を手で覆った。耳が真っ赤だった。

「……ルーシェ」

「何! 神様が祝福してるんだから文句言わないで!」

シロがルーシェの頭から転がり落ちて、私の足元に着地した。丸い目でこちらを見上げて、小さく鳴いた。

泣きながら笑った。涙を拭いて、鼻を啜って、それでもまだ笑いが止まらなかった。不格好な笑い方だったと思う。でも、構わなかった。

ディートリヒさんが、呆れたような、困ったような、でもどこか——柔らかい顔をしていた。笑い方の下手な人だ。口の端が少し上がるだけ。でも、目が笑っていた。初めて見た。

「ディートリヒ——さん」

呼んで、止まった。

さん、はもういらない気がした。

「……ディートリヒ」

呼び直した。少し恥ずかしかった。舌に馴染まない。でも、悪くなかった。

ディートリヒの目が、ほんの少しだけ見開かれた。それから——翡翠色が、温かく細まった。

「お茶、淹れますね。桜花茶」

ディートリヒは少し黙ってから、頷いた。

「ああ」

厨房に向かう途中、ルーシェが後ろからくっついてきた。

「ねえフラウ。ケーキの残りある?」

「あります」

「やった。あ、ディートリヒの分も切って。あの人絶対自分からは言わないから」

そうだろうな、と思った。

裏庭からルーシェの笑い声が聞こえる。シロが鳴いている。厨房でお湯が沸く音がした。古い神殿の壁が、今日もよく音を響かせている。