軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第115話 新しい朝

「──イス、起きろ」

耳の奥をゆっくり撫でるような声が、半分眠りの沼に沈んでいた意識を引き上げてくる。瞼の裏にじんわりと温度が広がり、そこから頭の奥の方までじわじわと光が染みていく。乾いた空気と澄んだ匂いだけが先に意識へ届いてきて、ようやく俺は「ああ、朝か」とぼんやり思った。

「おいったら──ああもう、そういえば昔から中々起きない奴だったな……」

いつだって時間に正確な女の声がした。なんとも目が覚める声だ。ゆっくりと、しかし確実に頭の中の霧が晴れ、思考の輪郭がはっきりとし始める。

「……よし。ど、どうせならだな……少しだけ寝顔を──」

「うるせえぞ、ジークリンデ」

「うわっ!?」

俺が目を開けた瞬間、ちょうど覗き込んでいたらしいジークリンデが尻もちをついて後ずさり、白い天井とその下の情けない表情が同時に視界へ飛び込んできた。

やれやれ、朝から何やってんだ。

「おはよう」

「あ、ああ……いやちょっと待て、いつから起きてたんだ!?」

勢いよく立ち上がったジークリンデは、耳まで真っ赤だった。編み込んだ髪はいつものように整えられ、身なりも完璧。コイツはいつから起きてたんだか。

「今、お前に起こされたんだよ……ふわあ……今何時だ?」

「そ、そうか……ならいい。今は七時だ」

時計を見るより早く返答が飛んでくる。懐かしいなと感じると同時に、昔の記憶が湧き上がってきた。コイツが遅刻したのを俺は一度も見たことがない。時間という概念を手のひらでコントロールしているような奴だった。

つまり、俺とは正反対ってことだ。

「そろそろ準備しないと、リリィちゃんが学校に遅れるんじゃないか?」

「早すぎだ……あと十五分は寝れたぞ」

「ギリギリまで寝てるから遅刻するんだ。私なんていつも一番早く教室に着いていたぞ? 教室のカーテンを開けるのが気持ち良くてな」

「分かんねえ。その感覚は全く分かんねえ」

ベッドから足を下ろしながら吐き捨てる。ジークリンデにたたき起こされる朝なんて、俺の人生にほぼ存在しない非日常だ。自然と眠気も吹き飛び、二度寝なんていう選択肢は脳内から叩き出される。

「一晩閉じ込められていた乾いた空気が入れ替わる瞬間が好きでな──言っていて懐かしい気持ちになったよ」

「俺は逆に新鮮な気持ちだ。お前に起こされるなんてよ」

「すぐに慣れるさ────一緒に暮らしているのだからな」

ぽつりと言った一言は、さっきまでの軽口とは違って、思いを噛みしめるような重さがあった。

気持ちは分かる。

俺だってまだ、じんわりと実感が追いついていないんだ──俺とジークリンデが『家族』として同じ屋根の下で暮らしているという現実に。

「それもそうか。さてと、リリィが起きてくる前に朝飯の準備しちまうか」

俺は息を吐き、気持ちを切り替えてベッドから立ち上がった。まずはリリィを無事に送り出してからだ。大人の話し合いはそれからでいい。

…………ん? いや待て、ジークリンデも送り出すことになるのか?

そうなると俺は家で一人だ。俺だけ何もしてないようで居心地が悪いが、事実だからどうしようもない。別に金には困ってねえしな。大金持ちなのに真面目に働くジークリンデがおかしいんだ。

ごちゃごちゃ考えながらキッチンに移動すると、何故かジークリンデもついてきた。

「どうした? リビングで待ってていいぞ?」

エプロンの紐を巻きながら顎でリビングを示すが、ジークリンデはきっちり背筋を伸ばしたままキッチンの入口から動かない。

「手伝わせてくれ」

「いや、手伝うってもな……」

うちの朝飯なんて、ベーコンと卵を焼いて、ご飯かパンか選ぶだけで終了だぞ。二人もいたら邪魔になっちまう。

「そもそもお前、料理したことあるのか?」

疑いの目を向けると、ジークリンデは少し肩をすくめて視線をそらした。

「恥ずかしながらこの歳になってもキッチンに立ったことがない。メイド達が近寄らせてくれなくてな……正直、手伝うとは言ったものの、何をしたらいいか見当もつかないよ」

「ならどうして──」

「一緒に何かしたいんだ。折角家族になったのだからな」

ちっ……真正面から言われると弱いんだよ、俺は。

せめてもの抵抗として溜息を一つだけ残し、エプロンを外した。

「ほれ、流石にエプロンのつけ方くらいは分かるだろ?」

ジークリンデはそれを、まるで宝石でも渡されたみたいに両手で受け取った。

「……いいのか?」

「どうせ近いうちにリリィにも料理を教えようと思ってたんだ。お前で練習させて貰う」

ハイエルフの生き残りであるリリィは将来、間違いなく苦労する。悪い大人に狙われることもあるだろうし、周囲から孤立することもあるだろう。人里離れた場所で暮らさざるを得なくなるかもしれない。

一人で生きられるだけの能力を身に付けさせてやる──それが寿命で先に死ぬ俺の役目だ。魔法はエスメラルダ先生に任せられるが、生き抜く術は俺の担当だからな。

「それなら私もリリィちゃんに教えられるようにならなければな。普通の母親とは恐らくそういうものだろう?」

「さあな。うちもキッチンは母親の聖域だった。教えられた記憶はないな」

普通なんて人の数だけあるもんだ。それなら俺達は俺達なりの『普通』を作っていけばいい。それがどういう形であれ、隣にいるのがジークリンデならそう悪い気はしない。長い付き合いだからな。