軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

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どうしようどうしよう。ああ、どうしよう。

目が冴えてしまって、どうにも寝付けない。アウローラは寝室の小さな机の上で花の刺繍を刺しながら、『塔』のこと――正確には、即答できなかった己のことを考えていた。

あんなに魅力的で、嬉しいお誘いなのに、どうしてすぐに『行きます』と答えなかったのだろう。それどころかこうしてしばらく経ったというのに、まだ『行きます』と答えられずにいるのは、なぜなのだろう。

侍女は理由が分かっているようで呆れていたけれど、アウローラにはまだ、こんなにも迷ってしまう自分の心が分からないでいた。

(……なんども、行きます、ってお返事しようとは、思ったのだけど。その度に、やっぱりやめよう、っても思う。なんでだろう……。フェリクス様との偽装婚約も、うまい具合にわたしにもフェリクス様にも傷がつかないで解消できるはずだし、いいこと尽くめのはずなのに)

「あ、いたっ」

気が逸れて、指先に針が突き刺さる。慌てて手を離せばぷっくりと、ランプの灯りの下で指先に、赤い玉が浮かび上がるのが見えた。

アウローラは顔をしかめ、指先をぺろりと舐めると刺繍の道具を引き出しにしまう。

(こんな、子供みたいなミスをして……。ちっとも集中できてない。刺繍にさえ集中できないなんて、わたし、どうしちゃったんだろう)

はあ、と息が漏れる。刺繍道具はしまったけれど、とても眠れそうにない。

少し夜の風でも浴びれば、体が冷えて眠くなるだろうか。

アウローラはそっと自室の窓に近づくとカチャンと鍵を外し、寝台の上のブランケットを羽織って、小さなバルコニーへと進み出た。

(あ、綺麗な月)

もうすぐ満月になる月が、ぽかりと空に浮かんでいる。その冴え冴えとした銀色に、アウローラはひとりの面影を思い出して、小さく震えた。

青紫の瞳の、凛とした美しい人だ。自分の人生には関わりのないはずだった、乙女の憧れの近衛騎士。無口で無表情なせいで、一見冷たい印象を与えるけれど、それが本当は人見知りと不器用さの現れだと知っている人は、一体どれだけいるのだろう。

真面目で、真っ直ぐで、素直で、真摯。

そんな彼の本質を知っている数少ない人間の一人に自分が数えられていると思うと、無性に胸が騒ぐのだ。

「……フェリクス、様」

小さな声で、呼んでみる。必要性に迫られて、夜会でだけ呼ぶはずだった。最初はとんでもないと思ったはずなのに、いつの間にかすっかり定着してしまった、この呼名。

本人のいないところで口にしてみるとむず痒く、アウローラは押し黙ってバルコニーの欄干に身を乗り出した。満月が豊かに輝き、貴族街の美しい石畳の道を照らしている。ところどころ、灯りが付いているのは、執務に励む当主の部屋か、むしろ夜はこれからと遊ぶ享楽的な人びとの灯りか、遅くまで仕事の終わらない使用人の部屋か。

(月も、星も、灯りも、綺麗。黒いリネンに銀糸と金糸で、夜景っていうのも素敵じゃないかしら。星は小さなスパンコールと、ガラスのビースも散らして。夜景って、図案にないわよね。灯りの魔石が一般化するまでは存在しないものだったからかしら。……そういえば、フェリクス様の礼装、夜空の星みたいで素敵だったな。もう一度、見せて頂きたかった。……もう、無理かしら。……あら?)

どこかで小さく、馬のいななく声がした。どこかの夜会から帰ってきた馬車だろうか。それにしては車輪の音が聞こえない。ひとりで夜警をするとは思えないから、どこかに出掛けていた誰かが何処かから、単騎で戻ってきたのかもしれない。

深く考えず、バルコニーからひょいと下を見下ろしたアウローラは、あっと声を上げた。

宮殿の方からゆっくりと進んでくる、夜の闇に浮かぶ精霊のような芦毛の馬の背に、流れるような銀の髪の長身の男が乗っている。

(まさか、フェリクス様……?)

目を凝らせば、暗い色のマントと、騎士服の上着に縫い取られた、銀の刺繍がちらりと光る。月の光に照らされて、銀枝のブローチがキラリと瞬いたのを見て、アウローラは思わず、部屋の中にとびこんだ。

(えっ、なんで、なんでフェリクス様?! こんな時間に?! さ、流石にうちに訪問……ってことはないわよね、真夜中だし! いらっしゃるなら先触れもあるはずだし! と、通りかかっただけ……? でも、近衛隊の屯所からクラヴィス邸に向かう間に、ここは通らないはず)

はっとして、アウローラは己の寝台に駆け寄った。サイドボードの引き出しを開け、魔石のランプを近づける。ベルベットの張られた小箱を複数取り出して、慌てて中を漁った。

三つ目の、紺のベルベットの箱のなかから、ころんと青い石のついた耳飾りが飛び出す。

日常に使えるデザインではないけれど、大事の取っておいたそれを握りしめ、アウローラは再びバルコニーに飛び出して、手すりの影に隠れるように座り込むと、震える手で耳飾りを装着した。

ここしばらく、会う度に、彼は緑色の石をはめ込んだイヤーカフを身に着けていた。いつアウローラの声が届くかわからないからなどと冗談めかして言っていたけれど、今でもまだ、身につけているだろうか。

ごくりと唾液を飲み込んで、アウローラは耳元に集中する。久しぶりで、魔力の流し方が分からなくなっていたけれど、四、五回試せば、僅かな魔力が耳元へと流れ始めた。

この距離ならば、聴こえるはず。

『フェリクス様、聞こえますか?』

『……………………アウローラ嬢?!』

しばしの沈黙の末に帰ってきたのは、驚きの声だった。ぽくり、と馬の足音が止まり、己の部屋の窓から少し過ぎたところで、彼が脚を止めたのが伝わる。なんだか面白い気持ちになって、アウローラはくすくすと笑いをこぼした。

『上ですわ、上』

しゃがんでいた欄干の影から身を乗り出して、路上の人に手を振る。薄く白い寝間着の姿に気がついたフェリクスは目をむいた。月明かりでアウローラの体の線が、見事に照らされていたのだ。

『な、なんて姿で……! は、早く中に入れ、風邪をひいたらどうする!』

『あ、みっともない姿でごめんなさい。でも、ストールを巻いているから、寒くはないのですよ?』

『そ、そういうことではなく……ああ、いや、でも……会えて嬉しい』

何やら言いづらそうに呟いてからぽろりと漏らした彼の本音に、アウローラは己の頬がカッと熱くなったのに気がついた。涼しい外にいるというのに、体がちっとも寒くないどころか、頬の熱が去る気配がない。

『まさか、貴女から話しかけてくれるとは思わなかったから、驚いた。その耳飾りを付けてくれているとも思わなかったからな』

『なんだか眠れなくて月を見ていたら、見覚えのある方がいらしたものですから、急いで引っ張りだしてきましたのよ。日常的に使うには、ちょっと豪華過ぎますもの。……今日は、どうかなさいましたの?』

アウローラの問いかけに、返ってきたのは沈黙だった。あまりにも返事がないので、思わず何度か声を掛けたが、反応がない。帰ってしまったのだろうかと見下ろせば、彼は黙ったままこちらを見上げているので、アウローラは不思議に思って、首をかしげた。

『とくに、ご用ではありませんでしたの? ……ああ、もしかして、通りすがりにすこし休憩されていたところだったのかしら。だとしたら、おじゃましましたか? 戻ったほうが良いでしょうか』

『いや、違う、そうではない、ただ』

僅かな逡巡の末、フェリクスがぽつりと言った。

『……今日は慰労会という名の酒宴で、つい先程まで、宮殿近くの酒場にいたのだ。解散して、帰途についてふと……貴女に会いたいと思ったものだから。せめて、ポルタ邸の前を通って帰ろうと、遠回りをしていたところ、だった』

(な、なにそれ……なにそれ?!)

からかっているようにはとても聞こえない、真摯な声色。アウローラは喉の奥でうめいた。

『このような時間に来ても、会えるはずがないことは分かっている。だから、少しだけでも貴女の近くを通って帰れたなら、自分を慰めることができるのではと思ったのだ。……思いがけず、声を聞けて、姿を見ることが出来て、これほど嬉しいことはない』

『そ、そう、で、す、か』

『ああ』

ふわりと彼が笑んだ気配が、耳元に届く、アウローラは上がりかけた悲鳴を押し殺して、ブンブンと首を振り回した。眠れないとはいえ横になったせいで寝乱れた髪が揺れ、月の光を反射する。

『一日の最後に、貴女の声が聞けるのは、いいな』

『そ、そうですか』

『日の始まりと終わりのそれぞれ最初と最後に聞く声が、貴女のものであれば、きっと幸せだろう』

(うううう、な、なにそれ……、か、顔が、顔が熱い……)

最早ぐうの音も出ない。耳まで真っ赤になったアウローラは、ずるずると欄干から滑り落ちた。

『……眠くなったのか?』

『そ、そうですね、さ、さすがに、冷えて、来ました!』

(嘘ですごめんなさい真逆です! 熱いです!)

『そうか、女性は体を冷やしてはいけないというからな。暖かくして眠ってくれ。……おやすみ』

『お、おやすみ、なさい』

柔らかい囁きが、耳を貫いて消えていく。ぽくり、ぽくりと、馬の足音が再開した。欄干の隙間から見下ろせば、銀の後ろ頭がゆっくりと、通りの向こうへ消えていった。

「……う、わ、あ」

己が両耳をおさえていたことに気がついて、アウローラはバルコニーの床に、ぺたりと伏せた。

「な、にあの、声」

優しく柔らかい、甘い声色。あんな声も出せるのかと、身の内側が震えた。耳を覆った両の手が、彼の声を逃さぬようにとの無意識だったと気がついて、アウローラはさきほどから走り続けている己の心臓を軽く叩く。

「近くを、通りたかっただけ、とか……花より、カードより、よっぽど」

どうしよう。

アウローラは再び、床に潰れたまま繰り返す。

もう、認めないわけにはいかなかった。

即答出来なかったのは、隣に彼がいたからだ。彼との縁が切れるのを、惜しいと思ってしまったから。惜しいと思ってしまったのは、きっと……

(彼のことを、好き、になっちゃった、から、だ)

仮の、いつかは離れる婚約者、なのに。

つかの間火照った体は、夜気に飲まれてどんどん冷えていく。アウローラは呆然と、白く照らされる床を眺めていた。