軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

12.

落ちてきそうなほど、澄んだ空だった。

明るいのに太陽はなく、月もないのに星が出ている。柔らかな水色の絹に、水をたっぷり含んだ刷毛で色をつけたような、不思議な空。

紫や緑、薔薇色や金。刻々と移り変わる空の色を前に、ジュリエットは何度も目をしばたたいた。

――ここはどこかしら?

空を見上げたまま、考える。

どうやら今、自分は見知らぬ場所に寝転がっているらしい。だが、どうしてこうなっているのか、どうやってここに来たのか、まったく覚えがない。

ゆっくりと身体を起こせば、目の前にはどこまでも広がる赤い花畑と、天と地のあわいを染める鮮やかな紫色。手を伸ばせば届くと思うほどの距離で、星がまたたいている。

こんな美しいものを見るのは初めてだ。女神の楽園が存在するとしたら、きっとこんな光景なのだろう。

しかし、なぜだろう。

どこか、懐かしい気がする。

幻想的な眺めにぼんやりと心奪われるジュリエットの鼻腔を、甘い香りが掠めていく。

何か柔らかいものが頬を撫でるのに気付き、ジュリエットは指先でそっと、それを摘まんだ。

蝶……いや、赤い花びらだ。

風もないのにひらひらと舞い踊り、捕まえようとすると逃げていく。まるで、妖精の戯れのように。

花びらに誘われるように、ジュリエットは足を踏み出す。

足裏に感じる濡れた感触に、そこで初めて、自身が靴を履いていないことに気づいた。

きっとここは夢の世界だ。

なぜなら赤い花の下にあるのは土ではなく、ガラスのように透き通った水なのだから。

ジュリエットは試しに、その場で軽く飛び跳ねてみた。パシャンと軽やかな音と共に水滴が弾けるが、身体が沈むことも、服の裾が濡れることもない。

――なんて面白いのかしら。

確かに水滴がかかった感覚はあるのに、染みひとつ付かないなんて。

ジュリエットは子供のように胸を弾ませ、ワンピースの裾を大胆に摘まんだ。そして幼い頃に男友達とよくやっていた、川の飛び石を渡る要領で、水の上を跳ねていく。

夢の中だから、はしたないと責める人間もいない。

水面に波紋が広がるたび、足に水がかかる。その感触が気持ちいい。

このまま進めば、一体どこに行き着くのだろう。

一歩、また一歩と足を進めるジュリエットの目の前に突然大きな樹が現れたのは、それからすぐのことだった。

初めからそこにあったかのような顔をしてどっしりと佇む大樹は、どことなくオリーヴに似ている。しかしその葉は見事な黄金色に輝き、風もないのにさやさやと揺れている。

まるで、大樹が歌を歌っているようだった。葉擦れの音が、音階を奏でている。

聞き覚えのないそれはジュリエットの耳に、優しい賛美歌のように響いた。

「――お姉ちゃん」

低い位置から聞こえてきた声に、ジュリエットはようやく、自分のすぐ側に誰かが佇んでいることに気づく。

癖のない焦げ茶色の髪に、チョコレートのような色をした丸い目。白いワンピースに身を包んだ、小さな女の子――。幼い頃の、ジュリエットだ。

「……わたし?」

大きく目を瞠れば、軽やかな笑い声が上がった。

幼いジュリエットが、邪気のない笑みで ジュリエット(、、、、、、) を見つめている。

「いいえ、違う。……あなたはジュリエットね。本物の」

跪いて視線を合わせながら、震える手を伸ばす。夢の中であるにも拘わらず、確かな感触があった。

艶やかな髪。柔らかい頬。ふくふくとした、小さく温かい手のひら。

かつて魂だけの存在としてさまよっていたリデルに、身体を与えてくれた恩人が目の前にいる。

「ええ、そうよ。わたしはジュリエット。ようやく会えたわね、もうひとりの ジュリエット(わたし) 。あ、でも、ふたりとも〝ジュリエット〟ではややこしいから、わたしのことは〝ジュリア〟と呼んでちょうだい」

『ジュリア』が少し大人びた顔でそう告げる。

ジュリエットそっくりの声と、話し方だ。同一人物なのだから何もおかしくはないのだが、年に似合わぬ口調に違和感を覚える。

「ジュリエット……」

「〝ジュリア〟よ」

「……ジュリア。ここって、夢の中なのよね? それとも、もしかしてわたし……死んでしまったの?」

ジュリアと、その背後に広がる光景を見回しながら、おずおず問いかける。

先ほどジュリエットは、この場所を『女神の楽園のようだ』と感じた。楽園は、死後の世界で善人と判断された人間が行き着く場所だ。

もし本当にここがそうだとするならば、四歳の頃に命を落とした本物のジュリエット――つまりジュリアがいるのも頷ける。

しかし彼女は、さも楽しげに笑いながら、首を横に振った。

「まさか。安心して、生きているわよ。でも、夢というのはあながち間違っていないかもしれないわ。夢は心を映す鏡のようなもの。つまりここは、あなたの心の中よ」

「じゃあ、目の前のあなたはわたしが作り出した夢の登場人物なの?」

「あら、どうして?」

「だって……ここはわたしの心の中なんでしょう?」

この世界が現実ではないのだとすれば、当然、ジュリアだって夢の中のみに存在する幻のはずだ。

それなのに妙に自信がないのは、あまりに具体的だからだ。

目の前のジュリアの姿も、温度も、声も、彼女の発する台詞も。

「そうだけど、違うわジュリエット。わたしはあなたの中に、確かに存在している。夢の登場人物でも、死人の幻影としてでもなくね」

ジュリアは指先で、ジュリエットの左胸を軽く突く。丁度、心臓のある辺りの真上を。

「死人じゃない、と言ったわね。それならあなたは……、生きているの?」

「さあ。そうとも言えるし、そうではないとも言えるわ」

ジュリアの言葉は、答えのようで答えではなかった。そのことに、若干のもどかしさを感じる。

「……夢の中であなたと会うのはこれが初めてだわ」

「それはそうよ。わたし、長いこと休んでいたんだもの。でも、ずっと見ていたわ」

「ずっと? 何を? 休んでいたって、何?」

「あなたのこと。外のこと。あなたの心と目を通してね」

やはり、あえてはぐらかされているように感じる。

ジュリアは理路整然と答えているように見せながらも、その実、支離滅裂なことばかり話している。

「理解できないって顔をしているわね。でも大丈夫。今はまだ何もわからなくていいの」

心の裡を言い当てられ、ジュリエットはぎくりと身を強張らせた。

見ればジュリアは、チョコレート色の目に悪戯っぽい光を宿し、下からジュリエットを覗き込んでいる。

「あなたの記憶は不完全よ。一度に思い出すと負担が大きいから、わたしのほうで少し制御するわ。 全ての記憶(、、、、、) を取り戻すには、まだ早すぎる。今日はそれを伝えたかったの」

「ジュリア、一体なんの話をしているの?」

「ああ、だめ。時間切れだわ。わたしはそろそろ行くわね、ジュリエット」

目の前が、徐々にくすんでいく。

空は灰色に、花びらは黒く。風の音はざあざあと、荒れた波のように。

ジュリアの姿が薄れていることに気付き、ジュリエットは必死で叫んだ。

「待って、ジュリア! 行かないで!」

伸ばした手が 空(くう) を切る。

景色が砂嵐のようにかき消えていく中、ジュリエットは遠ざかるジュリアの声を聞いたような気がした。

――心配しないで、またすぐに会えるわ。ジュリエットであって、リデルでもあるあなた。

§

目覚めた時、気分はすっかり落ち着いていた。あれほど酷かった吐き気も目眩も、今は少しの名残すら感じられない。

ジュリエットは身を起こし、窓の外を見る。

夕焼けの色も、空を飛ぶ鳥の様子も、よく見知った『現実』のものだった。

「変な夢だったわ……」

呟くと同時に、疑問符も浮かぶ。

――本当に夢だったの?

寝台の上で膝を抱え、ジュリエットは己の記憶を探った。夢というものは曖昧で、目覚めると同時にその内容をすっかり忘れてしまうことも多い。

しかし今回の夢は違った。

空の色。空気の温度。花の香り。水の冷たさ。木の葉の歌う音。そして、ジュリアの台詞。

その全てを、ジュリエットははっきりと覚えている。

『わたしはあなたの中に、確かに存在している。夢の登場人物でも、死人の幻影としてでもなくね』

ジュリアはそう言っていた。

ジュリエットの中から、ずっと外の世界を見ていたとも。

「本当に夢じゃないって……あなたが亡くなっていないって言うのなら、ジュリア。あなたは今も、わたしの中にいるの? わたしの目を通して、外の様子を見ているの?」

胸に手を当てながら囁くように問いかけるが、返るのは静寂ばかり。身体にも、何の変化も感じられなかった。

自分のしていたことが急に恥ずかしくなり、ジュリエットは夢の残滓を追い出すように、頭を軽く振る。

お伽噺を信じる子供でもあるまいし、夢で出会った少女の言葉を鵜呑みにするなんて、あまりにもばかばかしい。

苦笑を浮かべながら立ち上がったジュリエットは、そこで初めて、室内のテーブルの上にピンク色のガーベラが飾られていることに気付いた。

ふと、エミリアの言っていたことを思い出す。

『今朝、お庭で摘んだお花を飾ったの。どんなお花かは見てのお楽しみだけど、ジュリエットが気に入ってくれると嬉しいわ』

ガーベラを生けた花瓶の側には二つ折りのメッセージカードが添えられており、それを読むなり、口元が自然と綻んだ。

『ガーベラの花言葉は、希望と前進。これからのジュリエットとわたしに、ぴったりの花言葉でしょう? エミリアより』

丸っこくてたどたどしいけれど、一生懸命気持ちを込めて書いたであろうことが伝わってくる文字を前に、ジュリエットは口元をほころばせる。

「わたしにとって、あなたこそがガーベラのような存在よ。……愛しい子」

唇から漏れた言葉は、果たしてジュリエットのものだったのかあるいは――。

小さな独り言は口にした本人の意識にひっかかることも、誰の耳に留まることもなく、ひとりきりの室内をただ素通りしただけだった。