軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

03.

その話がリデルの耳に入ったのは、オスカーと結婚し、二ヶ月ほどが経った頃だった。

「ねえ、奥さまご存じ?」

話しかけてきたのは、オスカーの副長として働く男の妹。

豊満な肉体を豪奢なドレスに包み、いつも見下すような視線を向けてくる三つ年上の彼女が、リデルは苦手だった。

真っ赤に塗られた唇が紡ぎ出したのは、小さな村に住む若い娘の名。

夫が仕事の合間を縫っては頻繁に家を訪ね、共に長いこと過ごすほどの間柄だそうだ。

身分は低いがとても気立てのよい娘で、つましい生活を不憫に思ったオスカーが、何度も城へ来るよう誘っているのだと。

「わたくしも一度見たことがありますけれど、それは美しい女性でしたわ。太陽のように明るく、華やかで……。旦那さまも彼女といらっしゃる時は、とても楽しそうですのよ」

奥さまといる時はそんなことないですのにね、という声が聞こえた気さえした。

相変わらず夫婦らしいこともせず、空気のように扱われるリデルに対する、あからさまな当てつけ。彼女は常日頃から、オスカーに対する露骨な好意を隠そうともしていなかった。

押し黙るリデルに、女は尚も続ける。

「階下の者たちも申しておりますわ。旦那さまは、本当は彼女を妻にしたかったのではないかと――あらやだ、わたくしったら余計なことを」

さも口が滑ったと言わんばかりに、女が慌てたように口に手をやる。

ごめんなさいね、という心のこもらない謝罪に、リデルは表情を変えないまま、淡々と答えた。

「どうぞ、お気になさらないでください。噂はあくまで噂ですから」

声が震えそうになるのを、やっとの思いで堪える。

きっと彼女の勘違いだ。夫は大勢から慕われているし、領民のために心を砕くのは領主として大事な仕事。何もその娘が特別なわけではない。

心の中で、何度も自分に言い聞かせた。

「まあ身寄りのない貧しい娘ですから、どんなに愛していても妻にするのは難しいかもしれませんわね。誰だって、身分では元王女さまに叶うわけありませんもの」

身分以外、お前に取り柄などないのだと言われたも同然だった。

「わたくしのように割り切れる女ならまだしも、心から大事に思っている女性を愛人にはできませんものね」

勝ち誇ったように微笑む女が、夜会のたび夫のパートナーとして出席しているのを知ったのは、それからすぐのこと。

リデルは、夫が夜会や茶会に招待されていることすら知らなかった。彼はそんなことを、ひと言も口にしなかったからだ。

普通、既婚男性が社交の場に参加する際は、妻を伴うのが一般的だ。

愛人を伴う場合がないとは言わない。けれどリデルとオスカーは、まだ新婚だった。ふたりの仲が冷めていると周囲に知らせるには、あまりに早い。

けれどオスカーは社交の場どころか、リデルが訓練場に顔を出しただけで、あからさまに不愉快そうな顔をするのだ。

オスカーが出かけても、リデルは彼が誰を伴い、どこに行き、何をして過ごすのか知らない。

いつ帰って来るのかも知らない。帰ってきても彼は事務的な挨拶をするだけで、リデルには土産話すらしてくれなかった。

彼女は――副長の美しい妹は、夜会でオスカーと踊っただろうか。

手を取り、笑い合い、似合いの美男美女だともてはやされ――そして、同じ部屋に泊まっただろうか。

匂い立つような色香を振りまく女と夫との情事は容易に想像でき、焦げ付くような思いに、リデルは生まれて初めて、狂いそうなほどの嫉妬を覚えた。

夫が友人たちと話しているのを偶然耳にしたのは、それから更にひと月後のことだった。

貴族であり騎士でもある彼には、社交界や、騎士見習いの期間に得た友人が大勢いる。その内の数名ほどが、オスカーの誕生日を祝うため城を訪れたのだ。

「あの、できれば一言ご挨拶を……」

妻として、客人をもてなすのは当然の仕事。けれどオスカーはきっとリデルに何もするなと言うだろうから、せめて挨拶だけでもしたいと思った。

なのにそのささやかな申し出さえ、夫は素気なく断った。

「貴女が顔を出す必要はない。部屋でじっとしているんだ」

結婚して既に四ヶ月が経過していたこともあり、この頃には鈍いリデルもさすがに勘づいていた。

オスカーがこの縁談を喜んで受けたというのは、娘を喜ばせるために父がついた嘘で、実際は王の命令だからやむを得ず従ったのだろうと。

誰もが頬を染めて賞賛するほどの美丈夫である彼にとって、地味な妻を友人たちに見られることは恥でしかなかったに違いない。

リデルは素直に、夫の言葉に従った。

彼が友人たちと過ごすのを邪魔しないよう、食事も部屋で取ったし、部屋の外に出ることもしなかった。

元々、行動的なほうではない。本さえあれば、一日を部屋の中で過ごすことは、リデルにとってさほど苦痛ではなかったのだ。

けれどリデルにはどうしても、誕生日当日にオスカーの許を訪ねたい理由があった。

それは、前々からこの日に間に合わせるため準備していた贈り物を――手作りの 剣帯(けんたい) を渡すため。

黒地に銀の糸で施された複雑な刺繍は、メイド長から教えてもらった、この地方に昔から伝わる特別な紋様。神の守護を表したもので、持ち主の命を守り、危険を回避する効果があると言われている。

その模様を、リデルは一針一針思いを込め、丁寧に縫い取った。

どうか旦那さまが、これからも健やかに過ごせますようにと。

翌日では駄目ということはないだろうが、せっかくだから当日に受け取ってほしい。遅い時間ならきっと、彼の友人たちも客間に戻っている頃合いだろう。

そう思い、リデルは剣帯を手紙と共に小さな箱に入れ、綺麗なリボンをかけて夜になるのを待った。

やがて空がすっかり暗くなり、外がしんと静まり返った頃合いを見計らい、箱を持ってそっと部屋を抜け出した。

そしてオスカーの部屋の前にたどり着いた時……耳にしたのだ。

彼と、友人たちの交わす会話を。

「ところでお前さあ、なんでいつも夜会に愛人を連れてくるんだ?」

今まさに扉を叩こうとしていたリデルは、友人のひとりが発したそんな声に、自身の胸の中で心臓が大きく高鳴る音を聞いた。

拳を作って腕を持ち上げた姿勢のまま固まっていると、他の友人たちがそうだそうだと同調する声が聞こえてくる。

「まだ結婚して四ヶ月だろう。なのにお前は、社交場に奥方を伴ったことが一度もないじゃないか。王族を妻にしておいて、それは不味いと思うけどなぁ」

これ以上聞いてはいけない。盗み聞きなんてはしたないことをすべきではない。

なのに、足はその場に縫い止められたかのように、ぴくりとも動かなくなってしまう。

どくどくと、自分の鼓動がやけにうるさく耳に響く。

しばらく沈黙が流れた後、オスカーの声が聞こえてきた。

「彼女を人前に出す気はない」

「何でだよ? やっぱり噂通り、人に見せられないような顔をしているからか?」

「……出したくないからだ。お前たちにも会わせる気はない」

その一言が、全てを物語っていた。

友人たちが苦笑する気配が、扉越しにも伝わってくる。

「だけど、ならなんで王女との縁談に頷いたんだよ? 断ればよかったのに。あ、実は王女のこと気に入ってたりとか? お前って地味系の女が好きだったっけ」

「馬鹿、陛下の命令だから断れなかったんだろう。あんな陰気な王女じゃ他に貰い手もいなかっただろうし、陛下も必死だったろうな」

ふ、と。

オスカーの吐息のような笑い声が、妙に鮮明に響いた。

「王女と結婚することで生まれる利益がどれほどのものと思っている? 莫大な財産と名声、陛下の信頼。……俺はそれを、ほんの少しの我慢と秤に掛けただけだ」

ひどいやつだな、と友人たちが一斉に笑う。どうせ未婚の王女と結婚させてくれるなら、美人で明るい第三王女だったらよかったのにと。

夫もきっと、薄ら笑いを浮かべていることだろう。

すぐ側で本人が聞いていることにも気付かず、なにも知らぬ無知な王女を嘲って。

さび付いた歯車のようなぎこちない動きで、リデルは床から足を剥がした。

一歩、二歩。足音を立てないようゆっくり後退し、笑い声が聞こえなくなった辺りで、くるりと踵を返して走り出した。

早く、早く、早く。一刻も早く、部屋に戻りたい。誰もいない、自分だけの空間に。

そうして自室へたどり着き、扉を閉めるなり、リデルはその場にへたり込んだ。

「う……」

ぽろぽろと涙が零れるのを、ドレスの袖で何度も拭う。

何を泣いているのだろう。

――あの程度の中傷、慣れているはずじゃない。

地味で、陰気で、貰い手のいない厄介者。美貌揃いの王族になぜか生まれた、出来損ないの娘。

望まれた花嫁だなんて、どうしてそんな愚かな夢を見たのだろう。オスカーは最初から、リデルのことなど眼中にもなかったのに。

気付いていたけれど、気付かないふりをしていた。ありもしない希望に縋り付いて、せっせと贈り物を用意していた。なんて哀れな女なのだろう。

ひとしきり泣いた後、リデルがまず考えたのは、剣帯をどうするべきかということだった。

オスカーの気持ちがはっきりした以上、これを贈るわけにはいかない。好いてもいないどころか、むしろ厭うている相手から贈り物をされても煩わしいだけ。

けれど捨てれば掃除の時に見つけたミーナが心配するだろうし、火に投げ込もうにも厨房には常に竈番が立ち、見張りをしている。

誰にも見つからないよう処分するためには、冬を待ち、部屋の暖炉に投げ込むのが一番だ。

せっかく作ったのに燃やしてしまうのは可哀想だけれど、何よりリデル自身、あの剣帯をもう二度と見たくない。役立たずとなった贈り物を見るたび、自身が望まれない妻だという現実を突きつけられるから。

そうしてリデルは箱を誰の目にも届かぬよう、クローゼットの奥深く押し込んだ。