軽量なろうリーダー

『君の薬はもう要らない』と言って妻を遠ざけた夫は、彼女が千八百回の朝、自分を生かしていたことを知らなかった

作者: 歩人

本文

ひやりと冷えた指先に、苦い匂いが触れた。昨日の薬草が、まだ爪の間に残っている。何度洗っても落ちないその匂いで、私はいつも自分が誰なのかを思い出す。

夜明け前の台所は、まだ夜の温度を残している。火を入れる前のこの暗がりに起きているのは、いつも私ひとりだった。

私は火を入れた。湿った薪が小さく爆ぜて、暗がりに橙の点がともる。その明かりに、棚に並んだ瓶と、母の形見の 薬研(やくけん) の輪郭が、ぼんやりと浮かんだ。

水を汲み、銅の鍋にうつす。指先で湯の縁を探る。まだ早い。

草を沈めるには、早すぎる。心の臓の薬は、湯が騒ぐ前のこの温度でなければ、苦みばかりが立ってしまう。それを教えてくれたのは母だった。

「焦るんじゃないよ、セレーネ。薬はね、急いた手をいちばん嫌うんだ」

いつかの母の声が、まだ耳の奥に残っている。乾いた根を匙ですくいながら、私はその声に従う。匙の柄を、いつものように半分ほど傾ける。山盛りでもすり切りでもない。この角度でなければ量が狂う。五年のあいだに、私の手はこの傾きを覚えてしまった。考えなくても指が勝手に同じところで止まる。

湯のなかで根がほどけ、薄い琥珀の色がにじみ出した。

煎じる拍数を、胸のうちで数える。窓の外では北の霧が屋敷をくるんでいた。鳥もまだ鳴かない。世界がまだ眠っているこの一刻に、この火だけが起きている。火が消えれば、奥の部屋で眠る人の心の臓もいつか止まる。それを繋ぎとめているのが、たぶん私の指のこの傾きだった。

四十八。

そこで火から鍋をおろす。一拍でも越えれば、薬は効きを失う。長く煮れば良いというものではない。ちょうどの頃合いがあって、それを見極める目だけが、私に許された仕事だった。

琥珀の薬を白い杯にうつす。湯気が立ちのぼった。薬草と硫黄のにおいが——私の指に何度も染みついたあのにおいが、台所いっぱいに広がる。

千八百回。匙を傾けた数を、私は一度も数えたことがない。それでも、指がもう知っている。嫁いだ朝から積み重ねた朝の数を、この手の傾きだけが覚えている。

ただ、今朝の薬は、いつもと同じ琥珀のはずなのに、なぜだか少し色が濃く見えた。最後の一杯だと、まだ誰も知らない。知っているのは、台所の暗がりと、私の指の苦い匂いだけ。

湯気が、まだ揺れている。私はその杯を盆にのせ、奥の部屋へと歩き出した。

最初の朝のことは、よく覚えている。

嫁いで三日目。まだ屋敷の廊下の曲がり角も覚えきっていないころだった。夜半に侍女が私の部屋の扉を叩いた。

「奥様、旦那様が……ご様子が……」

言い終わらないうちに、私は寝間着のまま廊下を走っていた。オーウェンの寝室の灯りは消えていて、暗がりのなかで彼の息が浅く鳴っていた。胸を押さえ、唇は紫がかっている。生まれつき心の臓が弱いと聞かされてはいたが、目の当たりにするのは初めてだった。

「火を。それから熱い湯を。すぐに」

自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。母がそうしていたように、私の手はもう動いていた。袋から根を出し、匙ですくう。最初のひと匙は、手が震えて量が狂った。すくい直す。湯の温度を指で探り、根を沈める。

「……苦い」

半身を起こしたオーウェンが、薬を一口含んでそう呟いた。出会ってまだ三日目の妻に、彼が初めてかけた言葉がそれだった。

「ええ。でも、苦いほうが効きます」

「君は……薬師なのか」

「母が、そうでした」

それ以上は言わなかった。彼は薬を飲み干し、私は彼の手首に指を当てた。脈は乱れていたが、しばらくして、少しずつ拍がそろっていく。その変化を指先で確かめながら、私は息を吐いた。

彼が再び眠りに落ちるまで、私は寝台の脇に座っていた。窓が白んでくる。そのとき、ふと思った。これが、私の役目なのだと。愛されてではない。役に立つから、この家に呼ばれた。それでよかった。母から受け継いだこの手が誰かを生かせるのなら、それで十分だと思っていた。

「丈夫な嫁が要るのではない。あれの病を抑えられる嫁が要るのだ」

嫁ぐ前、義父はそうはっきりと言い渡した。

「承知しております」と、私は答えた。「私の手で、できるだけのことを」

義父はうなずいただけで、それ以上は何も言わなかった。条件のはっきりした取引のほうが、私にはむしろ気が楽だった。愛を期待しなければ、愛がなくても傷つかずに済む。

それからの朝は、いつも同じだった。

夜明け前に目が覚める。だんだんと、目覚まし代わりの鐘も要らなくなった。身体が時刻を覚えてしまったのだ。湿った薪を爆ぜさせ、湯を沸かし、匙を傾ける。同じ角度で。同じ拍数で。

最初のころは、煎じている途中で何度も記録を見返した。母の覚え書きを引き写した古い帳面。だが半年もすると、それも見なくなった。手が覚えた。

「お薬です」

毎朝、私はそう言って彼を起こした。彼はまだ眠そうな目で半身を起こし、苦い薬を一息に飲み干す。

「……今日のは、少し濃いな」

「昨日、雨でしたから。湿った日は、根が水を含んで重くなります。同じ匙でも、入る量が変わるのです」

「そんなことまで、いちいち気にしているのか」

「いちいち、です。心の臓の薬は、いちいちでなければ効きません」

「君は、まるで僕の心の臓と、毎日話でもしているみたいだな」

「ええ。今日の拍はどうか、夜のあいだに乱れなかったか。脈に、訊いております」

「脈に、訊く」と、彼はおかしそうに繰り返した。

「お顔より、脈のほうが正直ですから。あなたは『何ともない』とおっしゃいますが、脈はちゃんと、昨夜よく眠れなかったと白状します」

「……かなわないな、君には」

彼は小さく笑って、また枕に沈んだ。それが、何百回となく繰り返された朝だった。彼にとっては、目覚めれば苦い杯が枕元にある、ただそれだけのこと。その杯のために誰が何刻に起きていたのか、彼が考えたことはなかったと思う。

考えなくていいように、私が黙っていたのだから。

冬の朝はつらかった。台所の水は氷の膜を張り、指がかじかんで匙がうまく傾かない。そういう日は、傾きが狂わないように、息を吹きかけて指を温めてから根をすくった。夏の朝は、根が乾きすぎて崩れやすい。湿らせる加減を間違えれば、湯に入れた途端に苦みばかりが立つ。

あるとき、あかぎれの寄った私の手を見て、彼がふと言ったことがある。

「君の手は、いつも荒れているな。冬になると、ひどくなる」

「水仕事をしておりますから。気になさらないでください」

「気にするさ。痛むだろう」

「痛みは、慣れます。それより、薬のほうが大事です。あなたの脈が、毎朝そろっていることのほうが」

「……君は、変な女だな。自分のことより、僕の脈か」

「ええ。私の手は、そのためにあるものですから」

彼はそれきり、私の手のことを言わなくなった。たぶん、忘れてしまったのだろう。それでよかった。覚えていられるより、忘れられるほうが、私の手仕事には似合っていた。

季節ごとに、天候ごとに、根のふるまいは違う。同じ薬は、二日と同じやり方では作れなかった。雨の日。霜の朝。風の強い夜の翌朝。そのどれもに、薬の表情があった。私はそれを毎朝、几帳面に書き留めた。

「セレーネ。お前は、なぜそんなに朝が早いのだ」

あるとき、廊下ですれ違った義母が、訝しそうに私に尋ねた。

「お薬を、煎じておりますので」

「侍女にやらせればよかろう。地味な嫁が、地味な仕事を抱え込んで」

「いえ。これは、私の手でなければ」

「変わった娘だこと」

義母は何も言わずに行ってしまった。きっと、地味な嫁が地味な仕事を抱え込んでいるとしか映らなかったのだろう。それでよかった。私の手仕事は、気づかれないことが正しかった。薬が効いて、彼が健やかに目覚める——それだけが、私の役目の答え合わせだった。

発作の夜のことを、私はよく覚えている。

いちばんひどかったのは、嫁いで二年目の冬だった。彼の胸が浅く上下して、唇が紫に染まる。私は寝台に這い上がり、彼の手首に指を当てた。脈は鳥の羽ばたきのように乱れて、いまにも止まりそうだった。私はそれを数えた。一、二、三。乱れた拍のあいだに、いつ次の鼓動が来るのかと息を詰めて待った。

「……セレーネ」

苦しい息のあいだから、彼が私の名を呼んだ。

「ここにおります。大丈夫です。息を、ゆっくり。吸って、止めて、吐いて」

「胸が……苦しい」

「わかっています。今、楽になります」

私は薬を含ませ、背をさすった。脈が整うまで、私の指は彼の手首から離れなかった。乱れがゆるやかになり、やがて静かな拍に戻っていく。その変化を確かめられるのは、暗闇のなかで私の指先だけだった。

「……君が、いてくれて、よかった」

朦朧(もうろう) としたまま、彼はそう言った。発作の夜にだけ、彼はそういうことを言った。きっと、本人は覚えていないのだろう。朝になれば、いつもの彼に戻っていた。

彼が眠ったあとも、私は寝台の脇に座っていた。朝が白むまで彼の息を聞いていた。吸って、吐いて、また吸う。その音が途切れないと確かめるだけで一晩が過ぎた。

そうした夜をいくつ越えたか、数えてはいない。けれど私の身体が覚えている。眠りの浅い癖も、夜明け前に目が覚める癖も、あの夜々が私に刻んだものだ。彼はそれを知らない。眠っているあいだのことだから、知りようがない。

ふと、思ってしまった夜がある。この薬を煎じる手ではなく、この手の持ち主のほうを、いつか目を覚ましたあなたが見てくれたら——と。私だって、と喉まで出かかった言葉を、湯気と一緒に飲み下した。望むのは、私の役目ではない。

それでよかった。私は、彼が「君がいてくれてよかった」と昼間に、目を開けたまま言うことを、望んではいなかった。望めば、苦しくなる。望まなければ、ただ手を動かしていられた。

彼の頬に血の色が戻り始めたのは、三年目の春ごろだった。

階段を一段上がるごとに胸を押さえていた彼が、ある日、ためらいなく二階まで上がりきった。その背を、私は階下から見ていた。

「セレーネ、見たか。今、一度も止まらなかったぞ」

彼は子どものように振り返って笑った。

「ええ。見ておりました」

「君のおかげだな」

その一言が、思いがけず胸に染みた。彼が私の手仕事を口にしたのは、それが最初で、たぶん最後だった。

「いいえ。あなたが、ご自分で歩かれたのです」

「謙遜するな。君が毎朝あの苦いやつを飲ませてくれたから、僕はここまで来た。そうだろう」

「……どうでしょう。私はただ、根を湯に沈めていただけです」

本当は、嬉しかった。けれど、嬉しいと顔に出すのは、なぜだか気が引けた。喜んでしまえば、この手仕事が「報われたいもの」になってしまう気がした。報われたくて続けているのではない。彼の唇に血の色が戻る——ただそのために、私は毎朝起きていたかった。

血色が良くなるにつれて、彼は外に出るようになった。社交の場に呼ばれ、馬に乗り、夜遅くまで帰らない日が増えた。それは喜ばしいことのはずだった。私が望んだ結果そのものだった。

なのに、屋敷で薬を煎じながら、ときどき、奇妙な寂しさがよぎった。彼が健やかになるほど、私の手の出番は減っていく。発作の夜は遠のき、彼が私の名を呼ぶこともなくなった。

それでいい、と私は自分に言い聞かせた。気づかれない手仕事が、いちばん良い仕事をしたとき、それはやがて要らなくなる。それが、薬師の手の行きつく先なのだから。

ただ、行きつく先が、こんなに早く来るとは思っていなかった。

三日前のことを、私は思い返していた。

午後の客間に、笑い声が満ちていた。オーウェンと、従妹のリリヤ。十八になる彼女は、健康そのものの頬でよく笑い、よく動いた。

私は紅茶を運んで入った。

「セレーネ」

オーウェンが私を呼んだ。声には張りがあった。病に伏せていたころの、かすれた呼び方ではなかった。

「もう、毎朝のあれはやめにしよう」

あれ、と彼は言った。薬、とは言わなかった。

「私はもう、すっかり治ったんだ。リリヤとも約束したんだよ。今度の舞踏会に出るって。いつまでも薬の世話になっているようでは、男として恰好がつかない」

「お 従兄(いとこ) 様、本当にお元気になられて。前は階段ひとつでも息が上がっていらしたのに」

リリヤが屈託なく笑った。彼女に悪気はなかった。健やかな人に、薬の朝がどれほどのものか見えるはずもない。見えないように、私が隠してきたのだから。

「だろう。もう昔の僕とは違うのさ。——なあセレーネ、君も肩の荷が下りるだろう。毎朝あんな早くから起きて、苦労をかけた。これからは、ゆっくり眠るといい。その手も、少しは綺麗になるさ」

言いながら、彼の視線は私の手の上を、なんでもないものとして通り過ぎていった。薬草の灰汁で爪が変色し、湯と霜であかぎれの寄った指を。叱るでも、いたわるでもなく、ただそこに何もないかのように。盆を持つこの手が五年のあいだ何を傾けてきたのか、彼の目はかすめもしなかった。それは、私が長いあいだ望んできたとおりの、気づかれない手だった。

彼は、ねぎらっているつもりだったのだと思う。悪意はなかった。

「君の薬は、もう要らない」

オーウェンは軽やかにそう言った。

まるで古びた外套を脱ぐように。重荷をひとつ下ろすように。

私は紅茶を注ぐ手を止めなかった。琥珀の液が白い杯に静かに満ちていく。湯気が立つ。私はその湯気の向こうで、ただ微笑んだ。

「ええ」

それだけを言った。

言い返す言葉は、いくつも浮かんだ。あなたの心の臓は治ってなどいない。ただ抑えられているだけだ、と。薬をやめれば、また紫の唇の夜が戻ってくる、と。

けれど私はそれを飲み込んだ。

「あの……セレーネ様」

帰り際、玄関で、リリヤがふと声をかけてきた。

「お従兄様のお薬、私にも作り方を教えていただけませんか。私、お従兄様のお役に立ちたくて」

「お役に、立ちたい」

「ええ。お従兄様のために、何か私にもできることがあればと思って」

悪気のない、まっすぐな申し出だった。私は少しだけ迷って、こう答えた。

「棚の引き出しに、記録がございます。お読みになれば、材料も拍数も、すべて書いてあります」

「まあ、それなら私にも作れますね」

彼女は嬉しそうに笑った。私は、その笑顔に何も言えなかった。読めば作れる——そう信じている人に、読んでも作れないのだと告げる言葉を、私は持っていなかった。

言葉で訴えても彼には届かない。届くのなら、五年のあいだに届いていたはずだ。

私の手は、言葉より雄弁ではなかった。気づかれないことを選んできた手は、最後まで気づかれないままだった。それは私が選んだ生き方の、当然の帰結だった。

その夜、私は離縁の書面を整えた。

涙は出なかった。不思議なほど静かな気持ちだった。ただ一度だけ、書面の最後に名を記すとき、筆を持つ手が止まった。要らないと言われた手で、要らないと認める文字を書く。そのことが、ほんの少しだけ、おかしかった。

オーウェンの寝室の扉を、いつものように小さく叩く。返事はない。まだ眠っている。

私は音を立てずに扉を開けた。

窓の隙間から薄い光が差し込んで、寝台の上の夫の顔を照らしている。血色のいい頬。穏やかな寝息。出会ったころの彼を知る者は、この顔を信じられないだろう。

嫁いできた日、オーウェンの唇は紫がかっていた。階段をひとつ上るだけで胸を押さえる。夜になれば発作で目を覚ました。

盆を寝台脇の小卓に置く。

いつもなら、ここで彼を起こす。「お薬です」と。けれど今朝は起こさなかった。

杯をそっと小卓の中央に置き、布で覆っておく。冷めないうちに飲んでくれればいい。飲まなくても、私にはもうどうすることもできない。

私は彼の寝顔を少しのあいだ見つめた。

この頬に血の色が戻るまで、いくつの朝を重ねただろう。脈を数えた夜が、いくつあっただろう。

「……お元気で」

声に出してから、誰にも届かないことに気づいて、私は小さく笑った。

それから、もう一度だけ、彼の手首にそっと指を当てた。脈は、静かだった。私が初めて触れたあの夜の、止まりそうな乱れが嘘のように、規則正しい拍を刻んでいる。

この拍を作るのに、千八百回かかった。

指を離す。彼は何も知らずに眠っている。それでいい。私の役目は、もう終わったのだ。

扉を閉める。

屋敷を去る支度に、たいした荷物は要らなかった。

嫁いだとき持ってきたのは、母の形見の薬研と、いくつかの草の種だけ。それだけを麻の袋にまとめていると、年かさの侍女が、そっと部屋を覗いた。長く私の朝を遠くから見ていた、ただ一人の人だった。

「奥様。本当に、お発ちになるのですか」

「ええ。もう、私の薬は要らないそうですから」

「……旦那様は、何もおわかりになっていません。奥様が、毎朝どれほど」

「いいのです。わからないように、私が支度をしてきたのですから。気づかれないことが、いちばん上手な薬師なのですよ」

侍女は唇を引き結んで、それ以上は何も言わなかった。ただ、私の袋を結ぶ手を、黙って手伝ってくれた。屋敷で、私の手仕事を半分でも見ていたのは、たぶん、この人だけだった。

最後に、私は薬棚の前に立った。

心の臓の薬の材料が、あとどれだけ残っているか確かめる。根が三十回ぶん、葉が四十回ぶん。私がいなくなってもしばらく保つように、出ていく前に補充しておいた。

それから、棚のいちばん下の引き出しを開けた。

なかには綴じた紙の束が入っている。五年ぶんの調薬記録だ。

どんな天候の日に、どの草をどれだけ使ったか。発作の前の晩に何が効き、何が効かなかったか。湯の温度、煎じた拍数、匙の傾き——そのすべてを、私は毎朝几帳面に書き留めてきた。

筆跡は五年で少しずつ変わっている。最初のころの緊張した硬い字。慣れてからの流れるような字。指がかじかむ冬の朝の、わずかに乱れた字。めくれば、千八百回ぶんの朝が、そこにあった。

誰に読ませるつもりもなかった。私が忘れないために、ただ書いていた。

昨日のリリヤの言葉が、ふとよみがえった。記録を読めば作れる、と彼女は信じていた。

私はもう一度、束をめくった。「匙、半分」「湯、騒ぐ前」「火より、四十八」——そこに書いてあるのは、結果だけだった。半分とは、どの半分か。騒ぐ前とは、どの瞬間か。四十八とは、どの速さで数えた四十八か。私自身、それを言葉にしようとして、いつもうまくいかなかった。書けるのは、こぼれ落ちたあとの抜け殻だけだった。

私はその束を、引き出しのなかにきちんと揃えて戻した。

持っていこうとは思わなかった。これは、この家のものだ。私の手が消えても、せめてこの記録があれば——そう思ったのかもしれない。あるいは、ただの未練だったのかもしれない。

引き出しを静かに閉める。

玄関で、一度だけ足が止まった。背中で、奥の寝室のほうを聞いている自分がいた。私の名を呼ぶ声が、いまからでも追ってきはしないかと。——馬鹿な、と思って、私は前を向いた。あの人が呼ぶのは、いつも眠りのなかだけだった。

霧の朝のなかへ、私は出ていった。誰にも見送られず、誰の足音も追ってこない。それでよかった。

それでよかったはずなのに、馬車が動き出したとき、胸の奥で何かが小さくほどけて、頬を一筋だけ濡らした。誰のためでもない涙だった。五年ぶん、ひとりで起きていた朝の、その最後の朝に、私はようやく一度だけ泣いた。

馬車の窓から振り返ると、屋敷は霧にぼやけて、もう輪郭も定かではなかった。

私が去ったあとのことを、私は知らない。

知らないけれど、のちに人づてに聞いた。

最初の数日、屋敷は何も変わらなかったという。

いや、ひとつだけ変わったことがあった。朝、誰も薬の杯を持ってこなくなった。けれど、それを寂しいと思う者はいなかった。オーウェンはむしろ、苦い杯から解放されたことを喜んでいた。

「どうだ、薬がなくても何ともない。リリヤ、今日は遠乗りに行こうか」

「まあ、嬉しい。お従兄様と遠乗りだなんて」

妻のいない食卓は、かえって賑やかだったかもしれない。誰も、夜明け前の暗い台所のことを思い出さなかった。

異変が起きたのは、十日目の夜だった。

舞踏会から戻った夜半、オーウェンが胸を押さえて倒れた。

久しぶりの——けれど、彼にとっては忘れていた——発作だった。薬を断ってから、抑えられていた病がゆっくりと牙を取り戻していたのだ。

「お従兄様! 誰か、誰か来て!」

リリヤの悲鳴が、屋敷に響いた。

「胸が……ぐ……息が、できない……」

「お従兄様、しっかりなさって! ねえ、どこが苦しいの。どうすればいいの。教えて、お願いだから」

オーウェンは床に膝をつき、シャツの胸元を握りしめた。唇が、見る間に紫に染まっていく。リリヤは彼の背に手を当てたが、どうすればいいのかわからない。さすればいいのか、起こせばいいのか、寝かせればいいのか——何ひとつ、知らなかった。

「薬を……薬を持ってきて!」

料理人が薬棚を開けた。材料はあった。私が残しておいたものだ。引き出しの記録もすぐに見つかった。

「これだ。これに書いてある通りに作れば……」

料理人が震える指で頁をめくる。

「匙、半分……? 半分とは、山盛りの半分か、すり切りの半分か」

「わからないわ。とにかく、半分なら半分でいいから、早く!」とリリヤが叫んだ。

「ですがリリヤ様、半分を間違えれば、薬は効かないと奥様は……」

「奥様はもういないのよ! ここにいる誰かが、やるしかないの!」

書かれた文字は読めた。けれど、その文字の奥にある手の加減は、紙のどこにも書いていなかった。

「リリヤ様、あなたは奥様にやり方を聞いたのでは」

「聞いたわ。記録を読めばわかるって。だから、読めば……読めば、できるはずなのよ」

リリヤは記録の束をひったくるようにして、台所へ走った。

台所に立ったリリヤは、まず火を起こすところでつまずいた。

湿った薪はなかなか燃えつかない。何度も火口を擦り、ようやく薪が爆ぜたときには、もう指先が 煤(すす) で黒くなっていた。

「水を……湯を沸かして……根を、匙で半分」

彼女は記録を読み上げながら、震える手で根を匙にすくった。山盛りにすくってしまい、半分とはこれではないと思い直して、すり切りにする。それも違う気がして、また足す。匙の柄を、どう傾ければいいのかわからなかった。

湯が沸いた。記録には「湯、騒ぐ前」と書いてある。けれど、もう湯はぐらぐらと煮立っていた。彼女には、その「騒ぐ前」がいつだったのか、見極められなかった。

根を沈める。四十八を数えて、火からおろす。

「できた……できたわ。お従兄様、お薬です」

オーウェンはそれを飲んだ。けれど、効かなかった。苦いばかりで、胸の痛みは引かなかった。

「効かない……なぜ……記録の通りにやったのに」

「ごめんなさい、お従兄様。もう一度、もう一度やってみますから」

リリヤは何度も煎じ直した。匙の量を変え、湯の温度を変え、拍数を変えた。記録のどの一行も読み落とすまいと、何度も目を走らせた。けれど書かれているのは結果だけで、その手前にある加減は、どの行にも記されていなかった。

匙の傾き。湯が騒ぐ寸前の、ほんの一瞬の頃合い。火からおろす呼吸。それは私の指と目が覚えていたもので、紙に移そうとした端からこぼれ落ちてしまうものだった。

「セレーネ様……どうやって……どうやっていたの」

彼女は台所に立ち通しだった。夜が更け、薪が尽き、また足され——それでも私の薬と同じものは、ついにできなかった。

窓の外が、白んできた。鳥が、まだ鳴かない時刻。

夜明け前の台所で、彼女ははじめて気づいたのだろう。

毎朝、この時刻に、誰かが立っていたのだと。鳥も鳴かない暗がりのなかで、湿った薪を爆ぜさせ、湯の温度を指で探っていた手があったのだと。

その手が何をしていたのか。客間で笑っているあいだ、舞踏会の支度に浮かれているあいだ——誰の目にも触れない場所で、何が静かに続けられていたのか。

リリヤは記録の束を胸に抱えて、声を殺して泣いたという。読めるのに作れない。その紙の重さだけが、彼女の腕のなかにあった。

「ごめんなさい……ごめんなさい、セレーネ様。私、何も知らなかった。何も、見ていなかった」

誰かを責める涙ではなかったはずだ。ただ、見えていなかったものが、急に見えてしまった——その重さに、人は泣くのだと思う。

千八百回ぶんの朝が、そのときはじめて、たしかな輪郭を持ったのだ。

オーウェンの発作は、その夜は何とか収まった。けれど、薬のない暮らしに、彼の心の臓は耐えられなかった。

発作は、月に二度、三度と戻ってきた。

屋敷じゅうの者が薬を煎じようとした。料理人も、侍女頭も、リリヤも。みな記録を読み、その通りにやった。けれど、誰のものも効かなかった。

オーウェンは王都の薬師を呼んだ。高名な者を、金に糸目をつけず。彼らは記録を見て、首を振った。

「書いてある材料は揃っております。配合も、間違ってはおりません。ですが……これは、書いた者の手でなければ、同じには煎じられますまい」

「金ならいくらでも出す。同じ薬を作ってくれ」

「申し訳ございません。我々にできるのは、似た薬まで。あとは……記録を書いた、その御方を捜されるよりほかに」

似た薬。

その短い一言が、それからのオーウェンの暮らしのすべてになった。

王都いちの薬師が、記録を頼りに調えた一服。発作で死にはしない程度には、効いた。胸の痛みを半分ほど鈍らせ、紫の唇をなんとか人前に出せる色まで戻す。けれど、それだけだった。半分。いつも、半分。

毎朝、彼はその似た薬を飲んだ。飲まなければ夜まで保たないからだ。喉を通る苦みは、たしかにあの杯のものに似ていた。似ているからこそ、彼にはわかった。これは、あれではない。

あの薬は、飲んだあとに身体の芯がほどけていくような、奇妙な安堵があった。脈が、自分の知らないところで、誰かに整えられていくような。似た薬には、それがなかった。苦いだけで、温度がない。

彼は毎朝、その「ない」を確かめてから一日を始めた。

「先生。今朝のは、いつもより効いた気がするのですが」

あるとき、彼は薬師にそう尋ねたという。すがるような問いだった。

「さようでございますか。配合は、昨日と同じにしてございますが」

「同じ……そうか。同じか」

彼は黙った。同じことをしても、ある朝はましで、ある朝はそうでない。なぜそうなるのか、薬師にもわからなかった。わかっていた人は、もう、この屋敷にいなかった。

胸が騒げば薬師を呼ぶ。薬師は記録をめくり、匙を傾け、首をひねる。「もう少し濃く煎じてみましょう」「いや、薄いほうがよいのかもしれません」——その試行錯誤に、オーウェンは口を出せなかった。正しい煎じ方を、彼自身がただの一度も見ていなかったからだ。眠っているあいだの出来事だったから。

毎朝、枕元にあった苦い杯。あの拍数を数えていたのが何刻だったのか、匙がどの角度で止まっていたのか、彼は何ひとつ知らない。脱ぎ捨てた外套を拾い直そうとして、それがどんな仕立てだったのかさえ覚えていない男のように、彼はただ、失ったものの形を手探りした。

ある夜、発作のあとで、彼はリリヤにこう漏らしたという。

「リリヤ。僕はね、毎朝この苦い薬を飲むたびに、思い知るんだ」

「何を、お従兄様」

「これは、あれじゃない。似ているけど、あれじゃない。——飲めば飲むほど、わかってしまう。あの杯が、どれだけのものだったか」

「お従兄様……」

「僕は、毎朝それを確かめてから、一日を始めている。失ったものの大きさを、苦い薬で測りながらね。死なせてはくれない。ただ、忘れさせても、くれないんだ」

リリヤは、何も言えなかったという。慰めの言葉が、どれも嘘になる気がしたのだろう。

似た薬で、彼は生き延びた。生き延びながら、毎朝それが本物でないことを知り続けた。

それは一度きりの罰ではなかった。鞭打たれて済むものなら、まだよかったのかもしれない。そうではなく、夜が明けるたびに、似た薬の苦みのなかで、彼はもう一度、同じことを思い知った。当たり前だと思っていたものが、ひとつも当たり前ではなかったと。

彼は痩せていった。発作のたびに血色が薄れ、また、出会ったころの紫の唇に近づいていく。鏡を見るたびに、彼は自分が捨てたものの大きさを思い知ったに違いない。

それは罰ではなかった。誰も彼を罰しはしなかった。リリヤも、屋敷の者も、ただ案じていた。

ただ、当たり前だと思っていたものが、ひとつも当たり前ではなかった——その事実が、毎朝の似た薬の苦みに混じって、彼の内側から彼を責め続けていた。

それから一年が過ぎた。

私は王都の外れに、小さな薬庵を構えていた。

母の薬研で草をひき、近隣の人々に薬を売る。派手な暮らしではない。屋敷にいたころのような絹も宝石もない。けれど、ここには、屋敷にはなかったものがあった。

最初にそれに気づいたのは、薬庵を開けて間もないころだった。

「セレーネさん、この前の咳止め、よく効いたよ。うちの婆さんが、ぐっすり眠れたって」

「それはよかったです。乾いた咳には、あの配合が合いますから」

「あんたの手は、たいしたもんだ。ほかの薬師のとは、効きが違う」

「同じ草でも、煎じ方ひとつで変わるんです。それだけのことですよ」

「いやいや。その『それだけ』が、できる人がいないんだ。だからみんな、あんたのところへ来る」

「……ありがとうございます」

私は、ようやくそれだけ答えた。胸の奥が、なぜだか熱くなっていた。

たったそれだけのことが、五年のあいだ私には与えられなかったのだと、ここに来てはじめて知った。私の手を見て、私の手を口にして、私の手に礼を言う人が、ここにはいた。屋敷では、誰の目にも触れないことが正しかった。ここでは、見られることが、仕事のしるしだった。

「先生、子どもが熱を出して」と駆け込んでくる母親がいた。

「先生、腰が痛くてかなわん」と杖をつく老人がいた。

先生、と人は私を呼んだ。その言葉に、私は最初、振り返るのが遅れた。私が、先生。誰かの手ではなく、私自身の名で呼ばれている。

「先生のおかげで、痛みが取れました」

「先生、また来ますね」

屋敷では、私の手は一人のためだけのものだった。気づかれないことが、いちばんの誉れだった。ここでは、たくさんの手が、私の手を必要としていた。気づかれることが、いちばんの誉れだった。

ある冬の夜、村はずれの女が、熱で青くなった赤ん坊を抱いて駆け込んできた。

「先生、お願いします。この子が、朝から息が浅くて……ほかの薬師は、もう手の打ちようがないと」

「お見せください。——大丈夫。脈はまだ、しっかりしています」

私は赤ん坊の小さな手首に、指を当てた。乱れてはいたが、止まりかけてはいない。私の指は、それがわかる指だった。

「熱を下げる前に、まず汗を呼びます。すぐにできますから、そこで待っていてください」

「先生、この子は……助かりますか」

「ええ。助かります。夜が明けるころには、きっと泣く力も戻ります」

私は草を挽き、湯の温度を指で探り、いつもの傾きで匙を止めた。母から受け継いだ、この手で。

明け方、赤ん坊は火がついたように泣いた。元気な、いい泣き声だった。母親はその子を抱いて、何度も何度も私に頭を下げた。

「ありがとうございます。先生がいなければ、この子は……」

「いいえ。この子が、自分で生き延びたんです。私はただ、そばで湯を沸かしていただけ」

屋敷で、夫の血色が戻ったときに言ったのと、同じ言葉だった。けれど、あのときと違って、この朝の私の手は、たしかにこの母親の目に映っていた。私の手が誰かを生かしたことを、見ていてくれる人が、目の前にいた。

「ありがとう、先生」

その言葉を、私は一日に何度も聞いた。屋敷で五年かけて一度も聞けなかった言葉を。

夜、薬研を回しながら、ときどき思った。私の手は、ずっと、見つけられたかったのかもしれない。要らないと言われたあの手が、ここでは毎日、要ると言われている。

オーウェンのことも、ふと思った。恨んではいなかった。ただ、彼が達者でいてくれればいい、と。薬を断った彼の心の臓が、いまどうなっているのか——それだけが、ふと胸をよぎる夜があった。

春の遅い朝だった。薬庵の戸口に、人影が立った。

私は薬研を回す手を止めた。

戸口に立っていたのは、オーウェンだった。

頬の血色はまた薄れていた。一年前より、ずいぶん痩せている。彼は王都の薬師を訪ね歩いたのだろう。けれど心の臓の薬を私と同じに煎じられる者は、どこにもいなかったのだ。

彼は長いあいだ、何も言えずに立っていた。

張りのあった声は、もうない。「もう要らない」と言ったあの軽やかさも、どこにも残っていなかった。

「……セレーネ」

ようやく、彼は私の名を呼んだ。あの客間で呼んだときとは、まるで違う声だった。

「お久しぶりです」と、私は言った。

「君を、捜していた」

「ええ。お顔色で、わかります」

彼は唇を噛んだ。何かを言おうとして、言葉が出てこないようだった。

「……すまない」

ようやく、彼はそう言った。

訥々《とつとつ》と、言葉を探しながら。

「君が毎朝、何をしてくれていたのか。僕は何も知らなかった。眠っているあいだのことだったから」

「知らなくて、よかったんです。それが私の役目でしたから」

「違う」

彼は首を振った。

「役目なんかじゃない。あれは……君が、僕を生かしてくれていたんだ。千八百回も。僕はそれを当たり前だと思っていた。当たり前のものなんて、ひとつもなかったのに」

「あの薬がないと、また苦しまれるでしょう」

「ああ。毎晩、思い知っているよ。——苦しいたびに、君の手を思い出す。匙を傾ける、あの音まで」

「音、ですか」

「そうだ。薪が爆ぜる音。湯が静かに鳴る音。君が、僕の眠っているあいだ、ずっとその音のなかにいたんだと、今になってわかる」

私は何も答えなかった。

答える言葉を、まだ持っていなかった。喜びでも恨みでもない、もっと静かな何かが、胸の奥でゆっくりと動いていた。

「リリヤも……ずっと、君に詫びたがっている。あの子は、君の記録を抱えて泣いたんだ。読めるのに作れないと言って」

「リリヤ様が」

「ああ。あの子は今でも言うよ。『私、何も見ていなかった』と。君がいなくなって初めて、僕たちは、君の手の重さを知ったんだ」

「リリヤ様を、責めないでください。あの方に悪気はありませんでした」

「わかっている。悪いのは、僕だ。——あの子はね、毎朝、夜明け前に起きて台所に立とうとしたそうだ。君のいた時刻に、君のいた場所で。それでも、君の薬にはならなかった」

「無理をなさらないよう、お伝えください。手で覚えるものは、心で焦っても近づきません」

「君に、もう一度だけ訊いてもいいか」

「なんでしょう」

「あの五年、君は……僕を、どう思っていた。役目だと、本当にそれだけだったのか」

私は少し黙った。問われて初めて、自分の胸を覗き込むような心地がした。

「……役目でした。けれど、役目のなかにも、ほんの少しだけ、役目でないものが混じる夜はありました。それを、私は毎朝、湯気と一緒に飲み下していたのです」

「役目でない、もの」

「ええ。けれど、それを口にしてしまえば、私は手を動かせなくなりましたから。望まないことが、私の手を支えていたのです」

彼は長いあいだ、何も言えなかった。

「君は……どうして、そんなに静かでいられるんだ。僕は、君を捨てたのに」

「捨てられたとは、思っておりません。要らないと言われただけです。要らないものを、無理に置いていくほど、私は図々しくありませんでした」

彼はそれ以上、復縁を口にしなかった。戻ってくれとも、やり直そうとも言わない。たぶん、それを言える立場でないことを、彼はようやく学んでいた。

ただ最後に、彼はこう言った。

「もう一度だけ……君が薬を煎じる音を、聞かせてもらえないだろうか」

私は彼の顔を見た。

痩せた頬。沈んだ目。あの朝に私が見つめた寝顔とは、まるで違う顔だった。けれど、その奥には、かつて私が脈を数えた、あの弱い心の臓がまだ鼓動していた。

戻ってくれ、とは言わなかった。煎じてくれ、とも言わなかった。彼が乞うたのは、薬ではなく、音だった。それなら、と私は思った。それなら、聞かせてあげられる。

「……そこで、お待ちください」

私は銅の鍋に水を汲んだ。

火を入れる。乾いた薪が、すぐに勢いよく燃えた。湯の縁に指先を当てる。まだ早い。心の臓の薬は、湯が騒ぐ前のこの温度で草を沈めなければならない。

「……懐かしい音だ」

薪の爆ぜる音に、オーウェンがぽつりと言った。

「毎朝、君はこの音のなかにいたんだな。僕が眠っているあいだ、ずっと」

「ええ。鳥も鳴かない時刻でしたから、薪の音だけが、相手でした」

「寂しくは、なかったのか」

「さあ。寂しいと思う暇もありませんでした。手を動かしていれば、夜は明けますから」

彼は何も言えずに、ただ私の手元を見ていた。

匙の柄を半分ほど傾ける。考えなくても指が同じ角度で止まる。五年で覚えた、この傾き。

「それが、半分か」と、彼は食い入るように言った。

「ええ。これが、半分です。記録には書けなかった、半分です」

「僕には……同じ角度に、見える。何度見ても」

「そうでしょうね。私にも、最初は見えませんでした。母の手を、何百回も見て、ようやく」

彼は、何も言えずに、ただうなずいた。

湯のなかで根がほどけ、薄い琥珀がにじみ出した。

拍数を胸のうちで数える。

春の朝の光が、薬庵の小さな窓から差し込んでいた。鳥が、もう鳴いている。今朝は、私ひとりではなかった。

四十八。

火から鍋をおろす。

琥珀の薬を白い杯にうつす。湯気が立ちのぼり、あの懐かしいにおいが、二人のあいだに静かに広がった。

オーウェンが、震える両手をそっと前へ出した。受け取ろうとする手だった。毎朝、枕元で当たり前に差し出されていた、あの杯を待つ手。

私は、その手の前で、杯を止めた。

差し出さなかった。

彼の手と、湯気の立つ杯のあいだに、わずかな隔たりが残った。それは小さな距離だったけれど、五年と一年をかけて私がようやく引いた、たしかな一本だった。

「……オーウェン様」

はじめて、私は彼を名で呼んだ。あなた、ではなく。

「この手は、もう、あの家のものではありません」

彼の手が、止まった。

「いただかせては、あげられません。差し上げれば、私はまた、毎朝あなたのために起きる女に戻ってしまいます。気づかれない場所で、当たり前に手を動かす女に。——それは、もう、いたしません」

「……ああ」

彼は何も言い返せなかった。出した手を、ゆっくりと引いていく。

「この手は今、たくさんの人に呼ばれているのです。先生、と。あなたが要らないと言ったこの手を、要ると言ってくれる人が、ここにはおります。私は、その人たちのところへ帰らねばなりません」

私はその杯を、彼にではなく、二人のあいだの卓に置いた。

「ですが、香りなら。煎じる音と、このにおいなら、差し上げられます。あなたが乞うたのは、それだったでしょう」

湯気が、卓の上でゆっくりとほどけていった。

オーウェンは、その湯気に顔を寄せた。飲みはしない。飲ませてもらえないことを、彼はもう、わかっていた。ただ、目を閉じて、苦いにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。

「……苦いな」

彼の唇から、その言葉がこぼれた。

飲んでもいないのに、香りだけで。出会って三日目の朝、彼が初めて私にかけたのと、同じ言葉だった。

私は、思わず小さく笑ってしまった。

「ええ。でも、苦いほうが効きます」

「……そうだったな。君は、最初の朝も、そう言った」

「覚えていらしたのですか」

「今は、覚えているよ。——ひとつ残らず。覚えたところで、もう、遅いのに」

その「もう遅い」を、彼は誰のせいにもしなかった。ただ自分の手のなかの空白を見つめていた。

私は、卓の杯を引き取った。彼の口へは、ついに運ばなかった。

「お帰りの道中も、お薬を切らさぬよう。似たものでも、ないよりは、ずっとましですから」

それが、私が彼に渡せる、せいいっぱいの優しさだった。同じ薬は、もう、彼の朝には戻らない。それを決めたのは、彼が「要らない」と言ったあの日であって、いまの私ではなかった。

彼は立ち上がり、深く、深く頭を下げた。貴族が、平民の薬庵の戸口で。

「……ありがとう。それから、すまなかった」

「お元気で」

戸口を出ていく痩せた背を、私は見送った。霧はもうなく、春の光が、彼の肩に降っていた。

彼が乞うた音を、私は最後まで鳴らしてやった。けれど、杯は渡さなかった。

それでいいのだと思った。

卓に残った杯から、まだ湯気が立っている。私はそれを、自分の手で、ゆっくりと飲み干した。

「……苦い」

誰に聞かせるでもなく、ひとり呟いた。

苦い。けれど、この苦さは、もう誰かのために飲む苦さではなかった。私が、私自身のために飲んだ、最初の一杯だった。

戸を叩く音がした。

「先生、いらっしゃいますか。うちの子の熱が、また」

「はい。今、参ります」

私は杯を置き、立ち上がった。窓の外で、遅い春の小花がひとつ、咲いていた。