「妄想で港を止める臆病者め」と追放された検疫令嬢——三月後、疫病船が王都に入った朝のこと
作者: 歩人
本文
「その船を、桟橋へ寄せてはなりません」
エルネスティーネの声に、荷揚げ場の喧騒が一拍だけ止んだ。
沖から、薄い硫黄の香が流れてくる。卵の腐ったような、火の燃え残りのような匂い。彼女は、潮に混じったそれを誰より早く嗅ぎ分けて、桟橋の先端で足を止めていた。
「お嬢様、また匂いますか」
「ええ。ヘルミーネ、あなたも嗅いでごらんなさい。硫黄でしょう」
「……言われてみれば、ほんの少し」
「船倉で病の元を煙でいぶすと、この匂いが残るのです。抜けきる前に港へ来た、ということ」
彼女が見据えているのは、港のすぐ手前ではなかった。ずっと沖合に錨を下ろした、一隻の帆船。怪しい船をいったん留め置き、人も荷も上げさせない海域が、そこにある。三本の帆柱を立てた南方船が、いま、その沖からこちらへ近づこうとしていた。
「あの船の積荷台帳を」
「はい。どうぞ、お嬢様」
侍女が差し出した帳面を、彼女は指先でめくった。墨の匂いが立つ。乾物に香辛料、 水甕(みずがめ) の数。出航地は南方のソルナ。寄港地は三つ。そのうちの一つで、彼女の指が止まった。
「ヘルミーネ。ここを読んでごらんなさい。寄港地の二つ目」
「えっと……クロイツ湾、でございますね」
「初夏の、クロイツ湾」
「それが、何か」
「あの湾を、この季節に抜けてきた船はね」
彼女は帳面を閉じて、沖の船を見た。
「必ずと言っていいほど、人を死なせる熱を連れてくるの。船倉の闇に潜んで、陸に上がってから一気に燃え広がる。土地の者は、 船熱(ふなねつ) と呼んでいます」
「では、あの船には病人が」
「いいえ。まだ一人もいないでしょうね」
「いない……のですか」
「潜んでいるあいだは、乗っている者すら気づかないの。だから、たちが悪い」
エルネスティーネは沖を指した。
「あの船を桟橋に着ければ、三日後、この港町は熱で焼けます」
ヘルミーネの手が、台帳の端をきゅっと握った。潮風が、二人の栗色の髪をさらっていく。
「あの……お嬢様。失礼を承知で伺いますが」
「なにかしら」
「お嬢様は、あんなに遠い船を眺めただけで、そこまでお分かりになるのですか。台帳に病の名が書いてあるわけでもないのに」
「書いてありますよ。船の身体に」
「船の、身体」
「ええ。ほら、あの船腹。水面が触れているあたりの線を見て」
彼女が示すと、ヘルミーネが目を細めて沖を見やった。
「藻が、帯になって付いているでしょう。あれが長いほど、海の上で過ごした日数が長い。船が深く沈んでいれば、荷が重い。帆を張る横木のたわみ方一つで、どこから何を積んできたかまで分かる」
「それが、お嬢様には文字に見えると」
「船は、越えてきた海を正直に書きつけるの。わたしは、それを一文字ずつ読んでいるだけ」
船は航路を語り、航路は季節を語り、季節は病を語る。胸の内で、彼女はいつもの順でそれを辿った。
「いま甲板の者が健やかに見えても、それは熱がまだ眠っているだけ。目を覚ます前に、この船は沖に留めます」
判定を耳にした港湾の役人が、困った顔で頭を掻きながら寄ってきた。
「ですがお嬢様、病人は一人もおりませんぜ。それを止めちまったら、船長がまた喚きますよ」
「喚かせておきなさい。見えるようになってからでは、もう手遅れなのです」
「手遅れ、ねえ……」
「火を見てから水を汲みに行くのでは、家はもう焼け落ちているでしょう。それと同じ」
役人は、わかったようなわからないような顔で札を取りに行った。
火が見えてから水を汲みに行く人ばかりだから、わたしの仕事は永遠に終わらないのだわ。胸の内でそう呟いて、彼女は小さく息を吐いた。
水際(みずぎわ) の検疫は、目に見える病を止める仕事ではない。まだ誰も発症していない船倉の闇を、航路と季節と積荷から読み解く仕事だ。そしてその判断のすべてを支えているのは、母から受け継ぎ、十二年かけて書き継いだ、たった一冊の帳面だった。
どの航路の船が、どの季節にどんな病を運んできたか。三十年分の入港記録とその後の発症が、年表となって綴じられている。王国にただ一冊きりの、未来を読む索引。
その最初の頁は、母の字だった。
——初夏のクロイツ湾は、船熱を運ぶ。決して通すな。
母を奪った病の名が、母自身の手で、戒めとして残されていた。エルネスティーネは十二年、その一行の下に、一度も裏切らずに記録を積み上げてきた。
その一行を、わたしは守り抜いた。守り抜いたからこそ、王太子はわたしを臆病者と呼ぶ。沖に並んだ留め置きの船は、彼の目には妄想の数だけ積み上がった足枷に見えていた。
あと幾日かで、わたしはこの桟橋を最後に見ることになる。まだ、そうとは知らずに、わたしは沖の船を読んでいた。
彼女の一日は、夜明け前から始まっていた。
まだ星の残る時刻に、エルネスティーネは検疫塔の窓を開ける。頬に、風が触れた。
「今朝は、南風ね」
「窓を開けただけで、お分かりになるのですか」
「風向きで、その日どんな船が来るか見当がつくの。南から吹く朝は、南方船が泊地に並ぶ。だから、今日は気を抜けません」
「お嬢様。その南方船を含めて、今日の入港予定は、四隻でございます」
「あら。ヘルミーネ、また昨夜のうちに写してきたのね」
「お嬢様が夜明け前に欲しがるに決まっておりますので。先回りいたしました」
「わたし、そんなに分かりやすいかしら」
「港でいちばん分かりやすいお方でございます」
言い返す言葉を探したが、見つからなかった。事実、彼女は昨夜「明朝の控えはまだか」と二度ヘルミーネに尋ねていた。
ヘルミーネが、昨夜のうちに港湾長の控えから写してきた一覧を差し出した。エルネスティーネは灯火の下で、船籍も船種も出航地も、一隻ずつ指でなぞっていく。
「一隻目。この北方船は、先に通してかまいません」
「よろしいので」
「フィヨルドからの船は、冬でなければ病を運びません。今は初夏。心配は要らない」
「では、桟橋の役人に」
「ええ。けれど、こちらの——」
彼女の指が、一覧の三隻目で止まった。船種の欄に、見慣れぬ綴りがある。
「双胴です」
声が、自分でも思いがけず弾んだ。
「双胴、でございますか」
「船腹を二つ並べて繋いだ船。南の大洋の島でしか造りません。この海で見るのは、十年で二度目」
来たわ。十年で二度目。二度目がよりにもよって、わたしの当直の朝に。
灯火に寄せた横顔から、いつもの冷えが抜けていた。瞳の緑が火を映して明るむ。船種の隣に書かれた帆装の様を、彼女は唇を動かしながら一字ずつ追った。二枚の三角帆。舵は左右に一つずつ。
二枚なら、片方を畳んでも残る一枚で舵が利く。あの帆なら逆風でも斜めに切り上がれるはず。いえ、切り上がれる、では足りない。どこまで詰めて風を噛めるのか。喫水はどう取っているのか。二つの船腹のあいだに波を逃がす隙間があるなら、横波には——
指が、ひとりでに台帳の余白へ航跡を描きはじめた。出航地は、寄港地は、喫水は。読むほどに、頭の中で、見たこともない船が一隻、勝手に組み上がっていく。次の船の判定が控えていることも、今が当直の朝であることも、彼女の頭の中ではもう遠い陸の話だった。
「お嬢様」
聞こえない。二枚目の帆を、もう少し詰めれば。
「お嬢様。次の船が泊地に入ります」
聞こえない。横波に船腹が——
「お嬢様っ。エルネスティーネお嬢様」
「……っ」
三度目の、名まで呼ばれた声で、彼女はようやく顔を上げた。窓の外がもう白んでいる。台帳の余白には、描いた覚えのない航跡の線が、几帳面に三本も引かれていた。
しまった。
彼女は、その線を手のひらでさっと覆い隠した。
「珍しい帆装だったので、危険がないか念のため確かめていたのです」
誰に咎められたわけでもないのに、わざわざ弁解した。
「ええ、危険はないようですね。十年で二度目ですし。通してかまいません」
「お嬢様。二度目、と三度おっしゃいました」
「……三度くらい、言うでしょう。珍しいのですから」
「お嬢様の指が、それはもう楽しそうに踊っておいででしたよ」
「気のせいです。船は、楽しむものではありません」
そう言いながら、覆い隠した手の下で、指がもう一度だけ、こっそり航跡をなぞった。耳のあたりが、わずかに赤い。
「では、こちらの南方船は——」
彼女はまた指を止めた。船籍の隣に小さく書かれた、出航地の名。それを見ただけで、頭の中の検疫帳の 頁(ページ) が、ひとりでに開く。今度は、瞳に火は灯らない。
「お嬢様。その船も、何か」
「この出航地、覚えがあるの。三年前の初夏、同じ港から出た船が、入港の五日後に船熱を撒きました」
「五日後、でございますか」
「ええ。墨の濃淡まで、瞼の裏に浮かびます。——この船は、沖に留めます」
判定は、いつも短い。けれど、その短い一言の裏には、十年分の記録の重みが沈んでいる。
桟橋に立てば、今度は鼻と目が働く。船が泊地に近づくと、彼女はまず匂いを嗅いだ。船倉の汚水、塩漬けの腐りかけ。それから、あの硫黄。
「ヘルミーネ。あの船、前の港でも疑われていますね」
「と、申しますと」
「硫黄の匂いが残っているの。煙で病の元をいぶす—— 燻蒸(くんじょう) をしてきた、ということ。健やかな船からは、こんな匂いはしません」
「鼻だけで、そこまで」
「鼻のあとは、目です。ほら、左舷の 水夫(かこ) 。三人」
「見ております。皆、綱を手繰っておりますが」
「手繰る手つきに、力がないでしょう。船熱が潜む船はね、まだ誰も倒れていなくても、どこか動きが鈍るの」
「お嬢様には、ここから見えるのですか」
「見えるのではなく、読むのです。健やかな船は、もっと声が高い」
「声、でございますか」
「ええ。病のない船は、桟橋が近づくと水夫が口々に騒ぐもの。陸が見えた、酒が飲める、と。あの船は——静かすぎます」
沖留めと決めれば、次は実務だ。荒くれの船乗りを相手に、隔離の日数を告げ、燻蒸を手配し、腐らせてはならない積荷は海水で洗って甲板に上げさせる。船長は怒鳴り、積荷の損を喚く。彼女は引かない。
夜になると、検疫塔の灯りの下で帳面を書いた。その日入った船の名、航路、季節、乗員の様子。
「お嬢様。今日はもう遅うございます。明日まとめてお書きになっては」
「いいえ。記録は、その日のうちに墨で綴じなければ意味がないの。記憶は薄れるけれど、文字は薄れません」
ペンを持つ指には、年月で硬くなった 筆胼胝(ふでだこ) がある。母から受け継いだ、検疫官の指だ。
ただ一度、誤らせられた船があった。三年前の初夏、クロイツ湾を経た遠洋船だ。母の戒めの航路、母を奪った季節の、その船だった。彼女は沖留めの札を立てた。だが王太子の名が、それを覆した。商会の便宜のため、たった一度の口出しで。彼女は札を引かれた帳面の余白に、ただ一行だけ記した。記録のみ残す、と。母の一行の下に、初めて裏切りが書き足された頁だった。
判断を、誤れない仕事でもあった。一度、見送ってよいか迷った船があった。乗員に熱はなく、書類も整っている。だが台帳の末尾に、立ち寄った港の名が一つだけ書き足されていた。半年前に魚の病が出た島だった。
「この船は、沖へ」
船長は声を荒らげた。積荷の塩漬けが腐ると喚いた。それでも彼女は引かなかった。三日後、その船倉から、鼠が病んで死んでいるのが見つかった。船長は黙って、彼女に頭を下げた。
止めた船が病を抱えていたと分かるのは、止めた後だけだ。何も起きなかった港には、彼女が何をしたかの証がどこにも残らない。
「お嬢様。昨日止めた船の船長、まだ港で文句を言っておりますよ。あの令嬢は石頭だ、と」
「言わせておきなさい。文句が言えるのは、生きているからです」
「……お嬢様がいなければ、その船長は今ごろ熱で寝込んでいた、ということですね」
「それも、本人は決して知らないままでしょうね」
地味で終わりのない仕事だった。誰にも褒められず、止めた船の数だけ恨まれる仕事だった。
昼を回ると、桟橋の隅に油の匂いが立った。
「お嬢様。今日も、あの屋台が出ておりますよ」
「……知っています。海老を揚げて、蜜を絡めた菓子でしょう。荒くれの船乗りまで並ぶ、港の名物」
「ずいぶん、お詳しいこと」
「検疫官として、港の事情を把握しているだけです」
そう澄まして言いながら、乗員の動きを遠目で見抜く緑の瞳が、屋台の前を通るあいだだけ、ほんのわずか、油の上がる音のほうへ流れた。
今日はまだ一つも食べていない。朝から船を三隻、沖に留めたのだから、一つくらい。いえ、一つは仕事中。仕事中の一つは示しがつかない。けれど、一つくらい——
「ヘルミーネ」
「はい」
「……いえ。何でもありません」
言いかけた口を、彼女はきゅっと結んだ。検疫官が物欲しげに屋台を見るなど、あってはならない。
「お二ついかがですか。塩漬けの船倉を検めた後の口直しに、と」
ヘルミーネが、もう紙包みを差し出している。心得たもので、油の匂いが立つ前から、ちゃんと懐に忍ばせてあったらしい。
「……いりません。仕事中です。検疫官が桟橋で物を食べていては、示しがつきません」
そう毅然と言い切りながら、令嬢の手はもう紙包みを受け取っていた。口と手が、まるで別の主に仕えている。
一つ目を口に運ぶと、詰めていた襟元が、ほどけるように緩む。蜜の甘さに、目尻が下がった。荒くれを相手に一歩も引かなかった同じ顔が、揚げ菓子の前ではすっかり子供のものになっていた。
ああ。これだから、わたしはこの仕事をやめられないのだわ。
「お嬢様。それで、二つ目は示しがつくのですか」
「……一つ目で、味の安全を検めたのです。二つ目は、確かめのため」
「では三つ目は」
「念には念を、です。検疫の基本でしょう」
「検疫の基本で、お嬢様の襟元がほどけるとは、存じませんでした」
「ヘルミーネ」
「はい」
「あなた、わたしに仕えているのか、わたしをからかうために雇われているのか、どちらなのです」
「どちらも、お嬢様の墨と同じくらい大切な務めにございます」
ヘルミーネが、口元を押さえて笑った。エルネスティーネは、聞こえないふりをして三つ目の蜜を舐めた。叱るべきところだ。叱るべきなのに、この侍女の軽口だけは、なぜか叱る気になれない。
港でただ一人、この弱みを知る娘だった。知った上で、決して誰にも漏らさず、ただ油の匂いの前に紙包みを差し出してくれる娘だった。誰にも知られたくない、たった一つの弱みは、つまり、この娘にだけは知られていてもいい弱みでもあった。
それでも王都で疫病が 流行(はや) らなかった十年は、彼女が桟橋に立ち続けた十年とぴたりと重なっていた。
婚約破棄は、桟橋ではなく王城の大広間で告げられた。
王太子ヴァレンティンは、居並ぶ貴族たちの前でエルネスティーネを指さした。
「リンドハーフェン侯爵令嬢。お前の検疫は、もはや王国の足枷だ」
シャンデリアの光が彼の金髪を縁取る。エルネスティーネは裾を整え、まっすぐに彼を見返した。
「先月、お前が沖留めにした船は十二隻。腐らせた積荷の損失は、税にして三百枚を超えるそうだな」
「四隻に船熱の兆しがありました」
「兆し。兆しだと」
ヴァレンティンが鼻で笑った。広間にも追従の笑いがさざめいた。
「病人は一人もいなかったではないか。お前は『来るかもしれない』という妄想で、王国の交易を止めている。臆病者の妄想で、港を止めるな」
病人が出てから止めるのが検疫だと、本気で思っておいでなのね。火が見えてから水を汲みに行く人だわ。
胸の内で一拍そう呆れて、けれど顔には出さない。出さないことには、もう慣れている。
その言葉が、床に冷たく落ちた。
「臆病者の妄想で港が止まる、と殿下は仰います」
エルネスティーネは、裾を直す手も止めずに応じた。
「では、お訊ねします。この十年、王都で疫病が一度も 流行(はや) らなかったのは、誰の手柄でございましょう」
「……何が言いたい」
「臆病者の妄想か、それとも王太子の御威光か。どちらかが十年、城下の子らを熱から守った。殿下が御威光のほうだと仰るなら、わたしはこの場で喜んで臆病者の名を返上いたします」
広間の追従の笑いが一拍止んだ。御威光が病を止めた 例(ためし) などないことは、笑っていた誰もが知っている。ヴァレンティンの頬がわずかにこわばった。彼女は声を荒らげたわけではない。ただ彼が自分で立てた理屈の上に、彼自身を静かに乗せただけだった。
「だいたい、考えてもみろ」
彼は集まった貴族たちを見渡し、声を一段張った。聞かせる相手は彼女ではなく、広間だった。
「女の身で港を統べさせてやったのは、誰の温情だと思っている。本来なら帳簿の一つも任せられぬところを、母御の名に免じて、わたしが目を瞑ってやっていたのだ」
恩を着せる声に、追従の笑いがまた揺れた。彼女が継いだ十二年が、彼の口の中で施し物の椅子に書き換えられていく。
「その帳面とて、お前が書いたものではあるまい。死んだ母親の落書きを、女が後生大事に抱えていただけのこと。さて——」
ヴァレンティンは、わざとらしく憐れむように眉を寄せてみせた。
「臆病なのは、生まれつきか。それとも女ゆえか。どちらにせよ、王太子妃には荷が重すぎたな」
憐れみの形をした侮辱が、広間にゆっくりと染みた。蔑むのに声だけは穏やかだった。それが一番、聞いていて寒かった。
「女ゆえの臆病、でございますか」
エルネスティーネは、ほんの少しだけ首を傾けた。
「殿下は先ほど、母の名に免じてわたしに港を任せた、と仰いました。女に任せられぬ仕事を、女に任せていた——殿下の御沙汰は、どちらが本当でございましょう。臆病な女に十年も水際を委ねていた御方の、人を見る目のほうこそ、わたしは案じます」
穏やかに刺された一手に、ヴァレンティンが言葉を探して口を開いた。だが反論は形にならず、ただ眉間に皺が寄っただけだった。彼女は深追いをしなかった。傷を抉るためではなく、母の名がこれ以上踏まれぬよう間に身を置いただけだ。
「母の字を、落書きとおっしゃいましたね」
エルネスティーネの声は、波立たなかった。
「では一つだけ。あの一行が落書きかどうか、どうか覚えておいてくださいませ。証は、わたしではなく、海が立てます」
「証明できるか、エルネスティーネ。お前が止めた船に、本当に病があったと」
「証明はできません」
彼女は静かに答えた。
「来なかった病を証明する術は、この世にありません。沖で止めた船が運ぶはずだった疫病は、止めたがゆえに記録に残らない。わたしの十年は、起きなかった災いの集積。だから誰の目にも見えなかったのでしょう」
「ならば、ただの臆病だ」
「臆病で結構です。けれどその臆病が、王都に十年、疫病を入れませんでした」
広間が、しんと静まった。年配の文官が一人、何か言いたげに口を開きかけた。だが王太子の前で誰も声を上げない。エルネスティーネは、その沈黙を覚えておこうと思った。後でこの沈黙の値段を払うのは、自分ではない。
ヴァレンティンの眉がわずかに動いた。だが彼はすぐに鼻を鳴らした。
「婚約は破棄する。検疫官の職も解く。お前の代わりは、もう決めてある」
彼の背後から 恰幅(かっぷく) のいい男が進み出た。港湾長レオポルト。クヴァール商会と 昵懇(じっこん) の噂のある男だった。
「これからは港を開く。船を止めぬ港こそ、富む港だ」
エルネスティーネはただ一つだけ、願いを口にした。
「検疫帳だけは焼かないでください」
「帳面が何だというのだ」
「その一冊さえ残れば、いつか誰かが読み解けます。わたしが去っても、水際は守れる。お願いです。あれだけは」
ヴァレンティンはそれに、答えなかった。
追放の日。レオポルトが彼女の執務室で検疫帳を手に取った。びっしり書き込まれた航路と季節と病の名を見て、彼は片眉を上げた。
「これが、お前の十年か」
「はい。どうか、大切に」
「迷信の落書きだな」
彼はぱらぱらと頁をめくり、興味なさそうに鼻を鳴らした。それから、帳面を持つ手をふと止めた。
「ああ、そうだ。クヴァール商会のご主人が、お前のこの『沖留め』とやらに、ずいぶん難儀しておられてな。荷を一日寝かされるたび、商会は損を出す。わたしが港を開けば、商会は喜ぶ。商会が喜べば——」
彼は懐を軽く叩いてみせた。礼金の在処を確かめる卑しい手つきだった。
「わたしも、潤う。それだけの話だ。お前の十年がどうのと、誰が気にする」
「その帳面は、商会の損得とは関わりません。あれは——」
「うるさい女だ」
レオポルトは言葉を遮った。先ほどまで王太子に向けていた愛想笑いはどこにもない。後ろ盾を失った令嬢に向ける声は急に横柄になっていた。
「もう用済みの分際で、口を利くな」
「せめて、頁だけでも。中身を写させていただければ、それで——」
「写しだと。手間をかけて、誰が得をするというのだ」
彼は呆れたように笑った。
「お前のように、銭にもならぬ落書きに一生を捧げるほど、わたしは暇ではないのだ」
そう言って彼は帳面を暖炉に投げ入れた。
「待って」
エルネスティーネが手を伸ばした。だが、乾いた紙はもう炎を上げていた。十二年分の墨が 煤(すす) になって、煙突へ吸われていく。
最初の頁が、炎の中で反り返った。母の字が、焦げて縮れていく。
——あれは、まだ母が生きていた頃。船熱に冒され、寝床から半身を起こした母が、震える指で帳面の一行目を綴っていた。墨の匂いが、病んだ部屋に立っていた。決して通すな、と。その短い戒めを書き終えると、母は娘の手にペンを握らせた。後はお前が、と。
今、その一行が、墨の匂いを上げて焼けていく。
彼女はその炎を見つめていた。燃えているのは紙ではない。母を、もう一度焼いている。指先が、無意識に墨を探して虚空をなぞった。
「妄想に縛られた港は、もう終いだ」
レオポルトは満足げにそう言った。
失われたのは、紙ではない。誰がいつどの船を止めるべきかを告げる、たった一つの索引だった。
馬車に乗り込むときヘルミーネが、小声で囁いた。
「お嬢様。あれは……燃やされてはおりません」
「え。どういうこと」
「写しを。三年前から、わたしが一冊。お嬢様が書かれるそばでこっそりと取っておりました」
ヘルミーネの胸元に布で包まれた帳面の角が、覗いていた。
エルネスティーネは何も言えなかった。ただ、目の奥が一度だけ熱くなった。
「ヘルミーネ。あなた、いつから」
「お嬢様の墨が、もったいなくて」
侍女ははにかむように笑った。それから、表情をふと曇らせた。
「お嬢様。新しい港湾長様は、初日から船を片端から通しておいでです。沖留めの札も、外されました」
「……そう」
「あの方は、台帳もろくにご覧になりません。船が来れば、桟橋へ。それだけです」
エルネスティーネは目を閉じた。瞼の裏に、まだ書き継いでいる途中だった夏の頁が浮かぶ。これから来る船を待ち構えていた、いくつもの船名。その守りが、今、一枚ずつ剥がれていく音が聞こえる気がした。
「ヘルミーネ。その写し、肌身離さず持っていなさい」
「もちろんでございます」
馬車が動き出す。窓の外を、見慣れた港が流れていく。沖の検疫泊地に、もう留め置かれた船は一隻もなかった。からっぽの海が、ただ青く凪いでいた。
島嶼国カルムは、ガルディニアの南へ五日の航海の先にあった。
港に降り立った彼女を待っていたのは、亜麻色の髪を潮で乱した男だった。右手の甲に古い火傷の痕がある。燻蒸の煙にやられた者の手だと、彼女には一目でわかった。
「アルヴィド・ニェルム殿、ですね」
「エルネスティーネ殿。ようやく、顔を合わせられた」
アルヴィドの声は、低く落ち着いていた。
「十年、文を交わしてきましたが」
「ああ。互いの検疫記録を送り合って、読み合って、添削し合って。顔も知らぬまま、な」
「あなた宛ての手紙だけは、わたしの筆も、いつもより少し弾んでおりました。——もっとも、ずいぶん厳しく添削もくださいましたが」
「あなたの記録に、嘘がなかったからだ。甘くする理由がなかった」
「手紙より背が高いのですね」
「手紙に身の丈は書かない」
彼がふと口の端を上げた。エルネスティーネも、つられて 微(かす) かに笑った。
「ここは、厳しい検疫を敷いていると伺いました」
「世界で一番、とうぬぼれている。昔、疫病で島の半分を失ったからな。だが——」
アルヴィドの声が、少し沈んだ。
「近頃は記録が散らばって、誰がどの船を止めればいいのか、わからなくなっている。半分を失った痛みを、紙に残せる者がいなくなった」
「記録が散ると、痛みごと忘れてしまうのですね」
「ああ。だから、あなたに来てもらった」
彼は、懐から布包みを取り出した。
「あなたの帳面の写しが、ここにある」
アルヴィドが差し出したのは、彼女が何年もかけて送った手紙の束だった。航路ごとの病の記録が、几帳面に綴じられている。
「俺たちの島は、あなたの記録に何度も救われた。今度はあなたが、ここで書いてくれないか」
「わたしの帳面は、本国では迷信の落書きでした」
「ここでは海図だ」
エルネスティーネは束を受け取り、ぱらぱらとめくった。自分の墨が、海の向こうで一冊の財産になっている。
「……これを、後生大事に綴じてくださったのですね」
「一通も、捨てられなかった。あなたの字には、命がかかっていたからな」
焼かれたはずの十年が、ここで息を吹き返していた。
二人は、カルムの検疫所を立て直しにかかった。
まず手をつけたのは、散らばった古い記録を集めることだった。
「アルヴィド殿。この棚の帳面、年代がばらばらですね」
「ああ。歴代の所長が、思い思いに書き散らしてきた。湿気で頁も貼りついている」
「では、剥がして並べ直しましょう。日付の順に」
彼女は墨の流れた紙を一枚ずつ剥がし、古い順へ積み直していく。
「これだけの記録があって、なぜ生かされていなかったのです」
「読み解ける者が、いなかった。皆、目の前の症状しか見ない。航路と季節を病に結びつける——その目を、あなたしか持っていない」
「目ではありません。索引です。誰でも、年表にすれば読めます」
彼女はそう言って、白紙の帳面を広げた。
「アルヴィド殿。古い順に、船名と病を読み上げてくださいますか。わたしが、季節ごとに落としていきます」
「いいのか。これだけの量だぞ。夜が明ける」
「明けても構いません。一隻ずつ並べれば、いつか必ず線が見えます」
彼が一冊目を開いて読み上げ、彼女が年表に書き写していく。ペンを持つ手が止まらない。日が暮れても、灯火が尽きるまで、二人は記録の海を泳いだ。
最初の半月、誰も彼女の判定を信じなかった。島の役人は陰口を叩いた。
「内陸の令嬢に、海の何がわかる」
「本国を追い出された女だそうだ。札付きを、なぜ所長は連れてきた」
エルネスティーネは反論しなかった。ただ、一隻の漁船を沖に留めた。南の暖かい瀬戸を、初夏に抜けてきた船だ。
「あの船、なぜ止める」
役人が食ってかかった。
「乗員は皆ぴんぴんしているぞ」
「あの瀬戸は、暖かい潮が淀みます。この季節は、汚水から熱が湧きやすい。三日、待ってください」
彼女は、それだけ言った。
三日後、その船の乗員が熱を出して倒れた。隔離は間に合った。島に病は広がらなかった。役人の顔から、薄笑いが消えた。
ひと月後、彼女はもっと大きな船を止めた。
「アルヴィド殿。あの交易船、三十人乗りですね。出航地は」
「……島の半分を奪った、あの病の故郷だ」
答えるアルヴィドの声が、低くなった。役人たちが青ざめて顔を見合わせる。
「四十日、沖に留めます」
「四十日だと。積荷が全部腐るぞ」
港の長が詰め寄った。アルヴィドが、彼の前に静かに立った。
「彼女がそう読んだのなら、そうだ。四十日で島が半分残るなら、安いものだろう」
長は、口をつぐんだ。
四十日目、船倉から熱病の死者が三人運び出された。もし入港していれば、島はもう一度半分を失っていた。
それから、誰も陰口を叩かなくなった。
代わりに、検疫所の前には島の漁師が並ぶようになった。
「先生。今朝の獲れ高、見てくだせえ」
「ご苦労さま。沖から戻ったら、まずわたしに船を見せる——すっかり、それが習いになりましたね」
「あんたに見てもらわねえと、女房が魚に手をつけねえんで」
漁師が、日に灼けた顔いっぱいで笑った。
「先生。この網に付いた藻、見てくれませんか。妙な色で」
「南の暖かい潮の藻ですね。病は運びません」
「では、市に出しても」
「ええ。けれど、その潮を通ったなら、次の市は熱の出やすい時期です。子供には、生の魚を控えさせなさい」
「わかりました。先生がそう言うなら」
漁師は深く頷いて帰っていく。同じ仕事が、海一つ隔てただけで、こんなにも違う顔をする。恨まれていたものが、頼られている。それだけのことが、彼女には少し、まぶしかった。
彼女が判定を下すたびに、アルヴィドは隣で航路図を広げた。二人で沖の船を見上げ、季節を数え、病の住処を読む。手紙でしか交わせなかった会話が、肩を並べた声になっていた。
「アルヴィド殿。今日の南風、昨日より湿っていますね」
「ええ。湿った南風は、汚水の匂いを遠くまで運びます。今日は、いつもより遠くから船の様子が読めるでしょう」
「あなたが、わたしの読みに即座に乗ってくださる。それが、こんなに楽だとは思いませんでした」
「十年、文で慣らしてきましたから。ただ——」
彼が、ふと口の端を上げた。
「風の湿り気だけは、手紙には書けなかった。隣に立っていなければ、伝わらない」
夜、検疫所の灯りの下で、彼女は新しい帳面を書いた。アルヴィドが古い記録を読み上げ、彼女が年表に落としていく。ペンを持つ手が疲れると、彼は黙って湯を淹れた。
「あなたの字は、手紙のときと同じだ」
「同じも何も、わたしの字ですから」
「十年、この字に救われてきた。やっと、書く人を隣で見られる」
ペン先が、頁の上で止まった。
遠い沖の船なら、藻の帯一つで日数まで読める。乗員の声の高さで病の有無まで聞き分ける。なのに、すぐ隣から自分へまっすぐ向けられたその一言だけは、どう読めばいいのかわからなかった。
「……今は、夏の頁の途中です」
彼女はそれだけ言って、また筆を動かしはじめた。書きかけの一行に逃げ込むようにして。海の上の何千隻を読み解いてきた目が、たった一人の好意の前で、行き場をなくしていた。
頬が、少し熱かった。海を渡る前は、この字が誰かに届いているのか、確かめる術もなかった。届いていた。それも、一番遠くまで。
「あなたは、止めた船の数だけ恨まれてきたんだろう」
ある夕暮れにアルヴィドが、ぽつりと言った。
「来なかった病は誰も数えない。だが俺は数えている。あなたの帳面が止めた船を、一隻ずつ」
「数えて、どうなさるの」
「礼を言いたかった。十年、言えずにいた」
エルネスティーネは、海を見たまま答えられなかった。けれど握っていた帳面の角が、少しだけ震えた。
「あなたの帳面は、海図より正確だ」
その言葉は十年分の手紙の、どこにも書かれていなかった。
一方、リンドハーフェンの港は、賑わっていた。
沖留めの札が外され、船は来た順に桟橋へ着けられる。積荷は腐る間もなく荷揚げされ、税は日に日に伸びた。
「見ろ。これが、富む港だ」
桟橋に立ち、ひしめく帆柱を眺めて、レオポルトは胸を反らした。傍らには、クヴァール商会の番頭が揉み手で控えている。
「さすがは港湾長様。あの石頭の令嬢がいた頃とは、荷の動きがまるで違いますな」
「あの女が消えて、港から『臆病』も消えたのだ。礼金のほうも、約束通り頼むぞ」
「もちろんでございます。商会一同、港湾長様には足を向けて寝られませんよ」
番頭の世辞に、レオポルトは満足げに鼻を鳴らした。検疫帳という落書きは灰になり、礼金は約束通りに届いている。彼にとって、それで充分だった。
ある朝、若い検疫役人が青い顔でレオポルトの前に立った。
「港湾長様。先ほど入った南方船ですが……乗員の動きが、どうも鈍く見えます。船倉から、妙な匂いも。念のため、沖に留めては」
「何を見て、そう言う」
「それは……前任のお嬢様が、こういう船は止めておられたと、古株の者が」
レオポルトは鼻で笑った。
「あの女の真似事か。病人が出ているのか」
「いえ、一人も」
「ならば、通せ。病人もおらぬのに船を止めれば、それこそ妄想だ。お前まで臆病者になるな」
役人は何か言いかけて口をつぐんだ。エルネスティーネが大広間で覚えておこうと思った、あの沈黙だ。それが今度は桟橋で繰り返された。船は誰にも止められず桟橋に着いた。役人は、台帳のどこに何を書けばいいのかもわからなかった。
止め方を知る者は、もういない。止める根拠を記した一冊も、もう灰だ。後任は、来た船を通すことしかできなかった。
三月後の初夏。
ガルディニアからの早船が息を切らせて、カルムの港に着いた。
報せを携えていたのは、リンドハーフェンの古い役人だった。彼は帽子を取り、声を詰まらせた。
「お嬢様。王都が……船熱で」
エルネスティーネの指が止まった。
「どの船です」
「ソルナ船籍の三本檣。クロイツ湾を経由した遠洋船が、検疫を受けずに王都の桟橋へ着けました。三日で城下に熱が広がっております」
彼女は目を閉じた。三年前に自分が検疫帳へ記した一行が、瞼の裏に浮かぶ。
——この航路は、初夏に必ず船熱を運ぶ。
その一行のさらに上に、母の字があった。決して通すな。船熱。母を奪ったのと同じ病の名だ。
城下を焼いているのは、ただの疫病ではなかった。十二年前に母を桟橋から連れ去ったのと寸分たがわぬ病だ。母が死と引き換えに書き遺した一行を、娘が十二年守り抜いた一行を、踏み越えて。同じ航路の同じ季節の同じ船熱が、もう一度この国に上がってきた。
三年前、彼女は母の一行の通りに沖留めの札を立てた。それを引き抜いたのは、ヴァレンティンの一声だった。あの男が覆させたのは娘の判断ではない。母の遺言だ。
「あの一声は、母をもう一度殺したのですね」
エルネスティーネは、誰にともなく低く呟いた。アルヴィドが、その横顔を黙って見た。
「沖留めの、基準が」
「はい。レオポルト様は、止め方をご存じなく……止められていた船を、すべて通してしまわれました」
検疫官が去り、検疫帳が焼かれ、判定が消えた。後任は、どの船をなぜ止めるべきかを知らなかった。その鎖の先で、三年前に予告された船が誰にも咎められず入港した。一つの空白が、国を綻ばせていた。
隣でアルヴィドが静かに言った。
「あなたが三年前に止めようとした船だな」
「ええ。殿下が通させた船です」
王都ガルディアでは、桟橋が封鎖されていた。
ヴァレンティンは、 人気(ひとけ) の絶えた港湾区に立っていた。あれほど船で賑わった桟橋に、もう一隻の帆も見えない。疫病が上陸した港へ、誰も船を寄せなくなっていた。
彼の手には税収帳があった。入港、ゼロ。先月の欄は、白いままだ。
ヴァレンティンは、その白い欄を長いあいだ見つめた。腐らせた積荷の損失を惜しんで、彼は港を開いた。三百枚の損を惜しんだ。
だが今、港そのものが死んでいる。船が来ない港に、税は一枚も入らない。三百枚を惜しんだ手が、国庫を空にした。
封鎖された桟橋の先に、検疫泊地が見えた。本来なら、疑わしい船を留め置く海だ。今そこには、何もない。あの令嬢が立っていれば止められた船が、止める者を失って王都へ滑り込んだ。彼は欄干を握った。木がきしむほど、強く握った。
「……兆しと、言っていた」
彼は呟く。誰も聞いていなかった。広間に居並んだ追従の笑いも、今はどこにもない。
数日後、焼け残った写し帳が王城に持ち込まれた。
ヘルミーネが守り抜いた一冊を、エルネスティーネが本国の旧友に託したものだった。届けられた帳面の表紙には、まだ潮の匂いが残っていた。
ヴァレンティンは、震える指でそれをめくった。墨で綴られた航路と季節と病の名が、頁を繰るたびに連なって現れる。彼が「妄想」と笑ったものの、正体だった。
最初の頁に、ひときわ古い字があった。墨が褪せ、筆跡も今の令嬢のものとは違う。たった一行。
——初夏のクロイツ湾は、船熱を運ぶ。決して通すな。
脇に、後から書き足された小さな注があった。先代検疫官、船熱にて没。本帳、これより娘が継ぐ、と。母が己を殺した病の名を、娘への戒めとして書き残した一行。この一冊は、その一行から始まっていた。
死んだ母親の落書きを女が後生大事に抱えていただけのこと。広間で自分はそう言い放った。憐れむふりをして、女ゆえの臆病だと笑った。
その「落書き」が、いま頁の上で命と引き換えに書かれた戒めだったと 判(わか) る。母の字が、彼を見上げている。
三年前の頁で、彼の指が止まった。見覚えのある船の名が記されている。
ソルナ船籍の三本檣。クロイツ湾経由。初夏に船熱の兆しあり——沖留めを要す。
その隣に、小さな書き込みがあった。
「王太子殿下のご命令により、通過。記録のみ残す」
三年前、彼自身が通させた船だった。あのとき商会の便宜を図り、王太子の名で沖留めを覆させた。たった一度の、些細な口出しのつもりだった。
その航路は、最初の頁にあった。母の一行が「決して通すな」と戒めた、まさにその季節の、その湾だった。彼が覆させたのは、令嬢の判断ではない。母が娘に遺した、命と引き換えの一行だった。そして今、王都を焼いている船熱は、十二年前にこの帳面の主を殺したのと、同じ病だった。
たった一度の口出しが、母の遺言を踏み越え、娘から港を奪い、母を殺した病を、もう一度この国に呼び戻していた。
「……この病は」
ヴァレンティンの声が掠れた。
「この一行を書いた者を、殺した病ではないか」
答えられる者は、広間にいなかった。書いた当人は、十二年前に死んでいる。書き継いだ娘は、海の向こうだ。
ヴァレンティンの喉が、ひゅっと鳴った。指が頁の上で固まる。
彼女は、知っていた。三年も前から、この船が来ると知っていた。そして、止めようとしていた。それを、彼自身の手が止めさせなかった。
なぜ覆させたのか。本当のところはわかっていた。彼女の判定はいつも正しく自分の理解の外にあった。理屈のわからぬ女の一札で港が止まり商会が頭を下げに来る。その構図がただ気に入らなかった。一度くらい自分の名で覆させてやりたかった。それだけのことだった。
臆病者だと笑った。妄想だと断じた。だが妄想なら、なぜこの帳面は、まだ来てもいない船の到来を三年も前から言い当てていたのか。
「殿下。この帳面の通りに、しておけば」
傍らの老文官が、震える声で言った。あの日、広間で口を開きかけて黙った男だ。
「あの令嬢を、お戻しになりますか」
「……戻ると、思うか」
ヴァレンティンは帳面を取り落とした。広間の床に、ぱさりと頁が開く。彼はそれを拾い上げる気力もなく、ただ膝をついた。
床に開いた頁が、上を向いている。そこにも、彼が通させた船とは別の、止められて事なきを得た船の名が整然と並んでいた。誰の目にも見えなかった、十年分の盾が。
「臆病、ではなかったのか」
臆病ではなかった。最も正確だったのだ。来なかった災いを十年積み上げたその帳面が、誰よりも遠くまで見ていた。彼が妄想と笑ったものは、王国でただ一つ、未来を読む目だった。
彼が膝をついたのは、彼女の前ではなかった。彼女の去った後の、からっぽの王城の床だった。詫びる相手は、もう海の向こうにいた。
港湾長レオポルトは、クヴァール商会に切り捨てられた。
商会は彼一人に罪を着せ、素早く手を引いた。沖留めを外させたのも検疫帳を焼かせたのも、すべて港湾長の独断だった——そういう筋書きが、いつの間にか城下に出回っていた。疫病船を入れた港湾長として、彼の名だけが晒された。
牢の中で、彼は誰にともなく言ったという。
「あれが迷信の落書きだったなら、よかったのだがな」
迷信なら、焼いても誰も死ななかった。落書きなら、捨てても港は富み続けた。だが、あれは落書きではなかった。
彼が暖炉に投げ入れたのは、王国の盾だった。その重さに、彼は牢の中で初めて気づいた。気づいたところで、灰は戻らない。
そして港湾区では、人々がもう王太子の名を口にしなくなった。
熱に倒れた家族を看取りながら、彼らはただ一つの名を囁く。
「水際の令嬢が、いてくだされば」
誰かが言い、誰かが頷く。沖留めの札があった頃、住民は検疫を「臆病な足止め」と疎んだ。船が遅れれば舌打ちもした。だが今、その足止めこそが、自分たちの命を十年守っていたのだと、誰もが知っている。失って、初めて。
桟橋の先の検疫泊地は、相変わらずからっぽだった。留め置く船もなく、留め置く者もいない。ただ青い海が凪いでいた。十年その海に立ち続けた一人の女の影だけが、もうそこにはなかった。
カルムの検疫所で、エルネスティーネは沖の船を見ていた。
隣にアルヴィドが立っていた。
「戻るか」
彼が静かに問うた。ガルディニアからは、もう三度、使者が来ていた。検疫官の職も、婚約の復縁も差し出すという。
「戻りません」
エルネスティーネは迷いなく答えた。
「水際は、誰かが臆病でいなければ守れません。臆病者を笑う港に、わたしの帳面は要らないのです」
彼女はそう言って、卓上に積まれた今日の入港台帳に、また指を伸ばした。三度目の使者の報せを聞いた後でさえ、まだ読み残した船が三隻ある。
「お嬢様。もう日も暮れます。残りは明日では」
「明日に回した一隻が、今夜の港を焼くことがあります」
彼女は灯心を掻き立て、最後の一枚まで指でなぞった。読む者は、最後の一隻まで読む。途中で筆を置けば、その隙間からしか病は入らない。母が震える指で一行目を書き切ったのも、きっと同じ理由だった。
彼女は、焼かれなかった一冊を胸に抱いていた。ヘルミーネの写しから、もう一度新しい検疫帳を書き始めている。今度は、誰にも焼かせない島で。
書き継ぐ頁は、もう本国の海ではなくこの島の海を語っていた。新しい航路、新しい季節、新しい船。年表は海を渡って続いていく。
「それに」
彼女がふと、沖を指さした。検疫泊地に、一隻の帆船が錨を下ろしている。三本檣の遠洋船だ。
「あの船。三度目の使者を乗せた船ですが、いま沖に留めております」
「ほう。なぜだ」
エルネスティーネは、卓に広げた使者船の積荷台帳に指を置いた。今朝、桟橋の役人から写してこさせた一枚だ。
「出航はガルディニア。けれど寄港地に、クロイツ湾が一つ」
アルヴィドの笑みが、すっと引いた。彼は十年、彼女の手紙でその湾の名を読み続けてきた男だった。
「初夏のクロイツ湾」
「ええ。母の帳面の、一番最初の頁です」
彼女は静かに言った。
「決して通すな、と。母を奪った航路と、母を殺した季節が、そっくり揃っています。母の一行は、本国の海だけの戒めではありません。クロイツ湾を初夏に経た船は、どの港に来ようと、わたしは通せない」
アルヴィドが、沖の船を見上げた。それから、低く笑った。
「あなたを追い出した国の使者が、よりにもよって、その湾を経てきたのか」
「ええ。皮肉なものです」
「殿下が三年前に通させたのと、同じ航路だな」
「同じ航路の、同じ季節です」
彼女がわずかに口の端を上げた。十年の手紙のどこにもなかった、いたずらめいた表情だった。だがその目の底は、笑っていなかった。
「殿下は、わたしが恨みで船を止めていると思うでしょうね」
彼女は使者船の台帳を、そっと閉じた。
「違います。母の一行を守っているだけ。あの方が踏み越えた、たった一行を」
「皮肉が利きすぎているな」
アルヴィドが苦笑した。
「復縁を運んできた船が、あなたの母君の戒めに、沖へ縫い止められている」
「ええ。海の上では、王太子の名も覆せません。一度、それで母の一行が踏みにじられました。二度目はありません」
三年前、ヴァレンティンの一声が覆したのは令嬢の気まぐれではなかった。母が命と引き換えに娘へ遺した一行だ。その同じ一行が今、彼の使者を沖に縫い止めている。海を一つ隔てても、初夏のクロイツ湾を、エルネスティーネは決して通さない。
本国の海で止めた船の数だけ恨まれてきた女が、海一つ越えた島で、母の一行ごと笑っていた。
アルヴィドが彼女の手に、そっと手を重ねた。
「ここにいてくれ。俺の隣で、海を読んでくれないか」
「わたしの帳面ごと、ですか」
「帳面ごと、あなたを」
潮風が二人のあいだを抜けていく。硫黄の香が、薄く混じっていた。あの港で十年、彼女が嗅ぎ続けた匂いだ。同じ匂いが、ここでは恨みではなく、頼りの匂いになっている。
エルネスティーネは海を見たまま頷いた。目の奥が、安堵で一度だけ熱くなった。
追われた港の朝を、彼女はもう振り返らなかった。
沖の船がゆっくりと帆を畳んでいく。水際は、今日も誰かが守っていた。