作品タイトル不明
58.困った人たちが現れました。
ようやく捻挫も治り、杖なしで歩けるようになった。
学院の空気が少し変わった。
アンリエッタを嘲るような視線を向けてくるような者たちが"東"を中心とした一部の者に現れている。
第一王子に飽きられたとでも思っているのだろう。
事実ではないが、これ以上関わりにならないならそんな噂が流れるくらい構わない。
そんなことでアンリエッタを 貶(おとし) めることはできない。
ただその点のみで見下してもいいと考える残念な者はいる。
たとえそれが真実だとしてもアンリエッタにはどうでもいいことだというのに。
何か恩恵を受けていたわけでもない。
そもそも初めから拒絶し続けていた。
だからようやく諦めたのだ、と見る向きのほうが多い。
正気に戻ったのだ、と不敬ぎりぎりの声も聞こえてくる。
婚約者のいる相手を口説くなど正気とは思えなかったのだろう。
いくら断ろうともしつこかったのもその認識に拍車をかけていたのだと思う。
第一王子はそれを認識していたのだろうか?
一応、アンリエッタが第一王子の不興を買ったと見る向きもあるが、彼らは第一王子のほうにこそ不審な視線を向けていた。
アンリエッタに何かをやらせていてそれに失敗したのではないか、とほんの一部は思っているようだった。
実に観察眼のあることだ。
失敗ではなく不要とされただけだが。
第一王子はこれからどうするつもりなのか、と疑問に思うが、もうアンリエッタの関知するところではない。
あれから接触してくることもないので本当にもういいのだろう。
しばらくはそれでもあの第一王子のことだ、アンリエッタをまだ利用しようとするかもしれないと警戒していた。
だがそのような気配はなかった。
第一王子が近寄って来なくなってほっとしている。
ただアンリエッタに何をしても構わないと思っている者たちもいるのが厄介だった。
露骨な嫌がらせが増えた。
実に迷惑な話だ。
関わりがなくなったなら平穏な学院生活を送りたかったのだが。
*
すれ違いざまにリボンに伸ばされた手をさりげない動作で躱す。
このリボンに触れてほしくはなかった。
「まあ、もう貴女には必要のないものでしょうに」
「……どういうことでしょうか?」
彼女は見下すような視線をアンリエッタに向けてくる。
「クロード殿下からいただいたものでしょう? 未練がましく身につけたりして惨めね」
「クロード殿下から何かいただいたことはございません。これは婚約者から贈られたものですわ」
「今さらそんな嘘をつかなくても皆わかっていることですわ」
誰が何をわかっているというのか。
「そんな嘘をつく必要がありませんわ」
「クロード殿下に捨てられた貴女にはそんな嘘をつかなければ矜持も保てないのでしょう」
はっきり言えば第一王子のことはどうでもいい。
第一王子がアンリエッタのことをどう思っていようが関係ない。
さすがに家に何らかの不利益をもたらされるのであれば考えるが、第一王子はそこまでしない気がする。
やるとしたら、ベルジュ伯爵令嬢が絡んだ時だろう。
だがラシーヌ家には第一王子と交わした契約書がある。
いざとなればそれを 公(おおやけ) にするなりそれを手に交渉するなりすればいい。
だからと言ってこの場でそれを正直に言うわけにもいかない。
「婚約者がいる身で他の男性から贈り物をいただくわけがありませんわ」
そんなの常識だろう。
そんなこともわからないのか、という目でアンリエッタは令嬢を見る。
「だからはしたないと言っているのですわ」
「話にもなりませんわ」
相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
向こうはアンリエッタが何を言っても聞く耳など持つつもりもないのだから。
そんな相手に時間を 割(さ) いてやるのも勿体無い。
「人の物を盗もうとなさる方とは話しても通じないようですね」
「なっ! わたくしは別にリボンを盗もうとしたわけではありませんわ!」
アンリエッタはわざとらしく首を傾げる。
「では何をなさるつもりだったのでしょう?」
「わたくしはただそのはしたないリボンを取って差し上げようとしただけよ」
そんなことをされたら髪が乱れる。
それでみっともないと嗤われるのはアンリエッタなのだ。
冗談ではない。
……それも狙いだったのかもしれない。
十分考えられることだ。
むしろ彼女が率先して 嘲笑(あざわら) いそうだ。
少し眉を寄せる。
「まあ、不調法ですわね」
「親切ですわ」
どこが。
そこまで言うのであれば、きちんと 全(まっと) うしてもらわなければ。
「では、勿論髪も綺麗に結い直してくれると?」
「は?」
淑女らしからぬ言葉が相手の口から漏れた。
わざと首を傾げる。
「当然のことでは?」
リボンを取られたら髪が乱れる。
それならば、それを直すまでが責任ではないのだろうか?
そんなことを眼差しに込めて彼女を見つめる。
「わたくしに侍女の真似事をしろ、と?」
睨まれたところで何の 痛痒(つうよう) もない。
「そのおつもりだったのでは?」
敢えてそう言ってやる。
「そんなはずないでしょう」
「何故でしょう?」
軽く首を傾げる。
「リボンを取れば髪が乱れることはわかりますよね? 先程のように乱暴に取ろうとすれば尚更。まさかわたくしにそんな無様な格好でこの後も過ごせとでも?」
そう指摘してやれば無言になる。
まさか考えていなかったわけではないだろう。
もし考えていないとしたら目先のことしか考えていないということになる。
ここで「そんなつもりは」とでも言えば、自分はそんな浅はかな者だと公言するようなものだ。
ただその通りだと言えば、これは嫌がらせだったと認めることになる。
髪を結い直してくれるつもりは初めからなかったと先程明言していた。
何を言っても自身を下げることになり、彼女は黙るしかない。
本人もそのことに気づいたのだろう。
だから黙っている。
いつまでもこうしていても仕方ない。
ふっと息を抜くように笑う。
「冗談ですわ」
「言っていい冗談と悪い冗談の区別もつかないのかしら?」
「そちらが先、ですわ」
冗談でないことはわかっている。
冗談よりたちが悪い。
冗談でも許されないことだ。
「まあ、こちらは冗談ではありませんわ」
冗談にして流そうとすればいいのに。
そちらがそのつもりなら冗談として流すようなことはしない。
「冗談ではない、と?」
「当たり前ではないですか」
「まあ、ではもう一度マナーを初めからやり直したらいかがかしら?」
意味は伝わらなかったようだ。
彼女の眉が寄る。
「わたくしを馬鹿にしているのかしら?」
「馬鹿になどしていませんわ」
ただ親切心から助言している。
そのまま社交界に出れば笑い者になる。
言葉の裏を読み取れないのも 後々(のちのち) 苦労することになるだろう。
学院にいるうちにその辺りもしっかりと身につけておいたほうがいい。
だから一つ指摘しておく。
「そもそも他人のものに勝手に触れようとなさるなんてマナー違反ですわ」
ましてや身につけているものになど。
一体今までの礼儀作法の授業で何を習っていたのだろう?
そんなマナーを知らずに学院に通っているほうが恥だろう。
そんなことは学院に入学する前に教わるようなことだ。
それがまったく身についていないようなのは問題だ。
当然のことを指摘されて彼女は言葉に詰まったようだ。
まさか気づいていなかった、とか?
それこそまさかだろう。
指摘されたことに驚いただけだろう。
マナー違反というだけではない。
それよりも何よりも。
「それに、婚約者から贈られたリボンに触れられたくありません。不愉快ですわ」
「まだその建前を口になさるのですね」
「建前などではなく事実ですので」
これは本当にエドゥアルトに贈られたものだ。
他人に触れられたくない。
使いものにならなくする気しかない者になど爪の先が触れるだけでも嫌だ。
婚約者の気持ちまでも汚されるようで不快だ。
このようなことを繰り返されるのも困る。
だから一つ釘を刺しておく。
「もし、実際に盗られていたら家に抗議するところでしたわ」
「は?」
何を驚くことがあるのだろう。
それと、その上げた言葉は淑女としても駄目だ。
「当然でしょう。窃盗事件ですもの」
「窃盗ではないじゃないの。わたくしはそのリボンが髪に結ばれていなければそれでよかったのよ。想い出まで取り上げるつもりはなかったわ」
その言い分は通らない。
勝手に人のリボンを取ろうとする人間だ。
その言葉が本当かもわからない。
リボンが無事に返ってくる保証はなかった。
それほど信用ならない相手だ。
だからはっきりと告げる。
「貴女に婚約者との想い出に触れてほしくはありませんわ」
第一王子ではなく想い出があるのは婚約者のエドゥアルトとだ。
勝手に曲解しないでもらいたい。
第一王子との想い出など一つもない。
そんなふうに思われるのは嫌だ。
「クロード殿下との想い出を婚約者との想い出と言い換えて話すのをいい加減に控えたらどうかしら?」
「貴女こそいい加減に事実無根なことを捏造するのは 止(や) めていただけませんか?」
「捏造などしていないわ」
首を傾げる。
「では、言葉が理解できませんの?」
「失礼でなくて?」
彼女の片眉が跳ね上がる。
「そうでしょうか? いくら言っても理解してくれないのでてっきり理解力がないのかと……」
「失礼だわ」
「ふふ、貴女にそんなふうに言う権利はあるのかしら?」
「どういう意味かしら?」
「ほら理解力が足りないではありませんか。もう一度家庭教師に習ってはいかが?」
彼女の頬にさっと朱が散る。
「クロード殿下に捨てられた分際で」
少し、煽りすぎたようだ。
怒らせて立ち去らせようと思ったが失敗した。
念の為に少し下がって距離を取る。
それから少し首を傾げる。
「捨てられるも何も、クロード殿下とは特に親しくしておりませんが?」
「そんなふうに思い込まないと自分を保てないのね。ふふ、憐れね」
憐れ、と言いながらその口許には楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「わたくしが断っていたのは知られているはずですのに、情報に疎いのですね」
「あらわたくしが聞いたのとは違うわね。わたくしが聞いたのは貴女が 卑(いや) しくもクロード殿下に言い寄って相手にもされなかったというものだったわ。どちらが本当のことかしら?」
どちら、と言いながらも彼女は自分が聞いた噂のほうを信じていることは疑う余地がない。
アンリエッタを馬鹿にしきった目をしている。
ここでアンリエッタが何を言っても無駄なのだろう。
だからと言って「好きに思っていればいい」と突き放せば、そのねじ曲がった噂話を真実のように広めるのだろう。
「クロード殿下とわたくしは無関係です。それが真実ですわ。貴女がどんなに信じたくなかったとしても」
「信じたいものを信じているのはどちらかしら?」
「そちらでしょうね」
間髪を容れずに言えば小さく顔をしかめた。
アンリエッタは優雅に微笑んでみせる。
彼女も対抗してか微笑んでいたが、その口許はわなわなと震えていた。
もうこれ以上はいいだろう。
ふと足音が近づいてきたのに気がついた。
振り向く前に呼びかけられる。
「姉上」
「ルイ」
ルイが隣に並んでアンリエッタを咎める。
「一人にならないで、とあれほど言っているのに」
「ごめんなさい」
そうは言ってもどうにもできない時はある。
今がまさにその時だった。
アンリエッタが一人で受けている授業が少し早めに終わったのだ。
教室にいて絡まれるのは御免だと出てきたのだが、結局は絡まれてしまった。
ルイの小言も仕方なく思う。
彼女は冷笑を浮かべる。
「貴女はいつも弟や周囲に守られているわね。恥ずかしくないのかしら?」
もう何にでも攻撃したい気持ちなのだろうか?
何もかもを頼りっぱなしはよくないが、何もかもを一人でやる必要はない。
今は助けてもらっているが、家族や友人が困っていれば、その時はアンリエッタが助ければいいと思っている。
それをそのまま口にしてもいいがそれはそれでまた絡んできそうだ。
何て面倒くさい。
それでも何か言わなくてはならないだろう。
内心で溜め息を押し殺す。
ルイが押し 止(とど) めるようにアンリエッタの手にそっと触れた。
いい加減うんざりしていたアンリエッタはルイに任せることにした。
ルイが微笑する。
「仕方がありません。魅力的な方はどうしても守ってあげたくなりますから」
ちらりとルイが彼女の後ろを見る。
彼女は一人だ。
アンリエッタも一人だからたまたま一人だけなのかもしれないが。
彼女のこめかみがぴくりと動く。
ルイが唇の端を片側だけ引き上げる。
それだけで微笑が皮肉混じりのものに変わる。
かぁっと彼女の顔が赤くなる。
「し、失礼しますわ!」
淑女らしからぬ荒々しい歩調で彼女は去っていった。
「やはり礼儀がなってないんじゃないかな。淑女としてどうなんだろう?」
相手に聞こえないことを承知でルイが皮肉る。
アンリエッタは余計なことは言わない。
「ありがとう。助かったわ、ルイ。彼女しつこくて」
ルイは何故か悔しそうだ。
「授業が終わってすぐに来たのに」
「わたくしが授業が早く終わって教室を出てきたのだもの」
だから落ち込まないでほしい。
「留まっても危ないから出てこないでとは言えない……」
苦悩しているルイに苦笑する。
「ルイ、ありがとう。行きましょう。立ち止まっていたら邪魔になるわ」
「そうだね」
二人で歩き出す。
それにしても、とルイが口を開く。
「姉上のことが妬ましくて八つ当たりしたのかな? だから人望がないんだよ」
「ルイ、思ったことをそのまま口にしては駄目よ」
咎めたのは思ったそのままを口に出したことだけ。
「うん、ごめん」
ルイもわかったようで笑って謝る。
「でも、こういう連中が減るといいんだけど」
「そうね。そのうち飽きるとは思うけれど」
「今すぐ飽きてほしい」
「わたくしもそう思うわ」
そうすればこんな煩わしいことはなくなるだろう。
早く平穏な毎日が戻ってくることを心の内で願った。