従順な王妃は、国王の隣で「ただ微笑む」ことをやめた。そのあとのこと……
作者: ぽんた
本文
「おまえは、いつもヘラヘラ笑うだけで王妃としての責務を果たそうとしない。しかも王妃の地位をふりかざし、側妃に虐待まがいのことをしているともいうではないか。慈悲深いおれは、そんなおまえでも目を瞑り、我慢して王妃の座に置いてやっていた。が、それももう限界だ。国王の地位にあっても、これ以上ヘラヘラ笑うだけの無能で役立たずの王妃を玉座の隣に座らせるわけにはいかん。よって、いまここで離縁を申しつける。あたらしい王妃は、三人の側妃の中から選ぶ。ああ、元王妃よ。せめてもの情けだ。おまえは、おれの義弟にくれてやる。さっさ義弟のところへ行くといい」
この日、わたしことミキ・コールドウエルは離縁された。国王レイモンド・コールドウエルにである。
そうね。名乗るならミキ・バウスフィールドね。なにせ離縁されてしまったのだから。
わたしは、いまは消え去った小国バーキン国の末っ子王女だった。このベルスフォード王国には、表向きは当時まだ王子だったレイモンドの妻として、実際のところは人質としてやって来た。
人質だから側妃でよかった。というよりか、ふつうはそうなるはず。だけど、そうはならなかった。どうやら先王とお父様との間で約束事があり、律儀な先王は頑なにそれを守った。その為、わたしは正妃にならざるを得なかった。
レイモンドの意に沿わず、わたしの意に沿わず。わたしたちは夫婦にならなければならなかったのである。
そして、その意に沿わぬ結婚の末路を迎えることになった。
この日、謁見の間に多くの人たちが集められた。
貴族、官僚、各界の重要人物たち。もちろん、王族も。
そして、壇上の玉座には国王が。その隣、王妃が座すべき立派な座には本来座すべき王妃はいない。そのかわりに、ふたつの玉座のあいたスペースに、三人の側妃たちが身を寄せ合って立っている。
ふだんから仲の悪い側妃たち。そして、表向きには正妃に虐められ、蔑まれ続けた側妃たち。だけど、実際はその反対。たとえ正妃のわたしが彼女たちを虐め蔑んだとしても、彼女たちは二倍どころか何十倍もの陰湿で汚い手段で虐め蔑み返してくる。
それはともかく、この日謁見の間に多くの人々が集められたのは国王レイモンド・コールドウエルの宣言があるからだ。
それが、正妃であるわたしを離縁すること。それから、つぎの正妃についてだ。
わたしとの離縁については、「いよいよされたのね」とくらいにしか受け止められなかった。まぁ、ここまでもった方が奇蹟に近かった。
わたしとしては、王宮にいさせてもらえただけよかったのかもしれない。たとえここが居場所ではなかったとしても、夜露をしのぎ食べる物には困らなかったのだから。
意に染まぬ結婚。政略でさえない、人質同然の身。
最初から、国王レイモンド・コールドウエルはわたしに興味がなかった。だから、最初に宣言された。
「国王である以上、人質同然のおまえを王妃にすることを拒否するわけにはいかない。だから、おまえにははっきり言っておく。おれから愛されるとは思うな。それと、おまえがおれをどれだけ愛してもムダだ。なにせ、おれには真に愛するレディたちがいるのだから。三人の側妃たちだ。それはともかく、ゆくゆくは王妃の座はおれの真に愛するレディたちの中だれかのものになる。それまで、おまえは愚かな臣下や民たちの前でただヘラヘラ笑っていればいい。ぜったいにしゃしゃり出るな。おれに傅き、おれを立て、ひたすら従え。そして、側妃たちに対して傲慢きわまりない正妃であれ。それから、好きなことをしろ。不義でも散財でも好きなことをな。そうすれば、周囲の反感を買う。反感を買えば、だれしも嫌になる。王妃にはふさわしくないと周囲が言いだせば、おれもおまえを離縁しやすくなる。どうだ、いい考えだろう? このことは、ここだけの話だ。いいな?」
彼は、一方的に告げた。わたしが了承しようが拒否しようがどうでもいいようだった。というよりか、情報量が多すぎるのに理解出来なかったらどうするつもりだったのだろう。いまさらながら、不思議に思う。
それはともかく、いずれにせよわたしは彼の命令に従うしかない。
人質同然で嫁いできたのだから。
だけど、それならば側妃の中で最下位でよかったのに。王妃、つまり国王の正妃ではなく。
そのときには知らなかったけれど、彼の表現するところの「真に愛するレディ」というのが三人いて、三人とも側妃にしていた。が、三人とも妃教育をまともに受けていない身分の低いレディで、しかもいろいろ問題があったらしい。どうにか側妃にすることは出来たけれど、正妃にするには難しい。
というわけで、人質同然でも弱小国の王女であるわたしならまだマシなわけで……。
わたしがバカで愚かでワガママ放題の傲慢な正妃を演じ、側妃たちがその逆を演じる。
わたしは体よく正妃の座を追われ、側妃たちの中のだれかがそれを継ぐ。
その国王のバカバカしいまでの策は実行に移されたわけだ。
そうして、最終段階がついいましがた実行に移されたのだ。
しかも、わたしはたったいまから「氷獣将軍」と呼ばれる王弟の妻になるらしい。
「氷獣将軍」は、先王が王宮内で務める侍女との子らしい。それでも、王子は二人しかいない為、王子として育てられたという。だけど、そんな王子がいい環境で育てられ、教育されるわけがない。
それこそ、書物に出てくる「不遇の王子」だ。
蔑まれ、虐げられ、冷遇され、無視された。
そんな劣悪な環境で育った彼は、いろいろな意味でまともではなかった。しかも巨躯に髭面という見た目もよくなく、性格は最低だった。唯一、体力と腕力はあったので現国王が王太子になった時点で軍に追いやられてしまった。そして彼はそこから出ることなく、というよりか社交界に出ることを許されぬまま現在にいたる。
「氷獣将軍」というふたつ名は、その見た目と不愛想さでそう呼ばれているにすぎない。
わたしは、そのアルバート・コールドウエルに再婚するのだ。
アルバートは、王宮で暮らしているわけではない。訂正。宮殿ですごすことはない。
軍の官舎で寝起きすることもあるらしいけれど、たいていは王宮内の旧宮殿の一画を手直しし、そこですごすことが多い。
というわけで、自室から持ち出すことを許された数少ない衣服や靴や書物を昔使っていたボロボロのトランク二個に詰め込み、王宮の森の奥にある旧宮殿に向かうことにした。
すでに薄暗くなっているけれど、離縁された以上わずかな時間でも正妃の部屋にいてはいけないらしい。
「ミキ様、わたしも連れて行ってください」
「わたしもです」
「わたしも」
「わたしもいっしょに行かせて下さい」
いままさしく去ろうとしたタイミングで、侍女や執事など宮殿で働いている人たちがおしかけてきた。
「侍女たちだけではありません。わたしたちだって、出来ればミキ様たちのお役に立ちたいのです」
「そうです。まぁ、執事は身の回りの世話が出来るわけではありませんのであまりお役には立てそうにありませんが」
「そうですよ。ついていくなら、やはり侍女でしょう?」
ワッと笑いが起こった。
みんなが笑っている。
みんな、かわるがわるこの部屋に来てはこうして笑っていた。
それも、これでおしまい。
寂しさがこみあげてきた。
「みなさん、お世話になりました」
笑い声がおさまったところで、みんなにこれまでのすべてに感謝を述べた。
みんなには、わたしがここに来てからずっとお世話になった。身の回りの世話をしてもらっただけではない。様々なことを教えてもらい、助けてもらった。
感謝しかない。
「みなさんと別れるのはつらいですが、みなさんにはそれぞれやるべきこと、やらなければならないことがあります。どうかそちらを優先して下さい」
そう。みんなには王族をはじめ王宮ですごすすべての人々の世話がある。
それこそが、王宮に勤める使用人たちの仕事なのだ。
「それが問題なのですよ」
「あー、嫌だ嫌だ。無能な国王、ろくでもない側妃たち。これからどうなることやら」
「そうよね。不安しかないわ」
「これまではミキ様がいらっしゃったからどうにかがんばってこれたけれど、これからはがんばれる気がしないわ」
「たしかにな。この先、どうなることやら」
みんなが口々に不安を述べ始めた。しかし、いまのわたしにはどうにも出来ない。
「ミキ様。われわれは、あなたを信じています。それから、『氷獣将軍』のことも。あなた方こそが、この王宮を、ひいてはこのベルスフォード王国を救って下さると」
筆頭執事のブランドン・チャンドラーが静かに言うと、みんなが期待と希望に満ちた表情をたたえ、わたしを見た。
その多くの表情、そして視線から逃れるように、自室だった部屋を出た。
そして、いよいよあたらしく夫となるアルバート・コールドウエルのいる旧宮殿へと向かった。
もう暗いからと、厩務員のひとりが馬車で送ってくれた。荷台にボロボロのトランクを乗せてくれ、二人で馭者台に並んで座った。
ここに来てから馬車に乗る機会はほとんどなかった。外交で他国を訪れる機会も。ましてや王都や領地の視察に行くなどということもなかった。
それをいうなら、婚儀の際のパレードさえなかった。
というよりか、婚儀じたいなかった。
先王が謁見の間で発表し、その場で祝杯をあげた。
たったそれだけだった。
もっとも、わたしはそれでよかったのだけれど。
しかし、書物に出てくる王族の婚儀と比較すれば、やはり蔑ろにされているのだなと当時は痛感したものだ。
それはともかく、王宮の外に出ることはなく、王宮内でも宮殿や庭園や厩舎をウロウロするだけで移動らしい移動はしない。
だから、馬車に乗る機会はなかった。
「旧宮殿へと続く道も、このように獣道のようになってしまっているのです。本来なら、せめて二頭立ての立派な馬車でお送りしたかったのですが、この道では通ることが出来ません。この馬車がギリギリといったところでしょうか」
ベテラン老厩務員バーナビー・クリフォードは、そう言って両肩をすくめた。
彼は、この王宮の厩舎で四十年以上働いている大ベテラン。
わたしが馬を大好きになったのも、彼の影響だ。
「この馬車、乗り心地がいいですよ。馬車ってこんな感じなのですね」
月光と星々、馬車にくくりつけているカンテラだけがすべての光。
その光の中、うっそうと茂る木々が永遠と続いているようにもうかがえる。
そこかしこで夜鳥が鳴いたり羽ばたいたりしている。
「ですが、ミキ様。やはり、馬の背とは比較になりませんよ」
「そうですよね。乗馬は素敵すぎますもの」
ここに来た当初、勝手がわからずウロウロしていたところ、厩舎に行きあたった。馬場で何頭かすごしていて、近づくと向こうも近づいて来てくれた。
馬の瞳にすべてを奪われた。おおげさではなく、ほんとうにすべてを。
そして、その駆ける姿。
この世の中にこんなに美しいものがあるだなんて……。
感動のあまり泣いてしまったほどだ。
そのわたしに声をかけてくれたのが、バーナビーだった。
彼は、わたしの馬の先生。馬の世話、乗馬、調教なんでも教えてくれた。
よく話をしたものだ。
『陛下に離縁されて放り出されたら、厩舎で雇って下さいね』
『こちらからお願いしたいくらいです。あなたは、優秀な厩務員ですから』
そんなふうに。
そのときには、まだ離縁についてそれほど意識をしていなかった。だから、冗談まじりに言っていた。
それがいま現実になったけれど、あいにく厩務員になることは出来ない。だけど、これまでとかわらず厩舎には行けるかもしれない。
なにせ同じ王宮内にいるのだから。
「ぼっちゃんも馬が大好きですから、気が合うはずです」
「アルバート様が?」
「ええ。自分の乗る馬の調教は、最終的には自分でするのです。あなた同様腕もいい」
そんな話をしていると、自然と人工のささやかな光の中、旧宮殿の威容が横たわっているのが見えてきた。
近づくにつれいいにおいが鼻腔をくすぐった。
具体的には、食べ物のにおいが漂ってくる。さらに具体的には、シチューのにおいだ。
こんなに魅惑的なにおいはない。
「グルルルルル」
お腹の虫が騒ぎ始めた。
「いやだわ。ごめんなさい」
恥ずかしさのあまり、顔が火照った。
「なあに。わしだって腹が減っています」
バーナビーと顔を見合わせて笑ってしまった。
馬車を降りると、バーナビーがさっさとトランクをおろして歩き始めた。
彼のうしろについていった。
どうやら彼は、ここに来たことがあるみたい。
旧宮殿は石造りだった。ベルスフォード王国建国以来、この宮殿は三百年以上使われていたらしい。が、当時の流行りの建築様式の建物に移行することになり、いまの宮殿に移ったという。
そして、ここはほとんど使われることなく朽ち果てるに任せていた。
アルバート・コールドウエルが住むようになるまでは。
いまや瓦礫や岩の塊と化した残骸をよけつつ、正面の石段を上がっていった。バーナビーは、宮殿内に足を踏み入れると慣れた様子で奥へと進んでいく。
すっかりボロボロで苔むしているものの、開放的で気持ちのいい空間。
石床は奥へと続いていて、ところどころ隆起していたりヒビが入っていたりする。
バーナビーのうしろを同じように歩いていく。
いいにおいが強烈になってきた。
「グルルルルル」
そのにおいに触発され、お腹の虫がさらに暴れ出す。
「ああ、もうっ! いい加減にしてほしいわ」
おもわず不満をぶちまけていた。自分自身に。
ふと前を見ると、回廊に射し込む月光の中バーナビーの立派な両肩が震えているのがわかった。
「腹の虫も限界に近いようですな。もう少しです。坊ちゃんの居場所はわかっていますので」
彼は振り返らずそう告げ、歩く速度をあげた。
慌ててついて行かねばならなかった。
回廊をさらに奥へ。
回廊沿いの部屋の木製の扉は、すっかり朽ち果てている。歩きつつ中を見たかぎりでは、ほとんどがなにも残っていない。ときおり、元はなにだったかわからない調度品っぽいものや彫刻や絵画が石床上に放置されているのがうかがえる。
バーナビーがようやく立ち止まったのは、回廊の奥の方だった。
そこは、木製ではなく石造りの扉の部屋だ。
彼はわたしのトランクを石床上に置くと、石造りの扉に両手を伸ばした。
そして、彼は気合いの声とともにそれを押し始めた。
その瞬間、石造りの扉が全開した。両開きの扉は、ものの見事に開いた。
「おっとっと」
全体重をかけていたであろうバーナビーは、急にその対象がなくなったので前のめりに転びかけた。
「バーナビーさん」
彼のつなぎの服の一部をつかもうと、反射的に手を伸ばすも届かない。
転んでしまう。
ヒヤリとしたのも束の間、バーナビーの体が停止した。
「坊ちゃん」
バーナビーは、だれかに受け止められていた。
こちらに伸びている影から、かなり体が大きいことがわかる。
「すまない。まさかこの扉を開けようとしていたとは思いもしなかった」
「坊ちゃん、ありがとうございます」
バーナビーが体勢を整えると、中からそのだれかが回廊に出てきた。
それはもう大きな大きな男性だ。小柄なわたしは、彼を見上げなければならなかった。
「坊ちゃん、ミキ様をお連れしました。ミキ様、こちらが『氷獣将軍』と名高いアルバート・コールドウエル様です」
バーナビーに紹介されるまでもない。
わたしの眼前で聳え立つアルバートは、髭面のいかにも巨獣だ。赤毛に赤髭は、燃え盛っている焔をも思わせる。
髭面の中にある瞳も同様に燃えるような赤色であることが、自然のささやかな光の中でもよくわかった。
その赤色の瞳が、こちらを睨み下ろしている。
ふつうなら怖いと思うのかしら?
だけど、不思議と怖くはない。
その赤色の瞳がやさしく感じられたからだ。
「バーナビー、坊ちゃんというのはやめてくれないか?」
彼の赤い瞳がバーナビーの方に向いた。
髭でよくわからないが、訴えた声は気恥ずかしそうだった。
「わかっていますとも、坊ちゃん」
バーナビーは、理解を示してから苦笑した。
「ですが、坊ちゃんは坊ちゃんですからな。諦めて下さい」
なんてこと。バーナビーは、坊ちゃんと呼ばない努力をしないらしい。
この呼称問題は、二人の間では定番になっているようだ。
アルバートは、ごつい両肩をただすくめただけだった。
「ようこそ、レディ。アルバート・コールドウエルです」
白いシャツに黒いズボンという姿は、彼によく似合っている。
差し出された右手は、大きくて分厚い。
その手を握った。やさしく握り返された彼の手は、驚くほどやさしくあたたかかった。
こんなに心のこもった握手は、生まれてはじめてだ。
二、三度上下に振って手を離すタイミングになっても、彼は手を離そうとしない。
その間、彼の赤色の瞳はわたしをじっと見つめたままだ。
じっと見つめられているけれど、居心地が悪いわけではない。怖くないと同様に、そんなふうに思えないのが自分でも不思議だ。
「あの、アルバート様? どうかされましたか?」
まだ握り合っているままの手と手。
さすがに不自然な間が出来ている為、控えめに尋ねてみた。
「おっと、これは失礼」
彼は、慌てて手をひっこめた。
「その、失礼だが、レディの手はもっとこう……」
彼は、急にモジモジと言い淀んだ。
「ええ。もっと白くてきれいですね」
彼が言わんとしていることは、想像がついている。
「い、いや、その、すまない」
巨躯の髭面がしどろもどろになっているのが可愛い。
「いいのです。ええ、そうなのですよ。わたしは、料理や洗濯や掃除といった家事をしたり、それから花や野菜や果物を育てたり、最近ではバーナビーさんに教えてもらいながら馬の世話をしたり、いろいろやっているものですから。だから、荒れてしまって。ほんとうは、人前に出るのにもっときれいにしておかなければならないのでしょう。ですが、たいていは白の手袋でごまかせますからついつい荒れるに任せてしまうのです」
「おれは、白くてきれいな手は好きではない。それこそ、ナイフやフォークくらいしか持ったことのないようなひ弱な手は」
社交辞令的に言ってくれているのかと思った。しかし、彼の赤い瞳は真剣そのものだ。
「すこし遅いが、夕食の準備をしていたところだ。腹は? 減っているのだといいのだが」
「あー、坊ちゃんそのことなら心配はいらない……」
「グルルルルルルルルル」
アルバートのお誘いにバーナビーが苦笑とともに言っている最中、またしてもわたしのお腹の虫が暴れはじめた。
しかも、これまで以上の暴れっぷりである。
「し、信じられない」
顔が火照っているのがわかった。いいえ。それどころか火を噴出してもおかしくない。
「これはこれは。悪かったな。挨拶はあとにすればよかった。さあ、どうぞ。夕食にしよう」
アルバートは石造りの扉を軽々と開け、バーナビーとわたしを部屋に招じ入れてくれた。
一歩入るなり、いろいろな食べ物のにおいが体を包みこんだ。
ここは、厨房だったのだ。
(か、可愛すぎる……)
それを見た瞬間、あまりの衝撃でふらついてしまった。
助けを求めるようにバーナビーをこっそり見てしまう。
彼は、見慣れているらしい。
ふつうに手伝っている。
すくなくとも表情も態度もなんらかわりはない。
アルバートは、「料理を温め直し、皿に盛りつける」と言った。
それはそれでまったく問題ない。
だから、「手伝わせて下さい」と申し出た。
彼は、調理場の奥に行った。奥に大きなテーブルがある。
昔、厨房で働く料理人たちが食事をしたり、食材を置いたりしていたのかもしれない。
それはともかく、彼はそこからなにかをつかむとゴソゴソし、それからこちらに戻ってきた。
そこで衝撃を受けたのだ。
な、なんと、彼はバラの刺繡をあしらったエプロンを着用しているではないか。
巨躯に髭面の軍人がバラの刺繡をあしらったエプロンを着用しているのだ。
これが衝撃を受けずして、他になにがあるだろう。
そして、彼はバーナビーとわたしにおそろいのエプロンを差し出した。
「ふむ。あいかわらず可愛い物好きですな、坊ちゃん」
バーナビーは、ふつうに受け取ってふつうに着用した。
(か、可愛い)
ごつい初老の老人もまた、なぜか似合っている。
アルバートに負けず劣らず。
ギャップがありすぎて、この可愛さはキュンキュンきてしまった。
「ミキ、気に入らないのか?」
アルバートに尋ねられ、一瞬なんのことかわからなかった。
「はい?」
「エプロンだ。ああ、バラが気に入らなければ、デイジーもあるぞ。いや。きみは、ヒマワリが似合いそうだな」
いえ、ちょっと待って。まだあるの? デイジーにヒマワリ? まさか、この刺繡は彼が?
というか、わたしがヒマワリが似合いそうって、どういうこと?
ツッコミどころが多すぎる。
「あっ、いえ、大丈夫です。バラは、わたしの一番好きな花です。それも赤いバラが大好きなのです。とはいえ、白色や黄色も大好きですが」
わたしが手渡されたエプロンのバラは赤色。アルバートのエプロンのバラは白色。バーナビーのは黄色だ。
(もしもアルバートが刺繡をしたのだったら、芸が細かすぎる)
それ以前に、刺繍をすることじたいが驚きだ。
さらには、エプロンを着用して料理をするというところも驚きよね。
「それならよかった。では、葉物野菜は洗っている。サラダボウルに適当に盛り付けてほしい。バーナビーは、シチュー用の皿を頼む」
アルバートに指示されるままに動き、あっという間に準備が整った。
食堂はあるけれど、蜘蛛の巣が丸見えらしく厨房の奥のテーブルで食事はすませるらしい。
そして、食事にありつけた。
新鮮な野菜のサラダ、トマトソースのパスタ、メインはシチュー。長時間煮込んだ肉は、口に入れるととけてしまった。焼き立てのパンやチーズもある。ちゃんと葡萄酒も準備されている。
が、わたしは断った。その代わり、この森の中に湧いている炭酸泉の炭酸水をいただいた。
一心不乱に食べた。
それこそ、脇目もふらずに。さらには、男性二人の存在さえ忘れて。
どれもこれも美味しすぎる。
料理の腕は、はるかに彼の方が上だ。
悔しい? いいえ。教えてもらいたい。
もちろん、そういう気持ちは食後にわき起こってきた。
そして、場所を居間に使っているという部屋に移した。
お供は、やはりアルバートが焼いたというアップルパイとジンジャーティーだ。
バーナビーはさっさと食べて飲み終え、帰ってしまった。
そうだった。彼には馬たちの世話が残っている。
とはいえ、彼の弟子である厩務員たちがちゃんとやってくれているだろうけれど。
バーナビーが去ると、当然ここにはアルバートと二人きりになるわけで……。
「ちょうど国境地帯での演習が終わったところで、しばらくはここですごせるんだ」
居間にしているという部屋は、もともと居間の一つだったらしい。
きれいに補修や清掃がされていて、ちゃんと最近の長椅子やローテーブルが設置されている。
わたしたちは、ローテーブルをはさんで座った。
長椅子は、座り心地がとてもいい。
小柄なわたしだったら、寝そべって本を読めそう。
「そうでしたか。演習は、やはり大変なのでしょうね」
「ありがたいことに、ここ百数十年は平和な世の中だ。現在の軍の主な役割は、災害時の救援や復興支援。そういう危急に円滑に動けるよう、戦争ごっこをしている」
「重要なことだと思います。あってはならないことですが、そういう備えがあるというだけでも心強いです」
「ありがとう。が、どうにも平和ボケしている。おれも含めてだが。ああ、それと、まだあるな。軍の役割についてだが。賊たちの制圧、民衆による暴動。それから、反乱……」
アルバートは、不意に言葉を止めた。
その意味ありげな止め方に、おもわず彼の赤い瞳を見てしまった。
「まぁ、それらもここ最近は起っていないがね。が、こればかりはわからん。多くの人がいる以上、すべての人が満足してしあわせな生活を送っているわけではない。不平や不満。貧困や病。不平等や搾取。もろもろのことがあるのが事実」
彼の言葉に無言で頷いた。
「それでも、いままではどうにかなっていた。いままではな。だろう、ミキ?」
髭面なので細かい表情まではわからない。だけど、赤い瞳はまるでわたしの心を見透かすような輝きを発している。
天井のキャンドル式のシャンデリアの光の加減かもしれないけれど。
「それも、これからはわからんな。知らぬは愚か者ばかり、というわけだ」
彼の口角が上がったのがわかった。
(彼は、知っている。知っているのね)
そう確信した。
「ミキ、ありがとう。これまで、きみがフォローしてくれていたのだろう? いいや。謙遜は必要ない。おれにはわかっているのだから。あの愚か者にかわり、この国を支えてくれた」
「アルバート様。それは、かいかぶりすぎというものです。わたしではありません。宰相のチェスター・ダヴェンポートさんをはじめとした閣僚や各界の専門家たちのお蔭です。わたしは、その方たちの意見に従っただけなのです。なにせわたしは、元夫からきつく言い渡されていましたから。『おまえは、おれの横でヘラヘラ笑っているだけでいい』。そのように」
「ははっ! 愚かな義兄の言いそうなことだ。それはそうと、その宰相たちが口を揃えて言っているぞ。『ミキ様は、生まれながらの王妃だ』、とな」
「そんなことは……。わたしは、亡国の王女だったにすぎない存在。それ以上でも以下でもありません。元夫があんな調子ですから、自分なりに調べたり学んだり、それからみなさんの話をきいたり教えてもらったりしただけです」
「謙遜だな。まぁいい」
アルバートは、苦笑しつつ立ち上がった。
「アップルパイ、もうひとつどうかな? 疲れただろう。今夜はゆっくり休んで、話はまた明日にしよう」
「もちろん、いただきます」
こんなに美味しいアップルパイ、ひとつで終わらせる?
そんなこと出来るわけがない。
勢い込んで答えると、アルバートは大笑いしながら取りに行ってくれた。
再婚初日は、アップルパイとともに無事に終了した。
アルバートが準備してくれている部屋もまた、古さはあるけれども修繕と清掃がきちんとされていた。寝台、執務机、椅子、長椅子にローテーブル、チェスト、本棚といった家具類は、この旧宮殿のものではなくあたらしいもの。そして、クローゼットまでついていてその中もまたきれいになっている。
シンプルだけど機能的で使いやすそう。
花瓶にバラが飾られているのも、アルバートがしてくれたもの。
しかも、赤いバラだ。
一瞬、脳裏にアルバートとバーナビーのバラの刺繍をあしらったエプロン姿が浮かんだ。
おもわず、笑みが浮かんだ。
寝台の上に寝転びたい気持ちをしばし封印し、洗面室に行って体を拭いて顔や歯をみがいた。
「荷物は、といってもそうたいしてないけれど、とにかく荷物は明日すればいいわよね。今日は、もう寝ましょう」
自分に言いきかせた。
宮殿では、夜の挨拶に侍女たちが入れ替わり立ち代わりやって来てくれた。その都度話をきいたりするから、眠るまでに時間がかかっていた。
それも王妃の務めのひとつだろうけど、わたし自身楽しかったこともたしかなこと。
国王や側妃や他の王族、宮殿に出入りする貴族たちの愚痴を言うことでストレスが発散される。愚痴をきいたからといって、わたしに出来ることは多くはない。
なぜなら、とくに国王や側妃たちは、わたしの言うことなど耳を貸さないから。
というよりか、口をきくことさえ許されなかったから。
なにせわたしは、「ヘラヘラ笑っている」だけの存在だから。
それでも宰相のチェスターに話しをして、出来うるかぎりみんなが働きやすい環境にするようには心がけた。
もっとも国王や側妃たちにとっては、それらもただの付け焼刃にすぎないけれど。
とにかく、宮殿にいたときにはわたしの寝室はにぎやかだった。が、いまはそうではない。
静けさだけが横たわっている。
どこか心が軽くなった気もするけれど、寂しい気もする。
(それもきっと、すぐに慣れるはず)
カーテンを閉めようとガラス扉に近づくと、月光の下木々がぼんやり浮かんでいる。
「明日、アルバート様とちゃんと話をしなくては」
薄暗い景色を眺めながら自分に言いきかせた。
そして、寝台の上に横になった。
天蓋付きの広めの寝台で、他の調度品同様まだあたらしい。枕がふたつ、クッションもふたつ置かれていて、クッションにも刺繍がされている。
「すごい」
馬だ。ひとつには黒馬が、もうひとつには白馬が、それぞれ駆けている姿が刺繍されている。それらを寝台の上に並べてみた。
「うわぁ」
感嘆の声を上げていた。
対になっている。黒馬と白馬が並んで駆けている。そういう場面が描かれている。その躍動感溢れる刺繍に圧倒されてしまった。
「いい夢が見れそう」
きっと馬に乗って駆けている夢を見るに違いない。
寝台の上に上がると、枕をどけてクッションを並べた。
そうして横たわった。
「アルバート様、おやすみなさい」
この旧宮殿内のどこにいるかわからないアルバートに挨拶をし、瞼を閉じた。
それこそ、瞼を閉じた瞬間に眠っていた。
「よく眠ったわ」
せっかく馬の夢を見れると思っていたのに、それどころではなかった。
夢を見なかった。深く深く眠りについていたせいか、夢を見ていたとしてもなにひとつ覚えてはいない。
上半身を起こし、伸びをした。
たいていは倦怠感が残っているけれど、今朝はまったくそれがない。
頭も体も心もスッキリしている。
寝台から飛び降りた。フットワークの軽さに自分でも驚いた。
ガラス扉のカーテンを開けると、まばゆいばかりの陽光が体全体を射抜いた。
窓のカーテンも開けてから、トランクを開けてシャツとスカートを取り出す。
宮殿で家事や庭仕事をする際に着用するシャツとスカート。いわば制服といってもいい。
人前に出る際のドレスなどは、すべて置いてきた。というか、持ち出し禁止だった。三人の側妃たちが着ることになるからだ。
それはともかく、わたしにはシャツやスカートがあればいい。
着替えてからガラス扉を開けた。
テラスだ。
これもまた、あたらしい真鍮製の丸テーブルと椅子が二脚置いてある。
「いいお天気ねぇ……」
伸びをしつつ頭上に輝く太陽を見た。
「んんんんんん? って朝、よね?」
太陽、じゃっかん西に傾いてない?
尋ねてみるも、答えてくれる人はいない。
木々が鬱蒼と茂る森が眼前に広がっているだけだ。
「グルルルルル」
さっそくお腹の虫が騒ぎ始めた。
宮殿でも活発だったけれど、これほどではなかった。ここに来て、より活発になったのかしら?
(健康な証拠。食欲があるということはいいことよ)
そう結論付けた。
これが離縁されたばかりなのだから、笑ってしまう。
本来なら、ショックすぎてお腹がすかないのかもしれない。
まぁ、ショックではないからいいわよね?
というわけで、部屋を出て探検してみることにした。
訂正。厨房に行ってみることにした。
厨房にはだれもいない。
ただ、奥のテーブルの上に布巾をかぶせたなにかが置いてあることに気がついた。
近づいてみると、手紙が置いてある。
アルバートからわたし宛の手紙だった。
『朝起きてこなかったので、ランチを準備している。裏の厩舎にいるから、ランチを食べたら来てみてくれ』
布巾をめくるとお皿の上にサンドイッチがのっている。しかも大量に。それだけではない。カゴにはフルーツも。炭酸水の瓶まである。
というか、やはりいまは朝ではないのね。
いったいどれだけ眠っていたの、わたし?
一応嫁いできたはずなのに、いきなり寝坊? いいえ。寝坊なんてレベルじゃないわよね?
(わたし、いったいなんなの?)
寝心地がよかったとか、そんなことは言い訳にならない。
だけど、してしまったものは仕方がない。
反省しつつ大量のサンドイッチとフルーツをありがたくいただき、あっという間に完食した。
それから、厩舎に行ってみた。
迷いつつも旧宮殿をグルッとまわり、やっと見つけることが出来た。
アルバートは、そこにいた。
厩舎はあたらしく建てたもののようだ。バーナビーのいる厩舎とは比べものにならないほど小規模だけれど、馬が四、五頭は収容出来そうで、ちゃんと馬場もある。
いま、その馬場には黒馬と白馬が二頭いて、二頭は仲がよいらしくじゃれ合いながら駆けたり歩いたりしている。
その二頭がクッションの刺繍の馬だとすぐにわかった。
そして、アルバートはその馬場の柵の外にいた。
「やあ、ミキ」
「こんにちは、アルバート様。ランチ、ありがとうございます。全部いただきました」
「それはよかった」
アルバートは、髭面をこちらに向けて言った。
あれだけの量のサンドイッチを完食したことに驚いたとしても、大量の髭でその驚きの表情は読み取れそうにない。
「少しだけ待ってくれ。もう終わるから」
彼は、視線を手元に落とした。
近づいてうしろから覗き込むと、絵を描いている途中だった。
「まぁっ! すごくきれい」
驚くべきことに、精緻な二頭の馬が紙の中で駆けている。
「あの二頭は、クッションの刺繍の馬ですよね」
「ああ。気に入ってくれたのならいいのだが」
「もちろん。あんなにリアルな刺繍、見たことがありません。もちろん、この絵もですが」
讃辞を送ると、彼は「たいしたことはない。ただの手慰みだ」と口中でつぶやいた。
「ほんとうにきれいな馬たちですね。ああ、すみません。おとなしく馬たちを眺めていますから、仕上げて下さい」
邪魔をしては申し訳ない。
彼から離れ、柵沿いに歩き始めた。
すると、馬場内の二頭の馬がこちらに駆けてきた。
「なんて可愛いの」
競うようにして鼻を押し付けてくる。
鼻のプニプニが最高。
かわるがわるプニプニ感を満喫しつつ、鼻面をやさしく撫でた。
二頭ともすごくおとなしくてやさしい。
「おやおや。きみは、馬に好かれるタイプだな。あの気難しいバーナビーがきみを気に入っているのがうなずける」
二頭と戯れるのに夢中で、アルバートが近づいてきていることに気がつかなかった。
「白馬が『ホワイト・ローズ』。黒馬が『ブラック・ローズ』。両方ともおれの騎馬として活躍している生粋の軍馬だ」
「とてもやさしくておとなしいですね」
正直な感想だ。
「演習のときの二頭を見せたいよ」
彼は、そう言って苦笑した。
演習ともなると、きっと荒々しくなるのね。
だけど、いまは静かなこの場所でくつろいでいる。
ここは、馬たちにとってもいい環境に違いはない。
書き上がったばかりの絵を見せてもらった。
「刺繍は、絵を参考にして作成するんだ」
「それにしても、アルバート様はなんでも出来るのですね」
初対面から彼には驚かせられてばかりだ。
外見は強面のいかにも軍人って感じなのに、なんでも出来るのだから。
「素人のすることだからな。しかし、いい気分転換になる。男ばかりの殺伐とした環境にいると、こういう創作活動は心が癒されるのだ」
どれも素人のレベルを凌駕している。
だけど、頷くだけにしておいた。
「アルバート様、料理と刺繍を教えてくださいませんか?」
絵はぜったいにムリ。絵心は、生まれ育った祖国といっしょに消え去ってしまっている。
「ハハハ! おれに気を遣って合わせてくれようとしているのだな。きみは、やさしいな」
「そんなこと、ありません。その、なんと言いますか。ここを追い出されたら、働かないと生きていけません。手に職があれば、どこかでなんとか生きていけるかもしれません。宮殿で、いつか放りだされるかもとどこか覚悟にも似た気持ちがありましたので、侍女や料理人たちにいろいろ習い、出来るだけ練習してきました。ですが、どれも収入にするほどのものではありません。いまにして思えば、まだまだ覚悟が足りなかったようです。もっと真剣にやっておけばよかったと」
「放り出される? おれがきみを? それはない。それどころか、きみがおれを嫌がって出て行きたいのではないのか?」
「はい? まさか。まぁたしかに『氷獣将軍』の噂をきいただけでは怖かったかもしれません。というか、ふつうのレディは怖いかもしれません。が、わたしはふつうではありませんので。なにせ夫に愛想をつかされた『ヘラヘラ笑う』だけが取り柄のレディなのですから。そんなわたしが、元夫、というか国王の命令とはいえおしかけてきて、アルバート様はご迷惑なのではないでしょうか?」
「バカな。きみはなにか勘違いしているぞ。おれこそ、きみは無理矢理嫁がされてイヤイヤここに来たと……」
「いいえ、そんなことはありません。アーノルド様こそ、無理矢理おしつけられてイヤイヤお迎えくださって……」
なぜか意地になり、いまや叫んでいた。たぶんアルバートも意地になっているに違いない。
「ブルルルル」
「ブルルルル」
そのとき、「ホワイト・ローズ」が彼の頬に、「ブラック・ローズ」がわたしの頬に、それぞれ鼻先を押し付けた。
一瞬にしてプニプニした感触に癒された。
「ハハハハ」
「フフフフ」
どちらからともなく笑い始めた。
笑いが止まらない。
二人とも夕陽の赤色に染まるまで、笑い続けてしまった。
結局、わたしたちが夫婦であるということでとくに話し合いはしなかった。もちろん、愛を語らうということも。
まるで友人どうしの付き合いのように、平和で穏やかでやさしい毎日がすぎていく。
わたしは、それが気に入っている。毎日、起きてから馬の世話や庭の花や野菜の手入れや世話、や料理や刺繍を教えてもらったり、アルバートが絵を描くのを見たり、森の中を二人で乗馬をしたり、歩きまわったり、居間でクッキーやマドレーヌを食べながら話をしたり書物を読んだり。
毎日毎日、時間が足りないほど充実している。
こんなにもなんにもないし時間だけはたくさんあるのに、なぜかやることとやりたいことは尽きず、時間がまったく足りない。
忙しくもしあわせな毎日を送っている。
何度も言うようだけど、わたしはこの生活がとても気に入っている。
アルバート様? 彼もたぶん気にいってくれているのではないかしら?
すくなくとも、わたしにはそのように感じられる。
人間とはすぐに環境や状況に順応する。寂しいと思っていたこの生活にもすぐに慣れ、かえってこの静かな生活の方がいいことに満足した。
元夫である国王や側妃たちのいないこの生活は、自由で穏やかすぎる。
とはいえ、ときおり宮殿から非番だといって侍女たちや執事たち、それどころか宰相や官僚たちが遊びに来てくれる。
もちろん、大歓迎。
そのときには、アルバート様も付き合ってくれる。
彼に会ったみんなの反応は、一様に驚くから面白い。
それはそうよね。「氷獣将軍」の怖ろしいまでの噂をきいていれば、現実の彼とのギャップに驚くにきまっている。
そんなみんなからきかされる話は、日を追うごとに不穏な話になっていく。
不平や不満がたまりにたまり、いつそれらが爆発してもおかしくない状況なのだとか。
国王や側妃たちの傲慢な態度だけでなく、やりたい放題の行動は宮殿をただただ混乱させているという。
それは、宮殿だけにとどまらない。
王都へ、それから国内全土へ、急速に広がっているというから驚くばかり。
つまり無理な課税や過剰な搾取。意味のない規制や理不尽な弾圧。これらで国民たちをがんじがらめにしているというのだ。
王妃はいまだにきまっていないけれど、三人の側妃たちが王妃面して専横をふるい、国王は国王で近衛隊以外に専用の隊を作って宰相や官僚たちをも脅し、従わせているらしいから驚きだ。
その結果、王宮内だけではない。
王都、それからこのベルスフォード王国内全域に不穏な空気が蔓延しつつあるという。
つまり、反乱や武装蜂起がどこでいつ起こってもわからないのだ。
わたしたちが王宮のこの森の奥でまったりした生活を送っているこの短期間に、そこまでひどい状態になっていた。
しかも、アルバート様のもとに部下の将校たちもやって来るようになった。
この不穏な空気の流れの中、どうするのか指示を仰ぐために。
この日はいつもと違った。アルバート様の部下の将校たちや宰相のチェスターや閣僚たち、それだけでなく各界の著名人あちがおしかけてきた。
まるでみんなで申し合わせたように。
彼らは口を揃えて言った。
というか、おそらくはそれもみんなで申し合わせたのだと思う。
とにかく、彼らは要約するとこう言った。
「閣下。どうか妃殿下とともに立ち上がり、すべてを正して下さい。このままでは、国内は荒れに荒れます。いいえ。国内のいたるところで反乱が起こりそうであったり、起こっております。各領主や地方役人たちもそれを抑えることが出来ないでしょう。それだけの武力や気概がありませんので。それどころか、流れに身を任せる者、ともに立ち上がる者もいるかもしれません。一度荒れ始めたら、それを抑え込むのは困難です。それまでにどうにかせねば、いまのうちにどうにかせねば、この先この国はどうなるかわかりません。国内だけの問題ではありません。国内が荒れれば周辺国が介入、もしくは侵入してくるやもしれません。そうなれば、いまのベルスフォード王国軍では抑えきれない。それは、閣下が一番よくわかっていることかと」
宰相のチェスターは、切々と訴えた。
「元凶は、国王とその側妃たち。たった四人の為に、ベルスフォード王国じたいの存続が危ぶまれているのです。この四人をどうにか出来るのは、閣下、あなたと妃殿下のお二人だけでなのです」
そう締めくくった。
アルバート様とわたしに全責任と重荷をおしつけて。
やって来た全員が、アルバート様が立ち上がることを期待している。王弟でありベルスフォード王国軍の将軍であるアルバート様が立ち上がることを。
軍を率いて王都を制圧後、国王と側妃たちを断罪する。
だれもがそう望み、それをアルバート様が実行に移すことを期待している。
「国王やその側妃たちによって全国民が疲弊しているのは、おれにも責任がある。彼らを放置しているおれにもな。その罪は、すべてが終わってから償うとしよう。まずは国王に会い、その非を質す。それで収まるのならそれにこしたことはない。一滴の血も流れないのだから。が、収まらないときには……」
アルバート様は、言葉を止めた。
それがなにを意味するのか、このときにはわからなかった。
すくなくともわたしには。
つい先程までの穏やかでやさしいときはなくなってしまった。
「ミキ、きみはここにいるといい。どうなるかわからないからな」
「いいえ。いっしょに行きます。最後まで見届けたいのです。このような事態になったことは、わたしにも責任があります。こうなることがわかっていながら、わたしはここに来てあなたとすごしていたのですから」
「わかった。なに、きみのことはおれが守る。なにがあろうとな。だから、きみはきみのやりたいことをやり、言いたいことを言うといい」
「アルバート様……」
というわけで、連れて行ってもらえることになった。
駆けつけたアルバート様の部下たちとともに、わたしたちは宮殿に向った。
お話しにならなかった。
というよりか、話をきこうともしなかった。
元夫、いえ、国王と側妃たちは、国王自身の広い寝室にこもったままそこから出ようとしないらしい。
すべて寝室ですませているのだとか。しかも、控えの間やテラスに専属の兵士たちを配置して。
暗殺を怖れているのだ。
彼自身、暗殺を予見しているに違いない。
だから、わたしたちは寝室で会った。
訂正。拒否されたけれど、無理矢理寝室に入っていき、一方的に用件を告げた。
それも違った。一方的に警告した。
が、国王と側妃たちは、それをただ鼻で笑っただけだった。
武骨で不愛想で嫌われ者の王弟と無能きわまりない元妻がおしかけたところで、彼らは意に介さなかったのだ。
アルバート様は、懇々と説いた。
国王とその側妃たちの行いを、いますぐにでもただすことを。が、彼らはやはり鼻で笑っただけだった。
「では、仕方がないですな」
将校服姿で腰に剣を帯びたアルバート様。しかも、顔中のあらゆる髭を剃り落としている。
彼は、じつは美貌の持ち主だった。信じられないほどの美しい顔を、二度、三度と見返し、見惚れてしまったほどだ。
本人曰く、「軍の荒くれ者たちを統率するのには、こんな顔よりむさ苦しい髭面の方がいい。迫力が違うからな」、らしい。
なんとなくわかるような気がするけれど、それにしてもこんなに美しい顔を髭で隠してしまうのはもったいなさすぎる。
という一幕はいいとして、側妃たちもアルバート様の美貌に見惚れていて、三人とも「そっちの方がいい」とまで言い出す始末。
それもあってよりいっそう国王が激怒し、意地になってしまった。
「それでは仕方がない。武力行使しかないな」
「ははっ、貴様になにが出来る? 貴様とそのヘラヘラ笑うだけが取り柄のその女になにが出来るというのだ?」
「ああ、なんでも出来るさ。おれは、国王とその側妃たちの首を刎ね飛ばすことが出来るし、ミキは国王の死後の混乱を収めることの出来る政治的手腕がある。だから、いまここでおまえたちの胴体から首が刎ね飛んだところでなんの問題もない。このベルスフォード王国の全国民にとっては、宿痾が消え去り問題が解決するだけだ」
「この無礼者がっ! おいっ、なにをしている? この無礼者どもの首を刎ね飛ばせっ」
国王は力のかぎり叫ぶが、反応する者はだれもいなかった。
なぜなら彼直属の部隊は、とっくの昔にアルバート様の部下たちと近衛隊によって制圧されているから。
それどころか、近衛隊が踊り込んできて、あっという間に彼らを拘束した。
「ちょっと、わたしたちは関係ないわ」
「そうよ。悪いのは国王だけよ」
「すべては国王に責任があるのよ」
側妃たちの悲痛なまでの叫び声が響き渡るも、だれも耳を貸す者はいない。
「連行しろ。こいつらは、国民に裁いてもらう」
アルバート様の命令に従い、近衛隊が国王たちを連れて行こうとした。
「待ってくれ。頼む。あらためる。そう。あらためるから、このまま国王でいさせてくれ。おい、おまえ。正妃に戻してやる。だから、そいつを説得しろ」
国王がわたしを見て叫んだ。
だから、ヘラヘラ笑いながら応じた。
「出来ません。なにせわたしは、『ヘラヘラ笑うだけ』が取り柄の無能な女ですから」
「くそっ! このクソ女っ」
近衛隊の隊員たちに大廊下をひきずられながら、国王のわたしへの暴言がいついつまでも続いた。
彼らは、衆人環視の中で断頭台の露と消えることになる。
「これから忙しくなる。おれの罪は、この混乱が収まってからあらためて償うとしよう」
「おれの罪ではありません。わたしたちの罪です」
とりあえずは旧宮殿に戻ってきた。
が、明日には宮殿に戻らねばならない。
そこであらゆる混乱に対処し、様々な問題に立ち向かわねばならない。
アルバート様とわたしの罪の償い。
まずは国内に日常を取り戻すことが、第一の償いとなる。
旧宮殿の廊下で向かい合って立っている。
具体的には、わたしの部屋の前だ。
「その、ミキ。あらためて頼みがある。おれの妻になってくれ。いや。なにもきみの政治的手腕をどうのこうのというわけではない。これは、おれがきみを愛しているという純粋な気持ちのだな……」
髭がなくなった分、彼の表情がよくわかる。
真っ赤な顔で照れ臭そうな彼が可愛すぎる。
「そんな頼みは必要ありません。わたしは、あなたに嫁いでいるのですから。ここに来たときから、わたしはあなたの妻です。わたしの方こそ、あなたがこんなにも美貌だから妻になるというわけではありません。あなたをこんなにも愛しているからです」
わたしの方が度胸がある。というよりか、厚顔だ。
照れ臭さや羞恥心など欠片も抱くことなく、ふつうに告げた。
一瞬、彼の赤い瞳が輝いた。
が、それもすぐに見えなくなった。
彼は高い背をおもいっきり屈め、口づけをしてきたからである。反射的に瞼を閉じてしまったのである。
嵐の前の静けさの中、わたしたちはときを忘れて愛し合った。
(了)