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嫌われていると思っていた婚約者は、私が婚約解消に同意した瞬間だけ顔色を変えた

作者: 本城オブリゲータ

本文

「婚約解消で構いません」

そう告げた瞬間だけ、無表情で有名な婚約者ラウル様が顔色を変えた。

私はむしろ、その反応に驚いた。

だって私たちは、誰が見ても冷え切った政略婚約者同士だったから。

会えば会話は必要最低限。

贈り物は季節の義務みたいに届くだけ。

夜会で並んでも、二曲目を踊ることはない。

私はずっと、嫌われているのだと思っていた。

だから、春の茶会で子爵令嬢セレスタがわざとらしくため息をつき、私たちを見比べながら言ったときも、ようやく終わるのだと思っただけだった。

「フィオナ様もお辛いでしょう。

愛のない婚約を続けるなんて、お可哀想ですわ。

ラウル様ほどのお方なら、もっと心から寄り添える女性が必要ですもの」

その“もっと心から寄り添える女性”が自分だと言いたいのだろう。

セレスタは最近ずっと、隠そうともせずラウル様へ言い寄っていた。

そして社交界では、私たちの不仲は有名だ。

彼女からすれば、割り込む余地しか見えなかったのだと思う。

「ですから――」

セレスタが、しっとりした声で続ける。

「もしフィオナ様さえお認めになるなら、婚約解消もお考えになっては?」

私はティーカップを置いた。

周囲の貴婦人たちが、面白そうに息を潜めているのが分かる。

春の茶会では、花の香りより他人の恋路のほうがよほど好まれる。

でも、私にはもう十分だった。

嫌われている相手を、これ以上縛る理由はない。

そう思って、私はまっすぐラウル様を見た。

いつものように整った無表情。

冷たい灰色の目。

その瞳は、今日も何も語らない。

「婚約解消で構いません」

だからこそ、あの人が初めて顔色を変えたことに、私は言葉を失った。

ほんの一瞬だけ。

血の気が引いたみたいに白くなって、まるで取り返しのつかないものを落とした人の顔をしたのだ。

「……今、何と」

ラウル様の声は低かった。

けれど、いつもの平坦な響きではない。

私は戸惑いながらも、もう一度言う。

「婚約解消で構いません。

ラウル様がそれをお望みなら、私に異存はございません」

「私が?」

ラウル様が、信じられないものでも見るように私を見た。

その反応の意味が分からない。

「ええ。

私たちは政略で結ばれただけですもの。

嫌われていると分かっているのに、無理に続けるつもりはありません」

場がざわついた。

セレスタが目を輝かせる。

たぶん思った以上に話が早く進んで、嬉しくて仕方がないのだろう。

「まあ、フィオナ様ったらお優しい」

そう言った彼女へ、ラウル様は一度も目を向けなかった。

「少し」

その声に、私は思わず背筋を伸ばす。

「フィオナ嬢。

二人で話がしたい」

「ラウル様?」

「今すぐに」

有無を言わせない声だった。

けれど怒鳴っているわけではない。

むしろ、抑え込んでいるように聞こえた。

何をかは分からなかったけれど。

私は立ち上がる。

セレスタが慌てて口を挟んだ。

「まあ、お二人でなんて。

でしたら私も――」

「あなたではない」

ぴしゃりと落ちたその一言に、今度はセレスタが固まった。

私も固まった。

ラウル様が、こんなふうに誰かを切り捨てる言い方をしたのを初めて聞いたからだ。

「失礼」

それだけ言って、ラウル様は私のために道を空けた。

私は半ば夢遊病者みたいな気分で、茶会の席を離れた。

王宮の温室へ続く回廊は静かだった。

春の花が咲き始めたばかりの中庭が見える。

でも、そんな穏やかな景色を眺める余裕はなかった。

「嫌われている、とはどういう意味だ」

人目のない温室の前で足を止めるなり、ラウル様が問うた。

私は少しだけ息を呑む。

怒っているようには見えない。

でも、こんなふうに感情を表に出しているラウル様を見るのは初めてだった。

「どういう意味も、そのままです」

私はできるだけ落ち着いた声で答える。

「私は、ずっとラウル様に嫌われているのだと思っていました」

「なぜそう思う」

「……なぜも何も」

逆に、そちらが分からないのですか。

喉元まで出かかった言葉を、どうにか飲み込んだ。

「お会いしても必要なことしか話しませんし。

お手紙もいつも簡潔で、用件だけでした。

贈り物も社交辞令の範囲でしたし、夜会ではいつも一曲だけ。

それで好かれていると思うほうが難しいです」

言いながら、だんだん恥ずかしくなってくる。

好きでもない相手に好かれていないと思っていた、ならまだましだ。

でも私は、好きな相手に好かれていないとずっと思ってきた。

惨めと言えば、これ以上なく惨めだと思う。

沈黙が落ちた。

春先の温室はまだ少し冷えるのに、頬だけが熱い。

「……そうか」

ラウル様が、ようやく低く言った。

その声には、驚きと、後悔と、信じがたさが混じっていた。

「私は、真逆のことを考えていた」

「真逆?」

「あなたに嫌われているのは、私のほうだと思っていた」

今度は、私が声を失う番だった。

「え」

「初めて会った日に、あなたは私を見て震えた」

覚えている。

もちろん覚えている。

十五の春、婚約者として初めて紹介されたラウル様は、辺境伯家の嫡男らしくすらりと背が高く、日に焼けた肌と、剣傷の残る口元をしていた。

そして信じられないくらい、格好よかった。

見た瞬間に胸が痛くなって、指先が震えた。

でもそんなこと、言えるわけがない。

「あれは」

言い訳を探した私より先に、ラウル様が続ける。

「怖がらせたのだと思った。

私の顔も、無愛想さも、辺境の荒さも。

政略で縛られた相手に、それ以上の負担をかけるべきではないと考えた」

「……」

「だから必要以上に近づかなかった。

手紙も簡潔にした。

贈り物も趣味を押しつけない範囲に留めた。

夜会で一曲しか踊らなかったのも、あなたが我慢しているように見えたからだ」

私はただ、呆然と見上げるしかなかった。

そんなふうに考えていたなんて、一度も想像したことがなかったからだ。

「私は」

ようやく言葉を絞り出す。

「嫌ってなどいません。

むしろ、その……」

好きでした、と言うにはまだ勇気が足りない。

ラウル様を前にすると、昔と同じように喉が固くなる。

「では、なぜ」

そこで彼は、言葉を切った。

いつも静かな人が、今ははっきりと困っている顔をしている。

そのことが妙におかしくて、少しだけ緊張がほどけた。

「私は、ラウル様が私を疎ましく思っているから、距離を置かれているのだと」

「疎ましい?」

「はい」

私は頷く。

「社交界ではずっと、私たちは不仲だと噂されていましたし。

セレスタ様も、ラウル様なら愛のない婚約をお望みだと」

「私は一度もそんなことは言っていない」

きっぱりと否定されて、胸の奥が少しだけ跳ねた。

嬉しい、と思ってしまった自分にまた困る。

「セレスタ様は、最近ずっとあなたに話しかけておいででした。

私はてっきり、そういうご関係なのだと」

「違う」

今度は食い気味だった。

ラウル様は眉を寄せる。

「彼女が一方的に話しかけてきただけだ。

あなたの好きな花を知っているような口ぶりだったから、一度だけ理由を訊いた。

それだけだ」

「……私の好きな花?」

「冬白鈴蘭」

即答だった。

私は目を見開く。

「初めて贈った花束に入っていた。

あなたは礼状で、『冬白鈴蘭だけは自分でも育てるほど好きです』と書いていた」

そんなことまで覚えているのかと、しばらく言葉を失う。

あの花束は、たしかに初めて彼から届いたものだった。

でも、定型文みたいな贈り物だと思っていた。

私の返した礼状も、ちゃんと読まれていないのだろうと。

「読んで、くださっていたのですか」

「何度も読んだ」

淡々と返ってきた答えが、いちばん衝撃だった。

何度も。

今、この人はたしかにそう言った。

「……私は、贈り物なんて義務だと思っていました」

「義務の相手のために、温室の設計図は持ち歩かない」

「え?」

ラウル様は、そこで初めて少しだけ気まずそうな顔をした。

それから上着の内ポケットから、折りたたまれた紙を取り出す。

「今日は本来、これを見せるつもりだった」

受け取って開く。

そこには、邸の一角を改装した温室と、その隣の小さな書庫の図面が描かれていた。

南側は厚いガラス。

北側は棚が多く、鉢植えを並べられるようになっている。

書庫へ続く扉には風除室まであった。

「辺境は冬が長い」

ラウル様が言う。

「だから植物を育てるなら、王都より整えないと難しい。

あなたが好きだと言っていた本も置けるよう、書庫も隣に作らせた」

言葉が出なかった。

こんなものを用意されているなんて、夢にも思っていなかったからだ。

「今日の茶会で、あなたへ話すつもりだった」

ラウル様は、珍しく少しだけ言い淀む。

「結婚を急がせるつもりはない。

辺境へ来ることを、改めて頼みたかった。

嫌なら断ってくれて構わないとも言うつもりだった」

「……それで、あの場で」

「あなたが『婚約解消で構わない』と言った」

そこで彼は目を伏せた。

ほんの一瞬だけだったけれど、その沈黙にはっきりと傷ついた色があった。

「私は、あまり器用ではない」

「はい」

「話すのも、見せるのも上手くない」

「はい」

なぜか二回とも頷いてしまって、少しだけ空気がやわらぐ。

ラウル様は本当に、ほんの少しだけ口元を動かした。

笑いかけて、失敗したみたいな顔だった。

「だが、嫌ってなどいない」

その灰色の目が、まっすぐこちらを見る。

「むしろ、ずっと」

そこで言葉を切るのは、ずるいと思った。

でも同時に、この人がそれを口にするのにどれだけ勇気を使っているのかも分かった。

「ずっと?」

私が問うと、ラウル様は一度だけ息を吐いた。

「好きだった」

温室の前の空気が、そこで静かに止まった気がした。

庭の噴水の音だけが遠くに聞こえる。

私はたぶん、かなり間抜けな顔をしていたと思う。

「……今も」

彼は続ける。

「今も好きだ。

だから婚約解消は困る。

かなり困る」

最後の一言だけ少しぎこちないのが、ラウル様らしかった。

そして私は、それでようやく笑ってしまった。

「困る、ですか」

「非常に」

「好きだ、よりも先に」

「どちらも本音だ」

もう駄目だった。

胸の奥に溜まっていた三年分の勘違いと切なさが、笑いと一緒にほどけていく。

「私も」

言えたのは、それだけだった。

でも、ラウル様の表情が今度はほんとうに変わる。

驚いて、それから少しだけ、信じられないほどやわらかくなった。

「私も、好きです」

ちゃんと言い直すと、さっきより頬が熱い。

でももう、逃げたくはなかった。

「初めてお会いした日も、怖かったわけではありません。

その……格好よくて、緊張しただけです」

今度こそ、ラウル様は完全に黙った。

耳まで赤くなっている。

この人でも、そういう顔をするのかと妙なところで感心してしまう。

「それは」

ようやく出てきた声が、少しかすれていた。

「もっと早く知りたかった」

「私もです」

お互い、黙り込む。

三年分のすれ違いを思えば、笑うしかない沈黙だった。

そのときだった。

温室の向こうから、甲高い声が飛んでくる。

「ラウル様!」

セレスタだった。

どうやら諦めずに追ってきたらしい。

「お二人とも、ずいぶん長くお話を。

ですが、フィオナ様も婚約解消にご同意なさったことですし――」

「していない」

今度は、ラウル様の返答が一瞬だった。

セレスタが目を瞬く。

「え?」

「フィオナ嬢が同意したのは、私が婚約解消を望んでいると思ったからだ」

ラウル様は一歩前へ出る。

「だが私は一度も望んでいない。

むしろその逆だ」

「そ、そのような」

「それから」

声は静かだった。

静かなのに、茶会の席で浴びたどんな言葉より重かった。

「私の婚約者を前に、“もっと相応しい女性がいる”などと二度と口にしないでいただきたい」

セレスタの顔がみるみる赤くなる。

さっきまで勝ち誇っていた人とは思えないほど狼狽えていた。

「わ、私はただ、お二人が不仲だと」

「不仲だと噂していたのは、あなた方のほうだろう」

そこで初めて、私は少しだけ意地悪な気持ちになった。

三年分の誤解のうち、いくつかはこの人みたいな“親切な他人”によって育てられていたのかもしれないと思ったからだ。

「ご心配いただき、ありがとうございます」

私は微笑んだ。

「でもどうやら、余計なお世話だったようです」

セレスタの唇が震える。

反論したそうだったけれど、今のラウル様の隣でそれを言う勇気はなかったらしい。

結局、何も言えないまま頭を下げて去っていった。

残された回廊に、ようやく静けさが戻る。

「……すみません」

私は小さく言った。

「私のせいで、あなたまで噂の種に」

「構わない」

ラウル様は即答した。

「あなたが誤解したままになるほうが困る」

そう言われると、さっきまで以上に胸が熱くなる。

困る、という言葉をこんなに嬉しく思う日が来るとは知らなかった。

「では」

私は図面を胸に抱える。

「婚約解消の件は、取り下げでよろしいでしょうか」

「できれば」

ラウル様が言う。

そのあと、ほんの少しだけ迷ってから続けた。

「できれば、最初からなかったことにしてほしい」

「それは私も同感です」

また少し笑い合う。

今度の沈黙は、さっきまでよりずっと心地よかった。

「フィオナ」

初めて名前だけで呼ばれて、私は目を見開いた。

ラウル様も、呼んでから少しだけ驚いた顔をしている。

でも、言い直さなかった。

「もう少し、話してもいいだろうか」

「はい」

「温室のことも。

書庫のことも。

……その先のことも」

「その先、ですか」

「できれば、結婚後のことまで」

今度は私のほうが赤くなる番だった。

けれど逃げない。

もう逃げなくていいと、知ってしまったから。

「では、私からも条件があります」

「何だ」

「次からは、好きなら好きともう少し早く言ってください」

「努力する」

「あと、夜会で二曲目も踊ってください」

「……善処する」

「善処では困ります」

言い返すと、ラウル様は本当に困った顔をした。

それがあまりにも珍しくて、私はとうとう声を上げて笑ってしまう。

嫌われていると思っていた。

不仲だと思っていた。

でも違った。

黙っていたのは、冷たいからではなく、不器用だったから。

私たちはたぶん、似たもの同士だったのだ。

春の光が温室のガラスへ落ちる。

その向こうで、冬白鈴蘭の白い花が小さく揺れていた。

「フィオナ」

「はい」

「今度は、あなたが顔色を変える番かもしれない」

「どういう意味ですか」

ラウル様は少しだけ視線を逸らし、それでもちゃんと言った。

「今日は、指輪も持ってきている」

私はしばらく何も言えなかった。

それから、たぶん今日一番、顔色を変えたのは私だったと思う。