作品タイトル不明
3. 今朝は、何か召し上がりましたか
大聖堂へ戻った時、食堂は既に夕食の時間を迎えていた。扉を開けると、香草と焼いた肉の匂いが流れ込んでくる。神官たちは今日の寄付額について談笑し、どの地区の有力者がいくら包んだか、どこの貴族が聖女の奇跡に感銘を受けたかを楽しげに語っていた。セシリアの前には、いつものように黒パンと薄いスープが置かれている。昼間の治療と浄化で体の芯は冷え、足はまだ小さく震えていたが、それを言葉にする気力はなかった。言えばまた欲深いと言われる。聖女にあるまじき弱音だと咎められる。だから黙って席に着き、手を合わせた。
「聖女様、明日は王城へ向かいます」
神官長が肉を切り分けながら告げた。
「王城ですか」
「ええ。隣国より、王太子を含む使節団が参っております。聖女様のお力をぜひ見たいとのことです。国王陛下も大層乗り気でしてな。くれぐれも粗相のないように」
隣国という言葉に、セシリアはわずかに瞬きをした。彼女にとって国の外とは、地図の上にしか存在しない場所だった。王都へ来てからというもの、外出はすべて教会の管理下にあり、手紙を書くことも、誰かと自由に話すことも許されていない。隣国の人々が自分を見たいというのも、きっと教会の功績を示すためなのだろう。セシリア個人に用があるわけではない。そう思うと、特別な思いは何も湧かなかった。
「聖女様、明日の場では余計なことを口にしてはなりませんよ」
「余計なこと、ですか」
「昨日のようなことです。パンが欲しいなどと、あのような発言を客人の前でされては困ります。聖女様は国の象徴であり、教会の看板なのですから」
「分かりました」
セシリアが答えると、神官長は満足げに頷いた。
「それでよろしい。明日は特に大事な日です。隣国の支援を引き出せれば、教会はさらに大きくなります。聖女様にも、少しはその自覚を持っていただきませんとな」
◇
翌日、セシリアは王城へ連れて行かれた。聖女用の衣装として用意された白いドレスは見た目だけは清らかで美しかったが、何年も仕立て直されていないせいで肩のあたりがわずかに合わない。痩せた体を布地が余るように包み、それをごまかすために神官たちは胸元に大きな飾りをつけた。鏡の中の自分は確かに聖女らしく見えた。白く、静かで、どこか人形めいている。セシリアはそれを見て、妙に納得した。人間らしく見えない方が、彼らにとっては都合がいいのだ。
王城の謁見広間には、国王と重臣たち、そして隣国の使節団と王太子が並んでいた。神官長はセシリアの少し前に立ち、誇らしげに胸を張っている。まるで自分こそが奇跡を起こすかのような顔だった。
「こちらが我が国の聖女、セシリア様です」
紹介され、セシリアは静かに頭を下げた。視線が集まる。いつものことだった。驚き、期待、値踏み、信仰。そこに混じって、一つだけ異質な視線があった。隣国の王太子だと紹介された青年が、セシリアを見ていた。年は二十代前半ほどだろうか。銀灰色の髪に深い青の瞳を持つその人は、聖女の奇跡を期待するというより、セシリア自身の状態を確かめているようだった。
「それでは、聖女様のお力をご覧に入れましょう」
神官長が合図をすると、従者が黒い布に包まれた鉱石を運んできた。瘴気を含んだ石だと説明され、広間にいた貴族たちがわずかに身を引く。布が取り払われた瞬間、重く濁った空気が広がった。セシリアは一歩前へ出る。
セシリアは石へ手をかざし、静かに祈った。淡い光が指先から溢れ、黒く滲む瘴気を少しずつ包み込んでいく。広間に感嘆の声が広がった。国王は満足げに頷き、重臣たちは隣国の使節団へ誇らしげな視線を向ける。神官長も満面の笑みを浮かべていた。
やがて瘴気は完全に消え、鉱石はただの黒い石になった。拍手が起こる。誰かが「素晴らしい」と言い、別の誰かが「まさに神の奇跡だ」と声を上げた。セシリアは手を下ろし、微笑もうとした。けれど足元が一瞬揺らぐ。倒れはしなかった。ほんの少し、体が傾いただけだった。神官長はすぐにその前へ出る。
「ご覧の通り、聖女様のお力は衰えを知りません。これこそ我が教会が誇る神の祝福でございます」
「聖女様」
不意に隣国の王太子が声をかけた。セシリアは顔を上げる。彼は国王や神官長ではなく、まっすぐセシリアを見ていた。
「今朝は、何か召し上がりましたか」
広間の空気がわずかに揺れる。奇跡の感想でも、信仰の話でもなく、食事のことを問われたからだ。セシリアは返事に迷った。食べていないわけではない。薄いスープは飲んだ。けれど、それを食事と呼んでいいのか分からなかった。
「聖女様はもちろん、十分に召し上がっておられます」
セシリアが答えるより早く、神官長が笑顔で言った。
「清らかな務めに差し支えぬよう、教会で万全にお世話しておりますので」
「そうですか。では、よく休まれてもいるのですね」
「当然でございます」
神官長の答えは早かった。セシリアは黙っていた。何かを言えば、また余計なことになる。昨日、神官長に釘を刺されたばかりだった。
王太子はそれ以上追及しなかった。ただ、ほんの一瞬だけセシリアの手元へ視線を落とした。祈りを終えた指先が、わずかに震えている。それを見た彼は、使節団の後ろに控えていた書記官へ目配せした。書記官は小さく頷き、手元の記録帳に何かを書き留める。
「見事なお力でした」
王太子はそう言った。