作品タイトル不明
14. すれ違う関係
その日から、セシリアは王太子を避けるようになった。
避ける、というほど露骨なものではない。日常的な雑談の機会を減らしただけだ。
王太子が何か悪いことをしたわけではない。
むしろ、悪いのは自分の方だとセシリアは思っていた。王太子に縁談があるかもしれない。まだ正式ではないにせよ、そういう話が出ているのなら、彼はいずれ誰かと婚約する立場にある。その直前に、自分が必要以上に親しくするのはよくない。
それは、不誠実なことではないのか。
そう考えた瞬間、セシリアはもう以前のようには振る舞えなくなった。自分の気持ちが恋かどうかより先に、してはいけないことがある。誰かを傷つけるかもしれない距離に、踏み込んではいけない。
だからセシリアは、王太子との間に一歩分の距離を置くことにした。その一歩が、思っていた以上に苦しいものだとしても。
最初に気づいたのは、王太子だった。
当然といえば当然だった。これまでなら、廊下で顔を合わせれば少しだけ立ち話をした。中庭の花が咲いたと聞けば、セシリアはその香りについて話し、王太子はそれを静かに聞いてくれた。母国への祈りの予定を確認した後も、紅茶を飲みながら体調のことや友人たちのことを話すことがあった。
けれど今は違う。
「セシリアさん。先日の母国の件について、報告書を確認しました」
「ありがとうございます。特に問題はありませんでした」
必要な返事だけをして、セシリアは書類を受け取る。王太子は少しだけ間を置いた。
「最近、香りの調合はいかがですか」
「少しずつです。まだ試しているところなので」
「そうですか」
話はそこで途切れた。
以前なら、どんな香りを試しているのか、誰に贈るものなのか、自然と話が続いていたはずだった。セシリアもそのことに気づいている。気づいているからこそ、視線を上げることができなかった。
「では、失礼いたします」
頭を下げて、その場を離れる。
背中に王太子の視線を感じた。呼び止められはしない。けれど、何か言いたそうにしている気配だけは分かる。
それが、ますます苦しかった。
自室へ戻ると、机の上にはあの日買った香料が並んでいた。淡い青紫の花、乾かした柑橘の皮、白い花の香油。どれもまだ使い切れていない。何度か調合しようとしたが、蓋を開けるたびに、あの日をを思い出してしまい、結局手が止まった。
セシリアは小瓶を一つ手に取り、すぐに戻した。
「……何をしているのかしら」
小さく呟いた声は、部屋の中にすぐ消えた。
その日の夕方、セシリアは気分を変えるために中庭へ出た。部屋にいても同じことばかり考えてしまう。花を見れば、少しは落ち着くかもしれないと思ったのだ。中庭には白い花が咲いていた。庭師が数日前に教えてくれた新しい花で、夜になると少しだけ香りが強くなるらしい。
すると、背後から声がした。
「セシリアさん」
振り向かなくても、誰なのか分かってしまう声だった。セシリアは一瞬だけ息を止め、それからゆっくりと振り返る。
「……殿下」
王太子は少し離れた場所に立っていた。偶然通りかかったのか、それともセシリアを探していたのかは分からない。
「お邪魔でしたか」
「いいえ。花を見ていただけです」
王太子は花壇へ視線を向けた。
「よい香りですね」
「夜になると、少し香りが強くなるそうです」
そこまで言って、セシリアは口を閉じる。王太子はしばらく黙っていた。
「最近、少しお忙しそうですね」
「……そうでしょうか」
「ええ。以前より、お話しする時間が減りましたから。無理に聞くつもりはありません。ただ、私が何か気に障ることをしたのなら、教えていただけると助かります」
「いいえ。殿下は何も悪くありません。お気になさらないで下さい」
その答えだけは、すぐに出た。
王太子は少しだけ安心したように目を伏せた。
「それならよかった」
そこで会話が終わってもよかった。けれど、セシリアの胸にはまだ言葉が聞きたい事だけが残っていた。
「……噂を聞きました。殿下に、縁談があるかもしれないと」
王太子はすぐには否定しなかった。
その沈黙に、セシリアは思う。やはり、まったく根のない話ではないのだろう。
「そういう話が出る立場であることは事実です」
王太子は静かに言った。
「ですが、私自身が受けた話ではありません。少なくとも、今すぐ何かが決まるようなものではない」
「それでも、可能性はあるのでしょう」
セシリアは小さく言った。
「殿下はいずれ、誰かと婚約なさる立場です。そういう相手が現れるかもしれないのに、私が必要以上に親しくするのは……不誠実だと思いました」
言葉にすると、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「私がその方の立場なら、きっと嫌だと思うのです。まだ正式でなくても、そういう噂がある相手のそばに、別の女性が親しくいるのは」
王太子は困ったように、けれどどこか優しい目でセシリアを見ていた。
「あなたは、本当にそういうところで真面目ですね。私は迷惑だと思ったことはありませんよ。ただ、何も言われないまま距離を置かれると、寂しいですね」
セシリアは視線を落とす。
「……すみません」
「私の方こそ申し訳ないです」
こうやって会話をするのは数週間ぶりだった。王太子はしばらく花を見ていた。何かを考えているようだった。
やがて、王太子が静かに口を開いた。
「セシリアさん」
「はい」
「先ほどの縁談の話ですが、私は誰でもよいと思っているわけではありませんよ」
セシリアは顔を上げる。
王太子は、まっすぐこちらを見ていた。
「国のことを考えないわけにはいきません。けれど、だからといって、自分の心を何も持たずに婚姻を選ぶつもりもありません」
「殿下……?」
「あなたが距離を置こうとした理由は分かりました。けれど、その理由を聞いて、私もこのままにしておく訳には行かないと感じました」
セシリアの胸が、小さく跳ねた。
「本当は、もう少し時間を置くつもりでした。あなたを急かしたくはありませんでしたし、私の立場があなたの負担になることも分かっています」
セシリアは息をするのを忘れそうになった。
「けれど、あなたが私から離れようとしているのなら、何も言わずに待つことが正しいとも思えません」
王太子は一度、息を吸う。
「セシリアさん、私は――私は、あなたが好きです」
白い花の香りが、風に揺れた。