作品タイトル不明
13. 恋の萌芽
王太子と王都を歩いてから、数週間が過ぎた。
その日、セシリアはいつものようにアリスたちと茶を飲んでいた。話題は自然と、最近のセシリアの様子へ移っていく。
「それ恋よ恋!」
アリスが、紅茶の杯を置くなり言い切った。
セシリアは思わず瞬きをする。
「……まだ何も詳しく話していないのだけれど」
「顔を見れば分かるわ。殿下と王都を歩いたのでしょう? 花屋に行って、香料店に行って、最後にパン屋へ寄ったって聞いたわ」
「それは、勉強として……」
「それを世間ではお出かけと言うのよ」
セシリアは反論しようとしたが、うまい言葉が出てこなかった。
「それに、わざわざ忙しい時間を作ってまで一緒に行ってくれる人なんていないよ!」
アリスはきっぱりと言い切った。
「それに、殿下でしょう? 普通なら、側近に店の場所を調べさせて終わりよ。それを本人が一緒に行ったのなら、少なくとも貴方との時間を大事にしたかったのだと思うわ」
「まあ、確かにアリスが言うと説得力はあるわね」
エレノアが紅茶を飲みながら言う。
アリスは得意げに胸を張った。
「でしょう? 私もエドが忙しいのに時間を作ってくれた時、これはただの親切ではないわって思ったもの」
「アリスの場合は、その前からかなり分かりやすかったけれど」
「セシル、今は私の話ではないわ」
アリスは軽く咳払いをして、改めてセシリアへ向き直った。
「とにかく、殿下はただの義務で動いたわけではないと思うの。セシリアが楽しそうにしているところを見たかったんじゃないかしら」
「そんな……」
セシリアは思わず視線を落とした。
王太子が、自分のために時間を作った。自分が楽しそうにしているところを見たいと思った。そう考えるだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
「でも、殿下はお優しい方だから」
「優しいだけで、花屋と香料店とパン屋まで付き合うかしら」
「……それは」
リーザロッテが言葉を添えた。
「それは、相手を大切に思っていなければできないことですわ」
セシリアは何も言えなくなった。
「でも、私には殿下に助けていただいた恩があるわ」
セシリアは小さく言った。
「だから、安心するのは当然かもしれない。優しくされて嬉しいのも、きっとそのせいで……」
「恩と恋は別よ」
アリスが即答した。
「もちろん、助けてもらったことへの感謝はあると思う。でも、今セシリアが思い出しているのは、助けられた時の殿下ではなくて、一緒に街を歩いた時の殿下でしょう?」
まさしくその通りだった。
「すぐに恋だと決めなくてもいいわ」
エレノアが言った。
「でも、見ないふりはしない方がいいと思う。怖いから分からないことにしていると、本当に分からなくなるから」
「……怖い、のかしら」
「そう見えるわ」
セシリアは膝の上で指を重ねた。
怖い。そう言われると、否定できなかった。王太子を一人の男性として意識することが。彼と過ごした時間を特別だと思うことが。
「殿下には立場がありますものね」
リーザロッテが静かに言う。
セシリアは小さく頷いた。
「ええ。殿下は王太子だわ。私がそんなふうに考えていい相手ではないのかもしれない」
「それを決めるのは、セシリア一人ではありませんわ」
「立場を考えることは大切です。けれど、立場を理由に最初から自分の気持ちを消す必要はありません。殿下のことは、殿下ご自身が考えることでもありますもの」
「そうよ」
セシルが頷く。
「相手のためって言いながら勝手に引くの、相手からしたら結構困ると思うわよ」
立場を理由に、最初から自分の気持ちを消す必要はない。リーザロッテの言葉は分かる。セシルの言うことも、きっと間違っていない。けれど、王太子の立場を思うと、簡単に頷くことはできなかった。
「私は、まだよく分からないわ」
「エレノアも言っていたけれども、私もそれでいいと思うわ」
セシリアは小さく頷いた。押し込める。諦める。迷惑をかけないように、先に身を引く。
どれも、昔から自分が選びがちだったものだ。けれど今は、そうしなくてもいいのだと、友人たちは何度も言ってくれる。
「……考えてみるわ」
「それでいいのよ」
アリスがほっとしたように笑う。
「でも私は、もう恋だと思っているけどね」
「アリス」
「はいはい。今日はここまでにしておくわ」
そう言って、アリスは紅茶の杯を持ち上げた。
◇
王城へ戻る頃には、午後の光が廊下の奥まで差し込んでいた。
セシリアは自室へ戻る前に、少しだけ中庭を眺めようと思って足を緩めた。花壇には白い花が咲いていて、風が吹くたびに小さく揺れている。王太子と王都を歩いた日にも、似たような花を見た気がした。
その時、廊下の角の向こうから、女官たちの声が聞こえた。
「そういえば、殿下の婚姻のお話、聞きました?」
「ええ。まだ正式ではないそうですけれど、縁談を出そうとしているとか」
「王太子殿下なら、いずれそういう話も出ますものね」
セシリアの足が止まった。王太子の婚姻。
つい先ほどまで温かく揺れていた胸の奥が、すっと冷えていく。
あり得ない話ではない。むしろ、王太子である以上、いつかは必ず出る話だ。国のために妃を迎える。国同士の関係を整えるために婚姻を結ぶ。そういうことがあるのは、セシリアにも分かっていた。
分かっていたはずなのに、実際に耳にした瞬間、息が詰まった。
女官たちはセシリアに気づかないまま、声を潜めて廊下の奥へ消えていく。
セシリアはその場に立ち尽くした。
王太子は優しい。セシリアの趣味を覚えていてくれる。花屋にも香料店にも付き合ってくれた。普通のパンを一緒に食べて、穏やかに笑ってくれた。
けれど、彼は王太子なのだ。
セシリアは籠を持つ手に、少しだけ力を込めた。友人たちは、自分の気持ちを最初から消す必要はないと言ってくれた。勝手に身を引くのはよくないとも言ってくれた。
それでも、胸の奥ではもう、距離を取ろうとする自分がいた。
殿下に迷惑をかけたくない。
殿下の立場を乱したくない。
そう思った瞬間、数週間前の王都の記憶が、急に遠いもののように感じられた。
どれも確かにあった出来事なのに、手を伸ばしてはいけないもののように思えた。