作品タイトル不明
1. 普通のパンが欲しいだけなのに
「どうか、普通のパンを下さい」
その言葉が食堂に響いた瞬間、空気が凍り付いた。長机を囲んでいた神官たちが食事の手を止め、一斉に視線を向ける。誰もが驚いていた。聖女がそんなことを口にするとは思っていなかったのだろう。
セシリアは思わず口元を押さえた。言うつもりはなかった。ただ、空腹だった。朝に飲んだ薄いスープはとっくに消化され、胃の奥がじくじくと痛んでいる。昼は黒パン半分だけだった。昨日も同じ。その前の日も同じ。三年間ずっと似たような食事を続けてきたが、今日はどうしても耐えられなかった。
神官長が銀の杯を置く。
「どういう意味ですかな、聖女様」
穏やかな声だったが、その目は笑っていない。セシリアは俯いたまま答えた。
言い終わる前に小さな笑い声が漏れた。
「食べ物ですか」
神官長は呆れたように肩を竦める。
「聖女ともあろう方が、そのような欲を口になさるとは」
周囲の神官たちも同調するように頷いた。
「清貧は美徳です」
「民の苦しみを知るためにも必要でしょう」
「神に仕える身なのですから」
聞き慣れた言葉だった。三年前から何度も聞かされてきた言葉である。聖女は慎ましくあるべき。聖女は欲を持つべきではない。聖女は人々の模範でなければならない。その理屈で、彼女だけが常に我慢を強いられてきた。
セシリアは視線を落とす。神官たちの前には焼き立ての白パンが並んでいた。香草をまぶした肉料理もある。湯気の立つスープからは食欲を誘う香りが漂っていた。自分の前に置かれている黒パンとはまるで別物だった。
「申し訳ありません。神官様」
結局、そう謝るしかなかった。神官長は満足そうに頷く。
「分かればよろしい」
笑い声が戻る。食堂には再び食器の触れ合う音が響き始めた。誰もセシリアを見なくなる。まるで最初から存在していなかったかのようだった。
セシリアは固い黒パンを手に取った。指先に伝わる感触だけで、それが何日前のものか分かる。口に運び、ゆっくり噛む。硬い。飲み込むだけで喉が痛かった。それでも残すことはできない。明日も朝から祈りが待っている。食べなければ立っていられなくなる。
聖女として王都へ連れて来られたのは十五歳の春だった。辺境の寒村で生まれ育った孤児の少女は、神託によって百年ぶりの聖女だと判明した。村人たちは泣いて喜び、教会は盛大に迎え入れた。王都へ向かう馬車の中で、セシリアは自分の人生が変わるのだと思っていた。もう飢えることはない。困っている人を助けながら生きていける。そんな未来を信じていた。
実際に変わったのは立場だけだった。
朝から晩まで働いた。病人を癒やし、呪いを浄化し、祈りを捧げる。聖女の力によって救われた人間は数え切れない。それなのに、彼女自身を救おうとする人間は一人もいなかった。
教会は豊かになり、聖堂は改築され、神官たちの法衣は豪華になった。そして寄付金も増え続けた。
だが、セシリアの食事だけは変わらなかった。誰も疑問に思わなかったのである。聖女は与える側の存在であり、与えられる側ではない。教会の人間たちは本気でそう信じていたのだから。