軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

素敵だと思います、そういうギャップ。

物語世界に入る。

普段から仕事でやってることだからあんまり意識はしないけど、それは特別な状況だ。

モブが自分の意志で、自由自在に物語世界を出たり入ったりなんてことはできない。

物語を作っている作者さんから許可を得て、初めてその物語の一シーンに入り込むことができるわけだ。

だから、何の依頼もなくプライベートで遊んでいるときに、勝手に物語世界に移行するなんてことがあり得るはずはないんだけど。

だけど、その感覚は間違いようのないものだった。

俺は今。

いや。

目の前で楽しそうにグラスを傾けている梨夏ちゃんを見る。

多分、この子も。

俺たちは今、何かの物語世界に入った。

どういうことだ。

急にきょろきょろし始めた俺を見て、梨夏ちゃんが目を瞬かせた。

「どうかしましたか、さつきさん」

それから、あ、と可愛い声を上げる。

「トイレなら向こうです」

そう言って厨房の脇を指差す。

「ほら、あそこに表示が出てます」

「いや、トイレは大丈夫」

俺は笑ってごまかして、ハイボールを口に運ぶ。

ああ、うまい。

見たところ、何かが始まる様子はない。

急にゾンビが沸いたりドンパチが始まったりなんてこともなさそうだ。

勘違いだったんだろうか。

「はい、さつきさん。こっちもおいしいですよ」

梨夏ちゃんが俺にピザを取り分けてくれた。

「ああ、ありがとう」

片手しか使えない俺が、左手に持ったグラスを置こうともたついたら、梨夏ちゃんがそのピザを手に取った。

「さつきさん、グラス持ったままでいいですよ」

「え?」

「はい、あーん」

ええっ。

笑顔で俺の口元にピザを差し出してくる梨夏ちゃん。

そ、そんなことまでしてもらっていいのか。

「ほら、さつきさん早く。チーズが垂れちゃう。あーん」

「あ、あーん」

ぱくり。

「おいしいですか?」

「ほいひい」

「うふふ」

味なんか分かるか。何だ、これ。最高じゃねえか。

もう物語世界とかどうでもいいや。

明日からの生活がどうなってもいいから、今日は酒飲んじゃおっかな。

ぐびぐび。

ああ、本物のハイボールはうまい。喉が灼けない。

店員にもう一杯ハイボールを頼もうとした時だった。

店内に軽やかなポップスが流れた。

これ、あれだ。タイトルは分かんねえけど今流行ってる曲。

「あっ、あっ」

梨夏ちゃんが可哀想なくらい慌ててバッグをあさり始めた。

「あ、これ梨夏ちゃんの携帯の着信音?」

「ごめんなさい。今日昼間にマナーモードを解除して、それっきりになってました」

「いやー。この程度の音量だったら、いるか屋だったら気付かないレベルだよ」

いるか屋は、店全体が強制マナーモードみたいなノイズに包まれてるからな。

ここが落ち着いた店だから着信音が響いてしまった。

梨夏ちゃんはスマホを取り出すと、そこに表示された名前を見て一瞬顔を曇らせた。

それからすぐに電話を切って、

「ごめんなさい、すみません」

と俺や店員に頭を下げる。

店員は「だいじょうぶですよー」と笑顔で言ってくれた。

おお、笑顔。

いるか屋の店員なら仏頂面で「っしゃーっす(頼んますよお客さん)」って言うのに。

まあ携帯の着信音で店員に謝る客なんて、あの店にはそもそもいないか。

「大丈夫? 仕事の関係?」

こんな時間に来る電話は寺井君のテンパった連絡と相場が決まっている俺は、何となくそう訊いてしまったが、梨夏ちゃんは首を振る。

「あ、いえ」

そうか。普通の会社は仕事が終わった後にそんなにちょくちょく電話をよこさないのか。

「あ、もしかして」

自分には縁のないことだから、そっちの可能性を考えていなかった。

「ヒロキ君とか」

「……はい」

梨夏ちゃんは気まずそうに頷く。やっぱり。

ヒロキ君は梨夏ちゃんの中学の頃からの同級生で、今は梨夏ちゃんの彼氏だ。

俺は顔を見たことはあるし、何度かニアミスみたいなことはしてるんだけど、直接話したことはない。

すらっとしたイケメンだよね。俺と違って。

俺はぬらっとしたヤカラだからな。

「え、それは出た方がいいよ。俺のこととかいいからさあ」

「でも」

梨夏ちゃんはスマホを持ったまま困ったような顔をする。

「今日は、さつきさんのお祝いで」

「いいんだよ、そんなの」

そう言いながら、俺はピザを一口齧る。

「電話してきなって。俺の右腕なんかこれ食ってりゃ勝手にくっつくから」

「そんな。さつきさんの身体はそんな適当にできてません」

「いいからいいから。ほらほら」

手を振って追い立てると、梨夏ちゃんは渋々頷いた。

「……はい」

すぐ戻りますね、と言って小走りに店を出ていった梨夏ちゃんは、だけど店の外で結構長いこと電話をしていた。

トイレに行くふりをしてちらっと見ると、何だか言い合いをしているようにも見えた。

……大丈夫かな。

落ち着かないまま、ピザを噛む。

さっきはあんなにうまかったのに、冷めたピザはなんだかやけに塩辛かった。

やっと帰ってきた梨夏ちゃんは、泣きそうな顔をしていた。

「ごめんなさい、さつきさん」

「おう、どうした梨夏ちゃん」

「ヒロキが、どうしても今すぐ会いたいって」

ありゃりゃ。

「そっか。そしたら仕方ねえな」

「本当にごめんなさい」

「いいって、いいって」

「だって私から誘ったのに。このお店、デザートもおいしいのに」

「でも、行かなきゃいけないんだろ」

俺がそう言うと、梨夏ちゃんは唇をぐっと噛んで、それからこくんと頷いた。

「それなら行った方がいいなあ」

梨夏ちゃんと一緒に飯を食うのは最高に楽しかったけど、そのために人の恋路まで邪魔するほど俺は悪趣味じゃない。

人の恋路の邪魔は、仕事だけで十分だっつうの。

「よし、もったいないから食っちゃおう」

元気よく言ってピザを頬張ると、梨夏ちゃんは困った顔のまま、涙目で微笑んだ。

「はい」

二人で大急ぎでテーブルの上の食事を片付けると、また会計の時に「私が全部出します」「いや、俺が」というひと悶着があった後で、なんとか割り勘でけりを付けた。

先に梨夏ちゃんに出てもらって二人分の支払いを済ませると、店員の女性は「ありがとうございました」と言った後で、くすりと笑った。

「お兄さん、見かけによらず紳士なんですね」

「は?」

「素敵だと思います、そういうギャップ」

「いやあ、ギャップとか言われたことないっすけどね。ファックって言われたことは何度もありますけど」

えへへと笑って頭を掻きつつ、「どうも」と言って店を出る。

なんか調子狂うな。こういう店、プライベートでほとんど来たことないからな。

「梨夏ちゃん、今日はありがとね」

外で待っていた梨夏ちゃんに声をかけると、梨夏ちゃんは「そんな」と首を振る。

「私こそ、ごめんなさい。せっかくの退院のお祝いがこんな風になっちゃって」

「だからそれは仕方ないって」

俺は苦笑した。

「また今度な」

「はい……」

しょんぼりした顔の梨夏ちゃんに、俺は明るく笑ってみせる。

「笑顔で別れようぜ、梨夏ちゃん」

梨夏ちゃんは顔を上げた。

「今日は祝いの席だったんだからよ」

「はい、そうですね」

気を取り直したように頷くと、梨夏ちゃんもにこりと笑った。

「さつきさん、退院おめでとうございます」

「ありがとう」

やっぱり梨夏ちゃんは笑顔が一番だよなあ。

また連絡しますから、と何度も繰り返し言いながら梨夏ちゃんが去っていった後、予想外に安く上がってしまったので俺はそのままいるか屋に行って飲み直した。

いるかさんサワーを二杯も飲んだせいで、自分が物語世界からいつ抜けたのかは分からなかった。

気付くと俺は、家の薄い布団にくるまっていた。

ああ、頭痛え。