軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

多分果たされない約束をする

急な入院なので、当然のことだが何の準備もしていない。

着の身着のままの俺に、梨夏ちゃんは「私、下着とか買ってきます」と申し出てくれたが、そういうのは病院の売店で買えるから大丈夫、と断った。

さすがに家族でも恋人でもない女の子に、下着まで買わせるわけにはいかない。

それに足が折れてるならともかく、折れてるのは腕なので、地下の売店まで普通に自分で歩いていける。

っていうか、念のための入院なので全然元気なのだ。

あと言いづらいけど、ぶっちゃけ俺みたいなずぼらな独身者は、一日くらいパンツ替えなくたって別に問題なげふんげふん。

そんなわけで、梨夏ちゃんをこれ以上引き留めるのも申し訳ない。

俺は梨夏ちゃんを病院の玄関まで見送った。

「さつきさんの電話番号、教えてもらえませんか」

別れ際に、梨夏ちゃんはそんなことを言った。

「それとも、ぴいすけさんの方がいいのかな」

「え?」

「さっきのお友達は、さつきさんのことをそんなあだ名で呼んでましたね」

梨夏ちゃんは驚いた俺の顔を見上げて、ふふふ、と笑う。

「たくさんあだ名があるんですね、さつきさん」

「ああ……」

どうもさっきショッピングモールでA太が俺を呼んだのを聞いていたらしい。

ぴいすけではなくてB介なのだが。それもあだ名ではなくて、なんというか……モブの識別記号みたいなもので。

「電話番号かあ……」

俺は自分のスマホを取り出した。

ここで俺と彼女が電話番号を交換したら、どうなるのだろう。

異なる世界線を生きるはずの二人だ。電話したところで繋がらないだろう。

それなら、交換したっていいんじゃないだろうか。

もちろん、これがモブの仕事中だったなら、そんな行為は絶対ご法度だ。

モブがヒロインと電話番号を交換するとか、絶対にありえない。

だけど、今はプライベートだ。

俺はモブじゃないし、彼女はヒロインじゃない。……多分。

プライベートの時間に、会うはずのない女の子と出会って、そして電話番号を聞かれている。

不思議だ。一体、どこまでが現実なんだろう。

そんなことを考えるが、この右腕の痛みは本物だ。全部現実なんだろう、きっと。

「じゃあ電話番号、交換しよっか」

俺の言葉に、梨夏ちゃんはぱっと顔を輝かせた。

「いいんですか」

「今日はすっかりお世話になっちまったしね」

俺は言った。

「退院したら、お礼にメシでもおごるよ」

「そんな」

梨夏ちゃんは慌てて首を振る。

「いいですいいです、そういうつもりじゃありません」

「いや、ほんとにおごらせてよ」

俺は粘った。

「俺の気が済まないからさ」

「じゃあ……」

梨夏ちゃんは少し考えてから、いいことを思いついたように笑いを含んだ目で俺を見上げる。

「おごりじゃなくて割り勘だったらいいです。私だってちゃんと働いてお給料もらってますので」

「そうか。そうだね」

梨夏ちゃんだって立派な(多分俺よりもよっぽど立派な)社会人だ。偉そうにおごるおごるというのもかえって失礼な話かもしれない。

「じゃあ、そうしよう」

「はい」

梨夏ちゃんは嬉しそうに頷いた。

これは、今のこのバグみたいな状況が解消して、梨夏ちゃんがきちんと自分の物語世界に戻っていったなら、決して果たされることのない約束になるんだろうな。

梨夏ちゃんは律儀だから、多分何度か電話して首を捻るだろうと思う。

その梨夏ちゃんの姿を想像すると、胸がぎゅっと切なくなる。

でも、きっとじきに忘れる。

それくらいの淡い関係で十分だ。

俺たちはお互いの電話番号を交換し合った。

「電話しますね」

梨夏ちゃんは笑顔で言った。

「さつきさんも電話くださいね」

「ああ」

俺は曖昧に頷く。

「でもヒロキ君との電話の邪魔はしないよ」

「それとこれとは、全然別です」

梨夏ちゃんはきっぱりとそう言った後で、少し寂しそうに笑った。

「やっぱり、名前は教えてくれないんですね」

「え?」

「これからも、さつきさんって呼んでいいですか?」

その表情に、俺の胸は詰まった。

君に教えられる名前があったなら、どんなによかったか。

「俺、結構気に入ってるんだぜ」

だから俺は代わりにそう言った。

「梨夏ちゃんが付けてくれた、さつきさんってあだ名」

「図々しく、そんな風に呼んじゃってごめんなさい」

梨夏ちゃんは照れたように目を伏せる。

「この街で私のことを梨夏ちゃんって呼んでくれるのも、さつきさんだけです」

「えっ」

そうかな。

「そういえばヒロキ君は能勢って呼んでたね」

「はい。今は、梨夏って」

「そうか。もう呼び捨てか」

そうだよな。

恋人同士だもんな。

ありがとう。おかげでまた冷静になれた。

「じゃあ」

俺は手を振って、梨夏ちゃんと別れた。

梨夏ちゃんは何度も振り向き、

「電話しますね」

と言ってくれた。

梨夏ちゃんの姿が見えなくなって、病室へ戻ろうと踵を返すと、スマホが震えた。

振動が長い。電話だ。

さっそく梨夏ちゃんが掛けてくれたのか。

驚き半分、嬉しさ半分。

ろくに画面を確認もしないで出る。

「はい、もしもし」

「もしもし、B介さん、A太さんから聞きましたよ! 今日は大変でしたね!」

寺井君だった。自分がすうっと真顔になるのが、鏡を見なくても分かった。

「あ、寺井君。ごめんね。仕事に穴開けちゃって」

思わず心のこもらない平坦な口調になってしまったが、寺井君は全然気に留めなかった。

「いいんですよ、命に別状なくてよかったです! それで入院って伺いましたけど……」

「うん、入院は念のため今日一日だけなんだよ。だけど腕の骨折は全治三か月だって」

「あぁー……」

寺井君は同情するようにそう唸った後で、がらりと口調を変えた。

「じゃあB介さん、明後日はもう動けるんですね?」

「え? 動けるって……」

俺の話聞いてたか? 全治三か月なんだってば。

戸惑う俺に構わず、寺井君は話を進める。

「実は明後日、腕を骨折してるモブが欲しいって依頼が来てるんです。そんな人、都合よくいるわけないから現地で骨折してもらおうかと思ってたんですが……」

「何それ。骨折してるモブってどんな依頼だよ」

「大病院がゾンビに襲撃されるんです」

寺井君は言った。

「足を骨折して走って逃げることのできない患者を見捨てて、走って逃げようとする患者役です。だけどその後すぐに」

「あー、分かったよ」

みなまで言うな。

「結局そいつが真っ先にゾンビに食われるんだろ?」

「はい! その通りです!」

寺井君の嬉しそうな声。

「さすがですね、B介さん!」

いや、何を誉めてんだ。嬉しくねえよ。

ゾンビものかー……。

普段なら絶対避ける案件だけど、今は事情が違う。

この腕じゃ普通のナンパモブは当分できない。

三か月も収入が途絶えたら、ヤバい。

ギプスをしていてもできる仕事は、全部拾っていくくらいのつもりでいないとな。

それにゾンビに食われれば、落命手当も付くし。

「わかった、やるよ寺井君。仕事まわしてくれてありがとう」

「いえいえ」

寺井君は明るい声で言った。

「B介さんみたいに、いつも緊急の案件を受けてくれる人のために働きたいんです、僕は」

「嬉しいこと言ってくれるねえ」

自分が大怪我をしたからだろうか。

梨夏ちゃんといい寺井君といい、今日は人の優しさが妙に身に染みた。