軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

超深層の心臓

八階層に到達した。

六階層の結晶に触れるたびに通路の構造が変わる。七階層の奥にあった行き止まりが溶けるように消えて、下へ続く階段が現れた。階段の一段一段が黒い石でできていて、靴底に硬い感触が返ってくる。踏むたびに、かつん、と音が反響する。どこまで響いているのか分からない。

八階層の空気は、これまでとまるで違った。

冷たい。だがただ冷たいんじゃない。鼻から吸い込むと肺の底にまで染みて、吐いた息に重さがある。肌の表面がぴりぴりする。静電気を全身に浴びているような。腕の産毛が一本一本、逆立つ感覚。

「篠塚さん、魔力濃度——五階層の八倍です」

真凛の声が硬い。タブレットを持つ手が白くなっている。

「八倍か」

「S級ダンジョンの入口レベルです。これ以上は——正直、データ的には撤退を推奨します」

「でも体は動く」

「……はい」

「なら進む」

真凛が口を結んだ。何か言いたそうな顔だったが、飲み込んだ。園田がヘッドライトの角度を調整して、黙って前方を照らした。

通路を進む。壁の紋様が、七階層までの幾何学模様とは質が違う。線が細かく、絡み合って、何かの文字のように見える。指で触れると、石の表面はつるりと冷たい。だが紋様の凹凸は指の腹で辿れるほどはっきりしていた。

園田がヘッドライトで壁面を照らしながら、足を止めた。

「篠塚さん。この紋様——見覚えがあります」

「あるのか」

「スフィアのSランクダンジョン攻略報告書に載ってました。古代文明の遺跡型ダンジョンに出る紋様です」園田が壁の一画を指でなぞった。「情報管理部のデータベースにしかない。俺たち整備班は直接見られなかったんですが、報告書の写真が回覧されたことがあって」

「B級の地下にそれが出るのか」

「出るはずがないんです。普通は」

『古代文明型って マジでか????』

『B級の下に古代文明が眠ってたとか熱すぎて焦げる』

『園田さんの知識ここで活きるのアツい 整備班は伊達じゃない』

『これS級どころじゃなくない? 管理局の分類そのものが間違ってる可能性あるぞ』

『おっさんが見つけたんじゃなくて、ダンジョンがおっさんに見せてるんだよ そういうやつだろこれ』

通路の先に、広い空間が開けた。

何もない。

モンスターもいない。結晶もない。壁の紋様が空間全体を覆っているだけだ。天井は高く、ヘッドライトの光が届かない。暗い。

ただ——床の中央に、直径二メートルほどの円形の紋様が刻まれていた。

紋様の中心が、脈打っている。

比喩じゃない。実際に、明滅のようなリズムで、紋様の線が淡く光っては消える。とくん。とくん。生き物の拍動そのものだ。

「脈打ってる、ように見えるんだが」

「見えます。私にも」

真凛の声がさらに硬い。タブレットの画面を見ているが、指が止まっている。

「園田は」

「……見えます。鼓動みたいだ」

三人で紋様の前に立った。靴音が反響して、それ以外は無音だった。自分の心臓の音が聞こえる。

近づいた。しゃがんで、紋様の中心に右手をかざす。

——温かい。

六階層の結晶は冷たかった。指先が痺れるほどの、鉱物的な冷たさだった。これは違う。人の手のひらくらいの温度が、紋様の表面から立ち上がっている。近づけるほど温かい。まるで、何かの体温に触れているような——

ぶん。

空気が鳴った。

紋様が光った。円形の光が天井まで一瞬で届いて、空間の全体が白く染まる。壁を覆う文字の列がすべて同時に発光した。目が眩む。

——そして、何かが頭に響いた。

声ではない。音でもない。言葉でもない。ただ、何かが「ここに在る」という事実だけが、頭蓋の内側にぶつかってきた。翻訳できない。意味以前の、もっと古い何か。存在だけが、重い。

「——」

光が引いた。紋様は元に戻り、かすかな脈動を繰り返している。とくん。とくん。

右手が震えていた。

六階層の結晶に触れたときの温かさとは別の——もっと深いところから込み上げてくる震え。指先だけじゃない。手首から肘まで、筋肉の奥で何かが共鳴している。止めようとしたが、止まらない。

配信を始めてから——いや、探索者になってから二十年、手が震えたことはなかった。

「篠塚さん。今の——」

「聞こえたか」

「はい。何かが——言葉じゃないけど——」

「ああ」

それ以上は言わなかった。言えなかった。口を開いても、あの「重さ」を音にする方法がない。

園田も黙っていた。ツールボックスを握る手が、やはり震えている。

視聴者数:六万三千。

『何が起きた……?』

『おっさんと真凛ちゃん二人とも固まってる 園田さんも動かない 三人とも固まった』

『音が なんか 配信の音声にノイズ入ったの俺だけか??』

『ダンジョンに意思があるのか……』

『おっさんの手が震えてる 初めて見た これほんとにやばいやつだ』

『管理局はこれ把握してるのか?』

『S級とかSSS級とかそういう話じゃない気がする もっと根本的に何かおかしい』

『鳥肌立った リアタイ勢一生の自慢になるぞこれ』

「……帰ろう。今日はここまでだ」

腹が減ったから、とは言わなかった。言える空気じゃなかった。

帰り道、三人とも口を開かなかった。

ダンジョンの階段を上がるたびに、空気が軽くなっていく。五階層、四階層、三階層。肌のぴりつきが薄れて、呼吸が楽になる。だが右手の震えだけは残っていた。握って、開いて、また握る。止まらない。

地上に出た。夕暮れの住宅街。電柱の影が長い。風が頬に当たった。冷たくて、軽い。ダンジョンの底の、あの圧とは何もかもが違う。普通の空気だ。普通の夕方だ。

吉田食堂の引き戸を開けた。出汁の匂い。醤油と味醂が煮詰まった、甘くて重い匂い。

じいさんがカウンターの向こうから顔を出した。俺たちの顔を見て、眉を寄せた。

「今日は静かだな。何かあったか」

「ちょっと疲れた」

「そうか」

じいさんはそれ以上聞かなかった。カウンターに布巾をかけて、奥に引っ込んだ。鍋の蓋を開ける音。湯気が厨房からふわりと流れてきた。

「肉じゃがでも食うか。元気出るぞ」

「もらう」

三人分の肉じゃがが並んだ。大きめの鉢に、じゃがいも、牛肉、にんじん、しらたき、玉ねぎ。煮汁が鉢の底にたっぷり溜まっていて、湯気がゆらゆら上がっている。

箸でじゃがいもを割った。ほくほくと崩れる。煮汁を吸った断面が飴色に光っている。口に入れた。甘い。醤油と砂糖のバランスが沁みる。牛肉は薄切りで、噛むと脂の甘さが広がった。しらたきが煮汁をたっぷり含んでいて、つるりと喉を通る。にんじんが柔らかい。箸が止まらない。

うまい。

真凛が黙って食べている。園田も黙って食べている。じいさんだけが、カウンターの向こうでたくあんを刻む音を立てていた。とん、とん、とん。規則正しいリズム。

白飯をかき込んで、味噌汁で流し込んだ。胃の底が温まる。

——ダンジョンの奥に何がいるのか、まだ分からない。分からないが、何かがいる。あの紋様は脈打っていた。温かかった。「在る」と言っていた。それだけは確かだ。

右手の温かさが、まだ消えない。

箸を置いた。指先にまだ、あの体温が残っている。