軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

食堂の夜

超深層種の映像が、漏れた。

安藤の報告書が管理局内で回覧された翌日に、探索者掲示板に映像の一部が流出した。誰が漏らしたか分からない。管理局の内部か、あるいは報告書にアクセスできる別の部署か。

三日で映像の再生数は二百万回を超えた。

『B級ダンジョンに竜種の亜種。超深層種と呼称されている模様』

『おっさんがソロで倒してる。またかよ。何回倒すんだこのおっさん』

『あれ非配信で撮られた映像だぞ。園田さんのヘルメットカメラ。つまり配信してない時にも戦ってるってことだ』

『ダンジョンの深層が活性化って何だよ。つまり底辺ダンジョンが覚醒してるのか』

『管理局が正式にC-087探索班と委託契約を結んだってニュースに出てた』

『国が認めたってことだろ。おっさんの探索班がダンジョン管理の公的パートナーになったんだ』

『スフィアの黒沢常務どうすんのこれ。法的にも管理局にも潰されて、完全に詰みじゃん』

真凛がスマホの画面を閉じた。

「映像の流出元は調査中ですが、結果的にはプラスに転びました。管理局との委託契約が世間に知られたことで、C-087探索班の正当性が公的に裏付けられています」

「計算してたのか」

「していません。でも、映像が漏れた場合の対応は想定していました」

真凛がバッグからファイルを出した。「映像流出時対応フロー」と書いてある。

「……用意周到だな」

「仕事です」

園田がツールボックスから小さなケースを出した。金属製。手のひらに収まるサイズ。蓋を開けると、黒い緩衝材の中に、薄い板状のものが一枚入っていた。暗い紫色をしている。表面が滑らかで、蛍光灯の光を鈍く反射していた。

「九階層の竜の甲殻です。安藤さんが回収した破片とは別に、討伐直後に保管していたものです」

「お前も取ってたのか」

「はい。協会の素材買取窓口に持ち込みましたが、分類が存在しないため買取対象外でした」

「値段がつかないのか」

「換金はできません。ですが、硬度と耐魔力特性は既存のどの素材よりも上です。装備素材としての検証は続けています」

園田がケースの蓋を閉じた。金属の留め具がかちりと鳴った。

真凛がバインダーから書面を一枚出した。管理局の公印が押してある。

「管理局から、スフィアへの公式回答書の写しが届きました。共同管理権の主張は法的根拠なしとして正式に退けられています」

「黒沢はどう出る」

「おそらく、もう出ません。管理局に退けられた上に、委託契約が公示されて、映像まで流出しています。法的にも世論的にも、スフィアがC-087に介入する隙がない」

真凛が少し間を置いた。

「内容証明を送ってきた時から、三ヶ月です。あの書面に返した回答書の法的根拠が、そのまま管理局の判断に使われています」

「お前の回答書が効いたってことか」

「判例を三件引きました。あの三件を探すのに、二日徹夜しました」

「二日。——あの時期、管理局との折衝も並行で回してたろ」

「はい」

「それで図書館に籠って判例を三件。……よくやったな」

真凛の手が一瞬止まった。バインダーを持つ指が少しだけ強くなった。

「仕事です」

「仕事でも。——助かった」

真凛が頷いた。目がわずかに細くなった。

掲示板にもスフィアの件は流れていた。

『スフィアの共同管理権、管理局に正式却下だってさ。黒沢常務完全に終わったな』

『元スフィア企画室の真凛ちゃんがスフィア法務を書面で潰したのか。これが本当のざまぁだろ』

『高梨部長の内部情報も効いてるだろうな。自分の会社の不始末を自分で暴いた形だ』

夕方、吉田食堂に行ったら、引き戸に手書きの紙が貼ってあった。

「本日貸切」

開けた。じいさんがカウンターの奥に立っていた。いつもの白い前掛け。ただし、カウンターの上がいつもと違う。いつもの定食の段取りではなく、大皿が何枚も並べられるように布巾が敷いてある。

「じいさん、これは」

「委託契約が決まったんだろ。テレビでやってた」

「……見てたのか」

「常連の話は聞くんだよ。今日は夜まで使え。酒も出す」

じいさんが奥の棚から瓶を出した。日本酒。ラベルが古い。

「いいのか、これ」

「正月用の取っておきだ。お前らが飲め」

園田と真凛が来た。園田が引き戸の「貸切」の紙を見て、中を覗いた。

「あ、何か雰囲気違いますね」

「入れ」

真凛はカウンターを見て、じいさんを見た。

「吉田さん、これは」

「祝いだよ。好きなとこ座んな」

真凛が少しだけ口を開けてから閉じる。カウンターに座った。

「今日は定食じゃねえ。出すもん出す。食え」

じいさんが言った。それだけ言って、奥に下がった。

まず小鉢が並んだ。胡瓜と茄子の漬物、ひじきの煮物、筑前煮。鶏とごぼうと人参が、照りよく煮含められている。いつもの定食でも一品二品ついてくるやつだ。今日は皿の数が多い。

じいさんが日本酒を注いだ。コップ酒。四つ。

「飲めるのか、嬢ちゃん」

「飲めます」

真凛が当たり前のように自分のコップを引き寄せた。乾杯は誰も言わなかったが、なんとなく四人が同時にコップを持ち上げて、口をつけた。

日本酒が喉を通る。辛口。だが、後味がすっと消える。いい酒だ。

「じいさん、この酒どこの」

「新潟。昔の知り合いが送ってきた」

「正月用をもらっていいのか」

「いいんだよお前らの祝い酒だ」

筑前煮を口に入れた。出汁が骨の際まで染みている。ごぼうの香りが残る。普段の定食でも出る一品だが、今日は具が多い。真凛がひじきを一口つまんで、目を細めた。

「……しみてる」

「当たり前だ、うまいだろ」

次に刺身が出てきた。まぐろと鯛。皿は小さめで、四人で取り回す程度の量。

「魚屋の知り合いが回してくれた」

まぐろの赤身が厚い。鯛は薄造りで、端が透けている。わさびを少しだけ乗せて、醤油にくぐらせて口に入れた。まぐろの旨味が口に広がる。脂がちょうどいい。

「うまい」

「当たり前だ」

真凛が箸で鯛を取った。口に運ぶ前に、皿の上で薄造りの透け具合を見ていた。

「きれい……」

「そんなに見つめるものか?それ」

「盛り付けを見るのが好きなんです。——料理の写真、撮ってもいいですか」

「じいさんに聞いてみたら?」

「吉田さん、写真撮っていいですか」

「ああ、好きに撮りな」

真凛がスマホを出して、皿を撮り始めた。一枚じゃない。角度を変えて、三枚、四枚。刺身の皿を撮り終わると、筑前煮の小鉢も撮った。漬物の小皿まで撮っている。

「……何枚撮るんだ」

「記録です」

園田がコップを傾けながら、真凛が撮った写真をちらりと見た。

「久我さん、カメラロールほとんど飯の写真じゃないですか」

「……見ないでください」

「いや、すごいな。これ全部自炊ですか。盛り付け凝ってますね」

真凛が少しだけ慌てた。スマホを引っ込めようとしたが、酔いのせいで反応が遅い。二杯目に入っていた。頬がほんのり赤い。

真凛が自分でスマホを操作して、一枚だけ見せた。

二段弁当の写真だった。卵焼きが巻いてあって、タコさんウインナーまで入っている。

「——これは試作です」

「タコさんウインナーの試作って何だよ」

俺が突っ込んだ。園田は吹き出した。真凛の耳が赤くなった。酒のせいだけじゃない。

「あの……足の数にこだわりがあって。八本だときれいに開くんですけど、六本だと安定するんです」

「安定ってなんだよ。ウインナーの安定って」

「立てた時に倒れないかどうかです」

園田が声を出して笑った。俺も笑った。じいさんがカウンターの向こうで鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。

真凛が下を向いて、コップの酒を一口飲んだ。

「……笑わないでください」

「笑ってない。——いや、笑ってるけど、馬鹿にはしてないよ」

真凛がちらりとこちらを見た。頬が赤いまま、少しだけ口の端が上がった。

唐揚げが出てきた。山盛り。鶏の唐揚げ。これはいつもの味だ。ただし今日は量が違う。衣がさくさくで、中がジューシー。真凛が一つ取って、はふはふと食べた。

「吉田さんの唐揚げ、やっぱりおいしい」

「おかわりあるぞ」

その後ろから鯖の味噌煮が出てきた。大鉢に二尾分。皮が艶よく光って、味噌の色が深い。煮汁が皿の底にとろりと溜まっている。

「これも酒に合うやつだ」

じいさんが言った。

箸で身をほぐして口に入れた。味噌が骨の際まで染みている。脂と味噌のあいだに、生姜の香りがすっと通っている。今日のは煮汁を米にかけたくなるやつだ。

園田がコップに残った酒を半分ほど飲んで、置いた。

「久我さん、無理に飲まなくていいですよ」

「そんなことは——ないです……」

真凛のコップは二杯目のままだ。半分残った酒をそのままにして、鯖の身をほぐしている。

「篠塚さん」

「ん」

「朝ごはん、卵かけご飯ばっかりでしょう」

「……よく知ってるな」

「冷蔵庫に卵と牛乳しか入ってないの、見えてますから」

「別にいいだろ。うまいんだから」

「よくないです。——今度、お弁当作ります」

「……は?」

「試作が溜まってるんです。食べてくれる人がいないと困るんです」

真凛が真剣な顔で言った。頬は赤いが、目だけは据わっている。

園田が横から口を挟んだ。

「久我さん、俺もカップ麺ばっかりなんですけど——」

「園田さんはまずカップ麺の塩分を計算してからにしてください」

「えっ、俺だけ厳しくないですか」

「篠塚さんは、食事にだらしないところがあるから栄養管理が必要なんです。園田さんは自炊を覚えてください」

園田が口を開けた。閉じた。コップの酒を飲んだ。俺も少し笑った。

「真凛、園田に厳しすぎないか」

「当然の事実をいったまでです」

真凛がコップを持ったまま、少しだけ口角が上がった。酔うと、こういう素が出るらしい。普段は絶対に言わないタイプの台詞だ。

「締めだ。食え」

じいさんが盆を持ってきた。塩むすび、豚汁、漬物。

塩むすびは海苔なし。握りたてで、まだ温かい。豚汁の湯気が立っている。豚バラ、大根、人参、ごぼう、こんにゃく、豆腐。具が多い。味噌の香りが、酒で少し緩んだ頭をすっと整える。

「真凛さんも、食べなさい」

塩むすびを手に取った。塩加減がちょうどいい。米がうまい。豚汁を一口飲んだ。酒のあとに味噌汁が入ると、体の真ん中が落ち着く。

真凛がおにぎりを両手で持って、かじった。半分食べたところで、豚汁を一口飲んで、息を吐いた。

「……生き返ります」

「酒のあとの味噌汁は効くだろ」

漬物を一切れ。胡瓜の浅漬け。塩と昆布の味だけ。これでコース全体が締まる感じがした。

園田がスマホで時間を確認した。

「十時前ですね。今日はこのくらいにしときますか」

「おう。お疲れ」

園田がカウンターに手を合わせて「ごちそうさまでした」と言って先に出て行った。

真凛が水を一杯飲んで、頬をぱんぱんと叩いた。豚汁のあとは目つきがしっかりしている。

「吉田さん、ごちそうさまでした。おいしかったです」

「おう。気をつけてな」

じいさんがカウンターの向こうで皿を洗っていた。背中だけが見えた。

「じいさん、ごちそうさまでした」

「おう」

外に出た。夜風が冷たい。真凛が風に当たって、深呼吸した。

「——すっきりした」

「途中まで送る」

「大丈夫ですよ」

「いい。豚汁が効いたって言っても、酒は酒だ」

真凛が少しだけ目を細めて、頷いた。

駅までの道を二人で歩いた。話は特にしなかった。改札の前で真凛が立ち止まって、振り返った。

「——おやすみなさい」

「おう。気をつけて」

真凛が改札を抜けた。足取りはしっかりしている。一度だけこちらを見て、それから人混みに紛れた。

一人でアパートに戻った。

台所のテーブルに、さっき園田が置いていった甲殻のケースがある。金属の蓋に、蛍光灯の光が反射している。

冷蔵庫を開けた。卵がある。牛乳がある。明日の朝、卵かけご飯を食おう。

腹はもういっぱいだ。じいさんの飯はいつもうまいが、今日は特別うまかった。豚汁の味がまだ少し舌の奥に残っている。

歯を磨いて、布団に入った。