作品タイトル不明
第5話 順番札を配っただけで、神殿が少し静かになりました
神殿の入口に、番号入りの順番札が置かれた。
朝一番に訪れた人々は、新種の魔物でも見るような目で、白木の箱に収まった順番札を覗き込んでいた。
一番。
二番。
三番。
昨日までの神殿受付にはなかったものだ。
怒鳴れば前に出られる。貴族名を出せば奥へ通される。弱い者は端で待つ。
その古い空気の真ん中に、番号という、妙に冷静なものが置かれている。
「これは……取っていいのかい?」
杖をついた老人が、順番札の木箱を指さした。
隣にいた女性も、不安そうに手を引っ込める。
「女神様に祈るのに、番号を取るのかい?」
もっともな疑問だった。
祈りと番号。慈悲と受付。並べると、どうにも相性が悪そうに見える。
リディアは受付台の横で、木箱から一番の順番札を取った。
「女神に背番号を振るわけではありません。あなたが『いつ呼ばれるか分からない』という暗闇から降りるための、道標を作るだけです」
老人は、差し出された順番札を両手で受け取った。
焼き印で刻まれた数字を眺め、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「一番なら、迷わなくていいねえ」
「はい。最初にお呼びします」
受付係エリンが、震えながらもそう告げた。
顔色はまだ少し悪い。けれど、受付台の前から逃げていない。
その一点だけで、今日の神殿は昨日とは決定的に違っていた。
セオはリディアの隣で記録板を構え、羽ペンを走らせる。
『順番札制度、試験運用開始。受付前の怒声、現時点で消失』
「セオ。まだ始まって五分です」
「五分間、怒声に邪魔されず記録に集中できました。歴史的な進歩です」
「歴史の基準が低くありませんか」
「昨日までが低すぎたのです」
セオの目は真剣だった。
リディアは、それ以上言わないことにした。
*
受付台の上には、赤い優先札、青い優先札、白い優先札が置かれていた。
長々と説明を読み上げる必要はない。
困っている人は、次々に来る。
一件ごとに、どの順番で扱うべきかを見せればいい。
「井戸の水が濁ったんだ。飲ませても平気なのか、村の者が怯えていて」
農夫らしき男が、帽子を握りしめて言った。
エリンは一瞬だけリディアを見る。
リディアは何も言わない。
エリンは唇を結び、青い優先札へ手を伸ばした。
かちり。
青い優先札が受付台に置かれる。
「井戸水の濁りは、生活に関わる浄化案件です。青い優先札で受付します。発生場所と、濁りに気づいた時刻を教えてください」
声は震えていた。
それでも、最後まで言い切った。
次に来たのは、神殿へ花の祝福を頼みに来た商家の娘だった。
「来月の婚礼で使う花束に、祝福をいただきたくて」
エリンは今度こそ少し迷った。
花。
祝福。
昨日の薔薇が頭をよぎったのだろう。
けれど彼女は、白い優先札を取った。
ことり。
白い優先札が、予約表の横に置かれる。
「婚礼用の祝福は、白い優先札で予約対応になります。希望日を確認しますね」
リディアは小さく頷く。
エリンはその頷きを見て、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
「下町で、子どもが熱を出して……瘴気かどうか分からないんです」
若い父親が、半泣きで言った。
エリンの手が、迷わず赤い優先札へ動いた。
たん、と赤い優先札が台に置かれる。
「緊急の症状確認が必要です。赤い優先札で、すぐに奥へ回します」
命。
生活。
予約。
その三つの仕分けが、エリンの手の中で形になっていく。
セオが横で、小さく記録した。
『受付係エリン、三色優先札を実案件で運用開始』
「セオさん、それは小さく書いてください」
「成功例は再現性のために必要です」
「小さくお願いします」
「承知しました。重要度は大きいですが、文字は小さくします」
エリンは赤くなりながらも、次の依頼書へ手を伸ばした。
恥ずかしがる時間より、受付が先。
その手つきが、昨日より少しだけ早かった。
*
午前の受付が進むにつれ、待合の音が変わり始めた。
以前の神殿受付は、耳から疲れる場所だった。
いつ呼ばれるか分からない苛立ち。
順番を抜かされる不安。
貴族名が出た瞬間に端へ寄る諦め。
受付係エリンにぶつけられる、小さな怒りの群れ。
今日は完全に静かというわけではない。
迷いもある。戸惑いもある。
だが、誰かが大声を出す前に、自分の順番札を見るようになった。
「七番なら、もうすぐだねえ」
老婆が、自分の順番札を眺めながら呟いた。
「昨日は、あと何人かも分からなかったから」
隣にいた子どもが、自分の順番札を両手で持っている。
「ぼく、八番」
「七番の次だね」
「じゃあ、おばあちゃんの次?」
「そうだよ」
子どもは納得した顔で、順番札を胸に抱えた。
待つこと自体は消えない。
けれど、終わりが見えれば、人は少しだけ息を整えられる。
「順番が見えるだけで、人は待てるのですね」
リディアの呟きを、セオは聞き逃さなかった。
羽ペンが動く。
『順番が見えれば、人は歩ける。標語候補』
「標語にしません。消してください」
「保留にします」
セオは何食わぬ顔で、記録板の端に小さく印を付けた。
消す気はないらしい。
*
昼前、最初の割り込みが来た。
「私は急いでいる。先に通してもらおう」
男は三十代ほどで、身なりはいい。
高位貴族ほどの迫力はないが、待つことに慣れていない顔をしていた。
ダリオ・ベルトン。
小貴族の一人で、神殿への寄付も少なくない家の者だと、セオがリディアへ小声で告げた。
エリンの顔が青くなる。
昨日の伯爵夫人を思い出したのだろう。
手が受付台の上で一度だけ止まる。
リディアは動かなかった。
助けるのは簡単だ。
だが、それではエリンの受付にならない。
セオも記録板を構えたまま、じっと見ている。
エリンは喉を鳴らした。
「恐れ入ります。順番札をお取りください」
声は震えている。
しかし、言い切った。
ダリオは眉を寄せる。
「私はベルトン家の者だぞ。急いでいると言っている」
エリンの手が、白い優先札へ伸びかけた。
けれど、途中で止まる。
昨日、白い優先札を受付箱へ入れたあの感触が、まだ指先に残っているのだ。
「ご身分に関わらず、順番札をお取りください。命に関わる症状でなければ、今は十一番目です」
待合の空気が張る。
エリンは続けた。
「ご用件を確認します。急ぎとは、どのような症状でしょうか」
ダリオの口が止まった。
急ぎ。
そう言えば通ると思っていた言葉が、初めて中身を問われた。
「……屋敷の礼拝室の燭台が、昨日から妙に暗い」
「では、白い優先札での予約確認になります。私的祈祷ですので」
短い。
逃げ場がない。
待合の民が見ている。
昨日、伯爵夫人の薔薇が予約に回された話は、すでに神殿中へ広がっているらしい。
ここで無理に押せば、伯爵夫人の二番煎じになる。
小貴族には、少々つらい。
ダリオは不機嫌そうに木箱へ手を伸ばした。
「……何番だ」
「十一番です。現在、七番の方を受付中です。赤い優先札が入らなければ、四名後です」
今度はすらすら言えた。
ダリオは順番札十一番を握り、待合の端へ移動した。
並んだ。
その背中を見送った待合から、誰ともなく息が漏れた。
ほっとしたため息が、石床の上を薄く広がる。
割り込みが止まった。
その瞬間、エリンの背筋に、恐怖とは違う震えが走った。
セオの羽ペンが走る。
『割り込み一件。滞留なし。エリン、逃走せず』
「セオさん」
「明日の受付係に必要な成功例です」
「それは、私のことでしょうか」
「はい」
「では、もう少し表現を……」
エリンが言い終わる前に、次の老人が順番札を差し出した。
「八番だよ」
「はい、八番の方ですね。ご用件をお伺いします」
抗議より業務が先。
エリンはそのまま受付へ戻った。
リディアは、セオの羽ペンがまた動きかけたのを見て、小さく首を振った。
さすがに今は止めた。
*
十日も経つと、神殿の音は劇的に変わっていた。
以前の苛立ちと不安は薄れ、待合には小さな会話が生まれている。
老婆が笑い、子どもが順番札の数字をなぞる。
赤い優先札の子どもが来れば、人々は自ら道を空けるようになった。
商人は青い優先札の条件を確認してから依頼書を出す。
白い優先札の予約表には、貴族家の名がきちんと並び始めた。
初日は最大待ち時間三時間。
三日目には一時間。
十日目の午後、軽い相談なら十分で済んだ。
「次の方、順番札九番の方」
エリンの声は、もう震えていない。
九番の老婆が「はいよ」と立ち上がる。
そのやり取りを見て、セオの目が危険なほど澄んだ。
混沌を二度と許さない、実務屋特有の冷徹な熱がそこにある。
記録板には、丁寧な文字が並んでいた。
『十日目。平均待ち時間十分。怒声なし』
怒声なし。
その四文字の下に、セオはゆっくり二重線を引いた。
「人は秩序を知ると、もう混沌には戻れません」
セオが低く言った。
リディアは、ほんの少しだけ苦笑した。
前世で、締切前の職場に積まれていく未処理の山を思い出したからだ。
どこから手をつければいいか分からない業務。
誰が何を担当しているか分からない会議。
なぜか全部を根性で解決しようとする空気。
あの時の自分も、たった一枚の進行表があれば救われたのかもしれない。
「……ええ。一度知ってしまうと、戻りたくはありませんね」
リディアが呟くと、セオの目がさらに鋭くなった。
「では、戻らない仕組みにしましょう」
「ほどほどに」
「ほどほどは混沌の入口です」
「今、かなり危険なことを言いましたね」
セオは答えず、記録板に何かを書き足した。
リディアは見なかったことにした。
*
十日目の夕方、受付台の上は驚くほど白かった。
紙束の山がない。
エリンが、信じられない顔で片づけを終えている。
「あの、本当に……終業時刻に帰ってもよいのでしょうか」
神官たちが、そろってリディアを見る。
リディアは時計を確認した。
緊急の赤い優先札はない。
青い優先札の残りは明朝で間に合う。
白い優先札は予約済み。
「もちろんです。終業時刻ですから」
羽ペンを置く音。
紙束を揃える音。
椅子を引く音。
誰かが、小さく「帰れる」と呟いた。
セオが椅子から立ち上がり、記録板をパタンと閉じる。
「本日の受付処理、完了。緊急案件なし」
「帰れますね」
「帰れます」
セオの目がさらに光った。
少し怖い。
「セオ。目が怖いです」
「定時退勤、完了。温かい夕食」
「はい」
「リディア様」
「はい」
「定時で帰れた人間は、過激になります」
セオは順番札の木箱を大切に抱え直した。
それだけなら、まだよかった。
彼は片手で記録板を開き直し、余白に次の見出しを書き始める。
『報告漏れ対策』
リディアの視線が、その文字に止まる。
セオの羽ペンは、帰る支度をしながらも止まらない。
『明日の検討事項:手順書』
インクが乾く前に、さらに一行。
『報告漏れは、未来の残業です』
リディアは、明日の神殿に置かれるであろう新しい手順書を想像し、ほんの少しだけ目を細めた。