軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第20話 退勤後の氷菓子は、人生の話です

定時の鐘が鳴った。

羽ペンが置かれる音。

引き出しが閉まる音。

順番札の木箱に、最後の木札が戻される音。

かつては「怠慢」や「不敬」と呼ばれたその音が、今の神殿では一日の終わりを告げる合図になっていた。

「赤い優先札、残りなし。受付、終了します」

エリンの声に震えはない。

受付台の上には、積み残された依頼書の山も、割り込みを待つ貴族の呼び出し状もない。青い優先札案件は明朝の欄に転記済み。白い優先札予約は日付ごとにまとめられている。

エリンが引き出しを閉めた。

ことり。

その乾いた音が、リディアの胸の奥まで落ちた。

今日の神殿は、閉じられる。

ちゃんと。

「リディア様」

セオの声がした。

「何ですか」

「顔の筋肉が弛緩しています。定時を過ぎたからでしょうか」

「……放っておいて。頬が勝手に仕事をお休みしたがっているだけよ」

リディアは慌てて口元を引き締めた。

鏡の前で練習した完璧な微笑とは違う。頬の力がほどけ、口角が勝手に上がってしまう。だらしないと言われれば否定できないが、どうにも戻らない。

近くで片づけをしていた若い神官が、肩を震わせている。

エリンも、受付台の向こうで口元を押さえていた。

リディアは咳払いを一つして、新人用の棚に目を向けた。

そこに見慣れない手順書が一枚増えている。

『退勤までが業務です。帰る勇気を持ちましょう』

文字が大きい。

圧が強い。

読みやすさだけは腹立たしいほど完璧だった。

「セオ」

「はい」

「掲示板があなたの自己啓発本みたいになっています」

「帰らない職員がいると、私の退勤確認作業が遅れます。自衛策です」

「自衛の範囲が広すぎます」

「生活防衛です」

「言葉を変えても圧は減っていません」

「『帰れ』より柔らかくしました」

「比較対象が強すぎるのよ」

とうとう若い神官が吹き出した。

その笑いにつられて、神殿のあちこちで小さな笑い声がこぼれる。

夕方の神殿に、怒号ではなく笑い声がある。

リディアは手順書を棚へ戻し、記録板を閉じた。

赤い優先札案件、なし。

青い優先札案件、明朝対応で問題なし。

白い優先札予約、整理済み。

北方辺境グレイヴ地方への出張準備、明朝再確認。

今日、いま処理しなければならない仕事は、もう残っていなかった。

「セオ」

「はい」

「残業ではありませんね?」

「もちろんです」

「では、西通りに寄ります」

「氷菓子ですね」

「ええ」

「本日の退勤後予定として、非常に妥当です」

「妥当性を審査しないでください」

「退勤後に楽しみがあると、職員は翌日も比較的人間らしく出勤できます」

「言い方」

「実感です」

その一言で、リディアは少し黙った。

机に突っ伏していた頃のセオを思い出したからだ。

食事の味も、眠る時間も、帰る場所も、ほとんど失っていた書記官。

その彼が今、退勤後の氷菓子を真顔で語っている。相変わらず表現は妙だが、少なくとも羽ペンを置くことは覚えた。

「……そうね」

「記録します」

「しなくていいです」

セオは羽ペンを持ちかけ、少し迷ってから机に置いた。

置いた。

リディアは、その小さな動作に目を留める。

「セオ」

「退勤後ですので」

「ええ。そうですね」

リディアは鞄を持ち上げた。

西通りの氷菓子屋には、小さな列ができていた。

仕事帰りの職人。

子どもの手を引いた母親。

市場の片づけを終えたらしい娘たち。

その中に、神殿職員が混じって並ぶ。

特別な席へ通されるわけでも、誰かの婚約者として扱われるわけでもない。リディアはただ、仕事を終えた一人の客として、夕暮れの列に並んでいた。

前にいた子どもが、リディアの衣装を見て目を丸くする。

「あ、神殿のお姉ちゃんだ。もう終わったの?」

「ええ。私の予定表に、今、仕事は一件も載っていないわ」

リディアは真顔で答えた。

「だから、ここからは林檎蜜を攻略する時間よ」

「こうりゃく」

子どもはよく分からない顔をしたあと、ぱっと笑った。

「じゃあ、強いんだ」

「ええ。今日はかなり強いです」

「氷菓子に勝てる?」

「溶ける前に完食します」

子どもの母親が、こらえきれずに笑った。

順番が来る。

紙皿に盛られた林檎蜜の氷菓子は、夕暮れの光を受けて細かくきらめいていた。

匙を入れる。

しゃり、と涼しい音がした。

口に運ぶと、冷たさが舌に触れ、すぐに林檎の甘みと蜜の香りがほどけていく。

王宮の最高級の菓子より、ずっと素朴だ。

けれど今の喉には、この冷たさの方が心地よかった。

破滅の予定を書き換え、未処理案件の山をなぎ倒し、婚約解消届に署名し、たどり着いたのがこの一口。

夕暮れの通りで、紙皿を片手に氷を食べる。

それだけで、十分すぎるほど贅沢だった。

少し離れた場所で、セオも自分の氷菓子を見下ろしている。

「どうしました」

「食べる前に、溶ける速度を観察していました」

「食べてください」

「はい」

セオは素直に匙を入れた。

しゃり。

同じ音がする。

「冷たいですね」

「氷菓子ですから」

「甘いです」

「林檎蜜ですから」

「退勤後に食べると、味がはっきりします」

リディアは、氷菓子を口に運ぶ手を少しだけ止めた。

「そうですね」

神殿の鐘の音が遠くに聞こえる。

けれど今は、西通りで匙が氷を削る音の方が、ずっと近い。

しゃり。

もう一口。

冷たくて、甘い。

ミリアも、少し遅れて氷菓子を受け取った。

紙皿の中を覗き込み、慎重に匙を入れる。

「冷たいのに、ほっとします」

「仕事が終わった後だからでしょう」

リディアが言うと、ミリアは匙を持ったまま空を見上げた。

夕焼けが、神殿の尖塔を淡く染めている。

「明日も、終わらせられるでしょうか」

明日。

北方辺境グレイヴ地方への出張準備が本格的に始まる。

黒ずんだ書類束。

本部方式の導入を求める震えた文字。

王都の制度など使えないという、疲れた走り書き。

リディアは氷菓子をもう一口食べた。

「終わらせるために、手順書があります」

セオがすぐに顔を上げる。

「名言です」

「掲示しません」

「まだ何も」

「目が言っています」

「では、心に記録します」

「心に留めるだけなら許可します」

セオは少し考え込んだ。

「心の記録は検索性が低いですね」

「検索しなくていいです」

ミリアが吹き出した。

慌てて口元を押さえ、それでも笑いがこぼれる。

リディアも、つられて少し笑った。

ミリアの手には紙皿。

セオの手にも紙皿。

リディアの手にも紙皿。

王城の大広間で待っていたはずの冷たい視線より、今はこの氷の冷たさの方が現実だった。

セオが、空になりかけた紙皿を見ながら言った。

「明朝の出張準備ですが」

「今は氷菓子の時間です」

「承知しました。では、食後に」

「食後も退勤後です」

「では、明朝」

「よろしい」

セオは素直に引いた。

リディアは少しだけ満足する。

休むことを覚えた実務屋は、面倒だが頼もしい。

最後のひと匙を口に運ぶ。

林檎蜜の甘さが、舌の上に残った。

紙皿をそっと重ねる。

かさり。

薄い紙の音が、夕暮れの通りに小さく混じる。

リディアは鞄を持ち直した。

今日の仕事は終わった。

明朝の予定表には、すでに重たい文字がある。

『北方辺境案件』

雪。

瘴気。

地方神官マルク・レイノルズ。

王都の制度など使えません、という乱れた筆跡。

リディアは、鞄の留め具を指で確かめた。

カチリ。

小さな音が、西通りの夕暮れに混じる。

次は、雪の混沌を事務的に解体する時間だ。

林檎蜜の甘い余韻を舌に残したまま、リディアは公爵家の馬車が待つ通りへ歩き出した。