作品タイトル不明
第六十六話 調べるだけ
赤布は、湿った部屋の空気の中で妙にはっきりと見えた。
石壁も土壁もくすんだ色をしている。窓の外を流れる湯気は白く、部屋の中の敷物も使い込まれて色が沈んでいた。その中で、ギルの手にある赤だけが、まるで別の場所から切り取ってきたように浮いている。
レティシアは額に手を当てたまま、しばらく何も言わなかった。
ダリアも口を開かない。
セバスチャンだけが、壁際で天井を見上げている。あの顔は、完全に面倒なことになった時の顔だ。いや、面倒にしたのは俺ではない。魔物が出たのが悪い。自然発生迷宮かもしれないのが悪い。セバスチャンが百年ぶりなどと言ったのも悪い。
つまり、俺だけが悪いわけではない。
たぶん。
「若様」
レティシアの声は静かだった。
その静けさが怖い。
「それを出された理由を、お聞かせいただけますか」
「調べるだけだ」
「何を、でございますか」
「本当に迷宮があるかどうかだ」
レティシアの目が細くなる。
やはり、そこを突かれるか。
ギルは赤布を軽く振り、畳み直しながら椅子の背へ置いた。まだ顔には巻かない。巻いたら、もう完全に行く気だと思われる。いや、行く気ではあるのだが、今はまだ話し合いの形を取っている。
形は大事だ。レティシア怒ると怖いし。
「宿の者は魔物が出ると言った。セバスチャンは迷宮かもしれないと言った。自然発生なら珍しい。しかも放置すれば、魔物が増えるかもしれない」
「若様が調べる必要はございません」
「誰かが調べる必要はあるだろう」
「この地の小領主たちの役目です」
「その小領主たちが動けていないから、宿場が困っているのではないか?」
レティシアが黙る。
完全に言い負かしたわけではない。彼女の顔はまだ厳しい。だが、一瞬だけ返答が遅れた。そこをダリアが埋めるように前へ出た。
「ギル様、ここは領外です。しかも所有が曖昧な土地なのでしょう。だからこそ、ギル様が動けば問題になります」
「だから調べるだけだ」
「調べるだけで終わりますか?」
「終わる」
「本当にですか?」
「たぶん」
「たぶん、なのですね」
ダリアの声が冷たい。
この女、最近ずいぶん刺してくるようになった気がする。
いや、悪いことではない。必要なことを言う女は好きだ。だが、今は少しだけやめてほしい。
セバスチャンが低く笑った。
「若様が調べるだけで済んだことなんざ、あっしはほとんど知りやせんぜ」
「失礼だな」
「事実で」
「俺は慎重だ」
「どの口が言ってるんですかい」
セバスチャンは壁から背を離した。
その目は笑っていない。
「行くなら、あっしも行きやす」
「駄目だ」
「なぜですかい?」
「お前はここに残れ」
セバスチャンの眉が動いた。
ギルはレティシアとダリアを見た。二人とも、こちらの意図を測るようにしている。ここは軽く言うべきではない。だが、重く言いすぎても面倒になる。
「ここも安全とは限らない。魔物が宿場の近くに出るなら、俺が外へ行っている間に何か起きる可能性がある。レティシアとダリアの護衛は必要だ」
レティシアの目がわずかに揺れた。
ダリアも、少しだけ口を閉じる。
これは本心だ。
レティシアとダリアを危険に晒すつもりはない。温泉に来たはずなのに魔物が出るなど、ふざけた話である。ギル一人ならどうとでもなるが、二人が宿にいる以上、セバスチャンは残した方がいい。
もちろん、それだけではない。
セバスチャンを連れて行けば、絶対に横から止められる。危ない、戻れ、そこまでするな、攻撃魔法を使うな、崩すな、燃やすな。目に浮かぶ。非常に面倒だ。一人で動いた方が早いし、楽しい。
そのあたりは言わないけど。
「無辜な民のため、ではなかったのですか?」
レティシアが静かに言った。
ギルは少し詰まった。
「それもある」
「それも、でございますか」
「レティシアとダリアの安全が最優先なのも本当だ」
そこは嘘ではない。
レティシアは一瞬だけ目を伏せた。怒っているのか、呆れているのか、少し困っているのか、ギルには断定できない。だが、少なくともさっきより声の角は少しだけ鈍った。
ダリアが小さく息を吐く。
「ギル様、一人で行かれるおつもりですね」
「ああ」
「それが一番危険なのではありませんか」
「俺が一番安全だろう」
「そういう意味ではありません」
「分かっている」
ギルは赤布を手に取った。
これ以上話すと、どんどん面倒になる。
「とりあえず調べるだけだ。迷宮じゃなければ戻る。迷宮だったとしても、入口を見るくらいで戻る」
「若様」
「戻る」
「本当に?」
「たぶん」
「若様」
「努力する」
レティシアの眉が寄る。
セバスチャンが大きく息を吐いた。
「レティシア嬢に止められんのが、あっしに止められるわけないでしょう」
「諦めが早いな」
「あっしは現実を見る男なんで」
「なら護衛を頼む」
「へいへい。若様、無茶はしないでくだせえよ」
「調べるだけだ」
「それ、信用されてねえの分かって言ってやすか」
ギルは答えず、赤布を顔に巻いた。
布越しに湯の匂いが少し鈍る。視界の端に赤が入るだけで、気分が変わった。帝国で使った時とは違う。ここは帝国ではないし、今から貴族屋敷を襲うわけでもない。だが、素性を隠すには十分だ。
レティシアが近づき、赤布の端を直した。
指先が頬の横をかすめる。
いつものように整える手つきだったが、少しだけ強い。
「若様」
「何だ」
「必ずお戻りください」
「ああ」
「本当に、調べるだけになさってください」
「分かっている」
ダリアが少し後ろから見ていた。
「ギル様」
「何だ」
「迷宮に入らないでください」
直球だった。
ギルは目を逸らした。
「状況による」
「入りそうですね」
「まだ分からない」
「入る顔です」
「お前も顔で判断するのか」
「はい」
即答だった。
ギルは咳払いした。
「行ってくる」
扉へ向かう。
背中に三人の視線が刺さった。止めたいのに止めきれない、そんな空気だ。申し訳なさがないわけではない。だが、それより好奇心の方が強い。
扉を開けると、宿の廊下には湯気を含んだ湿った空気が漂っていた。
石床を踏み、ギルは外へ出る。
宿場の表側へは行かない。人目がある。ギルは宿の裏手へ回り、荷置き場の影を抜けた。夕方の光はさらに薄くなっている。湯気の白さが濃く見え、石壁の隙間から流れる温かい水が、足元で小さく音を立てていた。
ギルは宿場の奥を見た。
山道が続いている。
道を使えば、誰かに見られるかもしれない。なら、使わなければいい。
感知魔法を使う。
周囲の魔力反応が、頭の中に光点のように浮かんだ。宿場の中には特に反応はない。レティシアとセバスチャンの反応ぐらいだ。平民は感知に引っかからないから、ダリアは分からない。山の方角には、小さな反応がいくつか動いていた。さらに奥に、そこそこ大きな反応がある。
ギルは目を細めた。
ふむ、あれが迷宮かな?
とりあえず行ってみるか。
周囲の反応は小さいし、ちょこちょこ動いている。
こっちは魔物っぽいな。
まあ、そっちは後でいい。
ギルは肉体強化魔法を使った。
足元の石が近く感じる。体が軽い。宿場の湿った空気も、山の冷えも、今は邪魔にならない。ギルは石壁の低い部分へ足をかけ、一気に跳んだ。
視界が上がる。
宿の屋根の端を越え、湯気の白い流れを抜け、斜面に生えた太い木の枝へ着地する。枝がしなったが、折れない。ギルはその反動を使って、さらに上の岩へ跳んだ。
楽しい。
かなり楽しい。
馬で山道を進むのとは違う。肉体強化魔法を使えば、道など関係ない。岩から岩へ、木から木へ、斜面をほとんど直線で登れる。足元の湿った苔には注意が必要だが、滑る前に次へ移ればいい。
下の方で宿場の灯が小さくなっていく。
湯の匂いが少しずつ薄れ、代わりに湿った土と葉の匂いが強くなった。山の冷気が布越しに頬を刺す。谷から風が上がり、外套の裾を引いた。
小さな魔力反応が一つ、左手の藪の奥で動いた。
ギルはそちらを見たが、足を止めなかった。
小さい。
今は迷宮が先だ。
さらに跳ぶ。
大岩の上に着地し、膝を沈めて勢いを殺す。すぐに次の木へ移る。太い幹を蹴ると、木肌が少し削れた。悪いな、と思いながらも止まらない。
やがて、反応が近づいてきた。
そこそこ大きな反応は、山道から少し外れた斜面の奥にあった。宿場から普通に歩けば、かなり遠回りになるだろう。だが、ギルには関係ない。
ギルはひときわ大きな木へ跳び移った。
枝は太く、上に立っても揺れは少ない。そこから下を見下ろすと、斜面の一部が黒く割れているのが見えた。
洞窟。
最初に浮かんだのは、それだった。
岩肌の下に口を開けた穴。入口は人が二人並べるかどうかという程度で、周囲の土は崩れ、根がいくつか剥き出しになっている。石造りの管理建物もない。整えられた足場もない。マバール領の迷宮の入口とはまるで違う。
ただの洞窟に近い。
ギルは少しだけ肩を落とした。
「なんか、思ったより普通だなぁ」
もっとこう、いかにも異常なものを想像していた。地面が大きく裂け、魔物がぞろぞろ出てきて、入口から光が漏れているようなものを。
だが、現実は岩穴だった。
いや、岩穴に見えるだけかもしれない。
感知魔法では、そこそこ大きな反応が確かにある。周囲には小さな反応が散っている。それらは少しずつ動いており、普通の獣とは違うものに見えた。
魔物なんだろうな。
なら、あの穴から出てきていると考えるのが自然だ。
ギルは枝の上でしゃがみ、しばらく入口を眺めた。
周囲に人はいない。
宿場の者が近づかないのも分かる。山道から外れているし、夕方の薄暗さの中では見落としやすい。魔物が出るなら、平民が近づくには危険すぎる。騎士でも、領主の命令なしに勝手に踏み込むのは面倒だろう。
放置するのは危険だ。
魔物が地上に出ている。
小領主たちは動きにくい。
この迷宮をマバール家が管理する可能性はない。
だから、少し中を見るくらいは問題ない。
たぶん。
まぁ、理屈は色々つけられる。
だが本音は一つだ。
入りたい。
自然発生した迷宮。
百年ぶりかもしれない迷宮。
出来たての迷宮。
それが目の前にある。
入らない方が無理ではないか。
ギルは枝の上で立ち上がった。
「調べるだけだしな」
誰に言うでもなく呟く。
自分に言い聞かせているような気もしたが、気にしないことにした。
巨大な木の枝を蹴る。
体が宙へ出る。
斜面を越え、岩肌の前へ一気に落ちる。着地の瞬間、肉体強化魔法で膝と足首へ力を通し、石を踏み砕かない程度に勢いを殺した。足元の土が少し沈む。
入口の前に立つ。
中は暗い。
だが、完全な闇ではない。奥の方に、迷宮特有の薄い明るさがあるようにも見える。地上の洞窟とは違う気配。湿った岩と土の匂いの奥に、以前入った迷宮で感じた妙な空気がわずかに混じっていた。
ギルは赤布の下で笑った。
レティシアには怒られるだろう。
ダリアにも呆れられる。
セバスチャンはたぶん、やっぱり入りやがった、と言う。
だが、ここまで来て入口だけ見て帰るのは、むしろ不自然だ。
ギルは入口の縁へ手を触れた。
冷たい岩。
その奥から、かすかな魔力反応。
「おじゃましまーす」
軽く言って、ギルは自然発生した迷宮の中へ足を踏み入れた。