作品タイトル不明
第五十四話 少し冷たい朝
レティシアの寝息も、今夜は静かだった。
窓の外は暗い。厚い布で閉ざされた寝室には、燭台の火だけが残っている。芯を短くされた炎は小さく揺れ、壁に落ちる影も柔らかかった。昨夜の疲れが体の奥に残っているはずなのに、寝台の中は妙に温かく、肩から力が抜けていく。
ギルは隣を見た。
レティシアは眠っている。
白い肩が寝具から少しだけ覗き、乱れた髪が頬にかかっていた。普段ならすぐに整えそうな一筋も、今はそのままだ。呼吸に合わせて胸元がゆっくり上下し、唇はわずかに力を失っている。顔には少し疲れが見えたが、ぐったりと崩れているわけではない。
よし。
今回はセーフだ。
ギルは心の中で深く頷いた。
最後の方は、少し蕩けたようになっていた。返事もだいぶ危うかった。何を言っているのか分からない声も混じっていた気がする。だが、ちゃんと意識はあった。俺の呼びかけに反応していたし、手も伸ばしてきた。少なくとも、完全に意識を飛ばしていたわけではない。
一応セーフだ。
喋ってたもんな。
うむ。
俺も成長した。
以前は、どう考えてもやりすぎた。あの時は朝になってもレティシアが寝台から起き上がれず、こちらを見る目が静かに厳しかった。怒鳴られたわけではない。むしろ声は柔らかかった。だが、あの柔らかさの中にはある種の圧があった。
今回は違う。
たぶん違う。
レティシアも満足していたように見えたし、俺もきちんと加減した。少なくとも、しようとはした。途中で少し怪しくなったが、踏みとどまったはずだ。いや、踏みとどまったと言い切れるかは微妙だが、以前よりは明らかにましだった。
ギルは満足して、寝具の中で少しだけ身じろぎした。
隣の温もりが近い。
迷宮の森の湿った匂いも、素材の血と土の感触も、城へ戻るまでの慌ただしさも、今は遠い。目の前にあるのは、レティシアの寝顔だけだ。こうして帰ってきて、彼女の隣で眠れるなら、迷宮も悪くはない。いや、できればしばらく行きたくはないが。
レティシアの睫毛がかすかに揺れた気がして、ギルは息を潜めた。
起こすのは惜しい。
もう少し眺めていたい気もするが、さすがに眠い。
今日はよく動いた。
よく帰ってきた。
そして、よく成長した。
こうやって男は成長していくのだな。
ギルは心の中でもう一度うむと頷き、隣の寝息を聞きながら目を閉じた。
次に目を開けた時、部屋には朝の光が入っていた。
厚い布の隙間から差し込む光は淡く、寝台の端を細く照らしている。燭台の火は消され、空気には夜の熱がわずかに残っていた。城の朝の気配が遠くから届く。廊下を歩く足音、布の擦れる音、どこかで扉が閉まる低い響き。
ギルはぼんやりと天井を見上げ、それから隣へ視線を向けた。
いない。
いや、部屋にはいる。
レティシアはすでに寝台から離れていた。
窓際に近い場所で、静かに身支度を整えている。髪はまとめられ、服も着ている。いつものように隙のない姿、とまではいかない。よく見れば、首筋にわずかな赤みがあり、動きも少しだけ慎重だ。だが、立っている。ちゃんと立っているし、着替えも終えている。
ギルは感動した。
起きている。
これは大丈夫だったということだ。
いつもなら、愛し合った翌朝のレティシアは、少なくとも起き上がるまでに少し時間がかかる。いつもと言ってしまうのもどうかと思うが、実際そうだった。寝台の中で目だけこちらへ向け、静かな声で朝の支度が遅れる理由を告げる姿を、ギルは何度か見ている。
それが今日は違う。
ちゃんと起きている。
きちんと着替えている。
つまり、俺は成長した。
ギルは胸の奥に、自信がじわりと広がるのを感じた。
「おはよう、レティシア」
いつもより少しだけ晴れやかな声が出た。
レティシアは手を止めた。
ゆっくりとこちらを見る。
「……おはようございます、若様」
声は整っていた。
だが、少し冷たい。
ギルは寝台の上で固まった。
あれ。
何だ。
機嫌が悪いのか。
レティシアは礼をしてから、いつものように俺の着替えを用意し始めた。手つきは丁寧だ。乱暴ではない。衣服の扱いも完璧だ。だが、距離がほんの少し遠い。布を広げる音も、紐を整える指先も、普段よりきっちりしているように見える。
怖い。
なぜだ。
ギルは寝台から起き上がりながら、頭の中を急いで巡らせた。
昨夜は大丈夫だったはずだ。意識はあった。ちゃんと返事もしていた。最後の方は言葉になっていなかったかもしれないが、完全に駄目だったわけではない。たぶん。いや、たぶんという言葉が少し不安だが、それでも以前よりはずっとましだった。
では、なぜ怒っている。
着替えを手伝ってもらう間、ギルはちらちらとレティシアの顔をうかがった。
レティシアは襟を整える。視線は手元に落ちている。指先はいつも通り正確で、衣服の皺を許さない。だが、目が合わない。あえて合わせていないのではないかと思えるほど、淡々としていた。
これは駄目だ。
怒っている。
だが、何に。
ギルは袖を通しながら考えた。
まさか、やはり昨夜やりすぎたのか。いや、しかし起きている。起きているということは大丈夫だったはずだ。では逆か。逆なのか。加減しすぎたのか。最後まで意識があったということは、つまり、物足りなかった可能性があるのではないか。
ギルははっとした。
そうか。
そういうことか。
「レティシア」
「はい」
「昨夜は、やり足りなかったのか?」
部屋の空気が止まった。
レティシアの指先が、俺の上着の紐を持ったまま固まる。伏せられていた瞳がゆっくり上がり、次の瞬間、顔が見る間に赤くなった。首筋まで染まっていく。怒りなのか羞恥なのか、一瞬では分からない。
「違います!」
声が跳ねた。
普段のレティシアからは少し珍しい強さだった。
「昨夜も充分に満足しました!」
言い切った直後、レティシアは自分の言葉に気づいたように唇を結んだ。頬の赤みがさらに濃くなる。視線が揺れ、手元へ逃げる。だが、逃げた先には俺の上着の紐しかない。結局、彼女はそれを必要以上に丁寧に整え始めた。
ギルはますます分からなくなった。
満足した。
ならばなぜ機嫌が悪い。
「では、何で怒っているんだ?」
「怒ってなどおりません」
「いや、怒っているだろう」
「怒っておりません」
即答だった。
だが、明らかに怒っている時の声だった。
ギルは少し身を屈め、レティシアの顔を覗き込もうとした。レティシアはすっと視線を逸らす。その仕草が、かえって答えを隠しているように見える。
「レティシア、教えてくれ」
ギルが言うと、レティシアの手が止まった。
ほんのわずかな間が落ちる。
窓の外から、城の朝の音がかすかに届いた。廊下のどこかで、使用人の足音が止まり、また遠ざかっていく。部屋の中では、レティシアの呼吸だけが少し乱れていた。
やがて彼女は、小さく言った。
「……わたくしは、まだ身を清めておりませんでした」
「なんだ、そんな事か」
言った瞬間、ギルは少しだけ失敗を悟った。
レティシアの目が、すっと細くなった。
「そんな事ではありません」
静かな声だった。
静かだからこそ怖い。
「女にとっては、大事な事でございます」
「あ、ああ。そうだな。大事だ。大事だと思う」
「思っておられませんでした」
「いや、思っている。今思った」
「今でございますか」
まずい。
ギルは咳払いした。
「だが、俺は何の問題もないと思ったぞ」
「若様」
「本当に問題はなかった。むしろ、いつもより良い香りがしたぐらいで……」
言いながら、声が小さくなっていく。
レティシアが睨んでいた。
普段の柔らかい目ではない。怒鳴らない。取り乱さない。ただ、じっと見る。その目に射抜かれると、ギルの中の妙な自信がみるみる萎んでいった。
あ、これは違う。
これは褒め言葉ではない。
少なくとも、今言うべき言葉ではなかった。
「もう知りません」
レティシアはぷいと顔を逸らした。
完全に拗ねた。
ギルは慌てた。
「すまん。悪かった。反省している」
「何を反省なさっているのですか」
「身を清める前のレティシアを、その、急かしたことだ」
「急かした、で済ませるのですね」
「違う。済ませない。二度としない」
レティシアがちらりとこちらを見る。
ギルはつい、正直な心が口から漏れた。
「たぶん」
「たぶん?」
声が冷えた。
「違う。今のは言葉のあやだ」
「たぶん、でございますか」
「レティシアが許さない限り、二度としない。誓う」
ギルはまっすぐ言った。
言いながら、ほんの少しだけ惜しいと思ってしまった。
昨夜のあれは、あれでかなり良かった。いや、かなりどころではない。普段と少し違うレティシアの気配は、妙に胸へ残っている。だから完全に二度と、というのは惜しい。だが、それを顔に出せばたぶん死ぬ。
レティシアはじっとこちらを見ていた。
俺が何を考えたか、少し察したのかもしれない。
「本当ですよ」
「ああ。本当だ」
「若様は、時々本当に反省なさっているのか分からない時がございます」
「今回はしている」
「今回は?」
「いつもしている」
レティシアはしばらく黙っていた。
だが、目の厳しさは少しだけ緩んだ。頬の赤みはまだ残っている。怒りだけではなく、言ってしまったことへの羞恥も混じっているのだろう。彼女は小さく息を吐き、乱れもない襟元をもう一度整えた。
「……お支度を続けます」
「頼む」
ギルは大人しく立った。
レティシアの手が、上着の前を整える。さっきより少し近い。機嫌が完全に直ったわけではない。だが、拒まれてはいない。それだけで少し安心した。
結局、レティシアは俺に甘い。
ありがたい。
とてもありがたい。
同時に、たぶん俺はその甘さに甘えすぎている。
そう思ったが、口には出さなかった。言えばまた何か余計なことを言いそうだったからだ。
支度を終えて寝室を出ると、扉の外にダリアが控えていた。
褐色の肌に、灰色の髪。姿勢はいつも通り整っている。だが、顔が少し赤い。ほんの少しだ。表情は平静を保っているし、目も真面目だ。けれど、耳のあたりに残った赤みまでは隠しきれていないように見えた。
ギルは一瞬だけ足を止めた。
ダリアは丁寧に頭を下げる。
「おはようございます」
「うむ、おはよう」
何も聞かない。
聞かない方がいい。
ダリアがなぜ赤いのか、考えてはいけない。寝室の外に控えていたのなら、何か聞こえた可能性はある。だが、どこまで聞こえたかは分からない。分からないなら、分からないままにする。それが平和だ。そうやって平和は維持されるのだ。
レティシアもダリアへ顔を向けた。
「おはようございます、ダリア」
声は落ち着いていた。
だが、頬が赤い。
ダリアはほんのわずかに視線を揺らした後、もう一度頭を下げた。いつもより少しだけ丁寧だった。
「はい。おはようございます、レティシア様」
廊下の空気が、妙に繊細だった。
朝の光は窓から差し込み、石床の上に細い帯を作っている。遠くで使用人たちの足音が重なり、城はすっかり起きていた。だが、この扉の前だけ、何かを言えば割れてしまいそうな静けさがある。
ギルは咳払いした。
「朝食へ行くか」
「はい」
レティシアが答え、ダリアが少し後ろへ下がる。
その動きはもう自然だった。ダリアは使用人区域を走り回るのではなく、俺の近くに控える。その立ち位置に、彼女自身も少しずつ慣れてきているように見える。もちろん、まだ完全ではない。今朝のような状況では、さすがに硬さが出る。
まあ、俺も少し硬い。
ギルは廊下を歩きながら、レティシアの横顔をちらりと見た。
機嫌は直ったのだろうか。
たぶん、少しは直った。
だが、完全ではない気もする。身を清める前に、というのは彼女にとって本当に大事なことだったのだろう。俺には正直、問題の中心が少し遅れて届いた。良い香りだった、などと言ったのは完全に失敗だ。
だが、事実だった。
いや、今は考えるな。
また顔に出る。
朝食の席には、父上がいた。
久しぶりに父上と同じ朝食だ。
ガルシア・マバールはいつもの席に座り、普段通りの重さでそこにいた。大きな動きをしているわけではない。ただ座っているだけで、食堂の空気が締まる。皿の置かれる音も、使用人の足運びも、その存在に合わせて整えられているように感じる。
ギルは席についた。
「おはようございます、父上」
「ああ」
父上は短く答えた。
それだけだった。
いつもなら、迷宮帰りについて何か言われるかもしれない。素材の処理か、アル兄さんへの報告か、セバスチャンたちの分配のことか。少なくとも、何らかの話題が出ると思っていた。だが、父上は肉を切り、静かに口へ運ぶだけだった。
食堂が静かだ。
いつもより、ずっと静かだ。
使用人たちも妙に音を立てない。皿を置く手つきが慎重で、茶を注ぐ女使用人の耳が少し赤いように見えた。別の使用人は、こちらへ目を向けかけてすぐに伏せた。誰も何も言わない。誰も笑わない。だが、何か緊張したような空気が薄く広がっている。
ギルはパンを手に取った。
何だ。
なぜこんなに静かなんだ。
迷宮帰りだからか。
いや、違う気がする。
レティシアは後ろに控えている。いつも通りの姿勢だ。ダリアも少し離れて控えている。二人とも顔を伏せ気味にしており、こちらを助けてくれそうな気配はない。
父上がふとこちらを見た。
ギルは背筋を伸ばした。
「何か?」
「いや」
父上はそれだけ言い、また食事へ戻った。
何だ、その間は。
絶対に何かあるだろう。
ギルは水を飲んだ。
喉が少し乾いている。
使用人が茶を注ぎ足す。その手元がわずかに揺れた。ほんの少しだ。普通なら気づかない程度。だが、今のギルは妙に敏感だった。
もしかして。
いや、まさか。
昨夜、そんなに聞こえていたのか。
いや、貴族の寝室だぞ。壁も扉も厚い。そう簡単に聞こえるはずがない。はずだ。だが、使用人は廊下を通る。控えもいる。どこまで何が漏れたのか、ギルには分からない。
分からない。
だから余計に怖い。
父上は何も言わない。
それが一番怖い。
もし父上が笑ったり、軽く茶化したりしたなら、まだ対処できた。だが、この静けさは何だ。まるで皆が、何もなかったことにしようとしている。何もなかったことにしようとしている時点で、何かあったと認めているようなものではないか。
ギルは口元を引き締め、何事もない顔で朝食を続けた。
パンはいつも通り美味い。
肉も悪くない。
茶もレティシアの淹れるものには及ばないが、十分整っている。
なのに、味があまり頭に入ってこない。
視界の端で、女性使用人の頬がまた少し赤く見えた。
気のせいだ。
きっと気のせいだ。
そう思うことにした。
父上が静かに水を飲む。
食器の音が小さく響く。
誰も余計なことを言わない朝食は、妙に長く感じた。
ギルは正面を向いたまま、心の中で深く息を吐いた。
今回はセーフだった。
レティシアは起きていた。
俺は成長した。
そのはずなのに。
どうして、朝になってから別の意味で追い詰められているのだろう。
食堂の静けさの中で、ギルは少しだけ肩を落としたくなった。
だが、父上の前でそんな姿は見せられない。
だから背筋を伸ばし、何も気づいていない顔で茶を口に運んだ。
後ろから、レティシアの視線が刺さった気がした。
それはたぶん、気のせいではなかった。