作品タイトル不明
第四十三話 マバールへの帰還
マバール領へ戻ったのだと分かったのは、道端に立つ者たちの目が変わったからだった。
国境線が地面に刻まれているわけではない。空の色も、風の匂いも、草の揺れ方も、帝国側と王国側で劇的に変わるものではなかった。けれど、街道沿いに点在する畑の広がりや、荷車を引く男たちがこちらを見る時の警戒の質が、少しずつ馴染みのあるものへ戻っていく。
帝国側では、どこまで行ってもこちらは異物だった。
今は違う。
こちらを見る平民たちは、粗末な旅装に武器を隠しきれていない荒事慣れした一団に気づき、道を空けていく。頭を下げる者もいれば、荷車を脇へ寄せる者もいた。ギルの顔を知っているわけではないだろう。この世界には写真もテレビも無い。辺境伯家の三男と言っても、領民が顔まで知っている訳ではなかった。だが、セバスチャンのような男がいて、粗末な格好をしていても妙に統率の取れた連中が進んでいれば、どこかの有力者に関わる一行だという程度は分かる。まして、ここはマバール領だ。
家の庭に近づいている。
そう思うと、ギルの胸の奥で、張り詰めていたものがわずかにほどけた。
前方を進んでいたアバルディア家の案内人が、道の途中で馬を止めた。ここまで進めば、王国側の道に慣れたギルたちだけで十分に戻れる場所だ。男はその境を心得ているように、静かに振り返る。
旅慣れた男だった。
帝国側の道を抜ける間、余計な言葉はほとんどなかった。どの宿を避けるか、どの村を迂回するか、どの時間に街道を進むか。それだけを淡々と示し、必要が終わればすぐに黙る。アバルディア家がこの役目を任せただけあり、かなり使える男だった。
「私はここで」
男は馬上で頭を下げた。
深すぎず、軽すぎない礼だった。
「助かった」
ギルが言うと、男は少しだけ目を伏せた。
「ご無事にお戻りください」
「ああ。そちらもな」
それ以上、互いに言うことはなかった。
男はダリアを見なかった。見なかったというより、見たことにしなかった。彼女がアバルディア家へ戻らず、このままマバール家へ向かうことは明らかだったが、そこへ言葉を挟める立場ではないと理解しているのだろう。
優秀な人間ほど、触れてはいけないものを知っている。
案内人は馬首を返した。蹄が土を蹴り、細い道へ入っていく。木々の間に背中が小さくなり、やがて完全に見えなくなった。
ギルはしばらくその方角を見ていた。
これで、アバルディア家との表向きの繋がりはまた一つ切れた。もちろん、完全に消えるわけではない。帝国で起きたことは消えないし、ダリアもここにいる。だが、少なくとも道案内の役目は終わった。
「さて」
ギルは手綱を軽く握り直し、後ろへ視線を向けた。
ダリアは大人しく馬を止めていた。
褐色の肌に灰色の髪。まだ旅装のままだが、それでも彼女は目立つ。帝国の街道では見慣れた色だったのかもしれないが、マバール領のこの辺りでは珍しい。本人もそれを分かっているのか、周囲の視線を拾うように目を動かしていた。
「ダリア」
「はい」
「お前はこっちだ」
「……分かっております」
返事までに、ほんの少しだけ間があった。
反抗したい気持ちが消えたわけではないのだろう。だが、逃げる気配はなかった。逃げたところで行く場所はない。帝国へ戻るには遠く、アバルディア家へ戻れば今まで通りでは済まない。彼女自身、それを理解している。
ギルがそれを言葉にする前に、ダリアは小さく息を吐いた。
「案内人と共に戻る選択肢は、最初から無かったのでしょうね」
「俺が許すと思うか?」
「思いません」
「なら聞くな」
「確認です」
ダリアの声は硬い。
それでも、以前より棘は少なかった。
怒りと諦めの間に、薄い理解のようなものが混じっている気がする。もちろん、都合よく受け取るのは危険だ。彼女は賢い。従っているからといって、心の底から納得しているとは限らない。
だが、今はそれでいい。
逃げない。
それだけで十分だった。
「アバルディア家へ戻っても、お前は自由には動けないだろう」
ギルが言うと、ダリアは少しだけ目を伏せた。
「はい」
「知りすぎている」
「そうですね」
「なら、俺のところにいる方がましだ」
「それは、ギル様にとって都合のよい言い方では?」
「そうだな」
ダリアは顔を上げた。
まさか即答されるとは思っていなかったのか、わずかに目が揺れる。
「俺にとって都合がいい。お前にとっても、最悪ではない。なら十分だろ」
「最悪ではない、ですか」
「貴族の家に関わって生きてきたなら、それがかなり大事なことだと分かるはずだ」
ダリアは黙った。
その沈黙が答えだった。
最良など滅多にない。あるのは、悪い選択肢と、もっと悪い選択肢だ。ギルはその中から、自分にとって都合のよいものを選んだ。ついでにダリアにとっても、底ではない場所を選んだつもりでいる。
綺麗な話ではない。
しかし、この世界で綺麗な話ばかり選んでいたら、貴族の家では生きられない。
「若様」
セバスチャンが隣で低く笑った。
「何だ」
「女相手に、ずいぶん情緒のない慰め方をなさいますな」
「慰めてはいない」
「でしょうな」
セバスチャンの口元は楽しげだった。からかっている。完全にからかっている。ギルは睨んだが、老騎士はどこ吹く風だった。
直属騎士たちは、会話を聞こえないふりをしている。こういう時の部下の態度はよく訓練されている。聞いていない。見ていない。だが絶対に聞いているし、見ている。
ギルは軽く咳払いした。
「行くぞ」
一行は再び動き出した。
帝国側を抜けるまで張り詰めていた空気は、領内に入るにつれて少しずつ緩んでいった。彼らの背筋が崩れるわけではない。だが、周囲を警戒する視線に、多少の安堵が混じる。馬の歩調も落ち着き、隊列の間に流れる息遣いも重くない。
ギルは意識して速度を上げなかった。
急げば今日中にもっと城へ近づける。馬ごと肉体強化魔法を使い、途中の休憩を削り、街道を急がせれば、帰城は早まるだろう。だが、それをする気にはなれなかった。
馬を休ませる必要がある。
部下たちの疲労もある。
帝国から戻った直後に慌ただしく城へ入るより、少し整えてからの方がいい。
理由はいくらでも並べられる。
ただ、その理由をセバスチャンたちが信じるかどうかは別だった。
「若様」
「何だ」
「ずいぶん慎重な進み具合ですな」
「帰路だからな」
「帰路だからこそ、早く帰りたいもんじゃありやせんか」
「疲れている者もいる」
「若様が、ですかい?」
「馬だ」
「へえ、馬」
セバスチャンはわざとらしく馬の首筋へ目を向けた。
ギルは横目で睨む。
「何が言いたい」
「いえね、レティシア嬢にどう説明するか、まだ決まってねえ顔をしておられるなと」
「決まっている」
「ほう」
「ダリアを連れてきた。世話になった。有能だ。気に入った。だから置く」
「おおむね事実ですな」
「だろう」
「言い方が最悪ですが」
ギルは黙った。
自分でも少し思った。
事実ではある。だが、レティシアにそのまま言えばどうなるか。彼女はきっと微笑むだろう。微笑んで、静かに礼をして、分かりましたと言うかもしれない。
それが怖い。
怒鳴られた方が分かりやすい。物を投げられることはないだろうが、もし投げられたとしても、まだ反応として理解できる。だが、レティシアはそういう女ではない。感情を乱さず、こちらが勝手に不安になるほど整った態度を取る。
それが一番困る。
「レティシアは賢い」
ギルは前を向いたまま言った。
「事情を説明すれば理解する」
「そうでしょうな」
「怒らない」
「さて」
「怒らないはずだ」
「はず、ですかい」
「……たぶん」
セバスチャンが噴き出した。
「おい」
「失礼しやした」
「笑うな」
「いやあ、若様が帝国貴族よりレティシア嬢を恐れていると思うと、つい」
「恐れてはいない」
「では?」
「尊重しているだけだ」
「便利な言葉ですな」
ギルは返事をしなかった。
ダリアが少し前でこちらを振り返った。聞こえていたのだろう。彼女はギルとセバスチャンを見比べ、それから小さく首を傾げた。
「レティシア様とは、そんなに恐ろしい方なのですか」
「恐ろしくない」
ギルは即答した。
「美人で、賢くて、有能で、声が柔らかい」
「それは恐ろしい説明ではありませんね」
「胸も大きいぞ」
「聞いておりません」
セバスチャンがまた笑った。
ダリアは少し呆れたような目でギルを見ている。だが、完全に冷えた目ではない。旅の最中、彼女は何度もギルとセバスチャンのやり取りを聞いてきた。少しずつ慣れてきたのかもしれない。
「とにかく、レティシアは怒らない」
「そうなのですか」
「ああ」
「なら、なぜギル様は先ほどから落ち着かないのですか」
ギルは手綱を握る手に少し力を込めた。
この女、痛いところを突く。
セバスチャンが満足そうに頷いた。
「ダリア、いい目をしてやすな」
「褒められているのでしょうか」
「たぶん褒めてやす」
「それはどうも」
「二人で俺をいじめるな」
ギルが言うと、ダリアはわずかに目を瞬かせた。
それから、ほんの少しだけ口元が動いた気がした。
笑ったのかもしれない。
そう思うと、悪くなかった。
昼を少し過ぎた頃、一行は街へ入った。
マバール城へ向かう街道沿いの街で、城下ほど大きくはないが、人と物の流れはある。荷車が道端に並び、干し肉や穀物を売る声が飛び交い、馬具屋の前では革を叩く音が響いていた。石畳は一部だけで、ほとんどは踏み固められた土の道だが、店先には染め布が垂れ、軒下には籠や陶器が積まれている。
ギルの顔を見て騒ぐ者はいない。
当然だ。
ギルバート・マバールという名を聞いたことがある者はいても、顔まで広く知れ渡っている訳ではなかった。若様と呼ばれる男など、商家にも騎士家にも有力者の家にもいる。ギルという呼び名も正式名ではなく愛称だ。周囲の者たちは、粗末な旅装の集団と、その中央にいる若い男を見て、距離を取る。判断できるのはその程度だ。
だが、セバスチャンを見た者の中には、顔色を変える者もいた。
あの凶悪な顔と存在感は、ある意味でギルより目立つ。下級騎士の出でありながら実戦と武功で知られる男だ。少なくとも街の兵や古い商人の中には、セバスチャンの名を知る者がいるのだろう。
だからこそ、余計な騒ぎにはならなかった。
こちらの素性を探るより、道を空けた方がいい。街の者たちは、そういう判断だけは早い。
「若様、どちらへ」
セバスチャンが尋ねる。
「服屋だ」
ギルが答えると、ダリアの肩がわずかに動いた。
「……本気だったのですか」
「本気だ」
「今の服で問題ありません」
「問題ある」
「どこに」
「地味だ」
「地味でいいのです」
「駄目だ」
ダリアは沈黙した。
言っても無駄だと思ったのかもしれない。実際、無駄だった。ギルの頭の中では、すでにダリアに似合う色が決まりつつある。
赤。
深い赤だ。
褐色肌に赤は映える。そこへ黒を合わせれば締まる。灰色の髪とも悪くない。胸は控えめだが、腰と尻の線が綺麗なので、そちらを活かす服がいい。
もちろん、口には出さない。
尻の話でダリアを怒らせた経験はまだ新しい。ギルも多少は学習する。
セバスチャンは店選びが早かった。
表通りから少し横へ入った場所にある衣料商。高級貴族向けではないが、平民が普段着を買う店よりはずっと良い。店先には染めの綺麗な服が吊られ、奥には畳まれた衣服や帯、小物が整えて並べられている。旅人や裕福な商人、下級騎士の家族あたりを相手にしている店だろう。
店主はギルたちを見ると、すぐに商売人の顔を作った。
「いらっしゃいませ。旅のお方で?」
「女物を見たい」
「はい、どのような品をお求めでございましょう」
「この女に似合う服だ」
ギルがダリアを示す。
店主の目が一瞬だけダリアへ向かった。褐色の肌と灰色の髪を見て、わずかに驚く。だが、すぐに笑顔へ戻った。その速さは悪くない。
「珍しいお色味でございますな。でしたら、淡いものより濃い色がよろしいかと」
「分かっているじゃないか」
ギルは満足して頷いた。
ダリアが隣で嫌そうに目を細める。
「ギル様」
「赤だな」
「ギル様」
「深い赤。黒帯。装飾は控えめでいい」
「聞いてください」
「聞いている」
「私は嫌です」
「似合うだろうな」
「似合うかどうかではなく、嫌なのです」
ダリアははっきり言った。
店主の笑顔が少しだけ引きつる。客同士の力関係を測っているのだろう。若い上客らしい男と、連れられている褐色肌の女。そこにセバスチャンのような男がいる。普通の店主なら、どちらに従うべきかなどすぐ分かる。
もちろん、ギルにだ。
「遠慮するな」
「遠慮ではありません。拒否です」
「拒否は聞かない」
「ひどいですね」
「よく言われる」
ダリアは額に指を当てた。
セバスチャンが後ろで声を殺して笑っている。
「若様、嫌がる女に服を買うってのも、なかなかですな」
「褒めてないだろ」
「へい」
「それに、みすぼらしい格好で城に入れるわけにはいかない」
「それはまあ、筋が通ってやす」
「だろう」
「ただ、若様の趣味を押し通す必要はありやせんが」
「ある」
「あるんですかい」
ギルは店主が出してきた服へ目を向けた。
赤にも色々ある。明るすぎる赤は派手すぎる。祭りの衣装のようで、ダリアの表情とは合わない。暗すぎる赤は悪くないが、少し重い。濁った赤は旅装と大差なくなる。
目に留まったのは、熟した果実の皮に近い深い赤だった。
光を受けるとわずかに艶が出る。だが、派手に輝くわけではない。黒い帯を合わせれば、褐色の肌に負けず、灰色の髪も沈まない。
「これだ」
ギルが言うと、ダリアは露骨に嫌そうな顔をした。
「派手です」
「上品だ」
「目立ちます」
「中途半端に目立つよりいい」
「またその理屈ですか」
「正しいだろ」
「正しくありません」
店の女が呼ばれ、ダリアを奥へ案内しようとした。ダリアはしばらく動かなかったが、ギルが何も言わず見ていると、やがて諦めたように息を吐いた。
「着るだけです」
「そのまま買う」
「着るだけです」
「似合えば買う」
「似合わなければ?」
「別の赤を探す」
「最悪です」
ダリアは店の奥へ消えた。
布の向こうで、低い声と衣擦れの音がする。ギルは店先に立ったまま、周囲の服を眺めた。別に落ち着かないわけではない。ただ、ダリアがどんな姿で出てくるか少し気になるだけだ。
少しだけだ。
セバスチャンが横から覗き込んできた。
「若様」
「何だ」
「にやけてやす」
「にやけていない」
「いやあ、これは見事に」
「黙れ」
ギルは顔を引き締めた。
貴族らしく。落ち着いて。女の着替えを待つだけで浮かれるな。俺は辺境伯家の三男だ。帝国貴族よりレティシアの方が怖い男だ。服一枚で動揺するのはおかしい。
そう自分に言い聞かせていると、奥の布が揺れた。
ダリアが出てきた。
店の中が一瞬静かになった気がした。
赤は、よく似合っていた。
旅装で隠れていた体の線が、服の形によって自然に見える。胸元は控えめだが、肩から腰への流れが綺麗で、黒帯が細い腰をはっきり示していた。そこから下の布の落ち方もいい。動けば脚の長さが分かるし、後ろ姿もかなり映えるだろう。
褐色の肌は、赤に負けていない。
灰色の髪は、むしろ印象を強めている。
ダリア本人は恥ずかしそうに視線を逸らしていた。堂々と立とうとしているが、指先が少し落ち着かない。周囲の視線を感じているのだろう。
「似合うな」
ギルは素直に言った。
「……だから嫌なのです」
「なぜだ。似合っているのに」
「目立つからです」
「目立っていい」
「私はよくありません」
「俺はいい」
「ギル様は私ではありません」
その通りだった。
だが、ギルは満足していた。
やっぱりモデルみたいだよなぁ。
前世で見た雑誌や広告の記憶が、ぼんやりと蘇る。愛想よく笑うのではなく、少し近寄りがたい雰囲気で布を見せる女。ダリアにはそういう方向の見栄えがある。本人はまったく望んでいなさそうだが、それもまた妙に似合っている。
セバスチャンが隣で言った。
「若様、今度は隠しきれてやせんぜ」
「何がだ」
「趣味です」
「体面だ」
「便利な言葉ですなあ」
ギルは店主へ向き直った。
「これを買う。あと、着替えもいくつか」
「ありがとうございます」
「普通の服も入れろ」
ダリアが少し驚いたようにこちらを見た。
「今、普通の服とおっしゃいましたか」
「言った」
「本当に?」
「俺だって全部派手にするわけじゃない」
「少し意外です」
「お前、俺を何だと思っている」
ダリアは答えなかった。
その沈黙が少し失礼だった。
その時、セバスチャンがふと思い出したように言った。
「若様、レティシア嬢への土産はどうしやす?」
ギルは固まった。
危ない。
完全に忘れていたわけではない。最初から考えていた。考えていたが、ダリアの赤い服に意識が寄っていたのは否定できない。
レティシアへの土産。
これは重要だ。
緑茶もある。味噌もどきも醤油もどきもある。木匙もある。しかし、豆の発酵調味料を土産として渡されて喜ぶ女がどれほどいるのか。レティシアなら俺の趣味を理解してくれるかもしれないが、それと機嫌が良くなるかどうかは別だ。
服は必要だ。
非常に必要だ。
「もちろん買う」
「今、思い出しやしたね」
「最初からそのつもりだった」
「へえ」
「黙れ」
ギルは店内を見回した。
レティシアに似合う服。
レティシアは美人だ。背は高めで、姿勢がいい。手の動きが綺麗で、声が柔らかい。胸は大きい。形も良い。腰は細い。普段はメイド服だが、あの整った所作なら何を着ても似合う。
だから難しい。
どれを着せたいか、という話になる。
ギルは薄紫の服へ手を伸ばした。布が柔らかく、体の線を拾いそうだった。次に白地に銀の模様が入ったものを見る。清楚だが、胸元が少し危うい。さらに深い青の服もいい。落ち着いているが、肌が白く見えそうだ。
「これと、これと」
「待ってください」
ダリアが静かに止めた。
「何だ」
「レティシア様は、どのような方なのですか」
「美人だ」
「それだけでは選べません」
「身長は高めだな。姿勢が良くて、声が柔らかい」
「声は服に関係ありません」
「雰囲気には関係するだろ」
「雰囲気としてなら分かりますが、服を選ぶ情報としては弱いです」
「胸は大きいぞ。形もいい」
「それは若様の好みの話では?」
「重要な情報だ」
「扱いに困る情報です」
セバスチャンが背後で肩を震わせていた。
ギルは不満だったが、ダリアは真面目だった。彼女はレティシアの髪色、肌の色、普段の立場、城内で着るのか私室で着るのかを順に聞いてくる。ギルは答えられる範囲で答えた。声が柔らかいことをもう一度言うと、今度は無視された。
ダリアが選んだのは、淡い緑を含んだ落ち着いた服だった。
派手ではない。だが、地味ではない。袖口と裾に細い刺繍が入り、腰の形は整っているが、露骨に体を強調しすぎない。胸元も開きすぎていない。レティシアが着れば、普段の凛とした雰囲気を崩さず、少し柔らかく見えるかもしれない。
「これがよろしいかと」
「大人しすぎないか?」
「レティシア様が若様の側に立つ方なら、品の方が大事です」
「だが、せっかくなら」
「若様」
「……分かった」
ギルは少し渋々頷いた。
たぶん、ダリアの方が正しい。
俺が選ぶと趣味が出すぎる。
それは認めるしかない。
店主が品を包ませる。ダリアの服、着替え、レティシアへの服、小物。ギルは言われた額をそのまま払おうとした。
その手を、ダリアが止めた。
「高すぎます」
「そうか?」
「そうです」
彼女は店主へ向き直った。
そこからのやり取りは、ギルにとってなかなか面白かった。ダリアは声を荒げない。店主を責めもしない。ただ、まとめ買いであること、帯と服の組み合わせ、小物まで含めた数、今後も品が良ければ使う可能性があること、持ち帰りの手間が少ないことを一つずつ挙げていく。
店主は最初こそ笑っていたが、途中から目の色が変わった。
相手を客の連れの女ではなく、交渉相手として見始めたのだ。
結果として、値はかなり下がった。
「ほう」
ギルは素直に感心した。
「見事だな」
「服など、ある程度の価格の品を買う際に交渉するのは当たり前です」
「当たり前なのか」
「当たり前です」
「俺はいつも言い値で払っていたが」
ダリアの目が、信じられないものを見る目になった。
セバスチャンが額に手を当てる。
「若様、それは店からすりゃ最高の客でさぁ」
「金を払うのは悪いことではないだろ」
「悪くはありやせん。ただ、相手は喜んで次から上乗せしやす」
「……そうか」
少し恥ずかしかった。
前世の感覚では、店で値段を言われたらそのまま払うことが多かった。値札のある世界だったからだ。だが、この世界ではそうではない。特にこういう店では、相手を見て値を変えることもあるのだろう。
貴族としての金銭感覚と、前世の庶民感覚が変な形で混ざっている。
自分でも妙なところで抜けていると思う。
「ダリア」
「はい」
「お前、便利だな」
「褒め言葉として受け取ってよいのでしょうか」
「褒めている」
「そうですか」
ダリアはあまり嬉しそうではなかった。
だが、嫌そうでもなかった。
店を出る時、ダリアは赤い服のままだった。本人は元の旅装へ戻りたがったが、ギルが認めなかった。どうせ買ったのだ。すぐ着ればいい。そう言うと、ダリアは本気で呆れた顔をした。
街の中を歩くと、視線は集まった。
当然だ。
褐色の肌に灰色の髪、赤い服。その周囲には、粗末な旅装のままでも荒事慣れした男たちが控えている。目立たないわけがない。ダリアは視線を気にしているようだったが、背筋だけは崩さなかった。そこがまた良い。
ギルは満足しながら馬へ戻った。
セバスチャンが近くで笑う。
「若様、レティシア嬢に渡す前から楽しそうですな」
「土産は大事だからな」
「ダリアの服の方を見ていた気がしやすが」
「気のせいだ」
「へいへい」
一行は街を出た。
そこからマバール城までの道は、さらに馴染み深くなっていく。遠くの丘、畑の区切り、道沿いの木立、馬車の通り方。ギルが幼い頃から何度も見てきた領内の景色だった。
ダリアはずっと周囲を見ていた。
新しい服に落ち着かないのか、時折袖や帯に触れる。だが、それ以上に、土地そのものを観察しているようだった。畑の広さ、道を行く荷の量、兵の姿、平民の顔色。彼女はそうしたものを拾いながら、何かを考えている。
「何を見ている」
ギルが尋ねると、ダリアは少し遅れて答えた。
「豊かな土地だと思いました」
「そう見えるか」
「はい。道に荷車が多いですし、兵も痩せていません。畑も荒れていないように見えます」
「見るところが面白いな」
「生活に直結する部分は、平民の方が敏感になります」
なるほど。
ギルは少し納得した。
貴族は城や兵を見る。平民は道と畑を見る。どちらが正しいというより、立っている場所が違うのだろう。ダリアは貴族家の周囲で働いていたが、魔力を持つ側ではない。その視点は、ギルの周囲にはあまり多くない。
やはり使える。
そう思った瞬間、ダリアがこちらを見た。
「何か失礼なことを考えていませんか」
「考えていない」
「そうですか」
「少ししか」
「考えているではありませんか」
ギルは前を向いた。
セバスチャンがまた笑った。
夕方の光が傾き始める頃、マバール城が見えた。
遠くに立つ巨大な石の塊。
城壁は重く、高く、周囲の土地を見下ろすように構えている。陽を受けた上部だけが鈍く明るく、下の方は影を抱いていた。城へ続く道には人や馬車があり、外周には兵の姿も見える。ここまで来ると、ギルの胸の奥に残っていた旅の緊張が、別の緊張へ変わった。
帰ってきた。
そして、帰ってきてしまった。
ダリアは城を見上げていた。
さすがに平静ではいられないのか、手綱を握る指が少し強い。アバルディア家の屋敷も大きかっただろう。だが、マバール城は辺境伯家の本拠だ。軍事拠点としての圧が違う。
「ここがマバール城だ」
「……はい」
「怖いか」
「少し」
「正直だな」
「嘘をついても仕方ありません」
「まあ、逃げられないしな」
「逃がす気がない方がそれを言いますか」
「言う」
ダリアは小さく息を吐いた。
城門へ近づくと、兵たちが動いた。先頭のセバスチャンへ気づいた兵が目を見開き、その直後、中央にいるギルを認めて慌てて姿勢を正す。誰かが奥へ走り、誰かが道を空ける。城に仕える兵なら、ギルの顔を知らないはずがない。
門をくぐる。
石壁の影が落ちた瞬間、馬の蹄音が硬く響いた。
城内の空気が体を包む。石の匂い、馬の匂い、金属の擦れる音、遠くで響く兵の声。懐かしい。ずっと離れていたわけではないのに、やけに懐かしい。
中庭へ入ると、直属の者たちが次々と馬を降りた。
旅の汚れはある。疲労もある。だが、誰も欠けていない。今回、味方側に死者は出ていない。それは大きい。帝国で派手に動いたわりには、かなり良い結果だと言っていい。
ギルは彼らを見回した。
「ご苦労だった」
短く言うと、男たちは姿勢を正した。
「三日ほど休んでくれ。細かい精算や分配はセバスチャンに任せる」
「はっ」
揃った声が中庭に響く。
セバスチャンは軽く頭を下げた。
「承りやした」
「掠奪品の儲けも、いつもの通りに頼む」
「へい。揉めねえよう、きっちり分けやす」
「任せた」
戦場で得たものは、ただ積み上げればいいわけではない。誰がどれだけ働いたか、何を消耗したか、何を家に納めるか。そういう調整が必要になる。ギルは細かいことを把握していないわけではないが、こういう実務はセバスチャンの方が慣れている。
男たちは散っていった。
馬を預ける者、荷を運ぶ者、外套を脱いでようやく息を抜く者。帝国での緊張から解かれた彼らの背中は、どこか軽い。三日休めると聞いて、露骨に顔が明るくなった者もいる。
ギルはそれを見て、少しだけ満足した。
やることは山ほどあるが、部下を休ませるのも主の仕事だ。
問題は、自分が休めるかどうかである。
「若様」
セバスチャンが隣へ来る。
「何だ」
「まずはレティシア嬢ですかい?」
「……そうだな」
「お館様への報告は?」
「先にダリアをレティシアに預ける。父上に呼ばれるまでに少しでも整理したい」
「整理というより、言い訳では」
「黙れ」
セバスチャンはにやにやしていた。
ギルは荷を持たせた者から、レティシアへの土産を受け取った。緑茶、味噌もどき、醤油もどき、木匙、服。荷物が多い。少し多すぎる気もする。
いや、多い方がいい。
たぶん。
多ければどれかは当たる。
そんな考えが浮かんで、自分で少し情けなくなった。
ダリアは中庭で少し戸惑っていた。赤い服は城の石壁の中でも目立つ。すれ違う使用人たちがちらりと見る。彼女は表情を崩していないが、居心地は良くなさそうだった。
「ダリア、来い」
「はい」
「とりあえずレティシアに預ける」
「レティシア様に、ですか」
「俺の専属メイドだ。何かと頼りになる」
「……私がご迷惑をおかけするのでは」
「すでに俺が迷惑をかけているから気にするな」
「それは安心してよい言葉でしょうか」
「たぶん」
ダリアはまた小さく息を吐いた。
セバスチャンが楽しそうに笑う。
三人で城内へ入る。
廊下は広く、石壁には厚い布が掛けられ、窓から差す光が床に長く伸びていた。使用人たちが行き交うが、ギルたちを見ると道を譲る。ギルの顔を知る者はここでは多い。城内なら当然だ。だが、その視線の多くはダリアへ向かった。
褐色肌の女。
赤い服。
ギルの後ろを歩く。
噂になるだろうな。
ギルは内心で少し顔をしかめた。
まあ、どうせ隠せない。なら早い方がいい。変にこそこそすれば、余計に面倒な形で広がる。堂々としていればいい。堂々としていれば、周囲は勝手に意味を考える。
その意味が正しいとは限らないが。
廊下の角を曲がったところで、上層部に属する文官の一人と出くわした。中年の男で、ギルの顔を見るなり足を止め、きちんと礼を取る。視線が一瞬だけダリアへ動いたが、すぐに戻った。
こういうところはさすがだ。
驚いても顔に出しすぎない。
「若様、お戻りでございましたか」
「ああ。父上へ報告したい事がある。ご予定はどうなっている?」
「旦那様に確認のうえ、お迎えにあがります」
「うむ、頼むぞ」
「かしこまりました」
文官は再び礼をして下がった。
去っていく背中を見ながら、ギルは内心でため息をつく。
報告されるな。
間違いなく報告される。
若様が戻られました。セバスチャン殿も同行しております。帝国風の褐色肌の女を連れておられます。赤い服です。かなり目立ちます。そんな感じで、父上の耳に入るだろう。
いや、変に引き延ばすよりはましだ。
父上にはどうせ報告する。隠せない。隠す意味もない。ただ、最初に自分の口で言えるかどうかの違いはある。先に文官から聞かれるのは少し嫌だが、避けようがない。
ギルは足を進めた。
自室へ向かう廊下が近づくにつれ、腹の奥が重くなる。
大丈夫。
レティシアなら怒らない。
たぶん。
土産もある。
緑茶がある。豆の調味料もある。いや、それは俺の趣味だな。服がある。木匙もある。精巧な模様が彫られた小物は、たぶん喜ぶ。喜ぶはずだ。ダリアは有能だし、レティシアならうまく扱ってくれる。
大丈夫だよな。
たぶん。
「若様」
セバスチャンが横から言った。
「何だ」
「顔が戦場より険しいですぜ」
「うるさい」
「帝国貴族よりレティシア嬢の方が怖いって顔でさぁ」
「していない」
「本当に?」
「少しだけだ」
「してるじゃねえですか」
ギルは返事をしなかった。
自室の扉が見えた。
辺境伯家の三男であるギルの私室は、一部屋だけではない。来客を通す応接間、書類や作業に使う仕事場、そして寝室。三つの部屋が繋がっている。そこへ戻るのは、帝国へ向かう前以来だった。
扉の前に立つと、胸が妙に鳴った。
ギルは取っ手に手をかけた。
開ける。
応接間の中は整っていた。
窓から入る光が、磨かれた卓の端を照らしている。椅子の位置、置かれた茶器、壁際の飾り棚。どれも出発前と変わらないように見える。いや、変わらないように整えられているのだ。
その中央で、レティシアが静かに礼を取った。
「お帰りなさいませ」
柔らかい声だった。
その声を聞いた瞬間、ギルの中で何かがほどけた。
ああ。
これだ。
帰ってきた。
「ああ、今帰ったぞ」
言いながら、ギルはレティシアへ歩み寄った。
彼女が顔を上げる前に、抱きしめる。
レティシアの体が少し強張った。無理もない。ここにはセバスチャンもいるし、ダリアもいる。使用人としては、人前で主人に抱きしめられるのは困るだろう。
だが、ギルは離さなかった。
レティシアはほんの少しだけ身じろぎし、それから諦めたように力を抜いた。
「若様……皆様が」
「少しだけだ」
「少しでございますか」
「ああ」
ギルは満足した。
腕の中の感触が懐かしい。旅の間、何度も思い出した柔らかさと温かさが、今は現実にある。服越しでも分かる胸の感触に、内心で深く頷く。
うん、これ。
これだよ。
やはりレティシアは素晴らしい。
そのままずっと抱きしめていたかったが、さすがに背後の視線が痛い。特にセバスチャンのにやにや顔が気配だけで分かる。ギルは名残惜しさを押し殺し、少しだけ体を離した。
レティシアの頬はほんのり赤い。
だが、表情はすぐに整った。
さすがだ。
その目が、ギルの後ろへ向かう。
「あの、若様」
来た。
ギルの背筋が少し伸びた。
「そちらの方は?」
ギルは一瞬だけ言葉を探した。
いくら馬上で考えても、いざ聞かれると全部飛ぶ。
「うむ」
ギルは頷いた。
「ダリアだ」
短い。
短すぎる。
自分でも思った。
だが、出てきた言葉はそれだけだった。
「ダリア、彼女がレティシアだ」
ダリアはすぐに姿勢を正した。赤い服のせいで動きがやけに映える。彼女は深く礼を取った。
「初めまして、ダリアと申します。レティシア様のお噂は、かねがね伺っております」
「初めまして。レティシアと申します」
レティシアの礼は静かで美しい。
声も乱れていない。
その後、レティシアはちらりとギルを見た。
静かな視線だった。
責めているわけではない。少なくとも表情からはそう見えない。だが、その静けさが逆に怖い。
「あ〜」
ギルは少し視線を泳がせた。
「ダリアには色々世話になってな」
「左様でございますか」
「うむ。有能だし、知っていることも多い。あと、まあ、気に入ったから連れてきた」
言った瞬間、セバスチャンが後ろで肩を震わせた気配がした。
ダリアは俯いた。
ギルは自分の説明がひどいことに気づいたが、もう遅い。
「気に入った、でございますか」
レティシアの声は変わらない。
変わらないから怖い。
「うむ。いや、もちろんそれだけではないぞ。帝国で色々あってだな」
帝国で暴れたことは言わない方がいいか。
いや、どうせ後で話すのか。
でも今ここで、屋敷を焼いたとか帝都に攻撃魔法を撃ったとか言うのは違う気がする。ダリアの前でもある。セバスチャンは面白がっている。レティシアは静かに見ている。
どうする。
ギルは咄嗟に荷へ手を伸ばした。
「そ、そうだ。これは土産だ」
セバスチャンが持っていた包みを、ほとんど奪うように取る。
レティシアへ差し出すと、彼女は少し目を瞬かせた。
「わたくしに、でございますか」
「ああ。帝国で手に入れた。茶と、調味料と、あと服もある。木匙もあるぞ。模様が細かくてなかなか良い」
「まぁ」
レティシアは両手で包みを受け取った。
「わざわざありがとうございます」
微笑んだ。
怒っていない。
いや、怒っていないように見える。
怒っているのか?
分からない。
ギルはレティシアの顔をちらちら見た。彼女の表情は柔らかい。声もいつも通り。だが、いつも通りすぎる気もする。これは平気なのか。平気なふりなのか。
女は難しい。
ギルは心の底からそう思った。
「レティシア」
「はい」
「急ですまんが、ダリアの部屋を用意してくれ」
「かしこまりました」
即答だった。
あまりにも滑らかだったので、ギルは逆に不安になった。
「その、しばらく俺の近くに置くことになる。扱いは後で決めるが、雑にはするな」
「承知いたしました」
「あと、城内の者に余計なことを言われないように」
「はい。必要な範囲で手配いたします」
頼もしい。
頼もしいのだが、機嫌が分からない。
ダリアは少し緊張したまま立っている。レティシアは彼女へ向き直り、穏やかに声をかけた。
「ダリア様、お疲れでしょう。まずはお部屋を整えますので、しばらくこちらでお休みください」
「いえ、様などおやめください。私は平民でございます」
「若様がお連れになった方ですので」
ダリアが一瞬、困ったようにギルを見た。
ギルは何も言えなかった。
レティシアの言い方は正しい。正しいが、距離の置き方が絶妙で、少し怖い。丁寧だが親しいわけではない。受け入れているようで、線は引いている。
やっぱり怒っているのか?
いや、当然の対応か?
分からん。
その時、扉が叩かれた。
ギルは救われたような、逃げ場を失ったような気分になった。
「入れ」
扉の向こうからメイドの声がした。
「若様、旦那様がお呼びでございます」
来た。
父上だ。
早い。
文官が報告したのだろう。あるいは、ギルの帰還自体は城門を通った時点で伝わっていたのかもしれない。どちらにせよ、先延ばしはできない。
「うむ、すぐに行く」
ギルは答え、レティシアへ向き直った。
「では、ダリアを頼む」
「はい」
「土産も後で見てくれ」
「楽しみにしております」
その声は柔らかかった。
柔らかすぎて、やはり分からない。
ギルはセバスチャンを連れて部屋を出た。扉が閉まる直前、ダリアとレティシアが向かい合っているのが見えた。褐色肌に赤い服の女と、静かな美しさを保つ専属メイド。
あれを二人きりにして大丈夫だろうか。
大丈夫だ。
レティシアなら大丈夫。
たぶん。
廊下へ出ると、セバスチャンがすぐに笑った。
「若様」
「何だ」
「ひどい説明でしたな」
「言うな」
「気に入ったから連れてきた、はなかなかですぜ」
「言うなと言っている」
「ダリアも俯いてやした」
「分かっている」
ギルは歩きながら額を押さえたくなった。
もっと上手く説明できるはずだった。馬上では考えていたのだ。アバルディア家へ戻すには危険で、情報保全のためにも必要で、有能だから手元に置く価値がある。そういう筋の通った説明をする予定だった。
なのに、出てきた言葉は「気に入った」だった。
事実ではある。
あるが、順番が悪い。
「あれ、怒ってなかったよな」
ギルは小声で言った。
セバスチャンが隣で首を傾げる。
「さぁ、女は複雑ですからな」
「お前、分かっていて言っているだろ」
「分かりやせんよ。あっしはただのじじいですんで」
「嘘をつけ」
セバスチャンは答えず、にやにやしている。
ギルは廊下の先を見た。
父上が待っている。
帝国での報告。アバルディア家とザザント家のこと。メガレア家の動き。腐銀。帝都への攻撃。ダリア。掠奪品。全部を整理して話さなければならない。
やることは多い。
だが、ギルの頭の片隅では、まだレティシアの静かな微笑みが消えなかった。
怒っていなかった。
たぶん。
たぶん、怒っていなかったはずだ。
そう思いながら、ギルは父ガルシアのもとへ向かった。