軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十九話 大河のロマン

アバルディア家の船は、川霧の向こうから現れた時、ギルが想像していた船よりもずっと重そうに見えた。

朝の大河は白く霞んでいる。夜の冷えを抱えた水面から薄い霧が立ちのぼり、岸辺の草や古びた杭、船着き場に積まれた木箱の輪郭を柔らかくぼかしていた。水の匂いは濃く、湿った土と藻の青臭さが混じり、そこに馬の息や人の足音、縄が擦れる乾いた音が重なる。王国側の岸から見ていた時も大きな河だと思ったが、いざ船が寄ってくると、その広さよりも流れの重さの方が身に迫った。

船は、海を渡る帆船のような優雅さはない。けれど、厚い木材を重ねた船腹は頑丈で、低く広い甲板には馬車や荷を載せるための場所が設けられている。川を横切るための船というより、大河そのものと日々押し合いながら生きてきた道具だった。船頭たちは平民だが、足取りは揺れる板の上でもまったく乱れず、縄を引く手や竿を扱う肩の動きには無駄がない。

ギルは岸辺に立ったまま、その船を眺めた。

数日待った。

その間、腐銀の話が頭から完全に消えることはなかった。アバルディア家の男子たちが魔法を使えなくなり、魔力を失って死んでいったというエレオノーラ殿の言葉は、夜の焚き火の匂いと一緒に腹の底へ沈んでいる。治癒魔法を使えば使うほど悪化したという話も、ひどく嫌な形で記憶に残っていた。

ただ、考え続けたところで答えは出なかった。

これまで、貴族で同じように死んだ者の話をほとんど聞いたことがない。少なくともマバール家の周辺では、そんな死に方は語られていない。なら腐銀が実在するとしても、貴族社会で広く使われるような毒ではないはずだ。作るのが難しいのか、材料が特殊なのか、使い方が限られるのか、それともアバルディア家に特有の事情が重なっているのかは分からない。

分からないものを船の上で悩んでも仕方ない。

調べる。

それは決めた。

だが、今この瞬間に頭を占領させる必要はない。

ギルはそう切り替え、赤布の位置を指で直した。顔を隠す布はもう肌に馴染み始めている。最初は山賊ごっこの小道具のようだったが、今ではそれがない方が落ち着かない気さえした。もちろん、城に戻ればこんな布など外す。俺は上品な貴族男子であり、山賊ではない。少なくとも公式には。

船が岸へ近づくと、船頭の一人が太い縄を投げた。岸で待っていた者がそれを杭へ掛け、低い声で合図を返す。船体が流れに押されながら斜めに寄り、やがて岸へ腹を擦るようにして止まった。木が水を押す重い音がした。馬たちが鼻を鳴らし、エレオノーラ殿の護衛が馬車の周囲を固める。

船内では距離が取れない。

それが最初から分かっているせいか、アバルディア家の者たちはいつもより緊張していた。陸上なら、馬車と俺たちの十騎は適度な距離を保てる。近すぎず、離れすぎず、互いに見えるが同行していると断言しにくい距離。だが船の上では、馬車も馬も人も一つの甲板に乗るしかない。声を潜めても気配は近く、視線を外しても相手の呼吸は聞こえる。

エレオノーラ殿は、馬車のそばに立っていた。

川霧の中でも姿勢は崩れない。衣装は旅装だが、アバルディア家の使者としての整え方を失っておらず、金髪は動きやすいようまとめられている。目元には疲れが残っているように見えた。昨日までの待機の間、彼女が十分に眠れたとは思えない。腐銀の話を思い出していたのか、アバルディア家の男子たちの死を考えていたのか、あるいはこの先のことを考えていたのかは分からない。

他人の内心は分からない。

だが、平気ではなさそうだ。

ギルはそれ以上見ないようにして、船に掛けられた厚い板へ足を向けた。

先にセバスチャンが渡る。年寄りのくせに、揺れる板の上でも歩き方がまったく変わらない。赤布の上からでも分かる凶悪な顔で船頭たちを見回し、何も言わずに甲板へ上がった。オルド、ジノ、他の直属騎士たちが続く。全員、粗末な衣で顔を隠しているが、歩き方は騎士のそれだ。隠しきれないものはどうしてもある。

ギルも板を渡った。

足元の木がわずかにしなる。下では大河の水が動いている。ほんの数歩なのに、地面ではないという感覚があった。船に乗った瞬間、足裏から伝わる揺れが変わる。ゆっくり上下し、左右へわずかに流れ、体の芯が遅れて動くような妙な感じがした。

馬上とも違う。

馬車とも違う。

世界そのものが水の上に浮いている。

ギルは思わず足元を見た。

「若様、足元に気を取られてると転びやすぜ」

「転ばない」

「船の上でそういうやつほど転ぶんですぜ」

「お前は船にも慣れてるのか」

「慣れてるってほどじゃありやせんが、足場の悪いところで戦うことはありやすからな」

「なるほど」

セバスチャンは戦場基準で物を言う。

まあ、このクソじじいらしい。

ギルは甲板の端へ寄り、水面を覗き込んだ。船腹に当たる水は岸から見ていた時よりも近く、生々しい。濁った水が木にぶつかり、泡を作ってはすぐに流されていく。水面は茶と緑と黒が混じった色で、底などまったく見えない。深さが分からないものは、それだけで何かを隠しているように見える。

いい。

実にいい。

でかい河にはロマンがある。

ギルは胸の奥が少し浮き立つのを感じた。

前の人生で、巨大な湖に未確認の生物がいるという話を見たことがある。ネッシーだったか、何だったか。映像は怪しかった。写真も怪しかった。専門家が否定したとか、実は流木だったとか、そんな話も聞いた気がする。それでも、巨大な水場に何か巨大な生き物がいるかもしれないというだけで、妙に胸が躍ったものだ。

この世界では、前世よりずっと現実味がある。

魔物がいる。

迷宮がある。

強大な貴族なら一人で小規模な集落を焼き払えるほどの魔法を使う。

なら、大河の底に巨大な何かがいてもおかしくない。

いや、少なくとも「いてほしい」と思えるだけの説得力はある。

船頭たちが縄を解き、船が岸を離れ始めた。最初はほとんど止まっているように見える。だが、岸の草が少しずつ遠ざかり、杭の列が斜めにずれ、船体を押す水音が増える。馬が不安そうに鼻を鳴らし、騎士が首筋を撫でて落ち着かせる。馬車の車輪には固定が施され、荷も縄で押さえられていた。

船の中央付近にエレオノーラ殿の馬車が置かれ、その周囲を護衛が守る。俺たちは少し離れた甲板の端側に集まっていた。だが、少し離れたと言っても船内である。陸のような距離はない。こちらの会話は、聞こえないふりをしても聞こえるだろうし、向こうの動きも自然と目に入る。

ギルは手すりに片手を置いた。

腐銀のことは一時忘れる。

今は大河だ。

この広くて深い水を見ながら、頭の中まで腐った銀でいっぱいにしておくのはもったいない。調べるべきことは調べる。警戒すべきことは警戒する。だが、ずっと緊張し続ければ疲れる。疲れれば判断が鈍る。なら、切り替えることも必要だ。

「なんかでかい河ってロマンがあるよな」

ギルが呟くと、隣のセバスチャンが微妙な声を出した。

「はぁ、ロマンですかい」

「あるだろ。でかい水場だぞ。何がいるか分からないんだぞ」

「魚はいるでしょうな」

「魚だけじゃなくて、もっとこう、巨大なやつとか」

「巨大なやつがいたら船ごと沈みやすぜ」

「そこは攻撃魔法で何とかする」

「若様が何とかしようとする前に、あっしらは岸に戻りたいですな」

「薄情だな」

「命は大事で」

セバスチャンは真顔だった。

いや、赤布で口元は隠れているが、目が真顔だ。

ギルは少し不満に思った。ロマンが分からない男だ。いや、セバスチャンは戦場や武功に関しては妙なロマンを持っていそうだが、河に巨大生物を期待するような方向のロマンはないのだろう。

船は大河へ出ていく。

岸が離れるにつれて、足元の揺れが少し変わった。流れが強い場所へ入ったのかもしれない。船頭たちが竿を動かす角度を変え、舵を取る者が低い声で合図を出す。船はまっすぐ対岸へ向かっているようで、実際には斜めに流されながら進んでいる。大河を渡るには、大河に逆らうのではなく、流れを計算して利用する必要があるのだろう。

ギルはその動きをじっと見た。

魔力はない。

魔法も使わない。

だが、技術はある。

平民だからといって何もできないわけではない。この船を操ることに関しては、俺より船頭たちの方が遥かに上だ。仮に俺が全力で肉体強化魔法を使ったところで、こんな船を安全に渡せる気はしない。専門家は大事だ。前世でもこの世界でも、そこは変わらない。

船の上は、思ったよりも音が多かった。

水が船腹を打つ音。

縄が軋む音。

馬が足を踏み替える音。

船頭が竿を甲板へ置く音。

誰かの衣が風に鳴る音。

そして、ときおり、近すぎる沈黙。

エレオノーラ殿は、こちらの会話を聞いているのかいないのか、顔を水面へ向けていた。昨日の夜ほど青ざめてはいない。けれど、どこか思考を遠くへ置いているようにも見える。大河を渡れば、アバルディア家の中枢に近づく。彼女にとっては、帰還でもあり、次の危険へ進むことでもあるはずだ。

ギルは少しだけ視線を外した。

今は触れない。

腐銀の話も、アバルディア家男子の死も、船の上で蒸し返すことではない。閉じた場所で人の傷を開く趣味はないし、護衛たちもいる。何より、俺自身もまだ整理できていない。

代わりに、大河の底を想像する。

この濁った水の下に、岩があるのか、泥が積もっているのか、巨大な魚がいるのか、水草が揺れているのか。感知魔法を使っても分からない。感知魔法で拾えるのは魔力だけだ。水の流れや魚や岩は見えない。魔力を持つ何かが潜んでいれば反応するかもしれないが、魔力のない生き物や物体は感知できない。

万能ではない。

だからこそ想像する余地がある。

ギルはぼんやりと迷宮のことを考え始めた。

この世界の迷宮は、いまだによく分からない存在だ。内部には魔物がいて、資源があって、貴族が管理する。アル兄さんが担当している迷宮も、マバール家にとって重要な場所だ。迷宮があるから資源が取れる。魔物がいるから騎士が鍛えられる。だが、迷宮は放置すれば危険になる。

魔物は増える。

増えすぎれば溢れる。

貴族たちは定期的に迷宮へ入り、魔物を狩って数を調整する。それは趣味でも訓練でもなく、領地を守るための責務だ。迷宮から魔物が溢れれば、最初に被害を受けるのは周辺の平民だ。畑を荒らされ、家畜を食われ、道を塞がれ、人が死ぬ。そうなれば税も兵も減り、領地全体が弱る。

だから迷宮管理は、貴族の仕事として重い。

戦争中でも、迷宮から魔物が溢れれば停戦して掃討することがあるという。最初に聞いた時は少し驚いたが、考えてみれば当然かもしれない。人間同士で争っている間に魔物が増え、双方の領地を荒らせば勝者も敗者もない。魔物は交渉しない。条約も守らない。略奪した物資を持ち帰るわけでもない。ただ荒らす。

大昔には、その不文律がなかった時期もあったらしい。

敵領に魔物が溢れるなら放っておけ、と考えた貴族がいたのかもしれない。あるいは、戦争に夢中で迷宮管理を怠ったのかもしれない。そうして地上に魔物が闊歩し、街道が途絶え、村が消え、領地そのものが荒れた。そういう痛い目を見たから、今では魔物に関しては人類共通の敵として扱われる。

この世界の貴族は、平民を支配する。

戦争もする。

敵を殺し、奪う。

だが、同時に魔物を討つ責務を負う。

そこを忘れると、貴族の存在理由が崩れるのだろう。

迷宮は魔物を掃き出す魔境だ。

しかし、魔物を掃き出さなくなった迷宮にも注意が必要だと聞いたことがある。普通なら魔物が出る迷宮が急に静かになる。資源の出方が変わる。奥へ入っても魔物が少ない。そういう状態になった迷宮は、老いて死にかけていることが多いらしい。

迷宮が老いる。

迷宮が死ぬ。

前世の感覚では意味が分からないが、この世界ではそういうものなのだろう。

ただ静かに死んでくれればいい。

だが、死にかけた迷宮は最後に自分の分身のような魔物を生み出すのだ。

最終魔獣。

その魔物は迷宮そのものを崩して地上へ現れる。迷宮内の通常の魔物とは比べものにならないほど巨大で、強大で、騎士ではほとんど太刀打ちできない。だから貴族が相手をする。強い魔力を持つ貴族が、攻撃魔法で削り、防御魔法で受け、肉体強化魔法で動き、感知魔法で魔力の動きを追い、必要なら治癒魔法で味方を繋ぎ止める。

ただ、最終魔獣は倒せば終わりというものでもない。

倒れた場所から、新しい迷宮が生まれる。

そこが厄介だ。

迷宮は危険であり、同時に資源だ。領地の近くに管理しやすい迷宮があれば、家の力になる。素材も取れる。騎士も鍛えられる。周辺に人が集まり、道が整い、金が流れる。だが、場所が悪ければ管理は難しくなる。山奥や湿地、領境ぎりぎり、街道から遠すぎる場所に新しい迷宮ができれば、利益より負担が大きくなるかもしれない。

だから貴族は、最終魔獣をできるだけ有利な場所で倒したがる。

だが、それを狙いすぎると失敗する。

最終魔獣は強い。誘導している間に村や街を踏み潰されれば意味がない。被害を抑えるために早く倒せば、不便な場所に迷宮が生まれ、最終魔獣に怯えて慌てたと笑われる。逆に欲を出して良い場所へ動かそうとしている間に他領へ移動され、隣の貴族が倒せば、新しい迷宮はそちらに生まれる。被害だけ受けて利益を逃した馬鹿貴族として笑われるだろう。

さらに、新しい迷宮の性質はランダムだという。

せっかく便利な場所で倒しても、出る資源が微妙かもしれない。魔物ばかり強くて利益が少ない迷宮かもしれない。逆に不便な場所にできた迷宮が珍しい資源を生む可能性もある。だからといって場所を考えないわけにはいかない。

貴族は面倒くさい。

魔物を倒すだけならまだ分かりやすいのに、倒す場所で笑われ、倒す時期で笑われ、欲を出して笑われ、怯えても笑われる。俺だったらどうするだろうか。たぶん、セバスチャンに怒られながらも良い場所を狙う気がする。せっかく新しい迷宮が生まれるなら、使いやすい場所がいい。俺はお気楽に生きたいのであって、面倒な山奥の迷宮管理に振り回されたいわけではない。

アル兄さんは、こういうことを真面目に考えているのだろう。

魔力はやや弱い。

それでも迷宮担当として優秀だ。

自分にできないことを理解し、できることを積み上げる。父上が言っていた通り、アル兄さんの強さはそこにある。俺のように規格外の魔力で押し切るのとは違う、別の優秀さだ。尊敬しているという言葉は、こういう時に自然と腹に落ちる。

ギルは水面を見た。

この大河にも、迷宮に関わる何かがあったりするのだろうか。

河底に沈んだ古い迷宮。

水に沈んだ魔物。

巨大な魚のような最終魔獣。

いや、さすがに想像が飛びすぎか。

しかし、この世界なら完全には否定できない気がする。

それが良くない。

前世なら「そんなわけない」で終わる話が、この世界では「あるかもしれない」になる。魔法も魔物も迷宮もあるのだから、巨大な河に何かがいてもおかしくない。そう考えると、確かめたくなる。人として、男として、異世界転生者として、そして強大な魔力を持つ貴族男子として。

「うーん」

ギルは水面を覗き込みながら言った。

「この河に攻撃魔法を撃ち込んでみないか?」

甲板の空気が止まった。

セバスチャンが横でこちらを見た。

オルドとジノが固まった。

他の直属騎士たちも、聞き間違いであってほしいという顔をした。

エレオノーラ殿の護衛たちは、こちらを見た後で自分たちの足元を見た。船に乗っていることを改めて確認したのだろう。船頭の一人は竿を持つ手を止めかけ、隣の船頭に肘で小突かれて我に返った。エレオノーラ殿は、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。

ギルは続けた。

「なんか、潜んでるかもしれんし。最低でも魚は取れるぞ」

「絶対にやめてくださいよ、若様」

セバスチャンの声は早かった。

軽口ではない。

かなり本気である。

「若様が全力で攻撃魔法なんて撃ったら、こんな船あっという間に沈みますぜ」

「全力とは言ってないだろ」

「若様の軽くが信用できねえんですよ」

「失礼な。俺は繊細な魔力操作ができるんだぞ」

「繊細に船底を抜く気ですかい」

「抜かない」

「水柱を立てて船をひっくり返す方ですか」

「ひっくり返さない」

「なら撃たないのが一番で」

セバスチャンは実に腹立たしいほど正論だった。

ギルは不満を込めて水面を見た。確かに船の上から撃つのは危ない。大河の水量を考えると、攻撃魔法をどう入れるかにもよるが、反動というか、水の跳ね返りというか、とにかく何が起きるか分からない。ギルの攻撃魔法は、焼き払うようにも、貫くようにも使える。水面を広く叩けば大きな水柱が上がるだろうし、一点を貫くように撃てば深くまで届くかもしれない。

それが見たい。

かなり見たい。

だが、船が沈むのは困る。

「じゃあ、上陸してからにするか」

「いえ、やめてくださいって言ってるんですよ」

「上陸してからなら船は沈まないだろ」

「大河の岸が吹き飛んだらどうするんです」

「吹き飛ばさない程度に」

「その程度が信用できねえって話をしてるんですぜ」

ギルはむっとした。

セバスチャンは俺をよく分かっているからこそ疑っている。そこが余計に腹立たしい。確かに、俺はちょっと試すだけのつもりで思ったより大きな結果を出すことがある。いや、いつもではない。たぶん。だが、攻撃魔法に関しては魔力強度が高すぎるので、調整を誤ると洒落にならないのも事実だ。

エレオノーラ殿が一歩近づきかけ、それから逆に半歩離れた。

船内なので大きく距離は取れないが、明らかに警戒している。

「えーっと、この大河は多くの領民にとって大事なのですよね」

エレオノーラ殿の言葉にこっそり頷く。

大河が重要なのは分かる。

水運、漁、農地、商い、街の発展、税。全部に関わる。ここへ攻撃魔法を撃ち込むのは、前世で言うなら重要インフラに爆発物を投げるようなものかもしれない。いや、爆発物ではない。攻撃魔法だ。とにかく、良くないのは分かる。

「この河は、周辺の街や村にとって欠かせないものです。船も多く通りますし、漁をする者もおります。岸を崩せば水の流れも変わりますし、魚が大量に死ねば下流にも影響が出るかもしれません」

「なるほど」

「ですから、どうか攻撃魔法は」

「一発ぐらいなら」

「ダメです!」

声が重なった。

セバスチャンだけではなかった。

オルドもジノも、他の直属騎士たちも、アバルディア家の護衛たちも、随行者も、船頭たちも、そしてエレオノーラ殿までもが、ほぼ同時に声を上げた。言葉は完全には揃っていなかったかもしれない。おやめください、沈みます、危険です、勘弁してください、という声も混じっていた気がする。それでもギルの耳には、まとめて一つの巨大な否定として響いた。

ギルは思わず瞬きをした。

船の上の全員がこちらを見ている。

馬まで不安そうに鼻を鳴らした。

「……なんか全員の声が重なったな」

「そりゃあ重なりやすよ」

セバスチャンは疲れた声を出した。

「今のは重ならない方がおかしいですぜ」

「ちょっと試したいだけなのに」

「若様のちょっとで大河を試される側の身にもなってくだせえ」

「俺はちゃんと加減できるぞ」

「加減できるかどうかじゃなく、やる必要がねえって話です」

オルドが何度も頷いている。

ジノも頷いている。

アバルディア家の護衛まで頷いていた。

エレオノーラ殿も、礼を守った顔でありながら、目だけは完全に同意していた。

ギルは肩をすくめた。

「分かった。やらない」

船頭たちが明らかに安堵した。

エレオノーラ殿も小さく息を吐いた。

セバスチャンはまだ疑っている目をしている。

「本当にやりませんな」

「やらないと言っただろ」

「若様は考えるだけなら自由とか言って、後で妙なことをする時がありやすからな」

「考えるだけなら自由だろ」

「やっぱり考えてるじゃねえですか」

「考えるだけだ」

ギルは水面から目を離さない。

撃たない。

撃たないが、考えるだけなら問題ない。

たとえば、攻撃魔法を水面へ広く叩き込めば、焼き払うような運用とは違い、水を押し広げるような形になるのだろうか。いや、攻撃魔法は破壊の魔法だ。水を操る魔法ではない。なら、水面そのものを破壊するというより、水中に衝撃を与える形になるのか。水は固体ではないから、貫くように一点へ集中した方が深く届くかもしれない。

だが、水の抵抗は強そうだ。

前世で銃弾は水中だとすぐ止まるとか聞いたことがある。たぶん。なら、攻撃魔法も水中では減衰するのか。それとも魔力による破壊だから、水の中でも関係なく進むのか。これは試さないと分からない。いや、試さない。試さないが、気になる。

魚は浮くのか。

巨大な何かは出てくるのか。

考えるだけで楽しい。

「若様」

セバスチャンが低い声を出した。

「なんだ」

「今、またろくでもねえこと考えてやせんか」

「考えてない」

「本当ですかい」

「少しだけだ」

「やっぱり考えてるじゃねえですか」

ギルは答えず、対岸の方へ視線を向けた。

霧が薄れ、向こう岸の輪郭がはっきりしてきている。木々が並び、その奥に低い丘のような地形が見える。船は流れに押されながらも着実に進んでいた。船頭たちの技術は確かだ。ギルが余計なことをしなければ、何事もなく渡れるだろう。

余計なこと。

ギルは少しだけ不満になった。

ロマンを求める心が余計なこと扱いされるのは納得しがたい。

「チッ、ロマンの分からんやつらだ」

「ロマンで船を沈められたらたまりやせん」

「沈めない程度にやるつもりだった」

「その程度が分からねえから全員で止めたんでしょうが」

「俺の攻撃魔法は繊細だぞ」

「繊細に大惨事を起こすかもしれねえでしょう」

セバスチャンは本当に容赦がない。

ギルは不満そうにしながらも、内心では少し笑っていた。重かった空気が、少しだけ緩んでいる。昨日の腐銀の話以降、エレオノーラ殿の周囲には暗いものが残っていた。護衛たちも、彼女の様子を気にしていた。俺たちも、どこまで踏み込むべきか測りかねていた。

だが今は、全員で俺を止めた。

それはそれでどうかと思うが、少なくとも全員の意識が同じ方向へ向いた。俺が危険な好奇心を出し、皆がそれを止める。実に分かりやすい。エレオノーラ殿も、さっきより少しだけ顔色が戻ったように見える。呆れたのかもしれない。警戒したのかもしれない。だが、腐銀だけを見つめているよりはましだ。

船内の距離は近い。

だからこそ、こういう空気の変化も近くで伝わる。

エレオノーラ殿はしばらくギルを見ていたが、やがて小さく口を開いた。

「若様は、本当に大河に何かがいるとお考えなのですか」

「いてほしいとは思っている」

「いてほしい、でございますか」

「ああ。でかい水場には、何か巨大なものがいてほしいだろ」

エレオノーラ殿は少し困った顔をした。

「その感覚は、少し分かりかねます」

「分からないか」

「大河は、我々にとって生活と商いの道でございます。恵みでもありますが、氾濫すれば恐ろしくもあります。そこに巨大な何かがいてほしいとは、あまり」

「なるほど」

それはそうだ。

彼女にとって大河はロマンの対象ではなく、領地や民と結びつく現実なのだろう。水運、税、街、漁、農地、領民の暮らし。そこに巨大な魔物がいてほしいと言われたら、困るに決まっている。

ギルは少し考えてから言った。

「前に、迷宮の最終魔獣の話を聞いたことがある」

エレオノーラ殿の目が少し動いた。

セバスチャンもこちらを見た。

「老いて死にかけた迷宮が、最後に自分の分身のような魔物を生む。その魔物が倒れた場所に新しい迷宮が生まれる。だから貴族は倒す場所にも悩む。そういう話だ」

「はい。帝国でも同様に伝わっております」

「ただ倒せばいいわけじゃないというのが、いかにも貴族らしくて面倒だと思ってな」

エレオノーラ殿は少しだけ視線を伏せた。

「場所を誤れば、領地の運命が変わります。最終魔獣を恐れて早く倒しすぎれば不便な場所に迷宮が生まれ、欲を出して誘導に失敗すれば被害が広がる。新しい迷宮が他領に生まれれば、それもまた大きな損失になります」

「だよなぁ」

「ただ、狙いすぎることを戒める話として語られることもございます。最終魔獣は迷宮の最後の暴威です。利益を考えるあまり民を失えば、そもそも貴族としての責務を果たしておりません」

ギルは少し驚いた。

エレオノーラ殿の声は静かだったが、そこにはアバルディア家の貴族としての芯があった。帝国の内乱、皇位争い、腐銀の影。そういうものに追い詰められていても、彼女の中には領地や民を守る者としての感覚が残っている。

それは、悪くない。

「耳が痛いな」

「若様が最終魔獣を大河へ誘導しようとなさっているなら、全力でお止めいたします」

「そんなことはしない」

「では攻撃魔法も」

「撃たないと言っただろ」

「念のためでございます」

セバスチャンがまた笑った。

ギルは軽く睨む。

「笑うな、クソじじい」

「いやいや、若様が帝国のお嬢ちゃんにまで止められてるのが面白くて仕方ありやせん」

「誰のせいだと思ってる」

「若様のせいでしょうな」

「くっ」

否定できない。

船はさらに進む。

河の中央付近に差しかかったのか、流れが少し強くなった。船体がゆっくりと斜めに押され、船頭たちの声が鋭くなる。彼らは竿を入れる位置を変え、舵を取る男が腕に力を込める。水面は先ほどより荒く、細かな波が船腹に打ちつけて砕けていた。

ギルは自然と感知魔法を薄く広げた。

広くはない。

船の周囲と、対岸側に向けて少しだけ。

拾えるのは魔力だけだ。水の流れも、魚も、岩も、船体の下の深さも分からない。魔力を持つ貴族や騎士、あるいは魔力を持つ魔物が近づけば反応するかもしれないが、それ以外は感知できない。船上であまり広く展開し続ける必要もない。今は周囲の確認程度でいい。

反応は、船の上の騎士たちと俺たちだけ。

水中に巨大な魔力反応はない。

少し残念だ。

いや、残念がるところではない。出てきたら困る。

ギルはそう自分に言い聞かせた。

「何かいましたか」

エレオノーラ殿が小さく尋ねた。

ギルは彼女を見た。

「何か、とは」

「今、感知魔法を使われたように見えましたので」

「よく見ているな」

「ギルバート様ほどの魔力を完全に隠されると、逆に動きの違いが気になります」

「なるほど」

彼女は俺の魔力の大きさを知っている。

だから、抑えた時の違和感にも気づくのだろう。感知魔法そのものを見たわけではなく、俺の意識や体のわずかな変化を見ているのかもしれない。エレオノーラ殿も優秀だ。ただの使者ではない。

「水中には何も分からない。感知魔法で分かるのは魔力だけだ。魔力の反応は船の上の騎士たちと俺たちくらいだな」

「水中の魔物は」

「魔力があれば分かるかもしれないが、今のところそれらしいものはない」

「それは良かったです」

「少し残念でもある」

「ギルバート様」

「分かってる。良かったんだ」

エレオノーラ殿の視線が少し厳しくなる。

ギルは両手を軽く上げるようにした。

「撃たない」

「お願いいたします」

また全員がこちらを見ている気がした。

信用がない。

いや、信用されているからこそ警戒されているのかもしれない。俺ならやりかねない、という信頼。あまり嬉しくない信頼だ。

それでも、船の空気は少しずつ落ち着いていった。

最初は互いの距離の近さに緊張していた。エレオノーラ殿の一行も、俺たちも、船頭たちも、それぞれ別の理由で固かった。だが、俺が大河へ攻撃魔法を撃ち込みたいと言い出し、全員が止めたことで、緊張の形が少し変わった。馬鹿馬鹿しい危機を共有すると、人は少しだけ同じ場所に立つらしい。

もちろん、本当の危機は別にある。

腐銀。

メガレア家。

アバルディア家の男子たちの死。

帝国の内乱。

マバール家の立場。

それらが消えたわけではない。

だが、今は船の上で、大河を渡っている。

ギルは対岸へ目を向けた。

霧が晴れ、対岸の船着き場が見えてきた。王国側よりも少し石積みが整っているように見える。川岸には太い杭が何本も打たれ、荷を置くための平らな場所があり、その奥には道が伸びていた。道の先には木立があり、さらに奥に低い丘が重なっている。劇的に景色が変わるわけではないのに、あちら側は確かに帝国の内側だった。

大河は境目だ。

水が国境というわけではないのかもしれないが、心理的には境目に感じる。こちら側からあちら側へ渡ることで、もう一段深く帝国へ入る。マバール家の三男である俺が、公式には何者でもない形で、アバルディア家の船に人質を取った山賊として乗り、帝国の内側へ渡る。

意味が分からない。

だが、ここまで来た。

ギルは赤布の下で小さく息を吐いた。

「どうかなさいましたか」

エレオノーラ殿が聞いてきた。

「いや、大河を越えると、さすがに遠くまで来た感じがするなと思って」

「戻りたくなりましたか」

「少しだけな」

正直に答えると、エレオノーラ殿は意外そうに瞬きをした。

「ギルバート様でも、そのように思われるのですね」

「俺を何だと思ってるんだ」

「失礼いたしました。ただ、ギルバート様はいつも余裕がおありに見えますので」

「余裕があるように見せているだけだ。内心では、けっこう色々考えている」

「そうでございますか」

「そうだ。たとえば、この河に攻撃魔法を撃ち込めなかったことを今でも少し惜しんでいる」

「その余裕は捨ててくださいませ」

エレオノーラ殿の返しが早かった。

セバスチャンが笑う。

オルドとジノも今度は隠しきれずに笑った。

ギルは口を尖らせたくなったが、赤布で隠れているので誰にも見えない。少し損した気分だ。

船頭たちが着岸の準備に入る。

縄が用意され、竿が動き、舵が切られる。船は対岸の流れに合わせてゆっくりと向きを変えた。岸が近づくにつれて、水の音に木と石が混じる。船腹が軽く擦れ、低い振動が足元から伝わった。馬がまた不安そうに足を動かし、騎士たちが落ち着かせる。

ギルは手すりから離れた。

船を降りる準備をする。

この近すぎる空間も、もうすぐ終わる。陸に上がればまた距離を取れる。エレオノーラ殿の一行と、俺たち山賊もどき。互いに見えるが、直接の指揮関係はない距離へ戻る。だが、船の上で生まれた微妙な空気は、完全には消えないだろう。

エレオノーラ殿も、それを分かっているのかもしれない。

彼女は大河を一度振り返った後、こちらを見た。

「ギルバート様」

「なんだ」

「この先も、どうか大河には攻撃魔法を撃ち込まれませんように」

「まだ言うか」

「大事なことですので」

「分かった。撃たない」

「ありがとうございます」

「ただし、明らかに巨大な魔物が出たら撃つぞ」

「その場合は、むしろお願いいたします」

「そこはいいのか」

「はい。領民を守るためならば」

その言葉は自然だった。

エレオノーラ殿の声には、冗談ではない重みがある。大河に巨大な魔物など出てほしくない。だが、もし出たなら、貴族は戦う。騎士も戦う。平民を守るために魔法を使う。そこには迷いがない。

アバルディア家の女。

帝国の貴族。

使者。

そして領地を背負う者。

ギルは少しだけ彼女を見る目を改めた。

「その時は任せろ」

「はい」

「船が沈まない場所でな」

「そこもお願いいたします」

また少しだけ笑いが起きた。

船が岸に触れる。

縄が投げられ、杭へ掛けられ、船頭たちが声を掛け合う。厚い板が岸へ渡される。最初に船頭の一人が降り、足場を確認した。次にアバルディア家の護衛が動き、馬車を下ろす準備を始める。俺たちは邪魔にならない位置へ下がった。

ギルは最後にもう一度、水面を見た。

大河は変わらず流れている。

俺が攻撃魔法を撃ち込みたいと思ったことも、全員で止められたことも、そんなものには関係なく、ただ大きく、重く、静かに流れている。対岸へ渡った者も、これから渡る者も、昔渡った者も、これから流される者も、この河にとっては一瞬なのかもしれない。

ロマンがある。

やはりある。

ギルは心の中で頷いた。

撃てなかったのは残念だが、まあいい。大人だからな。俺は我慢できる男だ。たぶん。少なくとも、船の上で全員に止められたら我慢できる。

「若様」

セバスチャンが声をかける。

「なんだ」

「今、また何か考えてやせんか」

「考えてない」

「本当ですかい」

「少しだけだ」

「だから、それが信用ならねえんですぜ」

ギルは返事をせず、板へ足を向けた。

船の揺れが体に残っている。陸へ降りた瞬間、足元は安定したはずなのに、体の芯がまだ水の上にいるような感覚があった。軽く膝が浮くような、地面がわずかに遅れて揺れるような、不思議な感覚だ。

ギルは対岸の土を踏みしめた。

帝国側の岸。

大河の向こう。

ここからさらに進めば、アバルディア家の当主へ近づく。腐銀の謎へも近づく。帝国の奥へも近づく。危険は増えるだろう。面倒も増えるだろう。俺が望んでいるお気楽な三男坊の生活からは、また少し遠ざかるかもしれない。

だが、来た。

来てしまった。

なら進むしかない。

ギルは赤布を直し、船着き場の先に伸びる道を見た。草の匂い、濡れた土の匂い、河風の冷たさ。どれも王国側と大きく違うわけではない。それでも、ここはもう少し深い帝国だった。

背後では、アバルディア家の者たちが馬車を下ろし始めている。船頭たちは忙しく動き、護衛たちは周囲を警戒し、セバスチャンは腕を組んでそれを眺めていた。エレオノーラ殿は岸に降りる前に、もう一度大河を振り返っていた。

ギルも振り返る。

広い水面。

底の見えない流れ。

何かがいそうで、何も見えない大河。

やはり、でかい河にはロマンがある。

それだけは、全員に止められても譲る気はなかった。