軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十六話 赤い布

馬車の揺れは、マバール城を離れてからずっと一定だった。

整えられた街道の上を、車輪が鈍い音を立てて進んでいる。城下町の石畳を抜け、郊外の畑を過ぎ、低い木立と緩やかな丘が混じる道へ入っても、馬車の速度は大きく変わらなかった。前後左右にはアバルディア家の護衛が付き、荷を積んだ馬も続いている。使者の帰路としては、過剰ではなく、しかし軽すぎもしない編成だった。

その後方に、十騎がいた。

近すぎない。

遠すぎない。

護衛と呼ぶには距離があり、無関係と呼ぶには明らかに同じ道を選んでいる。馬車が速度を落とせば自然に間を詰め、馬車が進めば同じだけ離れる。声を張れば届くかもしれないが、普通に話せば聞こえない。その距離感が、今の関係をそのまま形にしているようだった。

エレオノーラは馬車の内側から、窓布をほんの少しだけ開けて後方を見ていた。

表向きには外の景色を眺めているだけだ。だが、実際にはギルバート・マバールの一行を観察している。さきほどの出会いから、彼らはその距離を保って進んでいた。勝手に帝国を見物する者たち。こちらは案内していない。指揮もしていない。ただ、道が重なっている。

そういう形になっている。

それは理解している。

だが、理解したからといって気にならないわけではなかった。

ギルは先頭寄りを進んでいる。横に並ぶのは、顔に深い傷を持つ老人だった。エレオノーラはその名を知らない。マバール城内で何度か見かけたが、正式に紹介されたわけではない。ただ、凶悪な面構えと、先ほどの遠慮のない笑い声は強烈に印象に残っていた。

そして、彼らは魔力を消していた。

エレオノーラは感知魔法を薄く広げる。

強く探ることはしない。露骨にやれば相手に気づかれる。そもそも、この距離で相手を探ること自体、本来なら無礼に近い。だが、今の状況で何も感じ取らずに進む方が危険だった。彼女は馬車の揺れに身を任せながら、外へ意識を広げ、周囲の魔力の流れを拾う。

アバルディア家の護衛たち。

周囲の小さな魔力の揺らぎ。

そして後方の十騎。

直属騎士と思われる者たちの魔力は、完全には消えていない。抑えてはいる。粗末な格好をしていても、感知魔法を使えば騎士だと分かる程度には魔力が滲んでいた。技術が低いというより、ここまで隠す訓練を徹底されていないのだろう。普通ならそれで十分だ。騎士が平民のような格好をしている時点で異常ではあるが、魔力を完全に隠せる騎士など多くはない。

だが、ギルとあの傷顔の老人は違った。

見えない。

いや、完全に消えているわけではない。そこに存在しているのは分かる。馬上の姿も見えている。だが、感知魔法にかかる魔力の重みがあまりにも薄い。特にギルはおかしかった。先ほど接近してきた時、彼の魔力は周囲から浮き上がるほど強大で濃かった。桁が違う。あの反応を一度でも感知すれば忘れられない。

その魔力が、今はほぼ消えている。

押し殺している、という表現では足りない。

巨大なものを布で覆ったのではない。湖そのものを地面の下へ沈めたような感覚だった。存在は確かにそこにあるのに、表面にはわずかな水気すら見せない。あれほどの魔力を、どうやってここまで薄くできるのか。

エレオノーラは窓布の隙間から、ギルの背を見る。

彼は馬上で、何でもないように手綱を握っていた。緊張しているようには見えない。だが、周囲を見ていないわけではない。顔は正面を向いているのに、時折わずかに肩や首の角度が変わる。道の左右、護衛の位置、前方の起伏、林の影、そういうものを自然に拾っているように見えた。

油断しているわけではない。

そう感じる。

だが、城内でのギルとも違う。

マバール城で彼と対面していた時、彼は貴族男子としての形を保っていた。言葉は柔らかく、礼を守り、曖昧な立場を使いながらも、相手に失礼にならない距離を選んでいた。若いのに、場をよく見ていた。

今のギルは、もっと軽い。

軽いのに、雑ではない。

その差がエレオノーラには不思議だった。

後方で、傷顔の老人が何かを言ったらしい。

ギルがそちらへ顔を向ける。

声は聞こえないが、老人の表情ははっきり見えた。凶悪な顔がさらに険しくなっている。怒っているのか、ただ不機嫌なのか、それとも普段からああなのかは分からない。だが、その視線の先にいるのは他の騎士たちだった。

エレオノーラは感知を少しだけ細める。

なるほど、と思った。

直属騎士たちの魔力が完全には消えていない。老人はそれを気にしているのだろう。騎士たちは十分抑えているはずだが、ギルと老人の水準から見ればまだ足りない。そう考えると、あの不機嫌そうな顔にも理由がある。

ギルが口を開いた。

今度は風向きのせいか、声が少しだけ届いた。

「落ち着け、クソじじい。ただでさえ凶悪な顔が悪化してるぞ」

エレオノーラは思わず窓布を持つ指に力を入れた。

クソじじい。

聞き間違いではない。

ギルバート・マバールが、あの老人にそう言った。

老人は怒鳴るでもなく、馬上で口元を歪めた。騎士たちの何人かは、聞こえなかったふりをしているように見える。どうやら、珍しいやり取りではないらしい。

エレオノーラは驚いた。

帝国にも、主従が親しい家はある。長く仕えた騎士が主に率直な意見を言うこともある。だが、貴族と騎士の距離はもっと明確だ。特に帝家に近い家であれば、言葉の線引きは重い。若い貴族男子が年長の騎士に悪態をつき、それを騎士が笑って受けるなど、少なくとも彼女の知る宮廷や帝都周辺の空気とは違う。

しかも、その軽口でギルの格が落ちているようには見えなかった。

騎士たちは彼を軽んじていない。

老人も、怒っているわけではない。

不思議な距離だった。

「あっ、そうだ」

ギルが急に声を上げた。

彼は馬の鞍袋へ手を伸ばし、ごそごそと中を探り始めた。馬上であまりにも自然にやっているので、護衛の一人が振り返る。エレオノーラも思わずそちらを見た。今度は何をするのか、という警戒よりも好奇心が勝ってしまった。

「若様、何しとるんで?」

傷顔の老人が尋ねる。

ギルは鞍袋から赤い布を取り出した。

「これだ、これ」

一見、何の変哲もない布だった。

鮮やかすぎない赤。旅道具としては少し目立つが、特別な紋章や刺繍があるわけではない。ただ、切りそろえられ、複数枚用意されているように見える。ギルはその一枚を広げると、当然のように口元へ巻いた。

「顔を見られると何かと厄介だからな。全員の分もレティシアに用意してもらったから、お前もつけろ」

レティシア。

あの美しいメイドの名だ。

エレオノーラはその名を聞いて、マバール城の応接室に控えていた彼女を思い出した。静かで、気配りが細やかで、ただの使用人とは思えないほど整った所作をしていた女。ギルの近くにいる時、彼女の位置は単なるメイド以上の意味を持っているように見えた。

傷顔の老人は布を受け取り、苦笑した。

「若様、これじゃ山賊ですぜ」

「いいな、それ」

ギルが即座に食いついた。

「よし、俺たちはこれからエレオノーラ殿一行をつけ狙う山賊たちってことにしよう」

エレオノーラは窓の内側で固まった。

山賊。

つけ狙う。

それを本人に聞こえるかもしれない距離で言うのか。

赤布を受け取った騎士たちは、苦笑しながらも口元を覆い始めた。老人も結局は赤い布を巻く。粗末な服装に赤い布。その姿は、確かに山賊に見えなくもない。いや、魔力を感知しなければ、かなり怪しい集団に見える。

ギルは満足そうだった。

赤い布を巻いた自分たちを見回し、少し得意げにしている。エレオノーラには理由が分からない。顔を隠すのは理解できる。だが、なぜ赤なのか、なぜそんなに満足そうなのかは分からない。

「つけ狙う山賊なら、とっくに襲ってるんじゃないですか?」

老人が言う。

「いいんだよ。エレオノーラ殿一行が手強くて機会を窺ってるんだから」

ギルは普通に返した。

その言葉を聞いて、エレオノーラの護衛の一人が微妙な顔をした。たぶん聞こえたのだろう。だが、誰も反応しない。反応したら負けだとでもいうように、護衛たちは前を向く。

エレオノーラは馬車の中で小さく息を吐いた。

ギルバート・マバールが分からない。

あの応接室で、彼は慎重な貴族男子だった。アバルディア家の危機を聞きながら、決してマバール家としての言質を与えなかった。父の名も王国の名も軽く扱わず、自分の立場を便利な盾として使いこなしていた。若いのに、あれほど面倒なやり取りを崩さず進めた。

なのに今は、騎士にクソじじいと言い、赤い布を巻き、山賊ごっこをしている。

だが、ただ軽薄なのではない。

赤布で顔を隠すのは合理的だ。鎧を着ていないことも、少人数であることも、遠乗りという建前も、全て意味がある。彼は遊んでいるようで、必要な線は外していない。周囲を見る目も、魔力を隠す技術も、騎士たちへの統率も緩んでいない。

だから余計に分からない。

一行はそのまま街道を進んだ。

昼を過ぎ、日が傾き始めると、道の左右の景色も少しずつ変わっていった。耕された畑が減り、低い木立と荒れた草地が増える。遠くに小さな集落は見えたが、馬車が向かう道はそこを避けるように伸びていた。

この辺りは、厳密にはすでにザザント家の影響が強い地域へ近づいている。

帝国内の勢力は一枚岩ではない。マバール領を離れ、国境を越えた後は、どの街を使うか、どこで休むか、その選択一つにも意味が生まれる。エレオノーラとしては、できるだけ目立ちたくなかった。マバール城から戻る使者がどこへ立ち寄ったか、それだけでも余計な情報になる。

夕暮れが近づく頃、護衛隊は街道から少し外れた場所に馬車を止めた。

周囲は緩やかな窪地になっている。片側に木立があり、もう片側は低い丘。見通しは悪くないが、遠くから目立ちにくい。野営地として選ぶなら悪くない場所だった。

エレオノーラの護衛たちはすぐに動いた。

馬車を中心に置き、荷を下ろし、火を起こす場所を定め、見張りの位置を決める。随行者は馬車周りの整理を始め、護衛の一部は周囲を確認する。動きは整っていた。急いでいるが、慌ててはいない。彼らもまた、アバルディア家の使者を守る者として訓練されている。

その様子を、少し離れた場所からギルたちが見ていた。

ギルは馬上で首を傾げた。

「なんか、こう、宿を貸し切って泊まったりするのかと思った」

エレオノーラは思わずそちらを見た。

老人が呆れたように答える。

「若様、貴族が泊まれる宿なんて都市にしかありませんよ」

「そうなのか」

「そりゃそうですぜ。どこの街道にも貴族向けの宿があると思ってたんですかい」

「いや、帝国ならなんかあるのかと」

「帝国でも道端に貴族宿は生えませんな」

ギルは少し納得したような顔をした。

エレオノーラは馬車の段を降り、礼を整えた。

「申し訳ございません。この辺りはザザント領に近く、あまり目立ちたくないのです」

ギルは赤い布で口元を覆ったまま、軽く手を振った。

「いや、我らは山賊ですのでお気になさらずに」

その返答に、エレオノーラは一瞬だけ言葉を失った。

どこまで本気なのか分からない。

だが、本人は実に楽しそうだ。

ギルたちはエレオノーラたちの野営地から少し離れた場所に陣取った。近すぎれば護衛の邪魔になる。遠すぎれば何かあった時に間に合わない。その中間を、当然のように選ぶ。山賊を名乗りながら、距離の取り方は実に計算されていた。

そして、いつの間にか豚がいた。

エレオノーラは何度か瞬きをした。

豚だ。

間違いなく豚だ。

どこから持ってきたのか分からない。少し前までそんなものは見えなかったはずだ。傷顔の老人が、当然のようにその豚を扱っている。近くの農家か集落から買ったのか、あるいは途中で何らかの手段で手に入れたのか。少なくとも、彼は何の説明もなくそれを捌き始めた。

手際が良かった。

良すぎた。

騎士というより、狩人か肉屋のようだった。だが、その動きには戦場慣れした者の乱暴さもある。必要な箇所を迷わず処理し、肉を分け、火の準備を進める。ギルはその横で興味深そうに見ていたが、ただ見ているだけではない。騎士の一人に水を用意させ、別の者に串を削らせ、火の位置を少し変えさせる。

赤布で口元を覆った粗末な格好の一団が、豚を捌き、火を起こし、肉を焼く。

絵面としては、完全に山賊だった。

しかも、ギルが妙に馴染んでいる。

エレオノーラはそれを見ながら、なんだか本当に山賊みたいだと思った。

そして同時に、ギルバート様は貴族男子のはずなのに、なぜそんなに自然にそこにいるのか、とも思った。

普通の貴族男子なら、少なくとも彼女の知る帝国の貴族男子なら、こういう場面で距離を置く者が多い。肉が焼けるまで天幕の中で待つ。手を汚す作業は騎士や使用人に任せる。野営そのものを不快と感じ、表に出さないよう努力する者もいる。

だがギルは違った。

肉を焼く匂いが漂い始めると、明らかに楽しそうにしている。騎士たちと何かを言い合い、時折老人に突っ込まれ、少し焦げた肉を見て文句を言いながらも笑っている。貴族としての嫌悪はない。だが、平民のように無防備に混じっているわけでもない。彼の周囲には自然と騎士たちが配置され、火の位置も、馬の位置も、見張りの流れも崩れていない。

緩い。かなり緩い。

だが隙はない。

エレオノーラはそれを見て、ますます分からなくなった。

やがて肉が焼ける匂いが濃くなってくる。

脂が火に落ち、じゅうと音を立てる。煙が夕暮れの空へ細く上がり、焼けた肉の香ばしさが風に乗って馬車の方まで届いた。アバルディア家の護衛たちも食事の準備をしているが、そちらは乾いたパンや保存食、温めた汁が中心だ。旅の途中としては十分だが、あちらの焼きたての肉の匂いは強かった。

ギルがこちらを見た。

「エレオノーラ殿たちも、よろしければどうぞ」

赤布を少し下げてそう言う。

山賊を名乗った男が、獲物に肉を勧めている。

状況としては意味が分からない。

だが、ギル本人は屈託なく笑っていた。

護衛たちがエレオノーラを見る。

食べるべきか。

断るべきか。

毒の心配をする場面ではない。ギルたちも同じものを食べている。むしろ問題は体面だ。アバルディア家の使者が、勝手についてきたマバール家三男の山賊ごっこ一行から焼いた肉をもらう。その事実だけ見ると、かなり妙なことになる。

しかし、断る理由も弱い。

彼らは正式な同行者ではない。

だが、無関係でもない。

ここで距離を取りすぎれば、せっかく整えた曖昧な形に無用な棘が立つ。

エレオノーラは小さく息を吐き、軽く礼をした。

「それでは、少しだけ頂戴いたします」

「ええ。山賊の肉ですが」

「……ありがとうございます」

ギルは楽しそうだった。

本当に楽しそうだった。

政治的な意味も、戦略的な意味もあるはずだ。エレオノーラにはそれが分かる。彼らは遊びでここにいるわけではない。これから向かう先には危険があり、マバール家もアバルディア家も、言葉にできない事情を抱えている。

それでも、ギルは旅を楽しんでいるように見えた。

夕暮れが濃くなる。

空の端が赤く染まり、木立の影が長く伸びる。火の周りでは肉が焼け、騎士たちの低い声が混じり、馬が時折鼻を鳴らす。エレオノーラ側の野営は整然としていて、ギルたちの野営は少し荒っぽい。だが、その二つは奇妙な距離を保ちながら、同じ夜を迎えようとしていた。

エレオノーラは焼かれた肉を受け取り、少しだけ口にした。

熱い。

塩気が強い。

脂が濃い。

洗練された料理ではない。

だが、妙に美味しかった。

ギルはそれを見て、少し満足そうに頷いた。

「なんだか楽しいぞ」

誰に言うでもなく、彼はそう呟いた。

その声は、エレオノーラにも聞こえた。

彼女は火の向こうにいるギルを見た。

マバール城での彼。

応接室で言葉を選んでいた彼。

馬上でクソじじいと笑う彼。

赤布で口を覆い、山賊を名乗る彼。

焼いた豚肉を楽しそうに勧める彼。

どれが本物なのか、とは思わなかった。

たぶん、どれも本物なのだ。

そう思うと、ますます分からない。

だが、分からないことが少しだけ面白くもあった。

夜の準備が進む中、ギルは火のそばで肉をかじり、セバスチャンにまた何かを言われて顔をしかめていた。赤布は少しずれている。粗末な格好は旅人とも山賊ともつかない。けれど、その周囲の騎士たちは自然と彼を中心に動いている。

エレオノーラは、その光景を静かに見ていた。

帝国へ向かう旅は始まったばかりだった。