軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十三話 曖昧な三男の価値

エレオノーラとの交渉は、表向きには穏やかに続いていた。

マバール城の東側にある応接室は、正式な謁見の間ではないが、軽い客を通すための部屋でもない。壁にはマバール家の紋章が織り込まれた厚い布が掛けられ、床には足音を吸い込む深い色の敷物が敷かれている。窓は大きすぎず、外の光は入るが中庭の様子を細かく眺められるほど開けてはいない。部屋に置かれた椅子も机も質は良いが、父上が公式の使者を迎える時のような威圧的な豪奢さはない。

つまり、今のエレオノーラに与えるにはちょうどいい部屋だった。

軽んじてはいない。

だが、重くも扱わない。

この部屋そのものが、今のマバール家の返答なのだと思うと、貴族社会というのは本当に面倒くさい。茶器の種類、椅子の高さ、同席者の人数、扉の前に立つ騎士の格、そういうものがいちいち言葉の代わりになる。前世なら会議室Aとか応接室Bで済んだだろうに、この世界では部屋に通された時点でまず一つ目の会話が始まっている。

俺はその部屋の上座側に座っていた。

もちろん一人ではない。

俺一人で帝国四帝家の使者と向き合うなど、いくらなんでも不自然すぎる。俺はマバール家の三男であり、父上の名代ではない。交渉の前面に立ってはいるが、正式に家の意思を決める立場ではないのだ。だから俺の横には文官系の上層部から一人、やや離れた場所には記録役が一人、壁際には武官系の騎士が二人控えている。レティシアもさらに後ろ、茶を扱う位置に静かに立っていた。

文官は、必要な時だけ言葉を添える。

記録役は、俺とエレオノーラの言葉をそのまま書き留めるのではなく、貴族同士のやり取りとして後で読める形に整えるために耳を澄ませている。壁際の騎士たちは飾りではない。使者の随行者が外に控えている以上、こちらも最低限の護りを示す必要がある。レティシアは使用人としてそこにいるが、俺にとってはそれだけではない。茶の温度、話の切れ目、俺のわずかな仕草を拾って場を整える彼女の存在は、こういう面倒な会話ではかなり大きい。

そして正面に座るエレオノーラも、それらすべてを理解しているようだった。

二十歳半ばほどの女だ。レティシアより少し上に見える。輝くような金髪は今日も丁寧にまとめられ、帝国の貴族らしい青を基調にした衣装は、派手ではないが仕立ての良さがすぐに分かるものだった。アバルディア家の紋章は胸元に控えめに入っている。強く主張しすぎず、だが決して隠さない位置だ。自分がどこの家の者であるか、どの程度の格でここに座っているのかを、言葉にせず示している。

美人だ。

それは間違いない。

だが、最初に会った時ほど、俺はその美貌に意識を引かれなくなっていた。慣れたというより、警戒の方が上回ったのだと思う。エレオノーラは美しい女である前に、アバルディア家の使者だった。言葉を選び、表情を整え、少しずつこちらの温度を測ってくる。穏やかな微笑みの奥に、追い詰められた家の焦燥が透けて見える。

その焦燥は、日に日に濃くなっていた。

「本日は、少し踏み込んだお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」

エレオノーラはそう言った。

声は柔らかい。

だが、指先が茶器の取っ手に触れたまま止まっている。茶を飲むつもりで触れたのか、話す前に自分の手を落ち着かせるために触れたのかは分からない。少なくとも、初日の彼女ならそこで手を止めなかった気がする。

ギルは緩く頷いた。

「俺に決められることならな」

いつも通りの返答だ。

同席している文官が、視界の端でほんの少しだけ目を伏せる。おそらく予定通りだと確認したのだろう。俺は一人で勝手に言葉を投げているわけではない。事前に上層部と何度も確認した範囲の中で喋っている。もちろん、言い回しや間の取り方までは俺が判断しているが、どこまで踏み込んでいいかは決められている。

エレオノーラは俺の返答を聞き、表情を崩さなかった。

だが、瞳の奥に小さな揺れがあった。

「若様は、その“決められること”の範囲をかなり慎重に見ておられるように感じます」

「慎重にしろと言われているからな」

俺はあっさり答えた。

取り繕わない。

ここで自分が独断で何でも話せるように見せる方が危ない。

「俺は父上の代理ではない。家の方針を決める立場でもない。マバール家の者として話は聞くが、俺の言葉をそのまま家の意思として扱われると困る」

「承知しております」

エレオノーラはすぐにそう返した。

整った言葉だ。

だが、早すぎる。

その早さに、わずかな焦りが滲んでいた。

「ですが、若様はマバール家の血を引く御方です。完全に無関係な方ではございません」

「無関係ではないな」

俺は認めた。

認めるだけなら問題ない。

無関係ではない。

だが、決定権はない。

その二つの間に俺は立っている。エレオノーラが踏み込みたいのは、その境界線の向こう側だ。俺がそこへ足を踏み入れれば、彼女は何かを得る。俺が踏み入れなければ、彼女は焦る。

「意見ぐらいなら言えるぞ」

ギルは茶に口をつけ、少し間を置いた。

「ただし、俺個人の意見だ。責任は持たん」

エレオノーラはわずかに息を吸った。

それは呆れではないと思う。怒りでもない。たぶん、分かっていた答えをまた確認させられた時の息だ。それでも彼女は退かなかった。

「では、若様個人のお考えを伺いたく存じます」

「言える範囲なら」

「もし帝国が、これまでとは異なる形で安定した場合、国境を担うマバール家としては、どのように受け止められるのでしょうか」

来た。

かなり踏み込んできた。

帝国がこれまでとは異なる形で安定する。

要するにメガレア家の一強体制だ。三代連続で皇帝を出し、四帝家の均衡を形だけにする。アバルディア家が最も恐れている未来であり、マバール家としても無視できない未来だ。

だが、俺からメガレア家の名を出す必要はない。

ギルは窓の方へ視線を流した。中庭の光が薄く差し込んでいる。外では兵が動いているはずだが、この部屋からはその姿までは見えない。音だけがかすかに届く。

「安定は良いことだと思うぞ」

俺はゆっくりと言った。

「普通ならな」

部屋の中の空気が少しだけ詰まった。

エレオノーラの指先が、今度ははっきりと動いた。文官は顔を上げず、記録役の羽根ペンだけが紙の上を静かに滑る。壁際の騎士たちは無言のまま動かない。

「普通ならは、でございますか」

「ああ」

ギルは軽く肩をすくめた。

「王都に近い貴族や、帝国と直接向き合わない領地なら、そう考える者も多いだろうな。東が安定すれば交易も落ち着く。難民や盗賊も減るかもしれない。王国全体で見れば、帝国が内側で静かになるのは悪いことではない」

ここまでは言っていい。

問題はこの先だ。

エレオノーラはじっと俺を見ている。

俺はその視線を受け止め、少しだけ声を落とした。

「だが、国境にいると事情が違う」

それ以上は言わない。

十分だ。

十分すぎる。

エレオノーラは目を伏せた。

その睫毛が頬に影を落とす。彼女が何を考えているかは分からない。だが、今の言葉が彼女の欲しかった方向に近いことは確かだろう。マバール家は帝国の安定を単純には歓迎しない。国境に立つ者として、安定した帝国が外へ向く危険をきちんと理解しているんだよ。

ただし、俺は何も約束していない。

エレオノーラは再び顔を上げた。

「メガレア家の三代継承は、帝国にとって安定ではなく、支配の固定化です」

彼女の方から名を出した。

ギルは内心で小さく頷いた。

そうだ。

言わせる。

こちらからは言わない。

「アバルディア家はそのように見ているわけだな」

「はい。もはや見ている、という段階ではございません。メガレア家はすでに動いております。帝都周辺の軍、財、神殿、いくつかの迷宮管理権に近い者たちまで取り込み、反対する家には皇帝不在の不安を広げるなと圧をかけております」

以前も似た話は聞いた。

だが、今日は少し具体的だ。

同席の文官がほんのわずかに反応した気がした。記録役の筆が止まらない。エレオノーラは分かっているはずだ。ここで話した内容は、父上にも上層部にも伝わる。だからこそ話している。俺に言質を取れないなら、情報を置いていくことで圧をかけるしかない。

「ザザント家は」

俺は短く聞いた。

エレオノーラは一瞬黙った。

その沈黙は、これまでより長かった。

「ザザント家も、メガレア家の三代継承を快く思ってはおりません」

「快く思っていないことと、動くことは別だろう」

ギルがそう返すと、エレオノーラの唇がわずかに引き結ばれた。

痛いところなのだろう。

だが彼女は逃げなかった。

「おっしゃる通りです。ザザント家はまだ動いておりません」

認めた。

はっきりと。

それは大きい。

「なぜだと思う」

「動けば、帝国は決定的に割れます」

「もう割れているように聞こえるが」

「割れかけております。ですが、まだ戻れると考える者もおります。メガレア家が譲歩し、四帝家の均衡を保つ形に戻ることを期待する者も」

「アバルディア家はそう思っていない」

「戻れません」

即答だった。

その声には、初めてはっきりとした熱が混じった。

「退けるなら、すでに退いております。二代続けて皇帝を出した時、我らは耐えました。先帝の時代には戦があり、内を乱すべきではないという理由もありました。ですが、三代目まで許せば、以後、帝国は四帝家の国ではなくなります」

エレオノーラの声は荒くない。

だが、押さえ込んだものがある。

アバルディア家の人間としての怒りか、危機感か、それともこの場で結果を出さなければならない使者としての焦りか。俺には断定できない。だが、そのどれもが少しずつ混じっているように見えた。

ギルはすぐに返事をしなかった。

茶を持ち上げる。

飲む。

少しだけ冷めている。

レティシアがそれに気づいたのか、控えの位置で静かに動いた。まだ差し替えるには早い。だが、次の切れ目で出せるように用意しているのだろう。こういう細かさに救われる。

「私としては」

ギルはあえて少し丁寧に言った。

「その危機感は理解できる」

エレオノーラの目がこちらを見る。

「ありがとうございます」

「ただ、理解と判断は別だ」

「承知しております」

「俺の立場では、アバルディア家が何を望んでいるかを聞くことはできる。だが、マバール家がどう動くかは父上が決めることで、王国全体に関わることなら王都も絡む」

王都という言葉を出した時、室内の温度がわずかに下がった気がした。

誰も王都を軽んじる言葉は口にしない。

だが、マバール城の上層部が王都の遅さに苛立っているのは間違いない。現場はすでに動いている。帝国から使者が来ている。アバルディア家は焦り、メガレア家は進み、ザザント家は見ている。それなのに王都からの使者はまだ来ない。

エレオノーラも、その遅さを計算に入れているのだろう。

だからこそ焦る。

王都が動く前に、マバール家の温度を掴みたいのだ。

ギルはそこで話を切った。

「今日聞いたことは父上に伝える。ザザント家についてもな」

「お願いいたします」

エレオノーラは深く礼をした。

礼は綺麗だった。

だが、最初の頃よりほんの少し低い。

それを見て、ギルは内心で顔をしかめた。

追い詰められている。

相手が焦ればこちらが有利。

普通ならそう考えるべきなのだろう。

だが、これは危ない。

焦った相手は、時に無理な手を打つ。

交渉の場が壊れる前に、こちらも決めなければならない。

その日の午後、ギルは城の奥にある小会議室へ呼ばれた。

前回と同じく、壁に厚い織物が掛けられ、外へ声が漏れにくい部屋だった。窓は狭く、昼間でも灯りが要る。机の上には、ここ数日の交渉記録、国境からの報告、諜報機関がまとめた帝国四帝家の動向が並べられていた。

今度は俺一人ではない。

文官系上層部が二人、武官系が一人、諜報機関の長、そして少し遅れて父上も入ってきた。ガルシア・マバールが座ると、部屋の空気が一段沈む。誰も姿勢を崩さない。

ギルは先ほどのやり取りを報告した。

自分の言葉を誇張せず、エレオノーラの反応も断定しすぎずに伝える。彼女が焦っているように見えたこと、ザザント家がまだ動いていないと認めたこと、メガレア家の動きに関して新しい具体名が出たこと。記録役のまとめだけでは分からない、場の空気も含めて話す。

報告が終わると、文官の一人が静かに息を吐いた。

「若様があまりにも優秀すぎて、エレオノーラ殿も焦っておられますな」

褒めているのだろう。

だが、ギルは素直に喜べなかった。

「褒めてくれるのは嬉しいが、あれはかなりやばい状態だぞ」

部屋の視線が集まる。

ギルは机の上の写しを指先で軽く押さえた。

「向こうは本気だ。しかも、時間がないと思っている。俺が言質を与えないから焦っているだけじゃない。たぶん、アバルディア家そのものがかなり追い詰められている」

諜報機関の長が頷いた。

「こちらの情報とも合います。メガレア家は帝都周辺をかなり押さえています。アバルディア家は表向き静かですが、静かでいられる余裕があるというより、動き方を選べない状態に近いかと」

武官系の男が低く言う。

「放っておけば、メガレアが取るな」

文官が眉を寄せる。

「取るだけならまだよいのです。問題は、その後です」

その後。

ギルは胸の内でその言葉を反芻した。

そうだ。

問題はその後だ。

メガレア家が三代続けて皇帝を出す。帝国内では反発も出るだろう。最初は混乱する。だが、メガレア家は強い。軍、財、帝都周辺の有力者を押さえ、時間をかけて反対派を削れば、いずれその状態が当たり前になる。

人は慣れる。

昨日まで許せなかったことも、明日、明後日、一年、十年と続けば、そういうものだと受け入れてしまう。四帝家の均衡という建前も、残るかもしれない。だが形だけだ。実態はメガレア家が皇帝家となり、他家はそれに従う大貴族になる。

そうなった帝国は強い。

内側が整い、外へ向く余裕が生まれる。

そして外へ向いた時、最初にぶつかるのはマバール家だ。

国境の砦。

ダル兄さんの担当する最前線。

アル兄さんが抱える迷宮にも影響が出るかもしれない。

父上の負担はさらに増え、俺も無関係ではいられなくなる。

強大な帝国と真正面から張り合うなど、いくらマバール家でも無理だ。辺境伯家として強い。軍もある。騎士も多い。だが、帝国そのものを相手にし続ければ地力で押される。勝った負けたではなく、長い年月の中で消耗する。

ジリ貧だ。

それが一番嫌だ。

ギルは自分の膝の上で指を組んだ。

アバルディア家に協力してもいいのではないか。

内心では、もうそこまで考えている。

ただし、アバルディア家を勝たせる必要はない。そこを間違えてはいけない。アバルディア家を皇帝にするために動くのではない。メガレア家の独裁を止め、帝国が一枚岩になるのを防ぐために動くのだ。

理想はザザント家あたりから次の皇帝が出ることだろう。

ザザント家が皇帝を出せば、メガレア家の突出は一度押し戻される。皇帝を出したザザント家は力を増すが、メガレアほど圧倒的ではない。アバルディア家はその隙に力を蓄えればいい。フリージア家は、まあ、頑張ってくれとしか言いようがない。

四帝家。

いや、実際には三帝家かもしれないが、その三つが互いに睨み合い、足を引っ張り、内側で力を使ってくれた方が、マバール家にとっては都合がいい。

だが、問題は王都だった。

「王都からはまだか」

武官が問う。

文官が首を振る。

「使者が出たとの報せもありません。こちらからの報告は届いているはずですが」

「遅い」

武官は短く吐き捨てた。

その一言に、部屋の中の何人かがわずかに反応した。誰も表立って王都を批判しない。だが、空気には不満がある。理想主義者たちめ、現場を知らない、国境を守るマバール家の苦労を何だと思っているのだ。声に出さなくても、その手の感情が部屋の隅に溜まっているように感じた。

父上は黙っている。

ガルシアは椅子に深く座り、机の上の書類ではなく、人の顔を見ている。発言者の声、沈黙、目線、そういうものを拾っているのだろう。

ギルは父上の視線を感じた。

ちらり。

こちらを見る。

すぐに別へ移る。

また、少ししてからこちらへ戻る。

何だ。

何なんだ。

俺を見るな。

いや、見てもいいが、その目は何だ。

ギルは内心で顔をしかめた。

父上は分かっているのだろうか。

俺が考えていることを。

いや、分かっている気がする。

この状況で、俺の立場は妙に便利だ。

マバール家として正式に帝国内部へ介入することは難しい。王都の許可もない。だが、放置すれば将来苦労する。なら、誰かが勝手に動いた形にする。

三男坊。

まだ公式には何者でもない。

直属騎士は持ったが、対外的な地位は曖昧。

その俺が自分の判断で動く。

マバール家は王都に対して、うちの三男が勝手に暴走しまして、止めるために動いております、と言える。アバルディア家も帝国内で、いや止めたのだが勝手についてきたのだ、我々も困っている、と言えるかもしれない。父上は暴走する三男を止めに来ただけという形で帝国内部に兵を進める余地を作れる。

馬鹿みたいだ。

だが、かなり使える。

問題は俺だ。

俺が一番苦労する。

そして最悪、俺だけ切られる。

うちの三男が勝手にやったことです。

処分します。

そう言われたら終わりだ。

それは絶対にごめんだ。

やる価値はある。

だが、完全な単独暴走は嫌だ。せめて内々で父上の許可が欲しい。できればダル兄さんとアル兄さんの同意も欲しい。兄たちが知らないまま俺が勝手に動いて、後で迷惑をかけるのはかなりまずい。兄弟仲は悪くないし、俺は兄たちを尊敬している。そこを壊すのは嫌だ。

ギルは父上を見返した。

目が合う。

ガルシアは何も言わない。

だが、その目は逸れなかった。

いや、この人、絶対に分かっている。

たぶん俺が考えていることを読んでいる。

そして、おそらく止める気がない。

やめてほしい。

止めないなら止めないで、ちゃんと言ってほしい。

いや、言えないのか。

言えば公式になる。

言わないから意味がある。

面倒くさい。

本当に貴族って面倒くさい。

会議は結論を出さずに終わった。

表向きには、使者との交渉を継続し、王都からの返答を待ちつつ、国境と諜報を強化するという形になった。何も決めていないようで、実際にはいくつもの準備が進む。騎士の動き、物資の確認、砦への伝達、アバルディア家使者への次の応対。城内の歯車が静かに噛み合い始めていた。

その夜、ギルは呼び出された。

使いに来たのは、普段の伝令ではなかった。父上の近くに仕える古参の使用人で、俺の部屋に入る時の礼もいつもより静かだった。彼は余計なことを言わず、ただ父上がお呼びです、とだけ告げた。

場所を聞いて、ギルは少しだけ眉を動かした。

ガルシアの完全な私室。

これまで一度も入ったことのない場所だった。

父上の執務室には入ったことがある。会議室でも顔を合わせる。食事の席で話すこともある。だが、完全な私的空間に呼ばれたことはない。そこに入るということは、家臣としてでも、会議の出席者としてでもなく、もっと別の形で呼ばれているのだろう。

廊下は夜の静けさに沈んでいた。

壁に掛けられた燭台の火が、ゆっくりと揺れている。昼間は使用人や騎士が行き交う城内も、この時間になると音が少ない。遠くからかすかに聞こえる足音と、どこかの扉が閉まる鈍い響きだけが、石壁に吸い込まれていく。

扉の前に立つ騎士は一人だった。

彼は俺を確認すると、何も言わずに扉を開く。

中へ入る。

部屋は広くなかった。

少なくとも、辺境伯の私室と聞いて想像するほどの豪奢さはない。壁には古い剣が一本掛けられ、棚には数冊の本と小さな箱が置かれている。床には厚い敷物があるが、応接室のような見栄えのためではなく、純粋に足元を冷やさないためのものに見えた。部屋の奥には小さな卓があり、その上に酒瓶と杯が二つ並んでいる。

ガルシアはそこに座っていた。

鎧ではない。

当主として人前に出る時の固い服でもない。

質は良いがくつろいだ室内着に近い姿で、片手に杯を持っている。普段の父上より、少しだけ人間らしく見えた。いや、普段が人間ではないという意味ではないのだが、当主の威圧が薄く、父親としての輪郭が見える気がした。

「来たか」

「はい」

「座れ」

命じられるまま向かいに座る。

使用人はいない。

扉も閉じられる。

本当に二人だけだった。

「今回の交渉は見事だな」

父上はそう言った。

いつもより少し柔らかい声だった。

ギルは一瞬だけ返答に詰まりかけた。

「ありがとうございます」

「そう硬くなるな」

ガルシアは酒瓶を取り、空の杯へ注いだ。

「少し飲むか」

「いただきます」

杯を受け取る。

酒の香りは強い。前世で言う蒸留酒に近いのかもしれない。喉を焼きそうな気配がある。ギルは慎重に一口だけ含んだ。

熱い。

舌に強く、喉に落ちると胸の奥まで温まる。

「強いですね」

「弱い酒をちびちび飲むよりよい」

父上はそう言って、自分の杯を傾けた。

しばらく沈黙があった。

だが、会議室の沈黙とは違う。

急かされる感じがない。

ガルシアは杯を置き、ゆっくりと背を預けた。

「わしがお前ぐらいの歳の時はな」

唐突にそう言った。

「いつも父上の顔色を伺うばかりだった」

ギルは少し驚いた。

父上が自分の若い頃の話をするのは珍しい。少なくとも俺はほとんど聞いたことがない。

「失敗はしていないか、怒られはしないか、役に立たぬと思われていないか。そんなことばかり考えていた」

ガルシアは小さく笑った。

自嘲というほど暗くはない。

だが、懐かしむだけでもない。

「父上にも、そういう時期があったんですね」

「ある」

あっさりと言われる。

「誰にでもある。ダルにもあった。アルにもある。お前にもあるだろう」

ギルは杯の中の酒を見た。

揺れる琥珀色の光が、燭台の火を映している。

「俺だって、いつもそう思っていますよ」

自然に出た。

「失敗してないか、怒られないか、余計なことをしてないか。最近は特に」

「そうか」

父上はそれだけ言った。

だが、その一言で十分だった。

否定されない。

笑われない。

それだけで少し肩の力が抜ける。

「貴族って面倒くさいですね」

思わず言う。

父上は声を出して笑った。

「それが貴族というものだ」

「もっと楽なものかと思っていました」

「楽な貴族は、長く貴族ではいられん」

「嫌な言葉ですね」

「事実だ」

ギルは苦笑して酒を少し飲んだ。

熱が胸に落ちる。

父上と二人だけで話すのは、たぶん初めてだ。

もちろん親子として同じ場にいたことはある。食事の席、会議、報告。だが、それらはいつも誰かがいた。家臣がいて、使用人がいて、兄たちがいて、場の役割があった。今は違う。ガルシア・マバールという当主ではなく、父上が目の前にいる。

それでも完全にただの父親ではない。

この人は父であり、同時に辺境伯だ。

その二つが切り離せないところが、また面倒くさい。

「ダルはいい」

父上が言った。

「あれは優秀だし、分かりやすい。わしに似たんだろう」

少し誇らしげだった。

ギルは首を横に振る。

「ダル兄さんは優秀ですけど、努力家です。俺は尊敬しています」

「ほう」

「最初から何でもできる人みたいに見えますけど、たぶん見えないところでかなり積み上げていると思います。砦を任されているのも、長男だからだけじゃないでしょう」

父上は少し目を細めた。

「よく見ている」

「兄ですから」

それに、ダル兄さんは本当にすごい。

名前はダルメシアンだ。

前世の知識がある俺だけは、一瞬だけ妙な響きを感じてしまう。だが、この世界では普通の貴族名であり、誰もぶち犬など連想しない。俺も表には出さない。ダル兄さんはダル兄さんだ。国境を任され、父上の信頼を受け、マバール家の長男として立っている。

「アルもな」

父上の声が少し変わった。

「あれは母が平民だからな。生まれた時は、不安だった」

静かな言葉だった。

そこに侮りはない。

だが、事実としての重さがある。

アル兄さんは平民出身の側室の子だ。魔力も並の貴族の半分程度とされる。魔力強度や容量は数値で測れるものではないが、貴族なら感覚で分かる。力や持久力のようなものだ。弱いものは弱いと見られる。

「でも、アル兄さんもすごいです」

ギルは言った。

「貴族に必要なのは魔力だけじゃないって、アル兄さんを見て分かりました」

「うむ」

父上は頷いた。

「アルの優秀さは、自分の出来んことを出来んと受け入れたことだ」

その言葉は重かった。

「出来んことを認められん者は、出来る者の使い方も分からん。アルは自分の魔力が強くないことを早くから知っていた。だからこそ、戦い方も、学び方も、人の置き方も考えた。あれは強い」

「はい」

ギルは素直に頷いた。

アル兄さんのことを考えると、少し背筋が伸びる。魔力だけなら俺の方がずっと上だろう。だが、だからといって俺がアル兄さんより優れているとは思わない。あの人は自分の弱さを認め、その上で役割を果たしている。それは簡単なことではない。

父上は杯を置き、俺を見た。

「そして、ギルバート」

名前を呼ばれる。

ギルは自然と姿勢を正した。

「お前の優秀さは、自分で考え、自分で動くところだ」

胸の奥が、少しだけ跳ねた。

「魔力も素晴らしい。それほどの魔力量と強度は、マバール家にとっても稀だ。だが、お前の真に面白いところはそこではない」

父上の視線はまっすぐだった。

「自分の道を切り拓き、突き進む地力の強さだ」

「そうでしょうか」

思わず聞き返す。

「うむ。並の者なら、わしが睨めば動かなくなる。言われた通りに動き、言われぬことはしない。失敗を恐れ、正解を待つ」

父上は少し笑った。

「だがお前は止まらん。いや、止まったふりはするな。怒られぬように顔色も見る。だが、諦めん。必ず抜け道を探し、実行する」

全部見られている気がした。

ギルは杯を持つ指に力が入りそうになり、意識して緩める。

「その強かさは、お前の武器だ。大事にしなさい」

許可ではない。

命令でもない。

だが、否定ではなかった。

むしろ、背中を押されたように感じた。

父上は分かっている。

俺が考えている抜け道を。

俺が暴走という形を使おうとしていることを。

そして、それを止める気がない。

だが、明確な許可は出さない。

だからこそ意味がある。

貴族って、本当に面倒くさい。

酒が進むにつれて、部屋の空気は少しずつ緩んでいった。

最初は帝国の話、兄たちの話、俺の話だったものが、いつの間にかもっと個人的で、かなり下世話な方向へ流れていく。

「レティシアはどうだ?」

父上がにやりと笑った。

ギルは一瞬、酒を吹きそうになった。

「素晴らしいです」

「どこが素晴らしいんだ。胸か。胸だろう」

「父上」

「お前は赤子の頃から大きな胸が大好きだったからな」

「そんな頃の話をされても困るんですが」

父上は楽しそうに笑う。

当主としての顔ではない。

かなり酒が回っているのかもしれない。だが、完全に酔って判断を失っているわけではない。たぶん、この人は酔ったふりもできる。

「いえ、胸も素晴らしいですが、それ以外も素晴らしいですよ」

ギルは何とか答えた。

「顔も綺麗ですし、気立ても良いですし、仕事もできますし、声も柔らかくて落ち着きますし」

「ほう、惚気るな」

「聞いたのは父上でしょう」

「うむ、胸は大事だ」

聞いていない。

父上は杯を揺らしながら、真剣そうな顔で続ける。

「だが、たまには尻も見なさい。尻もなかなか素晴らしいぞ」

「尻ですか」

「うむ。それにな、胸もデカいだけではいかん。小さな胸もあれはあれで楽しめるものだ。今度、試してみろ」

「はあ、なるほど」

どう返せばいいのか分からない。

父上から女性の好みについて講義を受ける日が来るとは思わなかった。

「今はいいが、毎年女を増やせ。いいか」

「はい」

反射的に返事をしてから、ギルは少しだけ顔をしかめる。

貴族男子としては当然の話だ。

魔力持ちの子を増やす。血を広げる。家のために女を増やす。それはこの世界では正しい。俺も分かっている。分かっているが、レティシアのことを考えると、少し複雑になる。

父上はその複雑さを見抜いたのか、見抜いていないのか、楽しそうに続けた。

「正室はどんな女がいい。やはり胸の大きな女か?」

「そうですねえ」

ギルは少し考えるふりをした。

「胸が大きくて、顔が綺麗で、気立てが良くて、声が柔らかい感じの人がいいですね」

「贅沢なやつめ」

父上は笑った。

「そんな女が簡単に見つかるか」

「努力します」

「そこはお前が努力するところではないだろう」

親子で笑った。

たぶん初めてだ。

少なくとも、こんなふうに二人だけで笑った記憶はない。

夜は更けていった。

酒は少しずつ減り、燭台の火も短くなる。帝国の話はもうほとんど出なかった。だが、核心はすでに終わっている。父上は俺を止めなかった。許可もしなかった。だが、俺の強かさを武器だと言った。

それで十分だった。

部屋を出る時、父上はいつもの顔に戻りかけていた。

「ギルバート」

「はい」

「無茶はするな」

短い言葉。

「はい」

「だが、必要なら動け」

ギルは頭を下げた。

「承知しました」

扉が閉じる。

廊下に出ると、夜の空気は少し冷えていた。

酒の熱が胸に残っている。足取りがふらつくほどではないが、頭の奥が少しだけ浮いている気がした。窓の外には雲がかかり、星はほとんど見えない。城の石壁は夜気を含んで冷たく、遠くの見張りの足音だけが規則正しく響いている。

ギルは立ち止まり、暗い窓の外を見た。

やる価値はある。

リスクもある。

最悪、切られる可能性は消えていない。

だが、父上は見ている。

理解している。

止めていない。

なら、完全な単独ではない。

少なくとも俺の中では、そう思える。

できればダル兄さんとアル兄さんの同意も欲しい。

そこはまだ残っている。

だが、道は見えた。

お気楽な三男坊でいたい。

レティシアと楽しく過ごしたい。

イチャコラしたい。

そのために帝国の皇位争いへ首を突っ込むことになるのだから、人生は本当に意味が分からない。

だが、逃げて将来詰むよりはましだ。

ギルは小さく息を吐いた。

進むしかない。

自分の道を。