軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十五話 筆頭騎士

セバスチャンの家は、まだ見えなかった。

城下町の中心を離れてから、もうそれなりに歩いている。大通りの喧騒は背後へ遠ざかり、荷車の車輪が石畳を軋ませる音も、商人たちの威勢のいい呼び声も、鍛冶場から響く金属音も、少しずつ薄れていた。代わりに耳へ入ってくるのは、低い屋根の家々の間から漏れる生活の音だった。

桶に水を汲む音。

薪を割る音。

子どもが走りながら笑う声。

犬が短く吠え、誰かに叱られて黙る声。

城に近い区画では、物も人も、どこか形を整えている。門へ続く道は広く、屋敷の壁は白く塗られ、手入れの行き届いた植え込みや石畳が、そこに住む者の格を静かに語っていた。だが、外周へ近づくにつれて、その整い方は少しずつ緩んでいく。

道はまだきちんと踏み固められているが、石畳は欠けた場所も増えた。家々の壁には補修の跡があり、屋根の色も揃っていない。庭先には薪が積まれ、干された布が風に揺れ、細い路地の奥からは煮込み料理の匂いが流れてくる。

それは貧しさだけではなかった。

むしろ、生活の匂いが濃いのだ。

人が住み、食い、働き、眠るための場所。

城のように磨き上げられた空間でも、商業区のように金の流れが目に見える場所でもない。家々が肩を寄せ、外壁や庭先にそれぞれの暮らしが滲んでいる。ギルは歩きながら、その違いをひとつひとつ拾っていた。

隣にはレティシアがいる。

城下へ出るために着替えた、落ち着いた色の衣服。普段のメイド服とは違い、飾り気は抑えられている。それでも、背筋の伸び方、歩幅の揃え方、目線の置き方に、彼女が城の上級使用人として躾けられていることは隠しきれていない。

俺は少し前を歩き、レティシアは半歩ほど後ろを歩く。

外に出ているとはいえ、主従の距離は崩さない。けれど城内よりは近い。道の端に荷車が寄ってくれば、彼女がさりげなく歩幅を変え、俺がそちらへ気を取られすぎないように位置を調整してくれる。その動きが自然すぎて、何度か見逃しそうになるほどだった。

周囲には護衛がいる。

完全に二人きりではない。三男坊とはいえ、俺はマバール家の人間だ。まして初陣を終え、直属の騎士を許されたばかりである。護衛なしに郊外までふらふら歩かせてもらえるはずがない。

ただ、護衛たちは目立たない。

中心部では通行人に紛れ、今は道の曲がり角や家の陰、少し離れた畑の縁を使って距離を保っている。俺がわざわざ振り返らなくても、視界の端にときどき影が入る。歩調も、立ち止まる間も、こちらに合わせて滑らかに変化していた。

さすがだな、と思う。

護衛される側としては、少し窮屈でもあるが。

城下町では、基本的に城に近い方が良い場所とされる。

それは分かりやすい。

主家に近いということは、それだけ信頼されている証であり、緊急時にすぐ駆けつけられるという利点でもある。城に出入りする文官、上級騎士、古くから仕える家々は、城に近い区画へ屋敷を構えることが多い。そこに住むということ自体が、家の格や立場を示す。

だが、ならば城から少し離れた街中が次に良いかというと、半分正しく、半分間違っている。

文官系の騎士家や、裕福な平民なら、おそらくその通りだ。

市場に近く、人と物が流れ、商人や職人とのやり取りもしやすい。城へ行くにも遠すぎず、生活にも便利だ。帳簿や書類、人脈を扱う者にとっては、中心部から少し外れたあたりが最も動きやすいのかもしれない。

だが、武官系の騎士家は少し違う。

城下町の外周を望む者も多いのだ。

もしもマバール城が攻められるなら、当然、敵と最初にぶつかるのは外周部分になる。危険はある。家が焼かれるかもしれないし、逃げ遅れれば家族も巻き込まれる。だが同時に、敵と最初にぶつかる場所は手柄を狙いやすい場所でもある。

最初に敵を食い止める。

最初に斬り込む。

武官系の騎士にとって、それは危険であると同時に名誉でもあるのだろう。

もっとも、現実にはマバール城が敵にいきなり攻めて来られる可能性は極めて低い。

ここまでにはいくつもの砦がある。

国境に異変が起これば、まず砦が反応する。敵の軍勢が動けば、見張りが知らせる。村が焼かれれば、逃げ延びた者や巡回の兵が情報を持ち帰る。こちらもやられっぱなしではないし、敵も魔力持ちの領主が構える城へ簡単に突っ込んでくるほど馬鹿ではない。

もし敵に囲まれても、その場で外周に住む騎士たちが勝手に戦うわけではないだろう。

現実には、おそらくマバール城に集結して対応することになる。城門を固め、兵を集め、魔力持ちを配置し、指揮を一本化する。外周の家で個別に踏ん張ったところで、大きな戦にはならない。

だから、外周部分に住んでも本当にチャンスが増えるわけではない。

理屈で言えばそうだ。

だが、なんとなくそうなっている。

武官系の騎士家が外周を好む。城のすぐそばに居を構えるより、少し荒い空気の中で鍛え、いざという時に最初に動ける場所に住む。その方が騎士らしい。そういう感覚があるのだろう。

半分は気風。

半分は実利。

外周部分に武官系騎士が住んでいれば、敵や他領の間諜などに対応しやすいだろう。怪しい者が入り込んだ時、町の中心へ入る前に目が届く。広い庭や空き地があれば、剣を振ったり、若い者を鍛えたり、馬を扱ったりもしやすい。

そう考えると、セバスチャンがこの辺りに住んでいるというのは、そこまで不自然ではないのかもしれない。

とはいえ。

まだ家が見えない。

すでに郊外と言っていい場所まで来ているのに、レティシアは迷うことなく先へ進んでいる。つまり、まだもう少しかかるようだ。

「遠いな」

ギルが小さく言うと、レティシアが歩調を崩さず答えた。

「城下の外れに近い場所と聞いております」

「外れに近い、か」

「はい」

「下級騎士だとしても、もう少し近くに住んでいるものかと思っていた」

「武官系の方々は、外周を好まれる場合もございますので」

「まあ、それは分かる」

ギルは前を見たまま頷いた。

「だが、セバスチャンほど実戦経験があって、何代もマバール家に仕えている家なら、もう少しまともな場所でも良さそうだけどな」

レティシアはすぐには答えなかった。

そのわずかな間で、ギルは彼女が何か知っているのだと察した。

レティシアはいつも、言うべきことと言わない方がいいことを切り分ける。主である俺に対しても、何でも即座に口にするわけではない。聞かれたからといって、ただ情報を投げるのではなく、どの順で、どの程度伝えるべきかを判断している。

やはり仕事が出来る女だ。

「何か知っているのか?」

「はい」

短い返答。

「なら言え」

「承知いたしました」

レティシアは少しだけ目を伏せた。

「セバスチャン様は、これまで何度も武功を立て、褒美も貰っているそうです」

「だろうな」

それは納得できる。

あの強かなクソじじいが敗れるのは、ちょっと想像できない。

いや、敗れるとしても、ただやられるとは思えない。それなりに殺し、それなりに奪い、相手にも大きな傷を残してから倒れるだろう。あの老騎士はそういう男だ。

魔法を使わなくても、鎧を着た俺を夜まで走らせる体力がある。実戦では、使える魔法をあえて使わず、感知魔法に引っかからないように動く判断もできる。村を焼かせる時も、ただ壊せばいいのではなく、奪う物を残すように威力を調整しろと言った。

戦場を知っている。

勝ち方を知っている。

奪い方を知っている。

それで武功も褒美もない方がおかしい。

レティシアの声は静かに続いた。

「ですが、セバスチャン様は奪った財や戴いた褒賞のほとんどを、戦死した兵の家族に渡しているそうです」

ギルは足を止めかけた。

完全には止まらない。

だが、歩幅が乱れた。

視線が、自然とレティシアへ向く。

「……あのクソじじいが?」

思わず口に出た。

レティシアは困ったようにはしなかった。ギルの言い方にも慣れているのだろう。静かに頷く。

「はい」

「本当に?」

「はい。少なくとも、城内ではそのように聞いております」

ギルは黙った。

風が横から吹いた。

道の脇に積まれた干し草の匂いが流れてくる。遠くで子どもが笑い、すぐに誰かの叱る声がした。郊外の家々の間に、午後の光が斜めに差し込んでいる。

あのクソじじいが。

戦死した兵の家族に。

財や褒賞を。

ギルは、セバスチャンの顔を思い浮かべる。

傷だらけの顔。

片耳を失った頭。

にやにやと人を試す目。

騎士道など戯言だと笑う男。

その男が、戦死した兵の家族へ財を渡す。

どう繋げればいいのか、すぐには分からなかった。

いや、繋がっているのかもしれない。

セバスチャンは言っていた。

騎士の仕事は敵から奪って味方に分け与えることだと。

良い騎士とは、敵をたくさん殺して、敵からたくさん奪って、味方にたくさん与えるものだと。

あれはただの野蛮な理屈だと思っていた。

いや、実際に野蛮な理屈ではある。

だが、セバスチャンはその理屈を本当に実行しているのだ。

敵から奪った財を、自分の家のためだけに使うのではなく、死んだ兵の家族へ渡している。

味方に分け与える。

なるほど。

あいつの中では、一貫しているのかもしれない。

ふむ。

ギルは歩きながら考える。

騎士家の当主が戦死した場合は届けを出し、後継者が許されて騎士家を継ぐ。後継の騎士が戦死した場合は次の候補者が後継になるし、後継がいない場合は他家から養子を受け、後継者として騎士家を継ぐ。

もちろん、それで何もかも守られるわけではないだろう。

当主が死ねば家は揺れる。後継者が幼ければ誰かが後見する。家の中で争いも起きるかもしれないし、周囲につけ込まれることもある。それでも、騎士家には家を残す仕組みがある。

魔力を持つ家は、そう簡単には潰されない。

では一般の兵はどうなるのか。

おそらく、褒美なり見舞金なりは渡されているのだろう。戦死した者の家族へ何もないとは思わない。マバール家ほどの大貴族が、兵を使い捨てて知らん顔をするとは考えにくい。形としての支給はあるはずだ。

だが、その後は。

たぶん、ほぼ放置されている。

全員の遺族の面倒を全て世話することは、マバール家ほどの大貴族でも不可能だ。むしろ、動員人数が多い分だけ難しい。戦があるたびに兵が死に、その家族が残る。見舞金を一度渡すことはできても、その家の生活を何年も何十年も支え続けることはできない。

夫を失った女。

父を失った子。

働き手を失った老親。

そういう者たち全員を、家として救い上げることは現実的に難しい。

なら、こぼれ落ちる。

誰かが拾わなければ、そのまま落ちる。

それを、あのクソじじいが担っているのか。

無論、全員ではないだろう。

セバスチャン一人で全ての遺族を支えられるはずがない。他家の騎士も似たようなことをしているのかもしれないし、していないのかもしれない。セバスチャンが誰にどれだけ渡しているのかも分からない。

だが、少なくとも彼は自分の褒美を削っている。

だからあの家なのか。

だから下級騎士のままなのか。

武功を立てても、奪っても、貰っても、自分の家を大きくするために使わなければ、屋敷は立派にならない。着飾ることもできない。家臣も増やせない。政治的な付き合いにも限界が出る。

戦場で勝つ。

褒美を得る。

だが、それを家の格に変えない。

それでは出世は難しいだろう。

ギルは少しだけ口元を歪めた。

馬鹿だな。

本当に馬鹿だ。

戦場ではあれほど強かで、勝つためなら何でもするような顔をしておいて、自分の家はこんな郊外のボロい家のままか。

馬鹿騎士だ。

だが、不思議と嫌いではない。

いや。

むしろ、かなり好きかもしれない。

ギルはその自覚に少しだけ驚いた。

俺はセバスチャンに何度も腹を立てた。あの訓練は本当にきつかったし、国境を越えて村を焼くことになった時は何を考えているんだと思った。良心を期待して裏切られたこともある。

だが、あの男の理屈は、ただの戯言ではなかった。

敵から奪って味方に与える。

その味方の中に、死んだ兵の家族まで含めている。

それがあの男の騎士道なのかもしれない。

戦場の外で使うものだと自分で笑っていたくせに。

ギルは小さく息を吐いた。

「若様」

レティシアが横から声をかける。

「何だ」

「少し、驚かれましたか」

「かなりな」

正直に答える。

「あのクソじじいに良心みたいなものがあるとは思わなかった」

「良心、でございますか」

レティシアは少しだけ考えるように言った。

「セバスチャン様ご自身は、そう呼ばれないかもしれません」

「だろうな」

ギルは苦笑した。

「味方に分け与えているだけだ、とか言いそうだ」

「はい」

レティシアの口元が、ほんの少しだけ和らいだ。

その表情を見て、ギルはまた思う。

いい女だな、本当に。

レティシアはセバスチャンを美化しない。ギルの感情にも無理に同調しない。ただ、知っていることを必要な形で示し、そこから先の判断をギルに委ねる。それができる。

筆頭騎士を考えている今、その隣にレティシアがいることはありがたかった。

「行こう」

「はい」

二人は再び歩き出す。

道の先には、郊外の家々がさらにまばらになっている。中心部のような連なった町並みではなく、小さな家が間隔を空けて立ち、それぞれの周りに庭や物置、畑のようなものを持っている。遠くには城壁の外へ続く門の一部も見えた。

護衛たちの気配が少し変わる。

人通りが少ない分、隠れる場所は減る。彼らは家の角や木陰、柵の向こうを使い、自然に距離を詰めた。俺がそれを気にする素振りを見せると、レティシアがわずかに目線を動かした。

分かっている。

護衛たちはちゃんといる。

そう伝える目だ。

ギルは小さく頷いた。

この辺りまで来ると、城下町の匂いも少し変わってくる。

人の密度が下がり、土と草の匂いが強くなる。畑に撒かれた肥の匂いもある。前世なら顔をしかめたかもしれないが、この世界ではもうかなり慣れた。むしろ、こういう匂いがあるから作物が育ち、人が食える。

道端では、老人が木の椅子に腰掛けていた。

片脚が少し悪いのか、杖が立てかけられている。こちらを見ると、最初はただの通行人として眺めていたが、レティシアの立ち居振る舞いか、護衛の気配か、何かを察したのか、すぐに軽く頭を下げた。

ギルは小さく顎を引いて応える。

誰だかは分かっていないだろう。

だが、軽く扱う相手ではないと見た。

この世界では、写真もテレビもない。

だから、俺の顔を知っている者は限られる。城に出入りする者や、開発拠点で関わった職人、城下の有力者なら見覚えがあるかもしれないが、郊外の老人が俺を一目でギルバート・マバールだと分かるはずはない。

それでいい。

顔ではなく、雰囲気や立ち居振る舞いで判断される。

貴族とはそういうものだ。

ギルは少しだけ背筋を伸ばした。

やがて、レティシアが足を緩めた。

「あちらです」

示された先に、家があった。

今度ははっきり分かった。

道から少し奥まった場所に建つ、小さな家。周囲の家と比べても、決して立派ではない。むしろ古びている。屋根の一部は色の違う板で補修され、壁にも何度も塗り直した跡がある。玄関前の石は角が丸くなり、柵は傾いてはいないが年季が入っていた。

庭は広くない。

だが、使われている。

中央の土は踏み固められ、剣を振るうにはちょうどいい空間が空いている。端には薪がきちんと積まれ、古い木剣や訓練用の棒が壁際に立てかけられていた。井戸はないようだが、水桶と樽がいくつか置かれている。家畜の気配は薄く、飾り気もほとんどない。

貧しい、と言えばそうなのかもしれない。

だが、荒れてはいない。

手入れされている。

無駄な物がなく、使う物だけがある。必要なものを必要な場所に置き、余計な飾りを省いた家。セバスチャンらしいと言えば、妙にらしい。

ギルは柵の前で立ち止まった。

思ったより小さいんだな。

いや、正直いえばボロい。

先ほどレティシアから話を聞いていなければ、もっと強くそう感じただろう。だが今は、そのボロさの理由を少し知っている。知ってしまった。

褒美を自分の家に使わない。

奪った財を兵の遺族へ渡す。

そういう生き方が、この家に出ているように感じる。

ギルは、少しだけ喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

同情ではない。

尊敬と呼ぶには、まだ少し腹立たしい。

ただ、妙に胸へ来た。

あのクソじじいのくせに。

そんな言葉しか出てこない。

「入るぞ」

ギルは小さく言った。

「はい」

レティシアが控えめに頷く。

柵の小さな門を開け、庭へ入る。

土の感触が靴裏に変わった。

石畳ではない。踏み固められた土だ。訓練で何度も踏まれ、雨で固まり、また乾いた地面。庭の中央には足運びの跡がいくつも重なっている。よく見ると、同じ場所で回転した跡、踏み込んだ跡、何度も同じ角度で剣を振ったらしい土の削れ方があった。

セバスチャンは庭にいた。

家の横、少し日陰になる場所から、ちょうど庭の中央へ出てくるところだった。

上着は簡素で、袖を少し捲っている。鎧は着ていない。手には訓練用の鈍い剣。木剣ではないが、刃を潰した重そうなものだ。剣を振っていたのだろう。額と首筋にうっすら汗が滲み、肩から胸にかけて呼吸の名残があった。

六十ぐらいのゴツい老騎士。

顔面は傷だらけで、片耳がない。

普通の家の庭にいるだけなのに、どう見ても普通ではない。まるで、戦場が服を着て家の前に立っているようだ。周囲ののどかな郊外の空気と、セバスチャンの存在感がまるで噛み合っていない。

だが、本人は平然としていた。

こちらに気づくと、訓練用の剣を下げる。

慌てもしない。

驚きもしない。

顔をしかめるでも、恐縮するでもない。

「おや、若様」

いつもの声だった。

「どうしたんです」

ギルは眉を寄せた。

三男坊とはいえ、主家の人間が訪ねて来たんだぞ。

少しぐらいは驚けよ、クソじじい。

そう思う。

だが、腹は立たなかった。

むしろ、その平然とした態度が妙に嬉しかった。

城へ戻ってから、周囲の目は少し変わった。兵たちは硬くなり、使用人たちの反応も慎重になった。父上から直属の騎士を許されたことで、家中での見られ方も変わっていくだろう。

だが、セバスチャンは変わらない。

若様がいきなり郊外の自宅へ来ても、いつもの調子で「どうしたんです」と言う。

その変わらなさが、ありがたかった。

ギルは庭を見回した。

古い家。

使い込まれた訓練用具。

積まれた薪。

汗をかいた老騎士。

ここまで来て、言うべき言葉がいくつも浮かんだ。

お前の家、思ったよりボロいな。

褒美を兵の家族に渡してるって本当か。

どうしてそんなことをしている。

お前は何なんだ。

どれも口に出せそうだった。

だが、どれも違う気がした。

そんな質問を投げるのは簡単だ。だが、それは今ではない。俺が聞きたいのは、たぶん理由ではない。見れば少し分かった。分からない部分もあるが、それは無理に言葉にさせなくてもいい。

少なくとも今は。

だからギルは、真正面からセバスチャンを見た。

「セバス」

「はい」

老騎士は軽く首を傾げる。

その目が、ギルを見ている。

いつものように、少し面白がっているようでもあり、同時にこちらの芯を見ているようでもある。

ギルは息を吸った。

「お前を俺の筆頭騎士にしてやる」

言葉は、庭の空気へはっきり落ちた。

レティシアが隣でほんのわずかに息を呑んだ気配があった。

護衛たちの気配も、遠くで一瞬だけ硬くなる。家の陰、柵の外、道の曲がり角。見えない場所で、何人かが確かに反応した。

セバスチャンは。

ほとんど動かなかった。

眉も上げない。

口も開かない。

ただ、ギルを見ている。

その顔に驚きはなかった。だが、無反応とも違う。傷だらけの顔の奥で、何かがわずかに深くなったような気がした。

ギルは続けた。

「三日後に城に来い」

それだけ言う。

理由は言わない。

条件も言わない。

お前の家を見たからだとも、兵の遺族へ財を渡していると聞いたからだとも、戦場で俺に必要なものを教えたからだとも言わない。

言えば、軽くなる気がした。

この男には命令でいい。

いや、命令がいい。

筆頭騎士にしてやる。

三日後に城に来い。

それだけで足りる。

セバスチャンが何か言おうとしたのかどうかは分からない。

ギルは返答を聞かずに背を向けた。

「行くぞ、レティシア」

「はい」

レティシアは一度だけセバスチャンに礼をした。

その動きは丁寧で、しかし長くはない。ギルがもう歩き出していることに合わせ、すぐに後へ続く。

背中にセバスチャンの視線を感じた。

あの老騎士がどんな顔をしているのか、見たい気もした。

だが、振り返らない。

ここで振り返ったら、少し弱い気がした。

いや、弱いというより、違う。

この命令は、振り返って反応を確認するためのものではない。俺が決めたから告げた。なら、そのまま去ればいい。

来るか来ないかは、あいつが決めることではなく、来るのが当然だ。

そういう態度でなければならない。

主が騎士を選ぶ。

なら、これでいい。

たぶん。

庭を出る時、家の壁が視界の端に入った。

古びた壁。

何度も補修された跡。

その向こうに、あの老騎士の暮らしがある。

ギルは胸の奥に残った妙な熱を押さえながら、門を出た。

しばらくは誰も喋らなかった。

郊外の道を戻る。

来た時と同じ道なのに、少し違って見える。家々の古びた壁も、土の匂いも、遠くの子どもの声も、さっきより静かに感じられた。

レティシアは半歩後ろを歩いている。

護衛たちはまた距離を取り直した。だが、空気は少し硬い。彼らも今のやり取りを見ていたのだろう。見えていなくても、聞こえた者はいるはずだ。

セバスチャンを筆頭騎士にする。

その言葉は、すぐに城へ伝わるかもしれない。

いや、伝わるだろう。

それでいい。

隠すことではない。

むしろ、隠すような人選ではない。

「若様」

しばらく歩いたところで、レティシアが静かに声をかけた。

「何だ」

「よろしいのですか?」

柔らかい声だった。

咎める声ではない。

ただ、確認する声だ。

ギルは歩きながら、小さく笑った。

「セバスチャンを筆頭騎士にすると、色々勘繰られるし、問題になるかもしれないな」

「はい」

レティシアは素直に頷いた。

下級騎士。

老騎士。

実戦経験は豊富だが、乱暴で扱いにくい。

家格も高くない。

父上の命で俺の初陣の教師を務めたとはいえ、現時点では俺の直属でも専属でもなかった男だ。それを、いきなり筆頭騎士にする。

周囲は色々考えるだろう。

父上の意向か。

ギルバートの独断か。

武官系への偏りか。

下級騎士家への奇妙な引き上げか。

あるいは、セバスチャンという危険な男を若様の側へ置く意図は何か、と。

問題にはなるかもしれない。

だが。

「まぁ、いいだろう」

ギルは前を見た。

「退屈はせずにすむ」

口にすると、思ったよりもしっくり来た。

あのクソじじいが側にいれば、確実に退屈はしない。

腹は立つだろう。

疲れるだろう。

何度も後悔するかもしれない。

朝から晩まで走らされた時のことを思い出すだけで、今でも足が少し重くなる。帝国領へ連れて行かれ、村を焼かされた時の熱も、まだ記憶の中に残っている。あいつといると、俺の中にある甘さや油断を容赦なく引きずり出される。

だが、それが必要なのだ。

俺は魔力が強い。

魔力量も多い。

前世の知識もある。

内政や開発にも興味がある。

レティシアもいる。

このままだと、俺は自分の強さと便利さに寄りかかって、どこかで判断を誤るかもしれない。

セバスチャンはそこを殴る。

魔法を使うなと言い、走れと言い、村を焼けと言い、奪う物を残せと言い、逃げる時は逃げろと言う。

気に入らない。

だが、必要だ。

筆頭騎士には、俺にとって都合のいい騎士ではなく、俺を戦場で死なせない騎士がいるべきだ。

なら、あいつだ。

家格や見栄えや扱いやすさを考えれば、他にいくらでも候補はいる。だが、俺が本当に必要としているものを考えると、あの傷だらけの老騎士が一番しっくり来る。

ギルは、先ほど見た家を思い出した。

ボロい家。

使い込まれた庭。

褒賞を兵の家族へ渡す男。

敵から奪って味方に与える。

あの言葉を、あの男は本当に生きている。

そんな騎士を筆頭に置く。

悪くない。

いや、かなりいい。

レティシアは隣で、ギルの横顔を見ていた。

その視線は優しかった。

全てを理解しているわけではないだろう。俺がどこまで考え、どこまで直感で動いたのか、彼女に全部分かるはずはない。だが、少なくとも、ただ面白がって選んだのではないことは察してくれている気がした。

「若様らしいご判断かと存じます」

「褒めてるのか?」

「はい」

「本当に?」

「はい」

レティシアは静かに答えた。

ギルは少し照れくさくなり、前を向いたまま歩いた。

郊外の風が、城下の匂いを薄く運んでくる。

遠くにマバール城の上部が見えた。石壁は午後の光を受けて重く光り、旗が小さく揺れている。

あそこへ戻る。

三日後、セバスチャンが来る。

来たら、正式に筆頭騎士として告げることになるのだろう。父上に報告し、候補者たちにも示し、十名の直属騎士の形を整える。面倒は増える。騒ぎも起きるかもしれない。

だが、もう決めた。

ギルバート・マバールが初めて選ぶ、自分の騎士団。

その筆頭に、あの傷だらけのクソじじいを置く。

周囲が何を思うかは知らない。

これは俺の意思だ。

ギルは小さく息を吐き、隣を歩くレティシアを見た。

彼女は微かに微笑んでいるように見えた。

それだけで、選択を間違えてはいない気がした。