作品タイトル不明
第4話 ルチアーニ侯爵 前編
まだ侯爵家で働き始めたばかりの頃のこと。
私は前侯爵夫人に、ひとつだけ頼み事をしていた。
「私がルチアーニ侯爵家で働いていることは、秘密にしていただけないでしょうか?」
「構わないけれど……なぜかしら?」
私はいずれ夫から離縁される。そんな女が家庭教師であったなど、前途あるカテリーナ様の汚点となってしまうだろう。
私がヴェルディ伯爵家の妻であることは、バレてはならない。
そして離縁される日が決まれば、速やかに職を辞そう。
私はそう考えていたのだ。
けれどその思いを、そのまま口にすることはできなかった。まだ本当の理由は明かすことはできないので……。
「夫に、ここで働いていることを知られたくないのです」
「まあ……」
人生経験豊富な夫人には、その一言だけで十分なようだった。すべてを察したように、私の手を握りしめる。
「……ソフィア、大丈夫よ。あなたの夫、あまり良い噂は聞かないから心配していたのよ……わかったわ。任せて頂戴! あ、でも、息子だけには言っておいた方がいいのかしら? 仕事ばかりでなかなか会えないのよね」
息子、というのはルチアーニ侯爵家の当主であるカテリーナ様のお父上だ。王の側近の1人であり、30歳という若さでありながら、王都の警護を担う衛兵隊の総帥を務めている。
多忙な方だ。ご挨拶すべきとは思いながらも、私はまだお会いしたことがなかった。
「まあでも、わざわざ手紙を書くほどでもないわね。今までも家庭教師の人選に口を出してきたことはなかったし。次に会った時にでも話しておきましょう」
「はい。いずれお伝えいただけたらと思います」
……と。このようなやりとりをしたところで、夫人との話は終わったのだが。
このちょっとした油断が、その後事件を引き起こすことになろうとは、私は知る由もなかったのだ。
その日、カテリーナ様が以前描いた絵の整理をしていた。たくさんのキャンバスの中から、カテリーナ様のものとは明らかに違う雰囲気の絵が出てきて、不思議に思う。
「こちらは?」
「ああ……それはね」
カテリーナ様はぎゅっと顔をしかめた。初めて会った時に比べ、最近のお嬢様は笑ったり怒ったり表情豊か。いろいろな表情を見ることができて私は内心うれしく思っている。
けれど、カテリーナ様がこんなにも嫌悪感を露わにするのは珍しい。一体どんな理由が……?
「以前絵画の先生にね、勝手に絵を直されたの……こうやったほうがいい絵になる、なんて言われて絵の具でぐちゃぐちゃ~って。最悪だったわ。もうずたずたに切り裂いてしまいたい気分よ。こんな絵、この世に存在して欲しくないもの」
当時のことを思い出したのか、カテリーナ様は涙ぐんだ。
そして突如、ナイフを手に取る。
「あの、カテリーナ様……?」
カテリーナ様は、そのままナイフを勢いよく振り下ろした。キャンバスの上にざくりと穴があく。
私はギョッとして、思わず言葉を失う。
なんて大胆な……。
ざくざくと5箇所ほど穴を開けると、少しスッキリされた様子。「ソフィアもやる?」と笑顔で誘われて、私は恐る恐るナイフを受け取った。
「遠慮なくやっちゃってちょうだい」
少し悪い顔で微笑まれたお嬢様を横目に、私がナイフを振り上げた、ちょうどその時。
「何をやっているんだ!?」
バンっと開いたドアの外には、背の高い男性が立っていた。驚いた顔でこちらを見つめている。
「お父様?」
カテリーナ様がそう呼んだので、私はその男性が誰であるのかを理解した。
レオナルド・ルチアーニ侯爵。
カテリーナ様のお父上。
淡い金色の頭髪にエメラルドグリーンの瞳は、カテリーナ様にそっくりだ。
まずい……。
私の右手にはナイフ。左手には穴だらけのキャンバス。隣には涙ぐまれたカテリーナ様。
今この瞬間だけ見たら、私はカテリーナ様の貴重な作品を破壊している暴力的な使用人ということに――。
「お前は誰だ? カテリーナの絵に、何てことをしている!?」
大声で怒鳴られて、私は身がすくんだ。レオナルド様に押し除けられ、ぐらりと体が傾く。
まずい、と思った時にはもう遅く――倒れた私はガンっとイーゼルに顔を打ちつけた。
「きゃあああ――っ!」
カテリーナ様の叫び声が聞こえる。お父上に抱きしめられながらも、必死に私に駆け寄ろうとする姿が見えた。
ああ、どうか泣かないで。
カテリーナ様を安心させなければ。
私が微笑もうとすると、瞼にどろり、と生温かい液体が垂れてきた。
「先生、おでこから……血が!」
「血……?」
おでこに触れると、ぬるりとした感触。どうやらイーゼルの角でおでこを傷つけてしまったらしい。
血で滲んだ視界の中に、涙を流すカテリーナ様と、呆気にとられてこちらを見つめるレオナルド様が見えた。
「本当ですね……怪我などして、申し訳ありません」
「ソフィアのせいではないわ! お父様が乱暴したせいよ!」
「いや、だって……こいつはお前の絵を……」
「勘違いよ! お父様なんてだいっっっきらい!!!」
「なっ……!」
レオナルド様とカテリーナ様が言い争いを始めた。けれど、うるさいほどの二人の怒声が、徐々に遠のいていく……。
ああ、だめよ。
倒れてはだめ。
だって。
――気絶したら、ご迷惑が……。
けれどそのまま、私の意識はゆっくりと、白い靄の中にのみこまれていってしまったのだ。
目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。
どうやら私は侯爵家の医務室で手当を受け、ベッドに寝かされているらしい。
しばらくすると、カテリーナ様とレオナルド様が部屋に入ってきた。
カテリーナ様が私の手を握る。
「ソフィア先生、大丈夫?」
「はい。ご心配をおかけしました。もう大丈夫ですよ」
涙ぐむカテリーナ様の頭を撫でながら、私はレオナルド様を見上げた。
「旦那様。お初にお目にかかります。ご挨拶が遅れ申し訳ありません」
「さっき母から聞いた。君はカテリーナの新しい家庭教師だったんだな」
私が働いていることは伏せてほしいと奥様にお願いしていたので、レオナルド様がご存知ないのは無理もない。
しかしその事実を知らないカテリーナ様は、大変お怒りのご様子。
「ちょっとお父様! まずはソフィア先生に謝って? お父様のせいで怪我をしたのよ?」
娘にまくしたてられ、レオナルド様は言葉を詰まらせた。
侯爵であるレオナルド様が、私のような使用人に謝るなんてとんでもないことだと思った。
転んだのは、私が勝手にバランスを崩したからだ。
レオナルド様は悪くない。
「お嬢様。お父様が謝る必要はないのです。私が勝手によろけただけなのですから」
「ソフィアのせいではないわ。お父様が押したんだもの」
「手当もしていただけましたし、もうなんともありません。そろそろ仕事にもどりますね」
「ダメよ! まだ休んでいないと」
立ちあがろうとしたら「今日は休むのがお仕事よ」とカテリーナ様に念を押されてしまった。
「ここにいたいけれど、私たちがいたら気になるわよね? ソフィア先生、ゆっくり休んでね」
カテリーナ様はにっこり微笑むと、レオナルド様をぐいぐいと押しながら出て行った。
(初対面だというのに、印象は最悪だわ)
レオナルド様に、大切なご息女をお預かりしているご挨拶をしっかりとするべきだったのに。
その後もレオナルド様にお会いすることは叶わず、しばらく休んだ後、私は伯爵家にもどった。
翌日、侯爵邸を訪れると、レオナルド様はいらっしゃらなかった。
早くお話をしなければ……と焦っていたものの。レオナルド様はとても多忙な方。
次の日も、その次の日も会うことはできなかった。
どうやらレオナルド様の帰宅は毎日深夜で、朝は日が昇る前にご出勤されるとのこと。
しかも最愛の奥様――カテリーナ様のお母上を亡くされてからというもの、ますます仕事にのめりこみ、明るい時間に侯爵家に帰ってくることは稀とのことだった。
会えない不安は、徐々に心配へと変わっていった。こんなに働き詰めな人物に、これまで会ったことがなかったからだ。
ーーこんなに長時間働いて、大丈夫なものなのかしら?
はじめてお見かけした時、目の下に濃い隈があったのを思い出す。顔色がすぐれないのが気になった。
(体調を崩されないとよいのだけど……)
けれど、使用人の私がこんなふうに思うことはレオナルド様に対して却って失礼かもしれない。
名家の当主だ。体調管理はされているはず。おそらく私の考えすぎだろう。
けれどそんな私の心配は、思わぬ形で的中してしまうことになったのだ。