作品タイトル不明
心中穏やか
夕食後の静まった書斎で、僕は机に向かっていた。
机奥の棚に置かれた火が揺れる。僕の目ならば手元を照らす必要もないのだが、ここはルルも使うのだからと置かれたもので、彼女からの言いつけで僕は火を灯していた。
昼間もだが、リドニックの夜はことさらに寒い。
ルルにとっては辛いかもしれない。僕は平気だが、彼女はこの国に来ていつも厚い服を何枚か重ねるようになった。平気だと言いつつも、暖炉の前にいる時間がやはり多い。
そんな寒さに悴まぬ手で僕は羽ペンを執る。
下手だ下手だと言われてきた字。……まあ今も上手とは言えないと思うのだが、それは仕方ないだろう。ルルに代筆を頼もうと思ってもかなり大変だ。サロメがアリエル様に連れられて故郷に帰っていなければ頼んでもいいのだが。
質のよい紙に筆先が踊る。
が、やはりすぐに止まってしまった。
どう書けばいいのだろう。何を書けばいいのだろう。
ソラリックは『助けてほしい』と頼んできた。まあ僕が治すわけではないにしろ、患者のために手を尽くし、今なお手を尽くし続けている彼女の嘆願に答えるのは構わない。
この資料から読み解ける僕の思ったことを書き連ねるくらいならどうということはないだろう。
僕が書けるとしたら、きっとその病の薬師から見た観点。
症状と患者の人物像から病気の傾向を割り出すこと。症状でも様々な違いがある。たとえば人面疽なら……。
「……最初に見つかった一団、看守と囚人で場所が綺麗に分かれてる」
ソラリックの寸評などには書かれていないが、彼女は気づいているだろうか。
問題なのは患部の場所。囚人側は腹部や背中、体幹部に腫瘍が作られているのに対して、看守側はそうではない。彼らは手の甲や膝などの関節部。それに頬もか。どちらにせよ、身体の末端に近い側になってる。
決まったわけではなく傾向としてだが。看守側にも後に腹部から出てきた者もいるし、囚人側にも発症部位が脛という者もいる。気にしすぎかもしれないが、一応。
人体の体質は、区別する属性や薬師の個人や流派によっても違うが、とりあえず一つの方法として四つに分かれる。乾か湿か、熱か寒かの組み合わせにより。
ソラリックとしてはその区別はつけていないが、年齢や性別、既往から察するに、これは。
「進行が早いのは湿熱……と思っていいのかな」
僕は拳を噛みながらそう推定する。実際にはやはり僕が直接見た方が早いのだけれども。
多分、そうだと思う。
別の紙を使って線を引き、僕は適当に抜き出した患者を更に細かい十六種になんとか分けていく。どれも推定だが。
「当然のように若い方が進行が早いし、筋肉質で……」
腫瘍系の病の傾向としては正しいだろう。どれも上皮に発生した腫瘍で、臓器の悪性腫瘍のような差はないとしても、ならば差が出るならばそれ以外の要素によるものだ。
それならば若い方が進行が早いというのは頷ける。
「で、傷が……」
そして感染経路は傷からだろう、というのは資料への書き方的にソラリックも薄々確定しているだろうし、それに僕もそう思う。発症部位には必ず傷があるという事実から。それも……。
そこまで考えて僕は、ああ、と目を伏せた。
少なくともこの増殖人面疽の原因というか、原因となった経緯がなんとなく察せられて。
囚人と看守の差。エウリューケの関与疑い。そこまで考えると。
……なら、それ以上の感染は避けられるかもしれない。
僕の筆が進む。
少なくとも人面疽については、広がることは防げるだろう。発生者が隠蔽しない限りは。
書き連ねるのは病の傾向。どのような体質の人間がどのような過程をとりやすいかという資料の分析。この程度、ソラリックたちならば既に行っているだろうけれども。
僕はそれに、僕なりの知識を付け加えて長ったらしい文章を綴ってゆく。
必要なかったならそれでいいし、無駄になるならその方がいい。そう思いつつ。
それに、きっと僕と彼女らの見るものは少しだけ違うだろう。
ならば他の病は、と目を向けても、僕には彼らとは違うものが見えてくる。単に疫学的に、衛生学的に見る彼女らと違い、そこに『誰か』の関与を疑う僕には。
「境界融解症。皮膚や内臓が溶けて形を失ってゆく病」
初期症状は皮膚の軟化。皮膚の伸展が容易になり、まるで浮腫んでいるかのように抓んだ箇所の形が戻らなくなる。
次第に皮膚が粘着性を帯び始め、二日前後をかけて徐々に餅のような性状を示し始める。その頃になると、他者の皮膚などに接触することで容易に癒着するようになる。それは接着のような状態ではなく、罹患者ではなく接触された側の皮膚も同様に軟化し結合しているのだとか。
更にその接触された側はごく短時間でそのような状態になるらしく、兎の背を使った実験では十数秒で両者の間を繋ぐ皮膚が形成されたのだという。その皮膚は病的なものではなく正常の皮膚らしきもので、容易にはちぎれない。
ソラリックらの推測では、患者の皮膚からは毒液のようなものが分泌されており、それが相手方の皮膚を溶かすことで結合出来たのではないだろうか、とのことで。
患者はやがて、自身の体内でも同じようなことを起こす。横隔膜が胃と癒着し、肺が胸壁と癒着し呼吸が難しくなってゆく。
死因としてはそれによる窒息死。意外にも、溶けることで起きる何かではないらしい。心筋などに影響はないのだろうか。
妙だ、と僕は思った。
同じ病ではない、と思ってしまえばいいのだが、多分同じなのだと思う。僕が昔見た、石ころ屋を襲撃した探索者の一人が受けたものと。
確かあの時は、見る間にその身体の形が崩れていった。とろけるように足が逆に曲がり、骨などを失ったようにぐにゃぐにゃとその場に崩れて死んだはずだ。
しかしこの病では骨に影響は出ていないらしく、それに死ぬまでには発症から十五日程度をかけている。
進行速度が違いすぎる。僕が見たものとやはり違うのだろうか。それともエウリューケが、何かしらの手を加えたのだろうか。
身体が粉になってゆく病も同様だ。
あの時は扉を開こうと掴んだ手が手首でもげて、転んだ衝撃で全身が粉々に崩れた。即効性のもので、すぐに全身に範囲が及んだ。
けれども、今回のものはそうではない。十日以上かけて末端から徐々に乾いたように身体が崩れている。多くは手足から、それに鼻や耳などの突起から。
偶然といってしまえばいいし、また、まさにそれこそエウリューケの関与ではないとする判断材料になるだろう。
しかし何かしらの手が加えられているとするならば、その意図があるはずだ。
考えられることとするならば、……感染力の保持だろうか? 彼女の念の入れようとも考えられるし、それが一番簡単な考えかもしれない。
ならばどうやって感染させるかということもまた考え直さなければ。
たとえば死体から空気感染するならば、そこまで生存期間に気を配る必要はない。即時発症は避けるとしても、死体処理までの移動でいくらかの感染が見込めるだろう。ならば接触感染や、……。
僕は顔を上げる。
足音がした。それに気づけば、次に匂いも感じられた。気づけば匂いが漂うのは後ろから、扉を開け放してあった書斎の入り口からだった。
振り返ればそこにはルルがいた。匂いはその手にある小さな器から。
先ほど竈の火種を残していたのは知っていたが、改めて湯を沸かしたのか。
「根を詰めてる様子で」
ふふ、とルルが笑う。だがあざ笑うようではなく、その顔はきっと心配のものだろう。
「順調ですか?」
散らかした資料と覚え書きの隙間を狙い、コトリと机に置かれたのは湯飲みに入った生姜湯のようなもの。蜂蜜を使い、そこに香草なんかで香り付けしたリドニックの家庭料理だ。料理というか、嗜好品の飲み物だが。
この前近所でこのレシピを聞いたらしく、それ以来ルルが凝って何度も作ってくれている。蜂蜜以外はかなり自由度の高い料理らしく、毎回味が違い、それでいて毎回美味しいから恐れ入る。
「ありがとうございます」
「今回は 木天蓼(またたび) の果肉を匂い付けに入れてみました。やっぱりちょっと酸味が前に出ちゃいましたけど」
「へえ」
僕は羽ペンを置いて、渡された器に口をつけた。果肉自体は濾されていて入っていないようだが、言われてみれば確かにそんな感じの味がする。
リドニック料理とムジカル料理の違いは、味を感じる時間にあるのだ、とこの前ルルは力説していた。
リドニック料理もムジカル料理も、共に特徴的な味付けがある。リドニックは酸味や辛みが強く、ムジカルもまた塩味と辛みが強い。
辛みが共通してあるが、塩味と酸味の違いではないのか、と僕は反論したが、ルルはそこを譲らなかった。もちろん味付けの傾向としてそのようなものもあるが、それよりももっと時間差の方が重要で、辛みにもそれは表れている、と。
なんでも、ムジカルの辛みは即効性で、リドニックの辛みは遅効性なのだという。用語は僕の解釈によるものだが。
ムジカルの辛みや塩味は、食べた瞬間に口の中に現れる。それこそ舌で感じる味。辛みは口の中を痛めつけ、即座に発汗させて身体を冷やす。
だがリドニックの料理は少しだけ違って、飲み込むときに味を出す。腹の中に収まり、ようやくじんわりと辛みが喉と腹の中を温めるのを感じるのだ。
僕としてはそんなに異論もなく、感心して聞いていたのが少し前の話だ。
そしてこれは。
「この前の区分からすると、ムジカル式のものだね」
「やっぱりそうなっちゃいますよね。使われてない材料を使ってリドニックらしさを出すのって結構難しくて」
飲み込む瞬間から感じていた果実の匂い。それに、味。口の中に満ちた甘酸っぱい味は心地よく、飲み込めばすぐにそれは消えて、いつもの胃を温める感じが主となる。
「でも美味しいから満足」
だがそれで構わない。僕はまた一口飲んで頬を綻ばせる。
そもそもルルの作るものは味覚的な『味』が美味しいのは前提として、この飲み物は主に『温かさ』を味わうものだ。寒期も半ばに入ったものの、これからまだまだ寒さが続くこの常冬の国では、これが何よりのご馳走だ。寒さをあまり感じない僕としても、その程度の風情はわかる。
家の外は既に間違いなく零下だろう。熱湯がすぐに凍り付くほどの。
そんな環境でルルが差し出してくれた温かい飲み物が、美味しくないはずがない。
ルルが机の上をちらりと眺める。
資料の山と散らかった覚え書きでほとんど埋まってしまった机を。
「心配ですか」
そして言いづらそうにルルは言う。その主語がわからずに僕は答えられなかったが、一瞬後にきっとそれだろうと言葉を捻り出した。
「正直、エッセン王国の人は、そんなに」
「…………」
少しだけ驚いたように目を開いて、それからルルは微笑む。溜息をつきつつ、だろうな、と何か困るように。
「前に、王城の書庫で、僕は人間たちが嫌いだ、と言ったよね」
「はい」
「それで今あの国の人間たちが苦しんでいる。僕にとっては、きっと楽しいことだと思う」
ソラリックに協力しようとしているのは、ただ彼女に頼まれたからに過ぎない。
エッセンの王都で疫病が広まり始めた。もしもそれだけを聞いたのならば、僕はとても機嫌を良くしただろう。しばらくは鼻歌混じりに日々を過ごせたのではないだろうか。
そしてそれを行ったのが仮に僕の大嫌いな個人であれば、僕は喜んで邪魔したと思う。成功したら面白く、失敗してもそれはそれで面白い。
対岸の火事。風馬牛。それでいて楽しいこと。野次馬根性といえば悪いし騒ぎ立てる気もないが、きっととてもとても楽しいことだっただろう。
しかしそんな楽しみに、なぜだか一つ雑音が入った。
それがエウリューケの存在。
僕はエウリューケに悪い印象を持っていない。禁忌を犯したという風評などどうでもいいし、イラインで大勢の人間を虐殺していることを知っていても、また。
石ころ屋にいたのだ。善い人間であるはずがない。それでもきっと僕にとっては好ましい人間で、きっと信用していたのだろうけれど。
何故だろう。手放しで喜べないのは。
彼女が関わっている。彼女が何かしらの意図を持って凶行に走って、きっとこのままではそれが成功するのだろうなどと思っても。
王都の人間が死ぬのは構わない。僕が名前を知らない誰かが、僕のあずかり知らないどこか遠くで命を落とすのは、特に心が痛むことでもない。
いくらでも死んでもらって結構だ。殺してもらって結構だ。王都の人間など、オルガさんやティリーたち一部の人間さえ逃げてくれれば他はどうでもいい。
……だが何故だろう。彼女が事を為すのが、嫌なのか喜ばしいのか。僕はどう思っているのだろうか、わからない。
「エウリューケさんというのは、あの、王城で折られた僕の腕を治してくれた元治療師で」
「…………」
突然その名を出しても、ルルは黙って聞いてくれていた。『青い髪の女』が彼女ではないかと、事前に話していたからだろう。
「昔、僕が本草学を勉強していたときの師匠の、部下、ってところ」
「…………その方がやったと、カラス様は思ってるんですよね?」
ルルの問いに、僕は迷わず頷いた。そして頷いた後、やっぱりと思い直してわずかに首を横に振った。
「どうだろう。やってもおかしくないし、出来るだろうな、とは思える人だったけど」
まあ、やる理由はわからないが、出来るだろう。彼女なら。やる気があれば。
資料の山に目を戻し、背もたれに身体を預けて、僕は溜息をつく。
彼女なら出来る。彼女ならやる。疑わしい証言もある。でも、やる理由はわからない。
それはきっと、僕も。
黙った僕。部屋に沈黙が満ちる。
火の明かりが少し揺れて、僕はそれだけだと思った。
けれどもそっと後ろから僕の肩に添えられた手に、ルルが動いたのだと知った。
きっと寄せられた顔。耳の後ろから声がする。
「うちの旦那様は、不器用ですね」
息が感じられる距離。体温が寒い空気の中で動きを伝えてくる。
「……否定はしないけど」
「手紙を受け取ってから、ずっと様子が変でした。悩んでることがあるくらいは私にだってわかります。それも、その病気のこと以外で」
「…………」
今度は僕が黙る番だ。そんな言い訳をしつつ、僕は口を挟めなかった。優しい声に。
「悩んでることがあったら、私には話してください。私だって悩みがあったらカラス様に相談します。私たちは夫婦なんですから」
「…………そうだね」
まずその『悩み』の形が僕の頭の中できちんと形をとっていない。
正直他にもよくあることだ。
それがなんとなく情けなくて、こういうときにはどうにも格好悪くてルルには隠してしまうけれども。
ありがとう、と僕は振り返る。気恥ずかしそうに目をそらしたルルには、苦労をかけて申し訳ないけれども。
「とにかく今は、頼まれたことをやると決めたんだ。もう少ししたら全部話せると思うから、整理がつくまで待っててほしい」
「わかりました。絶対です」
最後にぎゅっと後ろから抱きつかれて、僕の方も気恥ずかしくて返せなかったけれども。
部屋を出て行ったルルを見送って、僕は一つ伸びをする。
まだ書くことがある。まだ書けることがある。僕には。
ルルが置いていった湯飲みをまた傾けて一口飲む。
美味しい。
まあ当然だろう。
家の外は既に間違いなく零下だろう。熱湯がすぐに凍り付くほどの。
そんな環境でルルが差し出してくれた温かい飲み物が、美味しくないはずがない。
それにきっと、これは僕を気遣ってくれたものだから。