軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

あなたが寂しくないように

宿の一室は寝静まり、暗闇が支配している。

カラスたち、もしくはアリエル一行とも呼べる彼らは宿の部屋を三つ取ることに決めている。一つはカラス、一つはルルとサロメ、もう一つはオトフシとアリエルのための。

カラス以外の組み合わせはこの日直前に決めたもので、一人の部屋となったカラスも、野外で寝ると言い張ったのをルルが引き留め強引に押し込んだ結果だった。

彼らが泊まったのはムジカルの領域とはいえ、つい先日まで戦時下だった街だ。

戦争の匂いがまだ残り、武装した人間も残り、治安も良いとはいえないもの。

けれどもそこはムジカルの領域だ。

国民性故に戦後から戦前へと雰囲気を変えるのも慣れているものであり、物資の不足を除けば既に街は正常に動いていた。

そんな中、ルルとサロメ、二人の乙女の部屋は既に寝息が満ちていた。

治安の良いわけではない街の、更に貴族向けでもない宿だ。本来安眠など出来るはずもない。手元に荷物を引っかけておく程度の用心は必須であり、その上で短剣を握りしめて熟睡しない、としてようやく当然の警戒となるだろう。

しかし、彼女らには必要が無い。

隣の部屋にいるのはムジカルでは〈頳顔〉もしくは〈静寂〉とも呼ばれる探索者。その耳も肌も、彼女らを守ることに全身全霊で勤め。更に、これもまた隣の部屋にいる探索者〈形集め〉オトフシの全力での警戒があるならば。

その上で、〈大妖精〉アリエルが味方についている。

ならば彼女らの寝ている場所は、現在この国で最も安全な場所と言っても過言ではない。

そしてルルは信じている。その場所は、最も安心できる場所なのだと。ならば、そうでないはずもない。

明かり取りの小さな木戸から、月の光が差し込んで床を僅かに照らす。

暗闇。けれども目が慣れれば青が支配する、そんな部屋の扉の鍵が、僅かに揺れてカチャリと外れた。

「……失礼するわよー……」

ほんの僅かに開いた扉。そこから入った小さな少女は、吐息に紛れるような小声でそう言う。中にいる乙女たちを起こす気はない。

悪戯好きは妖精の性であるが、その辺りは弁えているのだ、と自負していた。

侵入したアリエルは、中にいる二人の女性が身動きをしないのを確認し、静かに扉を閉める。音もなく閉まったのは、彼女が見つけて欲しくないからだ。

アリエルが中を見回せば、目当てのものがすぐに見つかる。

ルルの寝ている藁の寝台。その横に置いてあるルルの手荷物の中から、『ここだよ』と光が合図をした。

羽の音を鳴らさぬよう気を遣って、それでも癖でパタパタと動かしてしまい、一度身体を硬直させて女性らを見る。けれども、当然のように女性たちは少しばかりの薄着を纏った身体を投げ出したまま、もしくは身体を丸めるように横たわったままでいた。

並ぶ寝台の足下を飛んで、大回りをしてルルの手荷物へと近付いて、指を振ればそこからするりと本が姿を見せた。

「ちょっと借りるわ」

仰向けに眠っているルルの寝顔に小声でそう告げて、ルルが僅かに寝言を口にするように唇を動かしたのを返事だと思うことにする。

明かり取りの窓際。光など関係がない彼女ではあるが、本を開いて浮かばせて、自身もその本が読める位置に移動する。

かざす指先が蛍のように光り、その文字を鮮明にした。

開かれているのは、ルルの一番のお気に入りの本。『散歩の末に森に迷い込んだ少女と、彼女を救う王子の冒険の記録』。流石にルルも普段は持ち歩いてなどはいないはずだったが、アリエルが返したばかりの今日、ルルは手荷物に入れたままにしていた。

ぱらぱらと頁をめくりつつ、流し読みをしてアリエルは呟く。

「ほんと、あたしにしてはよく書けてるわ。いつのあたしかしらね。戻ってきたばっかか、それともずーっと後か」

妖精の時間の感覚は人間には理解しきれない。

時間というものは一方向、と大抵の人間は考えている。

しかし妖精にとってはそうではないのだ。まるで幼児がばらばらにして繋ぎ直した日めくりカレンダーのように。

そして内容の良し悪しは、人間以上にアリエルには判別が出来なかった。

ルルが好きと言ってくれている以上、誰にも好かれないほど悪い話ではないのだろう。

けれどこの話が本当に面白いのだろうか? そう考えると、今の自分とはとにかく違う自分が書いたのだろうと思った。

少なくとも、最近でも、少し後でもあるまい。

物語のあらすじは、こうだ。

散歩の末に森に迷い込んだ少女キリカが、家に帰るため、そこで出会った王子と森の中をさまよい冒険する。

森の中は少女にとって不思議なものばかりだ。

蹴り飛ばすとついてくる小石。四本の足があるのに、斜にして二本足にしないと揺れ続ける椅子。自分は不味くて臭くて楽しめないが、謎の影は飲んで楽しんでいる様子の泉の水。存在しない動物たち。他にも、他にも。

彼らと出会い、話し、戦い、時には逃げて、『王子』の助けを借りて少女は森から脱出する。

森から出たキリカは、大人へと戻る。

森は全て夢の世界。

そして彼女は夢から覚めて現実へと。

今日は結婚式らしい。大人に戻った少女は、森の中で出会った者たちを全て忘れて、夫となる男性と素晴らしい現実世界を歩み始めるのだ。

中々上手に書けている、とアリエルは自画自賛をした。

まるで自分や、仲間たちが何回も経験してきたことだ。妖精たちは子供たちに作られ、子供時代に遊び、そして子供たちが忘れると同時に消えてゆく。

この本の主人公はキリカだという。少なくともルルはそう言っていた。

アリエルも言われてそうは思った。けれど、しかしどうしても物語の視点をキリカに固定することが出来なかった。

この物語の主人公は、『王子』だ。キリカに忘れ去られた仲間たちと一緒に、最後の反抗をする。忘れないで、思い出して、と願って。

そして主人公は最後、夢破れて消えゆくのだ。

大人になったキリカは何も思い出すことなく、自分たちは夢幻と消えていった。

冒険譚なのだ、とルルは言っていた。

しかしきっと違う。『これ』を書いた自分は、そう思って書いてはいないのだ。

流し読みをしつつ、開いたのは物語の最後の頁。

キリカは『思い出の森』からついに脱出を果たす。そしてそこで、今日結婚する婚約者と笑顔で話す。

//////////

立ち止まった王子と明るい森の外を見比べて、キリカは戸惑う。

「ねえ、早く。ようやく森の外へ出られるのよ」

そう、ようやくだ。この森の中は色々と怖いものがあった。冠を被った白い蛇はもちろんのこと、首の伸びる白い魔物も、毛むくじゃらの蜘蛛も、森の外では見たことがない。

彼らからようやく逃げられるのだ。そう安堵していたキリカは、尻込みをしているように見えた王子を見てわずかに苛立った。

森の中、ここまで王子が手を引いていた。

しかし構図が逆転する。キリカは王子の手を懸命に引っ張る。だがその努力は実を結ばず、王子の体は地面に縫い止められたかのようにぴくりとも動かなかった。

何故?

戸惑うキリカに向けて、王子はゆっくりと口を開く。

「思い出したんだ」

「……名前を?」

思い出した、そう聞いてキリカは察する。出会ったときに失われていた彼の名前、それが今思い出されていると。

だが、それがどうしたというのだろう。それよりも早く、この森から出なければ。

オオカミの遠吠えが響く。それは、王子の耳にも届いているはずなのに。

キリカの懇願するような視線。しかし、それでも王子は微動だにしない。

「僕と君は、一緒に暮らしていた」

「……いつのこと?」

早く森の外へ出たい。きっとみんなが待っている。

その『みんな』の正体が思い出せずにいることを、キリカはどうしてだかわからなかった。

王子は顔をわずかに上げる。まるで、何かを訴えるように。

「ずっと前。君は僕の国に現れた。僕は、君を妹みたいに思っていた」

「あたしは、貴方なんて知らないわ」

キリカの言葉。それが刺さったように、王子の胸を痛める。その言葉は、王子にとって辛いものだった。

「知っているんだよ。でも、君は忘れている」

王子は涙が出そうになる。思い出したのに、こんな辛い気持ちになるとは思わなかった。目の前のキリカに怒りが湧きそうになり、それでもその怒りが不当なものだとも思い、噛みしめるように左手を握りしめた。

「当然だもんね、もうそれは、十五年も前のことだから」

「十五年と言われても、あたしはまだ……」

キリカは戸惑う。

十五年前。それは自分がまだ生まれていない頃、と思う。

しかし何故だろうか。左手の薬指に、熱い痛みが走った気がした。

握りしめていた手の力を抜いて、王子は息を吐く。精一杯の笑顔を作ろうと、必死に。

「君は今、いくつになったの? どれくらい大きくなって……どんな大人になったのかな?」

「……あたしはまだ、大人なんかじゃ……」

王子の言葉を否定しようとした自分の声に、キリカは驚く。

女性の声、だが先ほどまでの声とも違い、やや低い。そして、それでもわかった。これは、きっと、自分の声。

これはどういうことだろうか。キリカは戸惑い、助けを求めるように一度森の外を見て、それから王子の顔を見た。

悲しそうで、そしてとても、悔しそうな笑み。

「僕の名前を思い出した。僕はシュナイダー」

「……シュナイダー……?」

「……だから、僕はもうここから進めない。僕はここから出られない」

シュナイダー。それが、王子の名前。

口の中で反復して、キリカはその名前を思い出そうとする。そうだ、たしかに自分はその名前をどこかで聞いたことがある。

いいや、絶対に知っている、と確信した。

その名前を口に出そうとすると、何故だか悲しくもなったが。

王子はキリカの手を振り払う。

待って、とキリカはその手を追おうとした。しかし、キリカの目の前に硝子のような何かが出現し、その手を押し留めた。

わずかに白く煙る壁の向こうで、王子は寂しそうに笑う。

「思い出したんだ。ここは、思い出の森」

王子は振り返る。その木々の向こうで、ざわざわと大勢が動く音がした。

「覚えていない? 君が授業中、行儀悪くて椅子から転げおちたこと」

王子の言葉に、キリカは思い出す。学校で一番後ろの席に座っていたキリカが、椅子を傾けて揺らしながら座っていたところ、バランスを崩してクラス中の注目を浴びたことを。

「覚えていないかもしれない。君が昔、道端で蹴り飛ばした小石」

王子は足下から何かを拾い上げる。そしてその拳大の何の変哲もない石を、キリカに示した。

後ろ、木々の中へ王子が石を放り込む。「きゃー」という、何かを楽しむような声が微かに響く。

その音を確認した後に、王子はキリカに手を伸ばす。硝子の壁に、ひたりと押し当てられた掌は、どこか王子の体に比べて小さく見えた。

「覚えていてほしかった」

王子の頬に、一筋の涙が伝う。それを隠すように、王子は外套を翻してくるりと回った。

「覚えていてほしかった。君が昔、一緒に遊んでいた犬のこと」

「……貴方は……!」

その表情に、その仕草に、ようやくキリカは思い出す。

それは十五年前。キリカが十歳の時に亡くなった、老犬シュナイダー。

王子の後ろに、霧のような何かが立ちこめる。

その霧の中に蠢いている様々なものが何かはキリカにはわからなかったが、それでもそれが懐かしいものだと心底思った。

「ごめんね。僕たちはもう君と一緒に行けないんだ」

王子は笑う。そしてキリカの後方を指し示して、笑みを強めた。

「もう君には、君だけの王子様がいるんだから」

キリカは振り返る。その向こうで、誰かが呼んでいる気がする。

森の外、誰も見えないのに。

「……リカ」

それでも、声だけは。

「じゃあね。これからも元気で」

別れの言葉。それを否定しようと、キリカはまた王子に向き直る。

誰かを思い出した。王子が何だったかを思い出した。

「待って! シュナイダー、まだ、話したいことが……!」

しかしその向こうには、もはや何も見えない。

白と黒の混じった斑点が、不定形に揺れている。

「じゃあね……結婚、おめでとう」

そして最後に、キリカの耳にはそうたしかに声が届いた。

「キリカ。よく寝てたね」

「……おはよう、ユーリ」

目を覚ましたキリカは、目の前で笑っている婚約者を見てあくびを止める。

背もたれ代わりの木の幹から背中を剥がせば、滑らかな樹木が自分の体温で温まっていたことを、隙間に入った涼しい風に感じた。

「私、寝ちゃってたのかしら」

手には花かごを持ったまま、キリカは周囲を見渡す。何をしていたんだっけ、ととぼけるように。もちろん、当人にとっては本気のものだ。

見回せば、そこは村はずれの草原。遠くの森で、ウグイスの鳴き声が響いた。

そうだ。たしか自分は、ここに花を摘みにきた。村のしきたりで、……。

「まったく、君の婚礼の髪飾りなのに。花を摘んでる途中に寝ちゃうとか、まったく、君らしい」

ふと唇の横の涎の跡に気が付いて、キリカは拭きながら恥ずかしくなる。しかしまあ、婚約者相手だ、恥ずかしいところなど、とっくに全て見せている。

「なんか、私良い夢を見ていたみたい。聞いてくれる? ユーリ」

「いいとも。でも、道すがらで良いよね、みんなも待ってる」

「……どういう夢か、忘れちゃったんだけど」

「そりゃいいや! はは!!」

笑い話にもなっていない笑い話。

だが、ユーリは笑う。何故だかわからないが、心底面白くて。

そんな婚約者の姿に、キリカは不思議と、幸せを感じた。

それでも、急がなければ。

午後には婚礼の儀式がある。ここで摘んだ花を使って、花冠を作って被る。それが花嫁の最初の仕事だ。

花冠の作り方には自信がない。また、まずは母に聞かなければ。

そう意気込んで、キリカは急かすユーリの後を追う。

もうここにはいられない。何故だか、そう思った。

ふと、自分の名前が呼ばれた気がして、キリカは振り返る。

キリカの目の前に、一瞬だけ、白昼夢が広がった。

そこに森がある。昔登った木があって、庭で出会った時に泣きながら父を呼んだ蛇がいて、大事に育てた三色菫がある気がして。

しかしそれも一瞬のこと。鳥の声に目を覚ましたかのように、キリカは我に返る。

今日のキリカは世界一幸福な花嫁。

一瞬だけ見えた、懐かしい光景。

けれど目をこらしても、もうそこには何も見えない。ただの野原が広がっていた。

//////////

「…………」

読み返し、最後の自分の献辞までも確認し、アリエルは溜め息をつく。

悲劇的な結末だ。

そうだ、その通りだ。どうせ子供たちはいつか大人になり、子供の頃に見た不思議なものを忘れてしまう。忘れないまでも、どうにかして現実的な理屈をつけるようになる。

大人には妖精を見ることは出来ない。信じていないのだから。

もちろんごく稀に、妖精を信じていると語る大人もいるだろう。フランシスたちとの交流の間にも大勢いた。

けれども彼らが信じるには証拠が、根拠が必要なのだ。写真、実物、標本、そういった証拠を見なければ信じられないのなら、それは信じていないということなのに。

溜め息をもう一度つき、アリエルはやれやれ、と首を振る。

だがそこには、悲壮な顔はない。不敵な笑みを浮かべて、今ここにいない物語を書いた自分を笑った。

「これを書いたあたしは、よっぽど後ろ向きなのね。それとも何かあってブルー入ってたのかしら」

アリエルは本を指で叩く。

叩くのは最終盤の頁。キリカが夢から覚めたところ。

叩かれた頁から、文字がはらりと浮かび上がる。それから一文字ずつ立ち上がり、踊るようにしてうねうねと歩き出した文字たちが、相談し合うように顔を見合わせて頷きあう。

自分はここ、お前はここ。貴方は形を少し直して、と指摘し合って、自らの身体を伸ばして縮めて形を変えてゆく。

自分の場所が決まった文字たちは、パタンと倒れてまた紙に染みこむようにして元の文字へと戻る。

文章が書き換わってゆく。

最後に残った終止符は、自分の場所を見失ってパタパタと走り回っていた。

にこにこと笑いながらアリエルはその様子を見守る。

本というのは作者がいる。そして作者とはこのあたしだ。ならば自由に書き換えていいはずなのだ、と勝手な理屈を脳内で掲げつつ。

物語は書き換わる。

過去のアリエルの考えでもなく、未来のアリエルの考えでもなく、現在のアリエルの思いのままに。

//////////

「キリカ。よく寝てたね」

「……おはよう、ユーリ」

目を覚ましたキリカは、目の前で笑っている婚約者を見てあくびを止める。

背もたれ代わりの木の幹から背中を剥がせば、滑らかな樹木が自分の体温で温まっていたことを、隙間に入った涼しい風に感じた。

「私、寝ちゃってたのかしら」

手には花かごを持ったまま、キリカは周囲を見渡す。何をしていたんだっけ、ととぼけるように。もちろん、当人にとっては本気のものだ。

見回せば、そこは村はずれの草原。遠くの森で、ウグイスの鳴き声が響いた。

そうだ。たしか自分は、ここに花を摘みにきた。村のしきたりで、……。

「まったく、君の婚礼の髪飾りなのに。花を摘んでる途中に寝ちゃうとか、まったく、君らしい」

ふと唇の横の涎の跡に気が付いて、キリカは拭きながら恥ずかしくなる。しかしまあ、婚約者相手だ、恥ずかしいところなど、とっくに全て見せている。

「なんか、私良い夢を見ていたみたい。聞いてくれる? ユーリ」

「いいとも。でも、道すがらで良いよね、みんなも待ってる」

「……どういう夢か、忘れちゃったんだけど」

「そりゃいいや! はは!!」

笑い話にもなっていない笑い話。

だが、ユーリは笑う。何故だかわからないが、心底面白くて。

そんな婚約者の姿に、キリカは不思議と、幸せを感じた。

それでも、急がなければ。

午後には婚礼の儀式がある。ここで摘んだ花を使って、花冠を作って被る。それが花嫁の最初の仕事だ。

花冠の作り方には自信がない。また、まずは母に聞かなければ。

そう意気込んで、キリカは急かすユーリの後を追う。

もうここにはいられない。何故だか、そう思った。

ふと、自分の名前が呼ばれた気がして、キリカは振り返る。

キリカの目の前に、一瞬だけ、白昼夢が広がった。

そこに森がある。昔登った木があって、庭で出会った時に泣きながら父を呼んだ蛇がいて、大事に育てた三色菫がある気がして。

そして、もうここにはいられない。

そうもう一度頭の中で反芻し、けれども視界の中に、もう一つの幻が駆け回っていた。

髪の長い少女。その髪は昔自分がつけていたのだろう、懐かしく、けれどもどこか古ぼけたリボンで括られていた。

笑い声を上げつつ少女は走る。じゃれつくように駆けるのは一匹の犬。

転んだ少女は泣きそうになったが、犬に顔を舐められてまた笑う。くすぐったくて、慰められていることを自分でもわかって。

小鳥たちが舞う。

それを見上げた少女の顔は、どこか自分の面影があった。

けれども少しだけ違う。

その鼻や眉の形は、どちらかというと婚約者の顔にも似ていて。

何故だかキリカはその光景が羨ましくなる。

けれども、もうそこにはいられない。

だから、そこにいるのは。

「待ってて!」

胸元を押さえてキリカが思わず口にする。自分でも何故だかわからない。

しかし言わなければいけない気がした。言わなければいけないと思った。

「いつか、私たちは連れてくるから」

ざわり、と野原が動いた気がする。そこにいる誰かが、色めき立った気がする。

「もう少し待ってて。ここに、私の子供を連れてくるから。みんなのところに。だから、いつか私たちの子供と、きっと遊んであげてほしいの」

誰に願っているのかはわからない。

先ほどの幻の犬だろうか。それとも蛇だろうか。三色菫だろうか。

「私と遊んでくれたみたいに」

それでも。だから。

「……それまで、少しだけ……待ってて」

緑薫る野原に声が消えてゆく。

何事か、と婚約者が後ろで見つめている。

背後を無視したまま、キリカは動かなかった。ただ風が草花を撫でる音だけが響いて。

その風の音の中で、応えるように吠えた犬の声が、確かに一つだけ聞こえていた。

//////////

「お生憎様! 今のあたしはそんな悲観主義じゃないのよ!!」

むふー、とアリエルは満足げに鼻から息を吐き、書き換えた物語を愛でるように撫でる。

明日これをルルに読んでもらおう。自分が作者だ、と一言添えて。

喜んでくれるだろうか。

楽しんでくれるだろうか。

そう楽しみの笑みをもう一つ浮かべて、アリエルは本をルルの枕元にそっと置いた。

楽しい夢を見ているのだろうか。むにむにと唇を動かしている義理の娘を起こさぬように。

「子供は一ダースは作って欲しいわ。貴方の子供に会うのは私も楽しみよ。……いいえ、私たちも楽しみよ。泣いても笑っても、いくらでも遊んであげるから覚悟しなさい」

小声で語りかけるようにアリエルは言う。

言ってから、いや、一人で作るのは無理があるか、と少しだけ考え込んで。

だがまあ、それは後で考えよう。

今はゆっくり休んでほしい。きっとこれから、厳しい大人時代が待っているのだから。

おやすみ、と二人の乙女に一声かけて、アリエルは静かに部屋を出る。

そっと、鍵が閉まる音が響いた。