作品タイトル不明
追憶:妖精の証拠
雨の中にアリエルは一人出た。
休憩、と言っているがそうではない。気晴らしが出来なかった腹いせのように憤懣やるかたない思いをどこかに持ちつつ、それを誰にもぶつけないために。
ぽつぽつとまだ雨は降っている。
ハクの頭上に張った布が弾く雨音が緩く耳に届く。
緑に煙るネルグの森はいつもよりもいっそう暗く見えて、灰色がかった景色の中で、奥は薄ぼんやりとした黒い固まりにも見えた。
『不思議な話を』と求め、皆に話させるよう提案したのは気晴らしだった。
気晴らしをしなければいけないほどの気鬱の原因は、昨日ルルに押しつけられるように薦められて読んだ本。『散歩の森の少女』。
主人公の少女は、子供の頃に出会った者たちが集う思い出の森で、子供の頃の思い出たちと崇高な冒険をしてゆく。
そして冒険の最後には、少女は大人になり、思い出を忘れ去り、思い出を捨てて夫との人生を歩み出した。
そう、 思い出(妖精たち) を捨てて。
嫌な話だ、と思った。
結局自分たちは忘れ去られる側なのだ。もしもこの世にいる全てを『自分』とそれ以外に分けたのならば、自分たちは必ずそれ以外に忘れられる。子供の頃は共にいても、必ず『それ以外』の誰かは自分たちを忘れてどこかへ行ってしまうのだ。
最後まで読んで初めて気がついたが、けれどそれは自分が書いた本らしい。それを知っているのは、自分以外には息子ただ一人だが、自分すらも知らなかったというのは意外でも何でもない。
寝て起きた朝の自分が、昨日の自分と同じである証拠はない。明日朝起きる自分が、今日の自分と同じという保証はない。
結局、自分は忘れ去られる側なのだ。自分にすらも。
人はみんな忘れてゆくものだ。
アリエルは自身の経験からもそう知っている。
夢の中で出会ったはずのルルが、自分を忘れていたことなど記憶に新しい。
そして地上に降り立ってここ十数日、自分が触れ合ったはずの人間たちとて同じだろう。その記憶は残らず、残るのは書物や記録の文章のみ。
だから妖精たちは、アリエルはその存在を誇張され続ける。
そして真実を伝えられることはない。
騎獣車の屋根に座ったアリエルを見てハクはその首を傾げて角を振る。
アリエルは緑の匂いのする空気を吸った。
あの日も、こんな匂いだっただろうか。
思い出すのは英国、八月のことだった。フランシス、それに彼女の従姉妹のエルシー、彼女らと出会ってから三年の月日が流れており、既に彼女らの間にはほとんどの遠慮がない頃のこと。
英国の夏でも、嵐でも来たかのような風が吹く寒い日だった。
いつものように小川の端で、アリエルとフランシスは密かなお茶会を開いていた。
流れる滝の水が岩に当たって靄となり弾ける。ふわふわと漂う靄は彼女らを囲み、陽光を反射し渦を巻く。
フランシスは揃えた足を流すように座り、アリエルもその前で同じように、だがしゃんと背筋を伸ばして座る。
「妖精の写真、有名になったみたいよ?」
フランシスは得意げな顔でアリエルを見る。水筒に入れていた紅茶はもう既に冷めていたが、彼女はそれに息を吹きかけながら一口含む。
ご相伴に与ったアリエルの食器は自分で作ったものだ。彼女の身体にあったごく小さなもの。人間からすれば一口にも満たない量しか入らないごく小さなティーカップ。本当はもっと多く飲みたいのに、と彼女は思いつつも、それをここ三年言い出しそびれていた。
「結構なことね」
「この前ね? 新しいカメラが贈られてきたの。もちろんエルシーによ」
「何それ」
「それでまたアリエルたちの写真を撮ってって」
少女たちの写真はその頃とても有名になっていた。
何せ、妖精の写る写真だ。
大人たちにとって、常識的に考えて妖精とは架空の存在。この世に存在するものではなく、夢物語お伽話の中にだけ登場する馬鹿げた存在のはずだった。
けれども彼らにも目に見える形でそれは証明されてしまった。
フランシスたちが発表した写真は最初は二枚。
フランシスとエルシー、それぞれが主役となり写された二枚のものだ。
だがしかし、証拠としてはそれだけでも充分。
最初は現像したエルシーの父親が、それから見せられた母親が『妖精』の姿に驚くこととなった。
更に騒動はそれだけでは留まらない。その写真は一人の神智学者の目に留まり、彼が所属する心霊主義の集まりの中で出回り、更には世界を股にかけるとある作家の興味を引いた。
妖精の写真は、彼らが存在する証拠となる、というのはフランシスの目論見通り。
しかしフランシスの予想を超えて、大人たちに『妖精』の写真は鮮烈すぎた。
その写真の真偽は写真家や画家、また撮影に使われた写真機のメーカーまでも巻き込んで、拡大し、模写され、検証されたその結果『本物』だと認定されることとなった。
『妖精は存在する』。
そう皆が信じ、そして口々に話すことをフランシスもエルシーも喜んでいた。
その大人たちの言葉を伝聞で聞いていたアリエルは、それでも喜ぶことは出来なかったが。
「もうすぐエルシーも来るから、そこでまた写真を撮ろうね?」
「本当に来るのかしら」
「来るよ」
アリエルは両手でティーカップを持ち、上品に飲む。
だがその瞼は憂いを帯びて重くなり、周囲の景色を瞳に映さない。
しばらくエルシーには会っていない。
最初の頃はフランシスに連れられ、毎日のように森で会っていた彼女。けれども、やがて数日おきになり始め、数週間に一度になり、そしてこの一年ではもう会ったことがあるだろうか。
出会った頃には既に予感していた。彼女と『友達』でいられる期間は酷く短いだろう。十六歳という年齢には森は、そしておとぎ話は退屈すぎる。
『王子様』を夢見る少女は多い。けれども十二歳を迎えた頃、少女の『王子様』はおとぎ話の中ではなく、現実世界に存在を始めるもの。
だから、アリエルは予感する。そろそろなのだ、と。
不意に顔を上げて、アリエルは力なく笑みを浮かべる。
「あと五日だったかしら、フランがコティングリーにいられるのは」
「……そうよ?」
「じゃあ七日後にはスカーボローね。学校も楽しみ?」
「うん」
ここ、コティングリーから北東へ約八十マイル。スカーボローにはフランシスの生家がある。
その港町はこの森とは遠く離れ、そして彼女の通う予定の学校があった。
エルシーの家に逗留する期限はもうすぐそこまで迫っている。
学校は楽しみだ。けれど、それを尋ねられて頷いた次の瞬間には、フランシスはそうではない、と首を横に振った。
「でも、アリエルと会うほうが楽しいよ?」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない」
ふふ、とアリエルは笑う。
きっとそれももう一時のことだ。それを思えば、それも作り笑いに近かったが。
「フランは小さいんだから、海に入って食べられないように注意しなさい」
「アリエル、それ前にも言った」
「たしかに前には言ったわね。でも、それは今じゃないのよ」
飲み干したティーカップをいつの間にか放り投げて、アリエルは足を投げ出し座り込む。見上げれば、晩夏、もしくは初秋の気持ちの良い空。……それにしては、風が冷たいけれど。
「ふーんだ。スカーボローには怖い魚なんていないもん」
いるとすれば、鮫かそれとも毒の魚か。だがそんなものが現れれば、あの大きな港町ならばすぐにどうにでもなるだろう。
「そうかしら」
風がアリエルの髪の毛を空中に流す。
目を細めて風の感触を楽しみながら、アリエルは自身の想像を視界の中の青空に投影した。
「その生き物は……」
どうしようか。どんなものがいいだろうか。誰が自分を見て欲しがっているのだろうか。口にしつつ想像するのは、深海を泳ぐ何者かの影。もしくは浅瀬で日差しを照り返して。
それから間を置かず、決めた、とアリエルは続けてゆく。
「四本足の生き物よ。身体は赤。燃えるような真っ赤な色で、それでいて肌はしっとりとしてる。身体は平べったいのに、二つの目が大きくて、上に向かってぽこんと出てるの」
「……大きいのは、目だけ?」
また始まった、とフランシスは思った。
けれども嫌なものではない。時たまアリエルの聞かせてくれる奇妙で知らない生き物の話は、フランシスは嫌いではなかった。
それが本当に知らない生物か、まだ彼女はそれを知らずに。
「口も大きいわ。耳は見えないけれど、その耳まで届くほどに大きく裂けているわね」
アリエルの目の中と、フランシスの頭の中で、その生物が順調に組み上げられてゆく。
赤く、鱗を持たない肌。大きな目、その身体の半分ほどもあろうかと思える大きな口。
「跳ねるのが得意なのね。自分の身長よりも高く跳んで、水の中も泳げるわ。目の前に何かがあれば、その長い舌を器用に使って目にも留まらない速さで食らいつく。フランシスもきっと避けられないわ」
「お肉を食べるの?」
「雑食ね。目の前にある動くものなら何でも食べるもの。虫だって、魚だって、人間だって」
クスクスとアリエルは笑って続けた。
「そしてその食欲は止まらないわ。自分でも止められなくて、食べ過ぎて破裂しちゃうこともあるみたい」
昔アリエルもその生き物に聞いたことがある。『どうしてそこまで食べてしまうのか』『腹八分目で収めようとは思わないのか』と。
だがその生き物曰く、『止められない』のだ、という。目の前に動くものがあれば食べる、だがそれは半ば自分の意思でもなく、自動的なもので自分でも止められない。
……だが、破裂するほど腹一杯に食べるのは本望だ、とも彼は重ねて言っていた。
「目は黄色くて、黒目は細長くていつもぎょろぎょろ周りを見てる」
「そんな怖いものいないよ?」
強がりのようにフランシスはそう言って、その様子がおかしくてアリエルは破顔する。
「だから、いるのよ。海じゃなくてこの森だけどね」
そして、失敗した、とアリエルは思った。
彼が生息しているのはこの森で、彼は海を泳ぐには適さない。
「この森にだって、いないもの」
「あら、何でそう言い切れるの?」
アリエルは青空から視線を切って、フランシスを見る。怖がらせてしまっただろうか。弱々しく、強がりを言うような彼女の反論に少しだけ申し訳なくなり。
だがアリエルとて、譲れないものはある。
「いない証拠は何処にもないわ。森の中を隅から隅まで探し回って、全部の草を刈り取って、それでようやくいないとわかるのよ」
何故アリエルがそんな生物をいると言い切っているのか。
もちろんそれは彼女が彼らを知っているから、ということもある。
だがそれ以上に、いない証拠がないからだ。
「じゃあ、私全部見てくるよ? 端から端まで、ずーっと」
ここは村の中にあると言ってもいいほどの小さな森。
森ではなく、林。そう呼ぶ村民すらいるのだから、フランシスにとっても簡単なことだ。
アリエルにもそれはわかっている。けれども、その話題は平行線で終わらせよう。
「そうしたら、貴方が見ていないところに隠れているのかもね」
また笑ってアリエルは川辺を見る。
視線の先で、一匹の蛙が小さく跳ねて水に飛び込んだ。
「お待たせしました」
少しの後姿を見せたエルシーは、前にアリエルが見たことのある姿よりも幾分か大きくなって見えた。
赤褐色の髪の毛は前と同じく伸ばしたまま。病弱故の細さもそのままで、けれども背は高くなっただろう、と思った。
「久しぶりね」
「エルシー。ちゃんと持ってきた?」
「ええ」
フランシスの問いにだけ答え、エルシーは抱えてきた大きな荷物を野原に置く。
バスケットに入れて持ってきたのは、『妖精』を信じ、彼女ら二人を支援している神智学者から贈られた新型のカメラだ。
「カメオというらしいです。ガードナーさんも随分とご執心で」
少しだけ息を切らして、その息に紛れるようにエルシーは笑う。上気した肌が、冷たい空気の中でも赤くなった。
「少し寒いので、早く終わらせてしまいましょう」
「今日は何枚撮るの?」
「二枚を予定していますけど……上手くいけばいいですね」
フランシスに答えつつ、エルシーはバスケットの中からいつもの紙の束を取り出した。
絵本の挿絵を写し取った『妖精』たち。今日はどれを使おうか、と楽しむように選びつつ。
「もうさすがに抵抗はしないけど、賑やかしとかいらなくない?」
「まずはやっぱりフランシスをモデルにしたものがいいですよね」
うーん、とエルシーは悩みつつ、一枚を手に取る。
視界の端で跳ねた赤い蛙に、写真の演出の着想を見出しつつ。
そうだ、これはどうだろう。
妖精は踊り、跳ねているのだ。嬉しそうに何度か跳ねて、一度大きく跳んだそれが自分の顔に当たりそうになって、フランシスは仰け反っている、というのは。
「……?」
「…………」
エルシーの視線に首を傾げたフランシスを見つつ、エルシーは画角を定める。
写真技師――主に写真の修正が業務ではあったが――として数ヶ月の間働いている間に、見慣れていた写真。その僅かな経験から、きっとこのような画がいいだろう、と導き出しつつ。
「じゃあ、フランシスはそこに立って下さい。あと、これは上手い具合に枝に……」
引っかかるかなぁ? とエルシーは呟きつつ、妖精の絵の裏に取り付けたピンを弾く。エルシーの脳内で、完璧な写真が目に浮かぶ。
「……エルシー?」
「フランシス、早く。今日は寒いんです」
エルシーの名を呼んで、諦めに似た感情がアリエルの中を満たした。
やはり、とも思う。今日エルシーが来る、と聞いてから、既に察していたこの気配は。
フランシスは立ち上がり、一歩だけ歩きつつも『フランシス以外』への指示がないことに戸惑い、その歩調を緩めた。
「エルシー、アリエルはどこにいればいいの?」
「アリエル?」
エルシーはフランシスの言葉に眉を顰める。
その様子を見て、アリエルは耳を塞ぎたくなった。
ああ、そうだ、やはり、と慰めのような言葉が頭の中に浮かんで消えてゆく。
ほんの一瞬のことだ。エルシーが言葉を吐く寸前、その瞬間の思考。
言わないでほしい。それ以上を口にしないで欲しい。
アリエルはそう願うが、しかし時間は誰も待ってはくれない。その瞬間は訪れる。アリエルは望まず、来ないでくれと切に願う瞬間が。
エルシーはもう一度口の中だけでアリエルの名を繰り返し、ああ、と自分で納得する。
「……ああ、そういえば」
黙って、とアリエルは叫びそうになったが、それは堪えた。
諦めている、と自分を納得させて慰めるために。
「妖精はアリエルという名前でしたっけ。そうですね、そういう設定でしたね」
知っていた。
エルシーは先ほどから一度も。
アリエルを見てはいないのだ。