軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ねんねんころり

「放して、放して、よ」

譫言を呟くようにしつつ、トリステが自身を握りしめる指を振り解こうとする。

けれどもその老婆のような筋張った手はびくともせずに、ただ暗闇の奥底まで自身を導いていった。

落ちてゆく感覚もなく。ほとんど暗闇の中で、きらきらとしたものが上に上がっていくことで、自分が下に落ちているのだということを感じる。

戸惑い、そして恐怖。

悪夢の中と同じだ、とトリステは泣き出しそうになる。

やはりここは悪夢なのだ。夢の中で、だから、この世界の全てが自分を苛み苦しませ続けている。

「放してっ……!!」

癇癪を起こすようにして、トリステは指を両拳の鉄槌で打つ。

その衝撃からか、それともトリステの目から零れた滴が上にふわふわと浮かび上がっていったからか、もしくはその他の要因か、誰にもわからずしかしようやく指がはらりと一本一本解けてゆく。

不意に開放されたトリステが、遠く小さくなった空を見上げて唾を飲む。

早く。戻らないと。あの黒眼鏡の嫌な男が、きっとまたあたしたちに何かを仕掛けてくる。

だからあたしは戦わないといけない。戦って、戦って……。

戦って、何を得られるというのだろうか。

遠く見上げた小さな空が滲む。

早く。もうかなりの距離が離れてしまったが、しかし駆け上がるようにして足を踏めば、足場や距離など関係がない。

夢の中の移動など慣れたもの。歩けば元の場所に留まり、立ち止まればどこかへ行ける。ならばこそ、あの男など一足で追いつける。

早く。

少し前は後に来て、後のことはもう来てる。夢の中の法則通りに。

もうあたしは追いついている。だから追いつく。あの男を、みんなを、殺さなければ。

だけど、殺したところで。

踏み出せば追いつける。それがわかっていても、トリステはその足を踏み出せなかった。

力が抜けたように、トリステの身体がふらりと倒れて上を向く。

そのまま落ちてゆく。水底に沈んでいくように。

戦ったところで、殺したところで何があるのだろうか。

幼い日から戦い続けてきた。だから知っている。

戦いで得られるものなどそう多くはないのだ。少なくとも、あたしは得られたことがなかった。小さな日から求めてきたもの。安息、それに幸せな日々。

幼い日に見出された魔法使いとしての才能。

夢を現実にし、現実を夢に変えるこの魔法。

ムジカルでは、才能は使うことが当たり前だ。

才能を使い、自由に生きる。それが国是なのだと稚児組でも兵学でも散々と言われて育ってきた。

その力で戦えと言われてきた。戦場で敵を殺せと言われてきた。

だから戦った。殺してきた。幾千幾万の敵を。

敵を。人間を。誰かを愛する人を。誰かの愛した人を。

親に、教官に、上官に、戦えと言われてきた。

この魔法の力があるから。

魔法使いとしての才能があるから。

そうすれば、きっといいことがあるからと。

「いいことなんて……、……なかったじゃない……」

幼い日のアルペッジョの言葉が思い出される。

これから自分は有名になる。綺麗な着物を着て、立派になる。

それが『良いこと』だと思い続けてやってきた。

五英将として戦い続ければ、たしかにその通りだった。

皆は自分を褒めそやし、地位も名誉も思うがままで、きっとムジカル人の中では王に次ぐ『わがまま』でいられた、はず。

でも本当は、そんなものはどうでもよかったのに。

「……アル……」

一緒にいてくれると言った。一緒にいてほしいと思った。

望んだものはそれだけだ。地位も名誉も宝物も、何一つ欲しいものではなかったのに。

五英将だ。ムジカル軍の最高峰。その地位は王族とも並び、望むものは全て手に入る。

だが最高の宝石職人が用意した豪華絢爛な首飾りよりも、稚児組の祭りの日にアルペッジョにもらった硝子玉のほうがどれほど綺麗だっただろう。最高級の羊肉よりも、二人で分けた飴玉が、どれほど美味しかったものだろう。

だが今日、目の前でアルペッジョは消えた。

弾けるように夢のように、泡のように。

これが夢なら覚めてほしい。夢ならばまたきっとアルが起こしてくれるだろう。そしてここが現実なのだと、少しだけ苦いお茶に砂糖を入れて飲みながら笑えるのに。

ここは夢だと思いたい。

けれども。

夢だと思いたいから。

そう思える度に、違うのだと実感が強くなる。

今ここが夢だと思いたい。ならばここは本当は現実なのだ。現実だと自分は知っているのだ。認めたくないだけで、そう感じられないだけで。

ふと、視界の端に光が見える。

いつのまにか落ちていく速度が酷く緩く、まるで歩いているような速さになっていることに気がついた。まるで二階から転げ落ちたときのように。

光のほうを見れば、そこには鏡があった。彫刻のある木枠がついた綺麗なもの。

明かりがなくとも映った姿はこの三十年以上も変わらない。まるで少女のままで、自分でも可笑しいくらいだ。もっともまずそこで不思議に思わなければいけないのは、落下しているのに目の前にあり続ける鏡のことのはずだったが。

穴の内壁に並ぶ戸棚。

そこには本や調味料の瓶が並ぶ。

幼い日に母が作ってくれた柑橘の砂糖煮の瓶も、空になってそこに。

もう、いいのだ。

過ぎ去る光景はいつもの夢のよう。

何故だか並ぶ戸棚や鏡や家具。そんな今目に映る全てに何の意味も感じられず、トリステの視界が全て滲んで歪む。

そして一瞬だけ目を瞑ったその時に、灼熱の温かい石の床が、そっと背中を支える感触がした。

(底……)

全身の力を抜いてぱたりと手を落とせば、やはりもう落ちてはいないらしい。

見回せば光源のない暗闇でも周囲がはっきりとわかる。四方を石で囲まれた正方形らしい部屋。頭を床に預けて上を見れば、ほんの僅かな光が点のように見えなくもない。

早く。追ってゆくべきだろう、とトリステは思う。

立ち上がり、黒眼鏡を殺し、また街を破壊する。ラルゴに与えられた任務はそれで、今まさに取りかかるべきはそれだ。

だから、立たなければ。立って向かわなければ。

それが自分の仕事なのだ。それが自分の生きる全てなのだ。

兵学で学び、軍に入り出世した。

戦え戦え殺せ殺せ殺せ。

いつしか周りの声はそれ一色になった。

だから自分はそうしてきた。戦ってきた。殺してきた。

敵を。人間を。誰かを愛する人を。誰かの愛した人を。

だから、今からでもその仕事に戻らなければいけない。

あたしには戦える力があるから。

夢を実現する力があるから。

夢を現実にする魔法があるから。

だから、でも。

「……、もう、嫌……」

目から零れた涙が耳の下を滴り床に落ちてジュウと弾ける。

一人になった。これで。

眠るのは嫌だ。トリステの見る夢はいつでも悪夢だ。

悪夢で人を殺すのは嫌だ。人を殺す度にトリステを苛むその住民が増えていく気がする。

起きているのは嫌だ。眠気覚ましを嗅ぎながら、必死で眠らぬように何日でも堪える日々。

いつでも目の奥がジクジクと痛み、妙な寒気と震えが止まらない。視界は奇妙に歪み形を変えて、いつでもどこかから声が聞こえる。

何が才能だ。優れた力だ。

戦いたくなんてないのに。

こんな才能のせいで。力のせいで。

戦わなくちゃいけなくて、そして大事な人を失った。

寝れば悪夢。眠らなければ無限の苦痛。

辛い辛い辛い辛いこんな人生なんて。

「んー?」

ぼやけた視界に誰かの影が映る。瞬きをして晴らせば、誰かが覗き込んでいるらしい。

早朝の空のような水色の混じる金の長い髪。一繋ぎの白い服を着た、女。笑みを浮かべたままの。

「っ!!」

反射的にトリステが起き上がり、振り払うように叩く。その手は泥のような感触の腹に当たり、その女性が吹き飛んでいったのがわかった。

ハアハアと肩で息をし、トリステは女性の行き先を見る。けれども。

「……何よ」

身体が壁に激突した。それはわかったが、しかし壁には何の損傷もない。そしてその上で、女性の姿もそこから消えた。

女性の正体はわからないまでも、しかしそういえば、とトリステは思い返す。

先ほど黒眼鏡の男の後ろにいた。そして彼女を確認したそのすぐ後に、ここに引きずり込まれた。

ならば敵だろうか。それも、魔法使いか魔物使いか、その類いの何者か。

「出てきてよ」

だが敵だろうとなんだろうと、今目の前にいない。それがトリステには酷く不気味に思える。

まるで悪夢の住民のよう。ここは現実、そのはずなのに。

「…………。悪かったわね、驚かせちゃったみたいで」

「……!?」

そして今度はトリステの耳に声が響く。やはり主は目の前にはおらず、そして反響しているようでどこから響いているのかもわからない。

「そこだったら、直接声が届くわ。そうね、お互いに自己紹介しましょう」

「敵なんかと」

「敵じゃないのよ。いいえ、敵かもしれないけれど」

声の主が見えなかったトリステが、とりあえずと目を凝らしたその先に、ふと先ほどの女性が現れる。怪我もなく何事もなく、笑みを浮かべて立っていた。

「私はシャイニーコルト・リデル。貴方は?」

「…………トリステ・スモルツァンド」

「そう、トリステ。よろしく」

よろしく、という友好的な挨拶も、服の裾を引っ張りながらの上品なお辞儀も、しかしトリステは信用出来なかった。

未だに声の出所が判然としない。今目の前にいる女は口を動かしているが、しかしその口と連動しているはずの声がやはりどこか別の場所から響いて聞こえる。

こてん、とシャイニーコルトが首を傾げる。

「先ほどから上が騒がしいの。貴方は何か知らないかしら?」

「知っているも何も」

そんなことは知っている、どころではない。

自分がその当事者だ。起こした者だ。

そう自己紹介をするように、トリステは自嘲するように苦笑しつつ周囲の空間を歪めて悪夢の怪物を召喚する。数十と姿を見せる唇だけの化け物。

だが。

猫が喧嘩をするような音を立てて、悪夢の怪物たちが苦しみ落ちる。

焼け焦げるようにして黒く縮れて床に転がった怪物たちは、それからすぐに透けるように消えていった。

この部屋は灼熱の空気が通った直後。ならばほとんどの生物はここに存在出来ず。

「お仲間さん? ここはまだとっても熱いから、やめたほうがいいんじゃないかしら」

「……そうみたいね」

自分には感じられないが、しかしこの様子ではその通りなのだろう。

トリステは納得し、そしてまた目の前の女への警戒心と不快感を強めた。

怪物たちが空中で焼け焦げるなど聞いたこともなく。そして、ならば、そこで平然と佇むことの出来る目の前の女は。

ひび割れた唇を歪め、ふ、と笑い、トリステは視線を落とす。

「…………さっきまで、上で虐殺が起きていたの。やったのはあたし」

「あら」

「多分、何百人かは死んだんじゃない?」

「そう」

ぶわ、とトリステの全身に怖気が走る。そして次の瞬間には、先ほどのお返し、とばかりの平手打ちに吹き飛ばされ、自分が壁に激突していることが感じられた。

右肩からの衝突に、骨が砕けた感触。頭もぶつけたのだろう痺れに似た激痛に、耳鳴りのような世界の歪み。ずるりと落ちて、しかしやはり壁に損傷はないのが笑えた。

次の瞬間には、トリステの身体は元に復元する。怪我を引きずる自分など、想像もつかないために。

「なんてことをしでかしてくれたのかしら」

「……本当にね」

ふふ、とまた笑い、立ち上がろうとしたトリステの首に手がかかる。

それから片手で首を絞められつつ、自分の身体を持ち上げる感触に目の前の女性の『力』を感じた。

「この前来た子たちは愉快だったのに。貴方は、招かれざる客だったみたい」

「…………」

シャイニーコルトの表情が消える。単なる無表情。しかし浮かべていた笑みが消えただけで、こんなにも恐ろしいものなのだろうかとトリステは思う。

そして、だらりと下げた腕を、上げる気がしないのがトリステは自身でも可笑しかった。

死にたくない、という気持ちは勿論ある。

けれどもそれ以上に、生きていたくない、という気持ちが少しだけ勝る。

そしてその上で、きっとここで首の骨を折られようとも人生は終わらない、という確信だけがある。

「ええと、……シャイニー……?」

「シャイニーコルト・リデル」

「……シャイニーコルト。貴方はあたしを殺せるのかしら」

ざわりと周囲の『何か』が蠢く。

そしてシャイニーコルトは見た。石壁が蔦のようなものに覆われてゆくのを。不自然な小さな看板や手足などが壁から突き出してくるのを。

だが、そんなものはない。

シャイニーコルトがそう念じて視界から外せば、全ては元の石壁に戻る。アリエルの月の部屋と同質、ここミールマンの底は、シャイニーコルトの領域だ。

「私は貴方よりも高位の魔法使いだから、どうにでもできるわ」

「そう」

ふふ、とトリステは笑う。

今の一瞬で理解した。自分を殺せるほどの高位の魔法使い。それは、ここにいる彼女しかいないのだと。

それと同時に、骨が砕ける鈍い音が響き、勢い余った握力にトリステの首が千切れて落ちる。

噴き出す血。だがその血が床に落ちる前に、シャイニーコルトの後ろに誰かが立つ。

見れば無傷のトリステ。そして視界から外したその死体は、跡形もなく消えていた。

「どうしたの? あたしを殺してよ」

応えるように無言で、シャイニーコルトが指先を向ける。

それだけでトリステの身体が爆散するように弾けた。

他人の魔力圏をすり抜けるという高等技術に、魔力の強さと魔力圏の広さが加わる必殺の神技。

そしてそれでも変わらず。

「ねえ」

シャイニーコルトがする必要のない『瞬き』をすれば、肉片も消え去りそこには無傷のトリステが立つ。

……まるで悪夢のようだ。そう、シャイニーコルトはその本質を感じ取り、そして理解する。彼女は殺せない。『ここ』より外に出てしまえば、もはや自分以外には。

どうしたものか。

必要もなく見えもしない溜息をついて、シャイニーコルトはトリステを見る。

トリステはその視線を受けて、また目を伏せた。

伏せられた目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

「殺してよ。早く、あたしを、殺してよ。アルのところに行かせてよ」

もう嫌だ。

こんな世界など。

眠っても眠らずとも抗えぬ苦痛の日々。戦場に出れば殺さねばならない日々。

それでも何とか耐えてきた。

起きていれば隣に幼馴染みがいるから。だから耐えられてきた。

なのに、もうアルペッジョはいない。

現実を現実たらしめていた唯一の相棒を失った。

ならこんな現実は要らない。

こんな現実よりも、夢の中のほうがマシだ。

こんなふざけた現実よりも、夢の中のほうがきっとまともに違いない。

「あたしをっ! 殺してよっ!!」

ざわ、とまた草が靡く音がする。

トリステを中心に、暗い森が広がってゆく。ここにはいないはずの仏法僧の鳴き声がおどろおどろしく響く。

シャイニーコルトの白い足首から、指の形をした虫が這い上がる。獣臭い息が背後から迫る。

湿原のような質感の床が盛り上がり、何者かの存在を示す。目が赤く、三つ。

(……物理的な攻撃は効かない……となると……)

シャイニーコルトが王族らしい整った目を無表情のままにトリステに向ける。

無機質な人形のような目。その顔面を百足が這う。

「貴方、夢はあるの?」

「……あたしの夢?」

「今までの人生でやりたかったこと。心残りでもいいわ」

優しく問いかけられ、トリステは少しだけ戸惑う。

「あたしは……」

けれどもその問いに応えるように、ふと幼馴染みの顔が浮かんだ。

「そう」

お昼寝。おやつ。涼しい部屋。

口にされずとも、トリステの思い浮かべたものとほとんど同じものを読み取ったシャイニーコルト。その鼻の頭に蝙蝠が噛みつく。

「貴方の夢、叶えてあげる」

瞬きのような少しの間、もしくはきっと永遠に。

シャイニーコルトはその蝙蝠を払って捨てて、そのまま右手をトリステに向ける。

そして自身の視界から、右手でトリステを隠すように覆った。