軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話:一滴の夢

王城の一室。数百年間誰も使っていなかったその隠し通路の中。

金髪の男は椅子に座り、黒髪の青年を見上げていた。

では、と目の前で青年が頭を下げる。

子供の時から面倒をたびたび見てきたのに、一向に懐かない青年。まあそれも仕方ない、とは思う。懐かれるような行動を取っていないのは自分でもわかっている。

しかし、そこまで懐かれないような行動をした覚えはない。

何か彼の琴線に、逆に触ってしまったことでもあるのだろうか。

そう、その日カラスを見送ったレイトンは、彼にとって取るに足らない疑問を浮かべた。

視線の先にある階段。その折れ曲がった先を上り、カラスが出ていく。ゴトン、という重たい石の扉が閉まった音がして、それからやや軽めの木製の仕掛けが再び固定された音がした。

「知恵を貸すとは言ったけど、利用しないとは言ってないからね」

青年が去り、静寂。そんな中で、一人そう嘲るように口にする。残念ながら、その言葉を聞いたのは発したレイトンの他には誰もいなかったが。

ふう、と溜息をつきながら、レイトンが空を向く。

もはや天窓の隙間から見える空は真っ黒で、光が一切入らない。

そんな隙間の縁に、星の瞬きに似た輝きが浮かぶ。もちろんそれは星でもなんでもなく、先ほど降った雨の滴だ。

雨漏りをするように、滴が垂れて落ちる。

滴を避けようともせずにじっと見つめる。自由落下に任せた滴は自分めがけて真っ直ぐに迫り、見つめているとその滴に逆さに映った自分が見えて、レイトンは何気なく目を閉じた。

そんなレイトンの瞼の裏に浮かんだ情景。

それは、子供時代の夢。

王都と副都イライン。そのちょうど真ん中辺り。

主たる街道からも少し外れた小さな街。取り立てて名産や目を引くものもなく、ただ村が少し大きくなった、という風情のそんな小さな街に、当時十四歳のレイトンはいた。

何故か、と問われるまでもない。ただ単に生家であるドルグワント家がその街に存在し、そしてその家伝の流派、葉雨流の道場がそこにあるというだけだ。

その日、使いに出たレイトンは、夏の暑い日差しを浴びて目を細めながら街中を歩いていた。

ピリピリした感触の日光が身体を炙り、蝉の声が固まりとなって目に飛び込んでくる。

ろくに整備もされていない道は石畳が乱れたままで、小さな子供はよく転ぶ。今まさに、厚い雲を背にこちらに向けて走ってきた三歳の子供は、あと四歩で転ぶだろう。そう予測したレイトンは、額に落ちてきていた汗が飛ぶのも構わずに、その転倒地点に一歩急ぎ踏み出した。

「……ぉっ……ぅ?」

はし、と横合いから転びかけた子供の肩を抱く。

赤ん坊の時から知っている顔。二つ離れた通りに住むチェンバース家の六男。

そこまで考えて、レイトンは内心、ああ、と呟いた。

「危ないよ」

「……ありがと」

子供の顔が驚愕と笑みで綻ぶ。転ぶと思った瞬間に、助けてもらった。そう考えるだけの頭は既に持っているし、礼を言うだけの良識も育っている。

問題はきっとこの親だ。そうレイトンが周囲を見渡すと、思った通り、知っている顔がこちらに歩み寄ってきている足音が聞こえた。

「おうドルグワントの坊ちゃん。わりいな、迷惑かけたか?」

縦も横も広いその男は、チェンバース。今まさに助けた子供の父親である。口元の周りを覆う濃い髭を気にして、いつもカミソリ負けを肌に作っている男だった。

「いいえ? 別に」

「そうかい。おう、カミロ、飛んで走って人様に迷惑かけるんじゃねえぞ」

「はーい」

ガハハ、とチェンバースは笑う。そして子供を追い払うその姿から、『早く逃げろ』と聞こえてきたのが耳に触った。

「そうだ。今日はうちで取れた野菜を持ってくか? 取り過ぎちまってよ」

(怒ってねえか……? いや、こいつらはわかんねえ)

変わらぬ明るい笑み。しかしその口から出る音はレイトンの耳には二つに分かれて聞こえており、そしてその二つが別々のことを言っていた。

レイトンは笑みを作る。いつものように。

「いいえ。遠慮します。今からお使いなので、荷物が増えても困るので」

「おう、わりいな、引き留めちまったか」

(早く帰ってくれ。話してるのが噂になったらやべえんだよ)

そして、レイトンは知っていた。

声が二つ聞こえるとき、その口から出ていない方の声が、真実なのだと。

視界の端で、助けた子供の頭が叩かれる。ドルグワントと関わるなと小声で忠告をする父親に。

レイトンの後頭部に、その子供が感じた痛みと全く同じ痛みが伝わり、彼は顔をしかめた。

「蓮柑三つに、菊の子四つ……持てるかい?」

「はい」

青果店の店主が、レイトンの持ってきた風呂敷で注文の品を包む。

その言葉の発音から昨日の彼の夫婦喧嘩を読み取ったレイトンは、所帯を持つと大変だなぁ、と暢気に考えつつ風呂敷を縛る姿をじっと見ていた。

それなりに重たくなった風呂敷を左手で受け取ってしっかりと保持する。

「ありがとうございます」

「いつもありがとうね」

(ドルグワントの糞どもが)

内心の声には応えぬよう、微笑みを湛えて、レイトンが頭を下げて踵を返す。残りいくつかの食材と雑貨、それら全てを集めるまで、この苦行は終わらない。

人が喋っていることは、本心とは違う。

レイトンがそれに気がついたのは、四歳を過ぎてからのことだった。

人が喋っている言葉。それは嘘、ということが多い。言葉を口にしているときに、違うことを考えていることなどいつものことで、内容が反対のことを考えているのもざらにある。

当初は理解できなかった。

二重に聞こえる人の声。その二つ目の声は耳から入るものではないが、それ故に耳を閉じても目から飛び込んでくる。

まだ幼い日には、理解できずに、諍いを招いたこともよくある。

とある日、とある雑貨店の女将が生まれたばかりの子供を抱いて店番をしていたときに、その赤子をレイトンに自慢してきた言葉。目元がうちの人によく似ているだろ、という言葉にあった『うちの人』が『旦那』とは違うことに気づいて、その『相手』によく似ていると同意してしまい。

自分が耳にしている二つ目の言葉は、人には聞こえないのだ。

そう理解したのは五歳を過ぎて、六歳になった頃。その頃ようやくレイトンは、人には気づかれたくない秘密があるのだということを理解する。

そしてそれに比例するように、自身も作り笑いが上手になっていった。

「おはよう」

荷物を抱え、帰り道を歩く。すれ違った衛兵が、大きな声で挨拶をする。

もうおはようというには遅い時間帯だが、それを気にする衛兵ではなかった。

まだ村だった頃の、村民達が皆顔見知りだった頃は、その衛兵は子供達に挨拶を強要していた。

通常、見回りをしている衛兵は、威圧のために黙って行動することが多い。

しかし元気な挨拶から村の結束が生まれると、そう信じていた彼は、顔見知りには誰彼構わず挨拶を投げかける。そしてその習慣は、未だに抜けていなかった。

「おはようございます」

レイトンは、それに折り目正しく礼を返す。抱えた荷物が落ちないように気を遣いながら、そしてその衛兵の機嫌を損ねないように。

そんな仕草を見て、表面的な意味しか取れないまでも、衛兵はハハハと笑う。

「ドルグワントの坊ちゃんは今日もいい子だな」

(どうか、俺の警邏中に問題を起こしてくれるなよ…………?)

その見せない内心の怯えに、レイトンはまた内心で鼻を鳴らす。

どうせ、問題を起こしたところで見て見ぬふりをするのだ。ドルグワント家の家業を、未だにこの街の誰も知らないことになっているように。

レイトンは前を向く。

歩く道のそこかしこに、汚泥が溜まっているように見える。誰も彼もそこを知らずに踏み、そして知っていても見なければ同じことだと顔を背ける。そうして自分たちは綺麗なのだと、胸を張って生きている。

嘘と偽りに溢れた街。人の世とは、そういうものだ。

レイトンはそう、感じていた。

ドルグワント家の道場を含めた屋敷は、街の外れにある。

もともと森の中にあったその屋敷は七百年以上前に建てられたときと場所を変えていないが、近くに出来た村や町に飲まれ、いつしかそういうところの一員と見なされるようになっていた。

幾人かの使用人も抱えた家。

長年の劣化により修繕を繰り返しており綺麗とは言えないまでも、それでも作りの良い屋敷。石の床よりも足音の響きやすい板張りの道場。

その道場の縁、縁側に腰掛けて、一人目隠しをしたまま暗闇の中プリシラ・ドルグワントはいた。

明日のレイトンの晴れの日のために、今日は年季が明ける。

二つの嬉しいことがほぼ同時期に重なり、その美しい唇が無意識に綻んでいた。

厚い布を重ねた目隠しを、ゆっくりと解く。これを解くのは十日ぶり。そして眼窩に被せるようにして入っていた詰め物までも取り、プリシラはゆっくりと瞼を開く。

瞬間、眩しい光、良い香り、カラッとした空気、それら全てが目に飛び込んでくる。庭に植えられていた林檎の花が自分に挨拶をした気がして、それに手を振って応えた。

葉雨流に伝わる訓練の一つ、 光無(ひなし) の行。

その明ける瞬間。その瞬間が、プリシラは好きだった。

葉雨流の原則である四禁忌。その内の一つ、視禁。光無の行は、それを身につけるごく基本的なものだ。

簡単にいえば、完全に視界を塞いだ上で十日以上の時を過ごす。通常の生活に加えて、道場の稽古もそのままに。

修行者はその間光のない中で生きる。当然、葉雨流の修練を始めたばかりの者であれば、戦うことなど以ての外。ろくに動くことも出来ずに、使用人の世話になることが当たり前だ。

プリシラとて、七歳を数えて修練に入ったときは、当然その有様だった。

歩けば壁に頭をぶつけ、飯もろくに口に出来ず、既に羞恥心が芽生えている年頃でも、厠では使用人に頼るという屈辱を覚えた。

しかし人体は強い。

一つの感覚を失うと、その他の感覚でそれを補おうとする。

やがて耳が、鼻が、肌が、その代わりをするようになる。音の広がりや匂いの強さ、空気の動きで周囲を視るようになる。

人の感覚、本来そこから受け取る情報の七割は、視覚からだといわれている。しかしそれを捨て去り、その七割を別のところから受け取るようになった葉雨流の剣士。

彼らが更に視覚まで取り戻せば、得られる情報量は莫大だ。

瞬きをしても周囲の景色は何も変わらず、目の前にある花の輪郭が手に取るようにわかる。花弁の一枚一枚の感触までもが、その目で、鼻でしっかりと嗅ぎ取れる。

目と、鼻と、耳と、肌。一輪の花から、その全てに流れ込んでくる命の脈動。

世界には色が溢れている。

それを改めて感じられる瞬間。それが、プリシラは好きだった。

そして。

プリシラは顔を上げる。プリシラの好きなもの、それが近づいてくる音が見えた。

既に見えていた、けれどもやはり目で見るのは違うものだ。

「ただいま」

「おかえり、レイトン」

言いながら、プリシラは立ち上がる。少しばかり暗くなった弟の顔色を気に留めて。

何か嫌なことがあったのだろう。街に出るといつもそれだ。

それを気遣うように、プリシラはレイトンに歩み寄り、黙ってその手に持った荷物の半分を受け取った。

縁側で、仲良く二人が並んで座る。

二人の横に置かれている盆には、レイトンが切った水瓜。プリシラはそれを手に取ると、小さく囓ってそれを飲み込んだ。

レイトンもそれに倣う。同じような動作をしようと無意識に。

日陰に入り、涼しい風が二人の頬を撫でる。そんな中、ゆっくりともう一口水瓜を囓ったプリシラは、口の中にそれが入っていることも構わずぽつりと呟いた。

「……明日だね」

「うん」

プリシラは、唇から垂れる水瓜の汁を手で拭い止めながら。

視線を合わせずに、レイトンもそれに頷く。もっとも、レイトンも視線を向けずとも姉は見えていたが。

レイトンは、明日のことを考える。

明日、行われる行事。それは、木枯らしの試練と呼ばれる葉雨流大目録の試練。

それをこなせばようやく大目録を受け取ることが出来る。この家でも一人前として扱われ、今はまだ兄や姉の手伝い程度だった仕事も、一人で出来るようになる。

「頑張るよ」

緊張に、水瓜の一口が大きくなった。強がる言葉も、ドルグワント家の者であれば、その震えが簡単に読み取れただろう。

プリシラは、そんな弟が愛しく思える。

もっともその試練は、一度で突破できずとも何度でも挑戦できる。命の危険すらない安全な儀式。しかしそれでも失敗を前提にはしないというのは、修練の常識だ。

そして明日は晴れの日。レイトンが無事、葉雨流大目録を受ける日。才能溢れるこの弟なら明日必ずそれを成し遂げるだろう。そうプリシラは信じていた。

決してそれは、贔屓目に見ているだけではない。

レイトンのその才能からすると、それが当然とも彼女には思えるのだ。

四禁忌の行。それは、光無の他に三つある。

花無、音無、風無とあるそれらは、視覚と同じようにそれぞれ鼻や耳や肌の感覚を失わせるものだ。

目的としては光無と同様。封じた感覚を、その他の感覚で補う訓練である。

音を、目と鼻と肌で感じる。ものの感触を、目と鼻と耳で感じる。匂いを、目と耳と肌で感じる。

そんな単純な訓練。そしてそれは、発展していけば同時に行われるようになる。

肌と耳を封じ、音を目と鼻で感じる。目と耳を封じ、形を鼻と肌で感じる。

そんな風に続けていき、最終的には目だけで、耳だけで、感覚器官を一つのみ使い、味覚以外の四感を補うように訓練していく。

既にプリシラも目的深度には達した訓練。

耳で感触を感じ、鼻で形を見て、肌で音を聞いて目で匂いを嗅ぐ。

過酷とは言えないまでも、難しく辛い訓練だ。

そしてその訓練を進めた修行者は、やがてある境地に至る。

共感覚、という現象がある。

通常人間が持つのは五覚。視覚、味覚、嗅覚、聴覚、触覚の五つである。そして通常は、そのそれぞれの感覚で得られる情報源は一つに限られる。視覚では光により形を見て、聴覚では振動により音を聴く、というふうに。

しかし共感覚者はそうではない。その内容は人によって異なるが、音に色を感じ、文字に味を感じ、味に形を感じる。

その共感覚を備えていたのが、葉雨流の創始者、初代の息子である。

彼は風と話し、その地で起きた大昔の出来事をその大地から聞いたという。

葉雨流の四禁忌の訓練。それは、その共感覚者を人工的に作り出す目的で考案された。

人工的な共感覚者。それが、この訓練における最終目的地である。

そして、プリシラの注目するレイトンの才能は、そこにある。

彼は初代の息子と同じ共感覚者。

なおかつ、生まれつき、極めて高い環境感受性も感覚処理感受性も併せ持つ逸材。

プリシラも、兄レオナールも、師であり父であるバルトも文字通り血を滲ませるような日々を四禁忌の修行に費やしたというのに。

レイトンは、それを軽々とこなして見せた。七歳、修行を始めた当初から、目隠しをしたまま歩き回り、耳を塞いだまま会話をした。

あたかも人の心を読むように、仕草、癖から感情や思考を読み取る。彼にかかれば人の嘘など、それこそ『見ればわかる』。

それは今までの葉雨流当主九人が、心底欲しがった才能だというのに。

そんな才能溢れる弟だ。

四禁忌の訓練はもちろん続けてはいるものの、レイトンにとっては何も苦ではない。

そして身のこなしも悪くない。もう一つの条件を、簡単に満たせるほどには。

葉雨流の大目録を受けるために必要な要素は二つ。一つは四禁忌。そしてもう一つが奥義〈陰斬り〉である。

葉雨流は、暗殺剣。獣などを相手にするために発展した水天流とは違い、その動きは『自分』ではなく『相手』を重視する。

全てを断ち切る剛剣は要らない。目にも留まらぬ速さも要らない。

修行で備えた複合感覚を通じ、対象の隙を見つけ、その間隙を縫う一撃を必要な強さで加える。ただそれだけで、人は死ぬのだ。

木枯らしの試練は、その『間隙を縫う一撃』〈陰斬り〉の練度を見るためのもの。

そして、それこそ心配ないだろう。自分や兄には劣るまでも、もはや見劣りしないほどの腕前。

レイトンの目は、プリシラたち『養殖物』とは違う。

より正確に獲物の隙を見て、正確に刃を通すだろう。

(あと少しちゃんと修行したら、追い越されちゃうかもなぁ……)

プリシラは微笑みを湛えて、噛み砕いた水瓜を飲み干す。

喉を通る甘さが、艶やかに輝いて見えた。

「姉さん」

「ん?」

一人当たり水瓜半分。そう決めていた姉弟は、揃って横の盆に手を伸ばす。

まるで鏡に映したように、全く同じ動作でよく似た姉弟は水瓜にまたかぶりついた。

だがレイトンの一口は小さい。まるで一応、とでも言わんばかりの食べ方に、プリシラは形の良い眉をごくわずかに歪めた。

「ぼくは、仕事をきちんと出来るかな?」

「出来るさ。私の可愛い弟だからね」

もはや試練は合格したも同然。そう言っているも同じの言葉に噴き出しそうになりながら、プリシラは本心からそう答える。出来ると願っている、というわけではない。出来るのだ。

「最近思うんだ」

「…………」

「どうして、ぼくたちみたいな仕事が続けられるんだろう」

しかし、ん、とそれに答える言葉は言い淀む。可愛い弟か、それとも後輩か、そのどちらに向けた言葉が良いのだろうと。

何故そんな疑問を、とは答えない。それは、プリシラやレイトンなど、そういった稼業に近しい人間ならばほとんどのものが罹る麻疹だ。

そしてそれが既に癒えてしまっているプリシラにとっては、とても新鮮な疑問だった。

「……みんなはね、悪いことをしたくないんだよ」

「嘘をつくのは悪いことなのに?」

もはや諦めている憎々しい世界のこと。だが諦めているからといって、疑問が消えるわけではない。

自分のことを嫌いならば、嫌いだと言えばいいのに。仮に関係が悪化しても、それは元から合わなかったというだけだ。なのにそれを押し込んで、笑みを浮かべて街の人間は過ごしている。

いいや、今はその話ではない。そう感じたレイトンは、かぶりを振ってその話題を止めた。

そしてそんな仕草を、プリシラは微笑ましく見つめる。

「可愛いね、レイトンは」

悩む彼は心底可愛い。その笑顔を曇らせた顔も、素直に好ましいと思っていた。

「正確に言うと、みんなは自分が悪い人だと思われたくないんだよ。悪いことをしていると思われたくない。だから、人を殺さない。盗みもしない」

「だったら」

「でも」

言いつのろうとするレイトンを、指を振り上げてプリシラは止める。

「人を殺したい。盗みをしたい。それはみんな思うから、私たちは生き残っているのさ。……盗みは私たちもしないけどね」

「自分でやればいいのに……」

「だよね」

ひひひ、とプリシラが笑う。忍び笑いを堪えきれない、というその仕草は、レイトンにも受け継がれていた。

「でも、出来ない。仕方ないよ。人を殺す人は怖い。自分でやったら、誰とも手を繋げなくなっちゃう」

「ならぼくたちは」

「一生繋げないね、もう」

人を殺すという仕事。それに従事する以上、それは受け入れなければならないことだ。

誰が、人を殺す者を信じられるだろうか。仲間に出来るだろうか。

もちろん、人と手を組むことはあるだろう。仕事のために、人手が必要な場合などには。

しかしそれは一時の限られたもの。真に協力し合うことなど、出来るはずがない。何せ暗殺者は、金をもらって誰かを殺すのだ。その『誰か』が、いつ自分になるのかわからないのだから。

伸びをして、プリシラは全身の空気を入れ換える。

芳しい空気。花無の行の後であれば、もっと気持ちよいのだろうとプリシラは思った。

「……明日、試練に合格したときに父さんに言われることだけど、レイトンはどうせ合格するから教えておくね」

「何を?」

「葉雨流の、四つの誓句」

プリシラは笑顔でレイトンの目を見つめる。レイトンが、なりたいと思った綺麗な笑みで。

「一つ、敵と相見えて笑うなかれ。二つ、柄を握りして笑うなかれ。三つ、命を奪い笑うなかれ。四つ、辱めて笑うなかれ」

一つ一つ言葉にする度に、その意味をプリシラは噛みしめる。仕事をする上で、それを守れと葉雨流の剣士が必ず唱える文句の言葉を。

「どれだけ笑わせたくないのさ」

「たしかにね」

ひひひ、とプリシラが笑う。真面目くさった雰囲気をどこかに葬りつつ。

「私たちは嫌われているよ。当然。でも、爪弾きにはされていない。よね?」

「うん」

レイトンは静かに頷く。

買い物は出来る。住処を追い出されることはない。それだけでも、それは街に受け入れられているという確かな証拠だ。

「だから、これからもさっきの四誓句を忘れないこと。破ればたちまち私たちは今の居場所を失うよ」

プリシラは空を見る。庇の向こうに燦然と輝く太陽。それを見て、目を細めた。

「いつかみんな、そういう悪いことを考えなくなるかもしれない。人を殺めるよりも、話し合って決着することを選ぶ日が来るかもしれない。ものを盗むよりも、自分で作るというふうになるかもしれない」

「ならないよ」

「かもしれない、だよ」

レイトンは、そんな展望を感じられない。人の愚かさは果てがしれない。いつの世も、必ず人は争い奪い合い、無辜の人間は不幸になる。それが世の中の道理だ。

だが、プリシラの言葉通り、誰も不幸にならない理想の世が来ることもあるかもしれない。そんな万に一つもない展望が来てほしいと願うような心もまた残っていた。

「だから、そんな日が来るまで。私たちが人を殺してあげるんだ。弱く可愛い人々が互いに手を取り、私たちを不要と言ってのけるその日まで」

もちろんその日が来ても、プリシラに負ける気はない。彼らは弱いからこそ可愛く、弱いからこそ強者たる自分たちに負けるのだ。

「それまでは、私たちはこういう仕事を続けてあげよう?」

暗く、汚れた仕事を。明るい綺麗な道を通りたがる自称善人の代わりに。

そんな言外の言葉まで読み取り、レイトンは「ん」と頷いた。

水瓜を二人並んで食べる。幸福な時間。

そんな二人の耳に、背後から届く足音があった。

「レイトン」

二人ともが振り返り、その先を見る。そこにいたのは、レイトンたちの兄・レオナール。

レイトンよりも髪は長く、プリシラとは違い癖のある毛。茶の混じる金の髪の色は、妹弟よりも父に似ているというのが家人たちの間の評判だった。

もちろん、葉雨流大目録の腕前を持つ彼は、葉雨流次期当主という身分。その日が来れば、家宝である魔剣ユングヴィを父より受け継ぎ、次代を育て始めるだろう。

「はい」

「明日には大目録だろう。その後に備えて鍛錬に付き合ってやる。剣を取れ」

「今から……!?」

「そうだ。今この時からだ」

(明日には試練だろうが)

察しが悪い弟に向けて、レオナールは自ら壁の木剣を取りレイトンへと放り投げる。

次代よりも先に、可愛い弟を。

可愛いという言葉の意味は違えど、彼もプリシラと同じくレイトンへと愛情を向けていた。

レイトンは、そんな二人の愛情を察し、恥ずかしげに木剣を受け取り慌てて礼をする。

「頑張ってね」

(お互い怪我をしないように)

縁側で座り、レイトンが食べ残した水瓜を囓り、プリシラは二人を見守る。

そんな彼女からの言葉と、そして聞こえてきたもう一つの声にまとめて頷き、レイトンは剣の先に兄を見据えた。

嘘つきの彼ら。言っていることとやっていることは街の人間と同じく違う。

けれども前で剣を構える尊敬できる兄。後ろで見ている優しい姉。彼ら二人とならば、きっと手を取り合える。たとえ暗殺者同士であっても。

浅い息を繰り返し、レイトンは兄の隙を見破ろうと目に力を込める。

そしてようやく見つけたそこに向かい、一歩踏み出し、兄の突きを胸に受けて悶絶した。

天井を見上げていたレイトンの頬に、先ほど見つめていた滴が落ちる。

つつと流れていく滴は体温を吸い、最後は温い水滴となって頬から落ちていった。

少しだけ、寝てしまったらしい。

そうレイトンは苦笑し顔を前に戻す。

酷い夢だ。レイトンはそう思った。

既に記憶の端から消え始めているが、それでもほとんどは自らの経験したことだろう。葉雨流の大目録を受ける前の日。

だが、細部は違う。

食べていたのは赤茄子で、プリシラは自分の食べかけを手に取るなどという浅ましいことはしていなかった。

最近の記憶も混同しているのだろう。

自らの記憶の不確かさに、また声を出さずに笑った。

あれから何年経っただろう。約四十年。本当なら、諦めても良いと思えるだけの長い時間だ。

しかし、諦めるわけにはいかない。それが、暗殺者の家系に生まれた自分の務めだ。

脚本に意識を戻そうと、一度深呼吸してレイトンは王城内の様子を脳内で再確認する。

聖騎士に紛れ、下働きに混じり、時には調度品の位置や角度を調整してこの王城内の人間たちの意識を操作してきた。

様々なことをした。功を奏したこともあったり、まったくの無駄骨だったこともあったり。

父に叱られる娘の姿は見物だっただろう。経験の少ない大仕事をを全うしようとする見習い料理人の試行錯誤は見ていて面白かっただろう。

そしてそんな中で、やはりあの少年は一等役に立った。

もちろんそのうちの何割かは偶然。しかし、その偶然がとても重要となった。

勇者が誰かに恋するようには仕向けた。しかし、数多くの中で、引っかかったのが あ(・) の(・) ルル・ザブロックだったとは。

やはりあの少年はツキがある。もはや少年とはいえない青年で、そのツキが本当に彼に向いているのかはわからないが。

今日彼には、ルル・ザブロックと一緒に王城を回ることを薦めた。それは確かに彼女と彼の悩みを解決する一助にはなるだろう。

だがそれ以上に、きっとそれは価値を持つ。

これでカラスはルル・ザブロックとまた一歩距離を縮めるだろう。それに伴い、両者の周囲で令嬢たちが騒ぎ始める。羨望と悋気の的として。

そして勇者も、そろそろ準備期間が終わるだろう。エウリューケも手を貸し、そしてヴァグネル・ラルスナー魔道師長指導の下、そろそろその目も曇り始めるだろう。

その時、プリシラはきっと黙ってはいられない。

……そこまで考えて、なんて自分は弱いんだろう、とレイトンは自嘲する。最後の最後には、仇敵ともいえる敵に頼らなければいけないなんて。

だが。

もう少し、もう少しで悲願が叶う。

今回の流れはいつもと違う。それは、あの青年がいるからか。

わからないが、ともかくとして、この四十年、届かなかった手が今度こそ届く気がする。

「……ようやく、貴方からの依頼が達成できそうだよ。父さん」

胸の前で握りしめた拳。

宙を見つめるレイトンの目には、暗闇の中でも光が灯っていた。