軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

決めたのなら

「カラス様は、ムジカルへ渡りたくないのでしょうか?」

ディアーヌを全く視界に入れず、扇子で口を覆ってルネスは僕を覗き見る。目だけしか見えていない表情には、いつものような笑みは見えない。

「ムジカルへ行きたくない、という感情がないといえば、それは首を横に振ります」

いいえと簡単に言うべきだろうか。

いやしかし、僕の本心としての答えはそうではない。故に答えはよくわからない表現で返す。ごく簡潔に言えば、行きたくないわけではない、といったところだろうか。

もったいぶっているわけではないが、ルネスの意図がわからない。僕からの注釈はいらないだろう。

我が意を得たり、とルネスが扇子を揺らす。口元が見えないように。

「ならば、行きたいのですね?」

「その質問でしたら、また答えは『いいえ』です」

行きたいわけでもない。ムジカルはたしかにこの国よりも僕には過ごしやすかろうが、そこには人間たちがいる。

その人間たちもこの国の人間よりは素直でいい人たちではあるだろうが、それでも人間だ。

ルネスが眉を顰めて首を傾げる。

意味がわからない、と言葉よりも先に表情で伝えていた。

「ムジカルからの勧誘をルル様から伝え聞いているのであれば、その結果もご存じでしょう。以前より話はありましたが、私はその場でお断りしました。今のところ、行く気はございません」

何より、ムジカルへと行けば戦争へと参加しなければいけなくなる。敵であるならば、人を殺すのに抵抗などはもう持たない。けれども、積極的にその場に出たいほど、人殺しが楽しいわけでもない。

前世でも今世でも、そんなものに関わりたくはない。

サロメがおずおずと口を開く。

「お嬢様も仰っておりましたが、私もきちんと見ていました。カラス様は、お断りになってございました」

それから、ね、と声に出さずにルルにサロメが問いかける。ルルは少し視線を下げて、気づかない様子だったが。

しかし、もしかしてこれは尋問なのだろうか。潔白だとルルもそう言ってくれてはいるようだし、もちろんそれは嘘ではないのに。

ならば。

「僭越ながら、私も、ひいてはザブロック家もムジカルには一切関わりありません。なにかしらの背信をお疑いでしたら、それは」

「そういったことは心配などしておりません」

僕の言葉を遮りながら、ルネスがピシャリと閉じた扇子を机に置く。その代わりに持ち上げた紅茶を一口含んで、ゆっくりと飲み込んだ。

「でしたら、何も……」

ルルもその言葉が意外だったようで、眉を顰めてルネスに言う。ということはルルも僕と同じ事を危惧していたのだろうが……。

ルネス的には違うという。じゃあ、何を?

次の言葉を待っていると、ルネスがまた意を決したように僕を睨む。

「ならば、お尋ねしますわ。何故、ムジカルの勧誘をお断りになったの?」

目に怒りが見える。意図としては、行けばよかったのに……でもない気がする。

それに、その辺りはルルは話していないのか。

「戦争が終わるまで、私はザブロック家に仕えておりますので」

「ザブロック家に仕えているから、ムジカルへは行けないと言うの?」

「……その通りですが……」

なんだろう。

何か話が食い違っている気がする。同じ話題を話しているはずなのに、違うことについて話しているような。

「あの、失礼ですが、どうにも要領を得ないといいますか」

「…………」

暑くもなさそうだが、また開いた扇子でルネスがパタパタと顔を煽ぐ。不満げな顔をもはや隠さずに。

「……ならばもう一度お尋ねいたします。ザブロック家に仕えているから、ムジカルへは行けないと言うのですね?」

「その通りですね」

同じ質問。なんだいったい。

机の下で足が鳴る。ルネスが思い切り踏みつけた音だ。

それからルネスは音を出さずに大きく息を吸った。

「なら、ザブロック家がなければ、貴方はムジカルへと行けたのに、ということですね!?」

「?? いいえ?」

「は?」

やや大きな声で怒鳴るように口にされた言葉に、戸惑いながら僕は返す。

だがその返しが予想外だったようで、ルネスは口を開けたまま固まった。

この反応は……。……?

いつの間にか始まっていたディアーヌの鎧打ち二本目。

その声と革が打たれる鈍い音を背後に、僕は言われたことを整理する。何の気なしにちらりとディアーヌたちを見たときに、半笑いのクロードと目が合った。

整理すると。

ルネスは、僕とルルがムジカルに勧誘されているという話をルルから聞いた。

ルルとサロメは、僕がそれに乗らなかったと証言した。

しかしルネスは僕がムジカルへ行かなかったことを咎めて……。

咎められたっけ?

いやまあ、ムジカルへ行きたいかという問いには僕は否定を返しているし、その辺りはちゃんと考慮されていると思うんだけど……。

??? やはりよくわからない。

そもそもルネスは何を怒っているのだろうか。

眉を顰めたルネスは、頭痛を誤魔化すように少し俯いて顰め面で目を瞑る。

「……少し、整理させてくださいな」

「はあ、どうぞ」

ルネスも戸惑っているらしいが、僕もよくわかっていない。

助けを求めるようにルルを見ても、不可解、という顔で首を傾げていた。

「ムジカルへは、行きたいのですか?」

「行きたいわけではないですね」

「では、行きたくない?」

「別に行きたくないわけでもありません」

ん? という顔でルネスが考え始める。それから数瞬の後、ようやく何か納得したような顔を浮かべた。

「……つまり、どうでもいい、と?」

「それが一番近いでしょうか」

何かしらの問題の答えがわかったように、ルネスが顔を明るくする。

そして元気よく扇子を広げて、楽しげに笑った。

「そ、そうでしたの。おほ、おほほほほほ」

明らかに作ったわざとらしい笑い声。横目でちらちらとルルを見ていたが、何か示し合わせてもいなさそうな様子だった。本当になんだいったい。

先ほどまでの怒気が消えて失せて、今度は慌てるようにルネスが話題を変えるよう声を上げた。

「……しかし、もったいなくありませんこと?」

「何がでしょう?」

「その腕を、ムジカルで振るえないなんて」

「元々戦争などの戦場へ出たいという願望は一切ありませんので、私的には何も……」

もったいない、か。

……もったいないだろうか? そのために鍛えたわけでもなく、そのために得た力でもない。それなのに。

僕の持っている力だ。その使い方を決めるのは僕だ。

しかしまあ、魔法は生来のものでも、体術は鍛えて得た力だ。

……そもそも、何のために鍛えたんだっけ。

「では、確認なんですが」

ずい、とルネスが身体を傾ける。座っている位置は全く変えずに、それでも顔にかかる影が変わって何となく問い詰められている気がした。

「たとえば、ヴィーンハート家に雇われておりましたら、ムジカルへは行きましたか?」

「同じ理由で行かなかったと思いますが」

「では、たとえば……」

ん、とルネスが悩む。というよりも、言葉を選ぶ。

「たとえば、誰にも雇われていなかったとしても、ムジカルへ行く気はなかったのかしら?」

「そうですね。個人的な理由で心惹かれていたのはたしかですが、おそらく行くことはなかったでしょう」

勇者召喚がなければ、初めてカンパネラに会ったあの日に即決していたかもしれない。

あの頃は、とにかくあの街を出たかった。行き先を選ばないほど。

ルネスの笑顔に、後ろめたいような苦笑が混じる。一度視線をルルに向けて、それからまたわざとらしく笑った。

「そ、そうでしたの。申し訳ありません、少しばかり私にも誤解があったようです」

「誤解が解けたのであれば何よりですが……」

そもそも何故怒っていたのだろう。

ムジカルへ行く気があった、というのが癇に障っていたのだろうか。もしもそういった背信行為が癇に障っていたのであれば、僕に怒る前に然るべき場所に相談するべきだと思うが。

「ですが、私は貴方のそのはっきりとしない態度も問題あると思いますわ」

「はっきりとしない、ですか?」

「ええ、そうですとも。余計なことを付け足さずに、初めから行く気がないと仰っていましたら、ルル様も…………」

あ、とルネスが口を噤む。僕というよりも、ルルからの視線を遮るようにまた扇子を広げた。

……ええと、余計なこと? それにルルというと……。ルルが何か言ったと?

ルネスの言いたいことを類推しながら、僕は以前話した人に対して思いを馳せる。

やはりこういうことはエウリューケやササメなどと話した方が随分と話しやすい。

自分が言いたいことを気にせずはっきりと言ってくれる。あまり意図を汲まずともいいというのはやりやすい。

どちらかというと、彼女はレイトンに近いかもしれない。あの男は極端だが。

そしてようやく、ルネスが怒っていたことに思い至る。

一瞬、ルルが殊更に何か僕を悪く言ったのかと思った。だがルルは、あの日のことをそのまま話しただけなのだ。

ルルの方を向くと、ルルもどこか緊張が解けたように頬を緩めていた。

「申し訳ありません。嘘でもありませんでしたが、一言多かったようです」

「いえ……余計なことを話してしまい、申し訳ありませんでした」

僕が言うと、ルルも謝る。なんというか、ルルが謝るようなことをしてはいないのに。いや、割と重要なことをルネスに漏らしたのは一応彼女の失態だったか。

視界の端で、サロメが首を傾げてちょこんと立っている。

未だに何が起きたのかわかっていないようで、それでも雰囲気が変わったので一段落した、程度は読み取れていると思うけれど。

いやまあ、僕も正直ルネスの言いたいことを全部読み取っている自信はない。

でも多分また僕の悪い癖が出てしまったのだと思う。

ムジカルへ行く気がなく、現状行かないと決めたのは僕。

なのにそれをルルのせいにしてしまったのだろう。

リドニックの騒動で僕は、自分の決定を、人のせいにしないと決めたのに。

「うっ…………!!」

一段落して、少しだけ令嬢二人が会話を始めたのを横目に見ていると、ディアーヌの一際大きな声が上がる。

華やかな声ではなく、呻くような低い声。

それもそのはず。ジグの木剣、その抜き胴が綺麗にディアーヌの腹部に入り、しかもディアーヌも備えがなかったらしい。四つん這いになるように倒れ込み、口からは涎と……血混じりの液体が漏れていた。

まずいか。

「カラス殿」

「失礼します」

ルルたちに声をかけてから、僕はクロードの声に応えて小走りで歩き出す。防具越しの一撃、ではあるが腹筋を固めたり身体を捻るなりの防御行動を取らなければ普通に痛いだろう。

そして今回は、『痛い』では済まなかった。

「私は、まだ……」

「一度治療をする。続けるかはそれからだ」

顔を上げて懇願するようにしているディアーヌに歩み寄り、とりあえず座らせる。動きづらい革の鎧故にだろうが、令嬢としてははしたない足を少し開いた長座で。

細かい傷は置いておいて、最後の一撃からすると肋骨だろうか。

「失礼しますね」

手を当てて、魔力で中を探る。革とクッション越しではあるが、闘気を使っていない今ならば充分だ。

そしてやはり折れている。第十一肋骨骨折。ずれはほとんどなく、亀裂といった感じではあるが。

「ちょっと変な感じすると思います」

「え……っげぃ!」

位置を整復しながら、骨を繋ぐとディアーヌが変な声を出して呻く。肋間神経に障って痛いだろうけど我慢してほしい。

もちろんそれは一瞬で終わり、やや乱れた呼吸をディアーヌが恥ずかしそうに治めていく。肋骨骨折に、打撲。

……さっきのはそれだけには見えなかったが。

消化器官や肺への損傷は見当たらない。ジグも上手く当てているのだろう、内臓系に重大なものはない。

でも、ならさっきの吐血は?

「……ついでに全部治してくれまいか?」

「そうですね」

「え、いや、あの?」

戸惑うディアーヌの腕を取るようにして、そこに魔力を通す。思った通り、ほぼ筋肉への打撲だけだ。痣だらけではあるものの、骨や腱に大きな影響はない。

鎧越しに腿や背中に触れる度に、戸惑いを大きくしたような声をディアーヌが発する。それを無視しつつ、僕はその怪我を治療していった。

「ち、治療というのは……?」

「私魔法使いなので、治療も出来るんです。我流ですが」

「まほ……!?」

ディアーヌの言葉に適当に応えながら、その中身を探っていく。

吐血……なのに傷はない。何故だろうか?

「しかし、カラス様は、闘気を使って……?」

「どちらも使えるんです。珍しいので内緒にしておいてください」

条件反射のように適当に言葉を吐いていく。

そして、その会話が少しヒントになった。……ジグはディアーヌの頭部に攻撃を当ててないのに。

滑舌が、少しおかしい。

「口を開けてもらっていいですか?」

「…………え?」

やってもらえなかったので別にいいや。その左頬に手を当てるように添えて魔力を通せば、口の中に傷がある。どちらかというと、さっき自分で噛み千切ったらしい。

よかった。消化管の損傷ではない。

「以上です」

僕が立ち上がり、クロードを見ると、ディアーヌもようやく気が付いたらしい。

痛みが消えた手足をさするように探り、また動かして確認していた。

「どうする? まだ続けるか?」

それを見下ろして、クロードが挑戦的な笑みを浮かべる。

「しかし……」

「お前は余計なことを言うな」

もうやめよう、と提案しようとしたのだろう。しかしジグが口を開くと、クロードはそちらに視線を向けずに止める。

ジグ的にも辛いだろうに。クロードの命令なので責任はクロードにあるとはいえ、貴族の令嬢に怪我をさせたのは彼だ。

「先の様子では、あばらが折れておりましたな。俺も経験がありますが、あれは痛い痛い。息をするのも辛くなる」

クロードが確認をするように僕に視線を向けてきたので、僕も頷いて応えた。

そして、もういちど、とクロードはディアーヌに視線を向ける。ディアーヌもさすがに大けがは堪えたのだろう、額の汗も拭わず、怯えるような目を返していた。

「どうする?」

ディアーヌは唾を飲む。それから目をきつく瞑り、大きく深呼吸を二度繰り返した。

それから、睨むようにクロードを見返す。

「……お願いします」

「次はもっと痛い思いをするかもしれませんが?」

「お願いします!」

出ていない鼻血を拭くようにして、革の手甲で鼻の下を拭ってディアーヌが立ち上がる。

治った手足だ。問題ないとはいえ、まるで元気のあった最初と同じように。

鎧打ちが再開される。

先ほど怪我をさせたとはいえ、やはり稽古で慣れているのかジグの剣は緩まない。ジグがディアーヌの剣を受けたらそれも治すのは僕のはずだが、そういえばまだジグは一撃ももらっていないようだ。……当然か。

「……どうでしたか?」

「肋骨……この橫腹の辺りの骨が折れていました。それに加えて打撲も無数にありましたが、現在は治っているでしょう」

もっとも、今新しく作られたようだが。ルルに応えながら横目でディアーヌたちを見れば、ディアーヌが今まさに不用意に出した左手首を打たれていた。

安心したかのように表情を緩めるルル。だが、ルネスは首を傾げた。

「でも、薬など使ってはおりませんでした……よね?」

「はい」

「……カラス様は治療師でいらしたの? 薬師ではなく?」

「治療師ではありません。魔法使いで、薬師なのは本当ですよ」

ルネスがまたよくわからないものを見る目で僕を見た。まあ、先ほどから常識外れのことを喋っている自覚はある。

「ディアーヌ様にもお願いしましたが、治療の業を使ったのは秘密でお願いします。治療師たちにこれ以上睨まれたくはないので」

「いえ、あの、ですが演武では闘気を……?」

「お願いします」

ディアーヌの真似をしたわけではないが、僕も言葉を繰り返す。それ以上の質問に答えるのは少々面倒くさい。

納得できない様子ではあったが、ルネスはまたルルにわずかに視線を向けて、矛を収めた。

「そういえばルネス様は」

ルルが声を上げる。話題を変えようとしてくれているのだろうと読み取れるような必死さが垣間見える気がする。ありがたいが、腹芸は苦手らしい。

「ルネス様は、勇者様の方を見に来たのでは?」

「…………ええ、そうでしたけど」

ルネスがルルの言葉に応えて僕たちのいる練武場の逆の端の方を向く。

遠くにいる一団。全く気にしていなかったが、あそこに勇者が今……あれかな?

蟻のように見える人間たちの中で、服装が少しだけ違うような人間を見つける。目に少しだけ力を込めてみれば、その顔はたしかに勇者だった。しかし、大変そうな。

「今、何をなさっているのかしら」

ルネスが僕に向けて問いかける。その予定まで把握していないのだろうか。

「穴掘り、でしょうか。掩体を作る訓練……?」

何をしているのかは僕も自信がない。けれども見える範囲では、たしかに勇者たちはスコップを手に穴を掘っている。

ああいうのは聖騎士団ではなく騎士たち下っ端か、魔術師がやるものだと思っていたけど。

目をこらしてよく見てみれば、地面には細い縄を縦横無尽に埋めてあるらしい。時々大きな鋏などを使って切断している様があった。

……とすると、想定しているのはやはりネルグの土地だろうか。

「あれは単なるしごきだな。今日は大変だ」

話しているうちに、声がかかる。

クロードの声、そこに振り返ると、鎧打ちをやめて三人ともが少しこちらに近づいている影があった。

「ベルレアン卿、ごきげんよう」

「ご機嫌麗しく、ヴィーンハート嬢……様の方がいいだろうか」

「どちらでも」

その先頭にいたクロードはルネスと軽い挨拶を交わす。くすくすと、何となく双方楽しそうに。

しかしそのクロードの背後に視線を向けると、やや恥ずかしそうに侍女に肩を借りたディアーヌがその斜め後ろを歩いていた。

「すまんが、腿の治療を頼む」

「もうですか?」

というか、呼ばれれば行ったのに。いや、気を抜いていた僕が悪いか。申し訳ない。

「ジグが良すぎるのを入れたらしい、さすがに動けなければ剣の訓練にはならん」

言いつけるようにクロードが僕に言う。その言葉を聞いたジグから、本当にバツが悪そうに落ち込んでいる気配が見えた。

「訓練ですし、仕方ないでしょう」

「おう、次からはさすがに少し弱めにな」

僕の言葉に応えて、クロードはジグに他人事のように呼びかける。それを無視するように、ジグはディアーヌに向かって「申し訳ない」と一言謝った。

ディアーヌの方では全く遺恨などないように、凜とした笑顔でそれに首を横に振った。

「私がお願いしていることです。不覚を取りまして、申し訳ありませんわ」

「そう言って頂けると助かります」

ふう、と一息ついてからジグがクロードを睨む。何かあったら責任はクロードが取るらしいし、やはり今のところ問題はないようだけど。

まあ何事も起こっていないように、僕が治せば問題ないだろう。

「また一度、座って頂けますか」

「お願い致します」

痛む顔を見せず、それでも一度顔を顰めてゆっくりとディアーヌが座る。心配そうにその顔を侍女が見つめていた。

魔力を通して探る。位置的には太腿というよりは股関節らしい。大転子部の骨折、それに伴い繋がる腱が剥離していた。

やはり単純なものだ。

「他は……」

「今のところ平気です。後でもう一度まとめて治して頂けますか」

「……構いませんが」

今腕を軽く回していた感じでは、肩甲骨やや下に打撲。僧帽筋も打たれてる。手足にも既に痣が出来ているようだが。

そして一応水分補給の時間らしい。

各自、竹の水筒から水をちびちびと飲む。次があるならばそれ用の血栓防止など含めた薬湯でも用意しておいてあげたいところだけど。

……いや、次などない方がいい。何を考えた僕は。僕が関わらない以上、まさしく望ましい方向に進んでいるというのに。

思考を強引に切るように、僕はクロードの方を向く。

「勇者がしごきを受けている、というのは?」

「……ああ、あれか」

僕が問いかけると、クロードも目を細めてそちらを見る。彼らの何かの演習は、まだまだ続いている様子だった。

「各班ごとに分かれて、割り振られた大きさ、深さの穴を掘る。また埋め戻すし穴に意味はないんだけどな。一番遅い班は色々と罰があるからみんな必死になる」

「以前は槍の訓練に混ぜてもらっている様子でしたが。今回は、何のためにそんなことを?」

しごきというのはどういうことだろう。勇者は戦うために呼び出された。ならば受けるべき訓練は……というのもあまり思いつかないんだけど。とりあえず日本で民間人だった彼が受けるべきは、戦う能力を養う訓練ではないだろうか。

まさしく前のような。

まさかとは思うが、一度ここを立ち入り禁止になった彼に対する当てつけということは。

そうは思ったが、クロードは僕の思考を読んだように首を横に振った。

「たまたまその時テレーズの団がやっていた訓練が槍の訓練だったというだけだろう。勇者が加わったからといって、訓練の内容が変わることはないよ」

「……とすると、全員がしごきを受けているというように聞こえますが」

「まさしくそうだぞ。団の結束を高めるために、そして上下関係を叩き込むために定期的にやるんだ。もちろん、いざというときに穴も掘れるようになるという目的もあるけどな」

ははは、と愉快そうにクロードが笑う。

だがその笑みも、すぐに消えて今度は不敵なものになる。

「戦場で最後に立っているのは、もっとも苦しい鍛練を積んだ兵士の団だ。個人の強さももちろん重要だが? ああいったことも、必要だから行っている」

文句は言わせない、とばかりにクロードはそう言い切った。もともと文句を言う気もないけれど。

「そろそろ、休憩もいいだろう。さて、後二本、苦しい稽古の続きを始めるとしようか」

水を飲みきり、完全に一息ついていたディアーヌに向け、クロードは清々しい笑顔でそう告げる。既に水は飲み込み終わっていたはずだが、ディアーヌはその言葉に何かを飲み込んで頷いた。

「お頼み申し上げます」

「任された……もちろんジグがな!!」

ふははは、と笑いながらクロードがまず僕たちの下から離れていく。

そして、ジグも面倒というか嫌そうに。

それから最後に、ディアーヌも。

だがディアーヌは一歩踏み出すと立ち止まり、つま先を地面に当てて少しだけ足首を捻る。

こちらは打たれたわけでもなく、ただ動いてる最中に捻って痛めているらしい。それに加えて、開閉して確かめている手もだろうか。ジグの剣を受ける際に握りが固すぎて、小指と薬指に異常が出ている、のだと思う。

僕は一歩歩み寄り、その後ろ姿に声をかける。

「治します」

「……!! ああ、いえ!!」

声をかけられるとは思っていなかったのだろう。ディアーヌは慌てたように振り返る。隠すように手を後ろ手に回すが、既に丸わかりだ。

「怪我をした部位を庇って変な癖がつく、というのは鍛錬の邪魔です。時間はかかりませんので」

「…………っ」

僕が手を差し伸べると、そこに被せるようにディアーヌが手を乗せる。分厚くなった肌に中で筋肉がうねるような手。練習の証。

とても、綺麗な手だと思う。

ただ筋を痛めているだけだ。すぐに終わり、次いで足首にかかる。しゃがみ込んでそっと手を当てると、布越しに鍛えられたふくらはぎが当たった。

「ではまた、お気をつけて」

「はい、ありがとうございます」

ジグたちは待っている。引き留めたのは僕だが、待たせてもまずい。その袖から見えた痣は、後でいいだろう。

「もう、今日はこのくらいでよろしいのでは?」

僕の横で、ディアーヌを見ていた彼女の侍女が声を上げる。彼女にも、痣は見えたらしい。

「……いいえ」

「ですが、今日は初めてですし、次回また日を改めてでも」

「そうですよ、ディアーヌ様の身体が壊れてしまいます」

侍女の言葉に、ルルが重ねるように参戦する。どちらも彼女の身体を気遣う言葉。その言葉はどちらとも、悲痛な響きに聞こえた。

「ケテ。貴方は湯浴みの準備をしておいて」

「ですが」

「ルル様、お気遣いありがとうございます」

言いつのろうとする侍女を遮り、ディアーヌはルルの方を向く。

「ですが、……」

それから、負の感情の一切見えない清々しい笑みを浮かべた。

「そのお気遣い、深謝と臆念の上で」

「どうしてそこまで」

「絶対に、やめませんわ」

言い切って、ディアーヌはぺこりと頭を下げる。

それからジグたちの下へと走っていったディアーヌは、腕の骨と脛を痛めながら、宣言通りに鎧打ちを二本やり通した。