軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話:日も落ちて

「………」

一人の老人が、椅子に腰掛けて微動だにせず佇む。

木の机越しに部屋の入り口を向いて。

鳥の声が部屋の外で響く。朝を示す鶏の鳴き声は町の方から、そして小鳥たちのさえずりは壁越しに小さく。

温かな色の朝日が窓から差し込み、時たま小鳥たちが通る影に光が揺れていた。

閉架式の小さな商店の受付。

もう五十年以上の間、老人はここに座ってきた。毎日、朝から晩まで。

朝は日が上るよりも早く、夜は日が沈むまで。

あらゆる商品を仕入れて正確な値付けのもと売りさばく。貧民街にあるこの石ころ屋には、普通の人間はなかなか足を踏み入れない。来るとしたら、貧民街を住処とするいわゆるならず者たち。ほとんどが、街に持ち込めば衛兵の厄介になるような品を手に、または求めに訪れていた。

勤勉。ただそこに腰掛けているだけの見た目とは裏腹に、彼はこの街で、この副都でもっとも勤勉といってもよい働きをしていた。

休息などない。

定期的な報告が数百の部下たちからひっきりなしに訪れる。その情報を精査し指示を出す。その合間、時たま現れるこの店の正規の客の相手をし、交渉を行い、客を通して市場の動向を窺う。

急な病などは許されない。常に薬を携帯し、悪疾を抑えてきた。

その業務は、ただ悪でいること。

世の中の者たちは、概して二つに分けられる。

勤勉な者と、怠惰な者。

そして別の分類法では、知恵者と愚者、というふうに。

世の人を善と悪、明るい道と暗い道に分けたとき、善くいるのは意外と難しい。

知恵がなければ何かを生み出すことは出来ない。怠惰な者は、何かを生み出す労力を惜しんでしまう。その結果、いつかは欲望に負けて、他者から何かを奪うようになる。

愚かな者、怠惰な者、そのどちらかに当てはまってしまえば、いつかは必ず悪へと落ちる。グスタフはそう信じている。

だからこそ、グスタフは、この街で一番の知恵ある勤勉な悪人であろうとし続けてきた。

この街イラインで石ころ屋を排し悪を為すためには、グスタフよりも知恵がなければいけない。グスタフよりも勤勉に悪行を勤しまなければならない。

そのどちらも出来ない半端な悪人を貧民街に引き入れ傘下に収め、収まらないようなら即刻処分する。

悪に染まらぬ者は、この貧民街の邪魔者だ。出て行け、と追い出して善人の生き方を強制する。

そうして、この街で一番の悪人は自分だと、胸を張って生きてきた。

いつか、勤勉で知恵を持ち、正義を掲げる英雄が現れる。そのときに、自らを一点の曇りもない法の下裁いてくれる。この街の腐敗と共に、一掃してくれる。

そんなことが起きる日を夢見て。

コンコン、と扉が叩かれる音がした。

珍しいことだ。この石ころ屋を訪れる客に、そのような配慮が出来る者などそうそういない。

「……ぅ…………」

パチ、とその音に目を開けたグスタフは、誰にも聞こえないようにため息をついた。

珍しいことで、不用心すぎた。このような場所でうたた寝をするなど、この五十年で一度もなかったことだ。そう軽く頭を掻いた。

グスタフは瞬きを繰り返す。

そして、店内を見回して違和感を覚えた。

いつもと何かが違う。未視感といっただろうか、とにかく何かの違和感があった。

まず思った。いつもと部屋の臭いが違う。

使い込まれた部屋の壁材はもうとうに匂いなどしないはずなのに、新築の木材の香りが漂った。

凭れるように肘から先を置いた机の手触り。こちらも、酷く懐かしい気がする。つるりとした光沢を帯びておらず、さらりとした新しい手触り。

椅子の軋む音も静かだ。床も、おそらく……。

そう、再度部屋を見回したグスタフは、一つ気がつく。

明らかに違う場所。机の横にある壁際の棚。

そこには、この前恵贈された品が置いてあったはずなのに。

キイ、と扉が開く。

新築に見えた部屋、なのに、扉だけが古く傷んでいたのが可笑しかった。

朝日に照らされた貧民街。その光景のほんの一部が扉越しに見える。

そして入ってきた人物に、グスタフはようやく事の真相を悟った。

「……このまえ、ぶりですね」

「ガラクス……」

扉から差す朝日が床を照らし、逆光ながらも照り返すようにその顔を明るく染める。

そこにいたのは、ガラクス。

五十年以上前。この石ころ屋が出来た後、そして悪の組織としての石ころ屋が出来る前に、亡くなった人物。

右の手を腰の隠しに入れたまま佇む。昔と寸分も変わらぬ、笑顔だった。

十年来の癖で、グスタフは机の上を探る。そこに、水筒がないかと。

そして目当ての品がないことに気がついたグスタフは、ため息交じりに笑った。

「……迎えに来たのか、俺を」

「…………。……ええ」

ガラクスが一歩踏み出し、室内の床を踏む。その瞬間に、部屋が少しだけ乾いた気がした。

もう一歩。やや長身のガラクスが足を踏み出す。

もう死んだはずの男。それが、目の前で歩き、そして言葉を放った。

あまりにも不可解な現象。

「最後の仕事も終わりました……行きましょう。貴方の作った街へ」

だが、グスタフは何故だかその男の仕草を、怖いとは思えなかった。

椅子からふらりと立ち上がる。

老年に入り、弱りつつあった足。最後には、杖を使ってやっとのこと移動が出来たほど萎えていた足。

それでもグスタフにとっても意外なことに、その足は地面をしっかりと踏みつけ、身軽な身体を支えていた。

ゆっくりとグスタフも足を踏み出す。

いつも座っていた居場所。そこから机を回り、いつもは客が立つ部屋に入る。

いつの間にか外に出ていたガラクスを追うように店を一歩踏み出せば、眩しい日差しが身体を包んだ。

「どこまで行く気だ?」

「さて。どうしましょうか。まずは適当に見て回りましょう」

ガラクスの後ろ姿を追いながら、グスタフは貧民街を歩く。相変わらず荒れた地面。土に瓦礫やゴミの欠片が突き刺さり、凹凸の多い悪路に拍車をかけている。

貧民街の中心近くにある石ころ屋。そこから街へはなかなかに距離がある。

面倒なことだ、とグスタフは内心ため息をつきながら顔を上げる。

すると、どうしたことだろうか。

耳に入ったのは喧噪。それも剣呑なものでもなく、笑い声と話し声。物売りの威勢のいいかけ声、そして、子供が走り回る足音。

「こりゃ……」

「さあ、行きましょう。ここが、貴方の作った街です」

ガラクスを見れば、曇りのない笑顔。

見回せば、いつの間にか景色が変わっている。立っていたのは貧民街ではなく、イラインの街ともいうべき場所。そして地面は石畳へと変じていた。

青空ではない。少しくすんだ灰の混じった青。雲一つないそれが、陽炎のように揺らめく。

ふらつくように一歩踏み出せば、頬を陽気とも違う温かな風が撫でていった。

「……ここは、貧民街か」

「いいえ。……いえ、かつてはここにそれがありました」

ガラクスは答える。片目を瞑り、得意げに。

「でも、今はもうない。なくなったんです」

観葉樹の一本もないのに、ザア、と風が木々を揺らす音がした。

どちらともなく王城方面へ向かい歩き出し、グスタフはガラクスの背中を追う。

「『街でもないのに、副都に隣接してあれだけの人間が暮らすなどおかしなことだ』と、誰かが言いました」

へこみの一切ないなだらかな石畳は、摩耗もせずに整然と並んでいる。

その上を鞠が転がる。ガラクスがそれを拾い、遊んでいた子供に投げて渡すと、子供は頭を下げて走り去っていった。

「それから、ここは街になった。衛兵の詰め所が建ち、区画が整理され、大工たちの手が入って建物も直された」

「住んでた奴らは……」

「職を得て、街へと散っていきました。彼らにもそれぞれに出来ることはある」

前を通り過ぎた女性をガラクスは呼び止める。

そして銅貨を一枚渡すと、女性は何も言わずにただ笑ってリンゴを二つ手渡した。

リンゴを受け取ったガラクスは、それを一つグスタフに手渡す。

グスタフはリンゴを検分する。

大玉、色味は赤く、この種は加熱より生食が向いている。軽く揺らして重さを確認すれば、実の詰まり方も蜜の入り方も申し分ない。

これならば売れる。一つ半銅貨一枚と言わず、もう少し取れるだろう。

虫食いもなく、色の入り方もムラがない。余程丁寧に手入れされていたのだろうとグスタフは感心した。

その様を見て、ガラクスは頷き、持っていた果実にがぶりと齧り付いた。それからシャクシャクと咀嚼しながら、グスタフの持っているリンゴを示す。

「どうぞ」

「……ああ……」

グスタフもガラクスに倣い、躊躇なく噛みつく。何故ここでまた商品の検分などしたのかとほんのわずかに恥じながら。

赤いリンゴにくっきりと囓った跡がつく。晩年歯が弱っていたグスタフには、本来到底出来ないはずの行為だった。

「……美味いな」

「でしょう?」

そして、素直に褒める。思った通り、その果実は甘く瑞々しい。

本当は、季節外れなのに。

シャクシャクと、久しぶりのリンゴを堪能しながらグスタフは周囲を見渡す。

広い道。これならば大きな馬車も通れる。貧民街を歩く者に無意識下に恐怖を与えていた路地の暗闇は消え去り、日の光に照らされたそこはじんわりと明るく輝いていた。

「出来過ぎてんな」

視界の外で子供たちが笑い、はしゃぐ。荷車を押す車輪の音がガラガラと響く。

無用に汚れている服を着ている物は誰一人としておらず、煙突の掃除夫すら汚れた衣服が様になっている。

太陽の姿はどこにも見えない。

くすんだ青空自体が発光しているように。

そして、やはりこれは……この街は幻だと、グスタフは確信する。

あまりにも出来過ぎている。

これは、本当に自分が望んだ街。そのままの姿だ。

「…………」

グスタフの言葉に、わずかにガラクスは俯く。

「貧民街も消え去った。なら、もう貧民街生まれを気にする奴もいねえんだろうな」

「……ええ」

ガラクスの笑顔に憂いが混じる。

「ここなら、もうお前が不当な扱いを受けることもねえわけだ」

幻。そうは思いながらも、グスタフの胸中がざわめく。

ここならば。ここにいれば。

この街が、昔からこうであったのならば。

「……貧民街はどこだ?」

「そんなものは、……」

「どこだと聞いてる」

グスタフの質問に、ガラクスは言い淀む。そんなものはなくなったと、先ほどと同じように口にしようとした。

だが、グスタフの目に、そう口にしていいものかと悩んだ。確信がある。もう否定は出来ないと、そう感じて。

重ねてグスタフは口を開く。重々しい、晩年の声音で。

「なくなるわけがねえんだよ。貧民街が」

「…………っ」

ガラクスが目を見開く。ガラクスの知らないグスタフの顔。その顔に、わずかに怯んだ。

青空。

その空から、ポツポツと雨粒が落ちてくる。

すぐさま、まるで水瓶をひっくり返したかのように大きな雨粒がひっきりなしに地面を叩き、石畳を砕くように荒れた地面へと変えた。

一転して、陽気が戻る。

明るくなった空にもう雨は見えず、それでも地面はもうなだらかな石畳ではない。

「悪いな、ガラクス。俺はお前よりもだいぶ長く生きてきちまった」

わあ、と叫ぶ声がする。

その声を見れば、そこには地面にぽっかりと出来た大きな穴。

少年が一人その縁に立って下を見下ろし、その底から子供の声がする。

助けて、と。

「助けてよ!!」

「馬鹿が、落とし穴に簡単にはまりやがった」

少年が、底にいる子供に向けて嘲笑を返す。心底楽しそうな、そして悪意に満ちた顔だ。

グスタフが一歩歩み寄る。

それでも気づかずに子供を愚弄し続ける少年の背に向かい。

「てめえが落ちろ」

そして足に力を込めると、精一杯の力で蹴り飛ばした。

穴に落ちた少年を無視し、涙を浮かべて助けを求めていた子供に手を差し伸べると、子供はその手をしっかりと掴む。

グスタフがフと笑いその手を引っ張り上げると、いつの間にかその手には何も握られておらず、そして穴も消え去ってしまった。

蹲った視界。そこに残るのは、地面。水に濡れた泥濘。

「これも俺の見せる幻か? ……ったく、俺も随分とあまちゃんになっちまった」

「…………」

「お前もだ。ガラクス。これが俺の願望だってのはわかってる。だから、こんなへんてこな街になっちまった」

違う。本当はガラクスはそう言いたかった。だが、言えなかった。まるで唇に鍵がかけられたように。

代わりに吐き出されたのは皮肉のような言葉。

「……貴方は、こんな街を望んでいたんでしょう?」

「そうだな。俺が目指してた街だ。貧民街なんて厄介なもんは根こそぎ消えて、あとは街の人間だけが残る。そうすりゃ、誰も貧民街の人間だからって差別されることもねえ」

グスタフは言いながら思い描く。

石ころ屋、その悪の組織としての街の理想像を。

「だが、俺は長く生き過ぎちまった。そんなもんは出来ねえ、って思っちまうくらいにな」

一歩踏み出せば、ぬちゃりと地面が足を飲み込む。悲しみを湛えて、ガラクスはグスタフを見ていた。

「貧民街が消えるなんざありえねえ。俺は、貧民街をまとめ上げた。嫌われもんとしての具体像として」

未だに街は残っている。

見回せば、まだ人はいる。突然の雨に驚きつつも、それを話題にまた笑いあう住民たちも。濡れた商品の点検を始める商人も。

しかし、グスタフたちに注目しているのは誰一人としていない。

「人間ってのはな、誰かを嫌わなくちゃ生きていけねえんだ。不細工な奴、不器用な奴、頭の出来が悪い奴、声が小さい奴、自分勝手な奴、他にも、他にも……!」

今までの人生で、数多く見てきた。もう、そんな者はいないと言えないほどに。

「嫌いな奴は敵だ。そして敵は、悪い奴だ。そう信じなくちゃ自分の心を保てねえ」

本当はそうでなくとも。

敵は悪。そして、自分は悪に翻弄される被害者。人間は皆、どんなときでもそう思いたがる。それがグスタフの持論だ。

「どれだけかき混ぜても、どれだけ『敵』が良い奴でも、敵は出来る。敵味方は区別される。三人も人が集まりゃ充分だ」

「…………」

ガラクスは唾を飲む。そうじゃない、と反論したかった。

いいや。それを否定する言い分ならいくらでもある。それでも。

「良い街なんだろうよ。きっとこうなれば、お前も殺されずに済んだ」

「……そうです」

人が集まれば喧嘩くらいする。仲違いもする。けれども仲直りもする。

差別もなく、失敗してもまたやり直せる街。この街が最上だと、ガラクスも信じている。

しかし。

「だけどよ、こうはならねえんだ。こいつらは必ず悪を探す。人の些細な仕草に、見えねえはずの人の心に」

皆、笑顔で日々を過ごす。

笑いあい、泣きあい、些細な喧嘩をして仲直りをして、少しの苦労と大きな楽しみを感じて、明日を楽しみに眠る。

朝起きればその日の予定を立てて、何の憂いもなく朝食を買いに出かける。

そうであればどれだけよい世界なのだろう。どれだけグスタフの理想に近い世界なのだろう。

だが、そこに辿り着くことはないのだ。

「……もう一度聞く。貧民街はどこだ」

「…………」

ガラクスは言葉をなくす。

そして、沈んだ顔で目を閉じ、通りの先を指さした。

壁が現れた。

グスタフはそう思った。それはグスタフの主観としては本当で、街の端に近づくにつれ煙っていた景色を、突然遮る壁が現れた。

その石壁は堅牢で、積み上げられた建材の隙間には紙一枚入らないほど。

軽く叩けば、その産地と、加工法がグスタフには手に取るようにわかった。

「……グスタフさん」

呼びかけられても、グスタフは振り返らない。きっとここで自分が振り返ってしまえば、励ましの甘い言葉が降りかかるであろうと予想し。

「悪いな、俺はもう、人の善意なんてもんは信じねえって決めてんだよ」

貧民街はどの街にも出来る。

それは貧民街という名称に限らない。そして、場所も街には限らない。

どこにでも、人が集まれば必ず作られる。まるでそう決まっているかのように。

「お前が俺の作った幻影だってんなら、そろそろ消えてくれねえか。懐かしい顔を見れたのはよかったけどよ」

「俺は……!」

石壁が力強い光を放つ。

それが契機となったかのように、石の壁が炎に変わる。壁だけではない。その先の、街があったはずの場所さえも、炎の海へと沈んでいく。

その先を見て、グスタフは目を細めた。

「助けて!」

「どうして俺ばかりこんな目に!」

「あの野郎、許せねえ!」

炎に巻かれて人の形が何とか捉えられるほどになってしまった人間たちが、その先で呻く。

それが可笑しいわけではない。だがそれでも、グスタフは笑った。

「俺はこの五十年以上の間、この貧民街に何千人と引き入れてきた。苦しむのをわかっていて」

炎は今現れたわけではない。グスタフはそう理解している。

この炎は、ずっとあったのだ。心を炙り、魂を焼く業火。ここに放り込まれた人間が苦しむのをわかっていて。

いいや、求めていた。この業火に苦しむ人間を。

炎の中から手が伸びる。

まだ小さな子供。まだ幼いという以外、性別すらわからない子供の手が、かろうじてグスタフの足を掴む。助かろうと、この業火から出たいと願い。

グスタフは鼻を鳴らし、足に力を込める。

「邪魔だクソガキ!」

身体を翻しながらその足を思い切り手前に引けば、ずるりと火の中から子供が引きずり出された。

全身を覆う火傷。だがこの火は見せかけのもの。その程度、問題ないとも知っている。

「さて、この火は延焼するぞ。早いところ消し止めなきゃ、街が焼けてっちまうぞ」

嫌らしい笑みを浮かべて、グスタフはガラクスを挑発する。だが、ガラクスは、俯き動かない。

そのガラクスの向こう側に、街の人間が集まってくる。

老若男女混合の五人。そのうちの、老爺が一歩踏み出し杖を振りかざした。

ただし、今まさに道ばたに倒れている子供に向けて。

「このっ! こっち来るな!! 火が移る!!」

「……そうじゃねえだろ」

グスタフはため息をついて一歩踏み出す。今まさに子供を打ち据えている老爺に。

この幻までもが自分の演出ならば、どれほど自分は救われたいのかと自分が酷く滑稽に思えた。

それでも、生き方を変える気はない。

たとえそれが、自分の作った幻相手でも。

「この、このっ!」

振り下ろされた杖が子供の肉を打つ。その不快な音に顔を歪ませた。

「早く、戻れ! 死ねっ!」

その杖を足で払いのける。意外そうにこちらを見た老爺の目が、最近見た誰かの目と重なった。

「死ねば良いのはお前だろ」

老爺の襟元を掴み、引きずりおろすように炎に向けて放る。躓くように転がり倒れ伏した老爺。その立ち上がろうとする背中を思い切り蹴り飛ばせば、炎の中に飲まれていった。

「……どうしても、駄目なんでしょうか」

「ああ。この街に俺の居場所はねえ。俺が望んだことだ」

ガラクスがようやく言葉を発する。その目には、懇願があった。

「貴方は、報われてもいいんです。その炎の中に誰かが間違ってこないように、貴方はずっと見ていたじゃないですか」

「入ってこないようにはした。だが、引きずり込んだ奴も大勢いる」

炎の中に目を向ければ、蠢く人影が無数に見える。勝手に住み着いた者もいるだろう、だがそれ以上に、グスタフにここに追い込まれた者が大勢居る。

「そんな俺が、俺だけが助かろうなんておかしな話だ」

グスタフは知っている。自分は街の人間ではない。

善くいようなど思ったことがない。街の人間が作り上げた勝手な決まりを守る気などさらさらない。

そしてその通りに、心のままに法を犯してきた。悪行を積み重ねてきた。

ならば、自分は悪人だ。裁かれるべき邪悪な人間だ。

そんな人間が、助かろうなどと。

ふと笑う。

こんな三文芝居。どうせ自分で全て考え出しているくせに。

それでも歩みは止められない。この炎の熱、この熱による息苦しさ。それは本物だ。

ならば行かなければ。

「じゃあな、ガラクス」

手を振り、炎の壁を越えて海へと入る。

その瞬間、景色が暗転した。

足下には階段が触れる。だが、何も見えずにただ自分の身体だけが暗闇にぽっかりと浮いていた。

視界の中に、明るい点が見える。それが徐々に大きくなっていき、それが光る水溜まりだとようやく気がついた。

水溜まりが徐々に大きくなってゆく。飛び散るように広がった水滴はそれぞれ光り、上方へと飛んでゆき星空に変わる。

透明な階段が水溜まりの奥へと伸びてゆく。

沈むように足を踏み入れるが、息が止まる気配がない。ならばいい、このまま、どこまでもいこう。暗い闇の底まで。

足を止めずに歩いてゆく。

水溜まりの中、浮かび上がってゆく水泡が何度も瞬いて見えた。

やがて、一枚の扉が見えた。

枠も、それに付随するはずの建物もなく、ただ一枚の扉が立っている。

終点らしい。まるで水底にいるかのように円型に照らされた足場は固く、青い。

扉を押して開ける。その先に見えたのは、自分がいつも座っていた石ころ屋の受付だった。

いつもの場所へ座る。

扉を閉めればいつもの通り。明かり取りの窓からは月明かりが差し込んでいる。

背もたれに背中を預ければ、いつもと同じ、ギシ、という音がした。

「……ハハ」

そして、目の前にまた人影が現れる。

先ほど別れたはずの、ガラクス。透けるように現れた彼は、もう幻だと言うことを隠す気がないらしい。

「本当に、これでいいんですか」

「しつけえぞ」

もはや笑顔などない。青ざめた顔に、泣きそうな顔があった。

「……俺が幻だと、そう思ってるんですね」

「幻だろ。俺が、俺の言わせたいことを言わせている幻影だ」

グスタフは断言する。

これは夢だ。もう死に至る自分が見ている夢。もしかしたら、死んだ後に見ている夢。

死後の世界などあり得ない。そうグスタフは信じている。

「人の善意を信じない。だったら、何故……」

言いかけて、ガラクスは目を強く瞑る。そして首を横に振ると、唇を結んで壁際の棚を見た。

何かがきらりと光る。

何かと思いグスタフも目を向けて見てみれば、そこにあったのは、朝にはなかった恵贈品。

昔土産に貰った酒の瓶。そこに生けられた、カラスがエーリフから持ってきた銀の枝。

子(・) 供(・) たちが何の見返りも求めず持ってきた品だった。

「ねえ、グスタフさん。覚えてますか?」

「…………?」

何を言うのかと、グスタフは沈んだ声に耳を傾ける。ガラクスは右腰の隠しに手を入れて、外を見た。その視線の先には、経年劣化で割れた看板があるはずだった。

「この石ころ屋の名前の由来。どうしてこんな名前にしたのかって、俺が聞いたときに答えてくれたあれ」

「……覚えてねえな」

グスタフにとっては悲しいことに、それは真実だ。少し前に見た夢、その中でも、その部分だけは飛んでいたのが本人にとっても残念だった。

「『この店では、何でも金に換えてやる。ぼろ切れでも、葉っぱでも、親切でも、石ころでも』」

ガラクスは、あの日の言葉を復唱する。彼自身は、一時も忘れたことのなかった言葉を。

「そして……」

ちらりとグスタフの様子を確認する。無表情でその続きを待つグスタフの感情が、ガラクスには読み取れなかった。

だがそれでも。

ゆっくりとガラクスは再度口を開く。

「『それに、石ころでもなんでも磨けば光らあ。光りたい奴は誰だって俺がこの手で光らせてやる。宝石ばっか見てて、この街の石ころどもの価値を見抜けなかった馬鹿どもを、見返してやるのも楽しいだろうぜ』」

「…………」

ガラクスの言葉が終わったことを確認しても、グスタフは口を開かない。

自分でもあやふやな記憶の言葉を、どうして幻が知っているのかはわからない。それでも確信できた。それは、自分の言葉だと。

「……貴方は、たしかに光らせましたよ」

「どうかな」

グスタフは笑う。そしてその言葉と同時に、室内に火の手が上がった。

まるで全体に一度に火がついたように。炎が上がり、思わず目を瞑ったグスタフの視界から、ガラクスが消え失せた。

炎に照らされて、橙に染まった部屋。

熱い。炙られる皮膚には不自然なほど変化が見られない。それなのに痛みはあった。

見上げれば月明かり。

日も落ちた。石ころ屋は、閉店の時間だ。

グスタフは目を閉じる。

最後に残った視界の中で、宝石がきらりと光っていた。